Hedgehog's dilemma





 素っ気ないパイプ椅子に腰掛けながら、暗い部屋の中にいる。何かがおかしいなと考えるのは一瞬で、次の瞬間には自分の置かれた状況を理解する。
 十神の意識がはっきりしたのと同時に、部屋の明かりが灯されて、視界も一緒に鮮明になる。
 すると目の前に、チリチリという電子音と共に、人間の像が形成され始めた。十神が何も言わずに前を見ていると、モザイクのように曖昧だった「それ」は、見知った人物の姿を象る輪郭を手に入れた。

「えっと、こんにちは」

 目の前のそれが十神に向かって話しかける。
十神は反射で口を開きかけたのだが、何を返せばいいのかが純粋に分からずに、結果として無視するような形になった。
それでも、目線こそ外れていないので、相手も然程気にするような様子を見せては来ない。
そもそも、そういうプログラム自体をされていないのだろうか。
「……お前が俺の相手をする、希望ヶ峰学園時代の苗木のデータを元に作られたアルターエゴか」
 何を話そうか迷った結果、当たり障りのない問いかけが生まれた。


 十神は今、俗に言う「精神世界」というところに意識のみを飛ばし、データとして作られた「希望ヶ峰学園時代の苗木誠」と対峙していた。
 あのコロシアイ学園生活から抜け出した後、世界を絶望に侵されながらも、希望を諦めない人間達によって結成された「未来機関」と名乗る組織に、十神ら生き残り生徒は保護された。
 機関は希望の象徴とも言える生徒達を丁重に保護し、それぞれに十分な食事や寝床を供給してくれた。
初めは「未来機関」という胡散臭い名称に、疑り深い性格の十神や霧切、腐川などといった面子は警戒心を顕にしていたのだが、本心はどうあれ彼らが今のところ自分達に害をなす存在ではないのだととりあえず納得し、与えられる加護を享受している。
 そうして、あの脱出から1ヶ月程が経過した。
十神達が「休養」という名の停滞期間を過ごしている間、未来機関は希望ヶ峰学園跡地の調査を進め、そこで「超高校級の神経学者」である松田夜助の作成した記憶操作に関する資料を始め、当時の在校生が残した様々な重要資料を回収してきた。
 在校生が残した資料といっても、それは本来、当事者達以外からすれば何の価値もないような思い出の記録……つまり、アルバムにしまわれた写真の数々や、学園でのイベントを写した映像を編集したDVDというようなものだった。
 しかし勿論、それは「記憶」を取り戻すために必要な刺激としては最も重要だと言える代物に違いなかった。
 同時に、全生徒の交友関係や対人関係、性格などをデータとして明細に記した資料も発見された。超高校級の才能を持った人材を未来の希望として扱っていた学園なので、そんな研究資料が残っていることも不思議ではないだろう。
そうして、それら情報をインプットした上で架空の人格を作り出し、当時の生徒のアルターエゴを制作することに、未来機関は成功したのであった。


 十神白夜は、苗木誠のアルターエゴと対話をさせられることになった。
全ては機関が決めたことだ。
在学中と現在のデータを元に、最も効率的に眠っている記憶に刺激を与えられる相手として、十神には苗木アルターが割り当てられたらしいのだが、理由などは詳しく聞かされなかった。
 そもそも十神は、学園時代のアルターエゴが出来たのなら、本人同士を対峙させた方がいいのではないかと思っていたし、似たようなことを霧切も機関に直接言っていたが、どうやらそれではあまり意味がないらしい。
あくまで被験者の脳内に眠っているはずの本来の記憶を思い出させることが大切らしく、アルターエゴとしてのかつての自分の姿をそのまま見せつけたところで一種の催眠や洗脳にしかならない、と機関の専門家は話していた。
 だから、データを元にして作られたアルターエゴが、当時の本人と全く同じ人格をしているかどうかも然程問題ではなく、とにかく似たような存在と交流をすることによって記憶を思い出すきっかけになれば、それでいいということだった。
「………」
 十神は、今一度目の前の苗木誠のアルターエゴを、じっくりと観察する。
 顔や身長は、十神が知る苗木と全く同じに違いないのだが、そんな彼が纏っているのは、入学前にパンフレットで目にした希望ヶ峰学園の指定制服だった。
茶色のブレザーと赤色のネクタイ。
 コロシアイ学園生活の中では、黒いブレザーに緑色のパーカーを着込んでいる姿しか見ていなかったので、若干の違和感を覚える。

「十神クンは、入学の時と同じ服装なんだね。久しぶりに見たから違和感があるなぁ」
 偶然、十神の考えとは逆の発言をアルター苗木がこぼした。
 そして、初めて聞くことになるアルターエゴの声が十神の鼓膜を揺らした瞬間、またしても感じる、「何かがおかしい」という、違和感。
 先程この空間が精神世界であることを認識しようとした時のように、違和感の正体に気がつくことはなかった。
目の前のアルターエゴは、コロシアイ学園生活で何度か自由時間を共にすることがあった苗木誠とは、どこか違うように思えた。
まあ、所詮は作られたプログラムなのだから、細かいことを気にする必要はないのかもしれないが。
 勝手に話を始め、勝手に自分の服装を懐かしんでいるアルター苗木に、十神は衝動的な苛立ちを覚え、素っ気ない言葉を返した。
「希望ヶ峰学園時代のアルターエゴだかなんだか知らんが、所詮は苗木誠が元となっている存在だからな。お前と会話することで、俺が何かを思い出せるかどうかは分からん。しかし機関の命令だ。お前のような価値のない存在にわざわざ時間を割いて話しかけてやるんだ、ありがたく思えよ」
「わー、なんか君のそういう発言も久しぶりな気がするよ」
 苗木はなんでもないことのように笑うが、そこに苦々しい色は全く見当たらなかった。
そんなアルターエゴの態度に、またしても違和感が生まれる。
(なんだ?)
 十神は思わず腕を組み、苗木の表情を見るが、分からない。
 そして苗木は、十神が違和感を覚えた笑顔のまま、言った。

「うん、やっぱり結構傷つくもんだね」
「………」
 十神は黙る。
苗木のアルターエゴは、初めて不思議そうな表情を浮かべ、どうしたの? と問いかけてきた。
「いや……」
 言葉が思わず濁る。
予想外のことを言われたからだ。
 予想外のこととは、なんでもないことのように苗木誠の声で紡がれた「傷つく」という言葉だった。
 コロシアイ学園生活の中、十神は苗木と行動を共にする際、先程のような殆ど罵倒にも似た言葉を、息をするように苗木に向かって吐き捨てていた。
記憶の中の苗木はやはり苦々しい笑顔を浮かべながら抗議をしようと試みるのだが、大抵の場合は引き下がる。それはきっと、十神と自分の住む世界の違いを理解しているからなのだと考える。
 どんなに言葉で抗おうとも、覆そうとも、変えられない運命のようなものが、そこにはある。
 十神は何度も苗木を凡人だ無価値だ哀れだと評したが、苗木はそれでも苦笑いを浮かべながら十神の後をついてきて、十神を構おうとした。
 普通ならば激昂まではしなくとも、以降も十神に関わろうなどとは思わないだろう。
 だから十神は、何度も十神に話しかけ、十神の皮肉を聞き、十神の態度に苦笑いを浮かべる苗木には、半ば自分の意思……つまり、他人に対する感情のようなものが然程無いのではないのか、と考えていた。
コロシアイ学園生活の中で、苗木は首謀者であるモノクマこそをひどく憎んでいる素振りを見せてはいたものの、仲間と呼ばれた生徒達の犯行へ怒りの矛先を向けたりはしなかった。あの江ノ島盾子にさえ、最後の最後で「君に死んでほしいわけじゃない」なんて甘い発言をしていた。
 だからよっぽど、それこそ生と死が関与するような劇的な出来事が起こらなければ、苗木の心にマイナスの感情は生まれないのではないかと無意識の内に思っていた。

(何だ)

 傷ついていたのか。

 十神は、自分でも理解出来ない妙なショックを受けていることに気が付いて、今度はその事実に驚いた。
 なぜ、苗木が傷ついていた程度の事実に、ショックを受けなくてはいけないんだ。
 そうして、半ば八つ当たりのように、
(それならそうと、初めから言えっ)
 と、心の内で吐き捨てた。

……この感情はなんだろう。どこから来ているのか分からない苛立ちが十神の心に湧き上がる。
 頭が痛い。
 ふいにそう思った。
「大丈夫?」
 いつの間にか、パイプ椅子に腰掛けたままの自分の靴のつま先を眺めていたことに気が付いて、声に導かれるまま顔を上げる。
アルターエゴが、きょとんとした表情でこちらを覗き込んでいた。少し驚いた。
「お前には、」
 関係ない。
 そう言って視線を逸らすと、アルターエゴは少しムッとするように唇を突き出し、
「関係ないとか、そういう問題じゃないよ」
と、どこか諭すような口調で言った。
「心配してるんだから」
 十神は黙る。そのまま面倒くさそうに正面を見ると、やはりそこにはアルターエゴの顔がある。
そして、改めて視界に映ったアルターエゴの表情を見て、十神は先程からずっと自分の中に蟠っていた違和感の正体に気が付いた。
「……随分、はっきりとものを言うんだな」
「ん?」
 十神の言葉に、苗木は怪訝そうに「そう?」と返事をした。
 距離が、近い。
苗木のアルターエゴに対して、唐突にそう思った。
 それは単純な位置関係だとかパーソナルスペースだとか、そういう問題ではなく。
(遠慮や警戒が、ないのか)
 コロシアイ学園生活で、苗木はどこか探るような目で十神を見て、自分との適切な距離を保とうとしていた気がする。
お人好しでおせっかいな苗木は、何度冷たくあしらっても十神に近づいてきて会話を試みようとはしていたが、もしかするとそれは、苗木自身が十神という存在との距離を無意識に測っている期間だったのではないか、とぼんやり思った。
 そうして思い出す。最後に十神が苗木に向けて言った、
「二度と俺につきまとうなよ」
という、あの言葉。
 そう言って立ち去る自分を、今度こそ苗木は追いかけてはこなかった。
 それが、答えだったのだろうか。
 苗木が十神との間に見つけた、「適切な距離」というものの。
 ふいに、苗木の声が脳内で蘇る。

「十神クンとは一生、友達になれないんだろうな、って思ってたよ」

(ん?)
 何か、違和感がある。
 友達になれないんだろうな、と「思っていた」?
 そもそもこれはいつの苗木の声だ。
 十神が苗木を突き放したあの日、苗木は自分を追っては来なかった。何か言葉をかけることさえなかった。
 ならば、この言葉は。

「それじゃあせっかくだし、何か話でもする?」
 十神が自分の中でぐるぐると回る疑問を持て余していたそんな時、苗木の場違いのように明るい声が響いた。
 機関の担当者からは、精神世界に入ってからはとにかくなんでもいいからアルターエゴと会話をしろと命じられていた。
アルターエゴには機関が希望ヶ峰学園で手に入れた記録、イベントや学校生活での思い出が情報としてプログラムされているので、そこから何でもいいので記憶を思い出すきっかけを掴めれば、という考えだろう。
 そうして十神はしぶしぶ口を開こうとしたのだが、一体何を話せというのだろう。

 コロシアイ学園生活の時、苗木と自由時間を共にした時はどうだったか。
確かあの時は、お互いに初対面だと思い込んでいたこともあり……いや、十神や他のメンバーからしてみれば、記憶が戻っていない以上、今でも出会ったばかりの他人であるという印象はそのままなのだが。
とにかく、生きてきた世界も環境も何もかもが違った苗木相手に、自分の歩んできた人生の壮絶さを語ったり、また、いくつかの質問を投げかけることで苗木の平凡な生き方を裏付けるような答えを得たりもした。
 例えば、基本的な質問として、苗木のような人間が、どうして希望ヶ峰学園に入学することが出来たのかという問い。
 これに対して返ってきた、普通の学生の中から抽選で当たったという答え。超高校級の幸運と呼ばれる所以。
 何の才能もない無価値な存在だと思っていた苗木が、自分と同じ地に立っているという疑問も、それで解消された。
失望はなかったはずだ。むしろ心の内の蟠りがスッキリと洗い流されたような気分だった。
 何の才能もない、平凡で、平和ボケして緩みきった表情のそんな苗木誠が、数々の兄弟を……蹴落としてまで、この場所に立っている自分と同じ環境にいられる理由が、「運」などという果てしなくくだらないもので、逆に安心したのだ。
 争い合う理由も、また価値もない、自分の対極にいる存在の苗木だからこそ。
 十神はあの自由時間の中で、何度も自分を構ってくる苗木の相手を気まぐれにしてやった。
 お互いの世界を分かり合えない苗木だから、十神は気軽な気持ちで彼と接することが出来たはずなのだ。
 何を言っても、何を言われても、その言葉が直接自分の人生に影響を与えることはない。
交差することも、並び合うこともない。そんな距離を保ち続けることによって、十神は苗木と接することが出来た。
(……?)
 そこまで考えて、何か、違和感を覚える。

 苗木との距離。
 感情が、熱が、伴わないはずの二人の時間が。
 あの自由時間の中で、既にブレ始めていた瞬間が、あったような気がする。

「はい、これ」
 またしても、思考はアルターエゴの声によって遮られる。
「………」
 そうして差し出されたものは、一冊のアルバムだった。
「本当はデータとしてインプットされてるものだから形は必要ないんだけど、こうやってアルバムの形してる方が、なんていうか……おもむき? だっけ。そういうのがあっていいよね」
「お前は何を言っているんだ」
 そして何を勝手に話を始めているんだ、と舌打ちすれば、苗木は「質問はひとつずつにして欲しいけど、まあいいや」とイタズラに笑った。
イラっとする。
「これは君たちのアルバム。希望ヶ峰学園はね、進級する前に写真がいっぱい入ったアルバムが貰えるんだよ。僕の前の学校だったら、そういうのって卒業アルバムしか貰えなかったし、やっぱ少しずつリッチだよね。写真は超高校級の写真家の人が撮ったやつなんだって。僕、写真のことはよく分かんないけど、なんか……良いと思うよ。すごく。写りが」
 聞いてもいないことまでベラベラと喋り始める苗木だったが、そんなことよりも十神が気になったのは、やはりお互いの距離だった。
 この、苗木の自分に対する、距離感。
(饒舌)
と、十神はぼんやり思った。
 こんなに、よく喋る奴だっただろうか。
 そうして思い返すのは、またしてもコロシアイ学園生活での自由時間のことだ。
 あの時、苗木はひとりでいる十神を構ってよく側によって来ていたが、考えてみれば、会話が続いた時は大抵自分が話を振った時だったような気がする。
 苗木も苗木で、十神にとってはつまらない話題を多少の警戒心と共に話そうとはしていたが、そこは十神の「くだらない」という言葉に一蹴されてしまうので、会話が続かない。
 しかし十神が話し出す、苗木との距離を思い知らせるような話題は別だった。
具体例をあげれば、自分がかつてデイトレードで稼いだ財産の話だとか、苗木に質問する形で始まる、凡人が小金を稼ぎながらせせこましく生きる人生に価値はあるのか、というような、そんな話だ。
 十神のような人間が知るところではない、一般人の価値観というものを聞き出して、自分の人生と照らし合わせ、また距離を思い知らせる。
 苗木は十神の質問にだけ答えていれば良かったし、十神の話を聞いて、その距離を実感しているだけの、そんな会話だった。

 ……ただ、苗木が自分の納得できる人生を、自分自身で見つけたいと言って、十神の下で働く未来を否定した時だけは、少しだけ。
 苗木のいう、自分自身で見つける、等身大の人生というものを、認めてやる未来もありかもしれないと。
 確かにそう思った。

(違和感の正体はこれか?)

 自分はあの瞬間、道の交わることのない、決して認めることのない、その他大勢の一般人という枠組みの中から、苗木を外していたのだろうか?
 それならどうして、自分はその後、苗木が自分の人生を満足いくように自分で作っていく、と言ったあの発言を「お前の自己満足が本気だろうと嘘だろうと、もはや関係ない」と、唐突に否定し、自分との間に線を引いたのか。
(……あれは、どうしてだったか)
 共に過ごす時間に意味などないことを告げた後、自分の今までの人生を語った。
兄弟達を蹴落とし、宿命というものを背負いながら生きていくしかないのだという、覚悟を。
 そうして十神は、苗木に別れを告げて、去った。
 苗木は十神を追いかけてはこなかった。
(もしかして)
 自分は、苗木に5500万円の契約を勧めた時同様に、あいつを試していたのではないのか。
 十神は、あの質問を投げかけた苗木が、誘いを断り、自分の人生を歩んでいくのだと言った答えに、少なくとも満足していた。
 賭けたのだ。苗木が、自分と距離を縮める価値があるのかどうか、という答えを出すために。
 そして自分は苗木との賭けに負け、少しだけ、あいつを認めた。
 しかし、苗木が出したその答えを何の前触れもなく、唐突に否定してでも試してみたかった、二つ目の賭け。
 苗木に自分の宿命を明かし、生きる世界が違うのだと何度も繰り返した言葉に覆しようのない絶対性を持たせ、その時あいつはどうするのだろうか。
 立ち去る十神自身の背中は、あの時、確かに。
(……待っていたのか?)

 何を?

「十神クン!」

 自分の名を呼ぶその声に、ハッとする。
 記憶の中の苗木誠の姿と、今しがた自分の名を紡いだ声の温度がリンクして、ここがどこなのかを一瞬忘れそうになった。
 十神を呼んだ苗木のアルターエゴが、自分の正面でパラパラとアルバムを捲り、その中の写真を次々に指差して話し始める。
「これがね、球技大会の時の写真だよ」
 十神は、苗木アルターが示す写真を眺めた。
 体操服を着て、苗木と共に並んで卓球のラケットを持っている自分の姿があった。
「……なんだこれは」
「え。だから、球技大会」
「そういうことを言っているんじゃない!」
 十神が小さく怒鳴ると、苗木は「じゃあどういうことさ」と唇をムッと尖らせた。
「………」
 確かに、どういうことだろう、と。
 十神は柄にもなく言葉に詰まり、黙った。
 すると苗木は、ああ、もしかして、と言って、
「十神クンが卓球なんてやるのイメージじゃないよね」
 と笑った。
 十神も心の中で、自分でも多分そういうことが言いたかったのだろうと理解したが、いかんせん苛立ちが募る。
「やー、これ理由があってさ」
 苗木は十神の苛立ちを気にもとめずに、言葉を続けた。
「球技大会の種目さあ、野球かサッカーか卓球だったんだけど、十神クンがチームプレイ出来ないから消去法で卓球しか選ぶ道が無かったっていうか」
「………」
 なにか反論を、と思うのだが、確かに自分自身とチームプレイという言葉が結びつく絵面が想像出来ない。それくらいの自覚はあった。
 苗木は続ける。
「卓球も試合はダブルスしかなかったから、僕と十神クンが組むことになったんだけど。十神クン、僕がミスすると真剣に怒るしさ。俺の足を引っ張るくらいなら手を出すな! って」
「……卓球のダブルスはそもそもコンビが交互に打ち返すものなのだから、その発言はおかしいだろうが」
「あはは! でも十神クンが言ったんだよ!」
 苗木はからからと笑った。
 十神は、心の中で(……調子が狂う)と、確かに思った。
 なんだろう。先程から、目の前の苗木のペースに巻き込まれている自分がいる。
 いつもの調子で嫌味っぽく、
「お前のような平均的で何の特技もない凡人と、俺のような完璧な人間がペアを組んだところで、どちらが重荷になるかなど分かりきったことだろう」
 と苗木の潜在的な能力を卑下する形で言ってやれば、それでも苗木はあっけらかんとした表情で「でも十神クン、結構熱くなっちゃって、僕がスマッシュ決めた時とか小さくガッツポーズしてたよ」と、とんでもないことを言い出した。
「嘘をつくな!」
「本当だってば。ほら、写真もあった」
 苗木が見せてきたページには、確かに、スマッシュが決まったすぐ後なのか、両手を上げて喜んでいる苗木と、その横で密かにガッツポーズをしている自分の姿が写し出されている写真があった。
「………」
 コロシアイ学園生活の中で見た、集合写真や体育祭に普通に参加している自分を見たときよりもずっと強い違和感に、目眩がする。
 調子が狂う。
 ため息をついて前を見れば、ふと、笑顔を浮かべた苗木と目があった。
 苗木の目を正面から見た、その時。
何かが脳みその奥で、鈍い光のように瞬いた気がした。
 脳裏を掠めた一瞬の光を、反射的に掴もうと、手を伸ばしていた。
「十神クン?」
 苗木が怪訝そうにこちらを見る。十神は、思わず固まった。
 何をしているんだ、自分は。
「……なんでもない。じろじろ見るな。愚民が感染る」
「もー、だからやめてってば、そういう言い方! 傷つくんだから」
 十神は、先程受けた衝撃よりかは弱いものの、その、傷つくという言葉に反応して、今しがた自分が「愚民が感染る」なんて小学生のような言い分で拒否した苗木の視線を、自分から覗き込む。
 アルターエゴは、傷つくといった。
 コロシアイ学園生活の中で何度も繰り返した、愚民だ無価値だといった十神の言葉を。
 しかし、改めて覗き込んだその両目には、(本当に傷ついているのか?)と疑いたくなるような、なんでもなさそうな色しか浮かんでいなかった。
 自分の知る苗木誠とは、どこかズレている。そんな目の前のアルターエゴの存在に、十神は確かに調子を狂わされていた。
 だからこそ、ついうっかり、口を滑らせてしまった。

「……お前は、傷ついていたのか」
「うん?」
「その、俺の言葉に」

 言ってから、いらないことを口にしたという後悔に襲われる。
 自分らしくもない台詞だ。そもそもどうしてこんな言葉をこぼしてしまったのか、むしろどうして自分が苗木なんかの気持ちを気にしているのか、問題はそこから始まっているような気さえした。
 十神がいたたまれなくなって小さく顔を伏せると、アルターエゴはやはり、なんでもないような口調で、言った。
「そりゃあ、普通は傷つくんじゃない?」
「……お前は、何も言わなかっただろうが」
 ふつふつと、理不尽な怒りにも似た感情が湧いてくる。
 そうだ、傷ついているなら傷ついていると言えばいいんだ。
 なのにあいつは何も言わずに、ただ苦笑いだけを浮かべて、後をついてくることをやめなかった。
 それなのに、今更アルターエゴを介して「傷ついていた」なんて、後出しで言い出すのは卑怯だ。
 思い出す。苗木の目を。自由時間の時、いつも何か言いたそうにこちらを見ていたあの目を。
 ……何か言いたいのなら、受け入れられないことがあるのなら、はっきりと言えばいいんだ。
 それとも、争い合わずに済むような関係を壊してまで、苗木が十神に言いたいことなんて無かった、という意味なのだろうか。
 あの時、苗木の目を見て抱いた妙な不快感。
 あれは、あの目の中に確かに滲んでいた「諦念」の色を汲み取ったからこそ、抱いた感情だったのかもしれない。
 心の中で渦を巻く、制御しきれない感情を持て余しながら、十神は前を向いた。
 そうして、またしてもアルターエゴと視線が合う。
(……?)
 ふと、持っていた何かを気付かぬうちに落としてしまったような錯覚を覚える。
 十神が足元を見ても、そこには何も落ちていない。バーチャルで作られた黒い床があるだけだ。
 再び、正面を向いた。
 アルターエゴの目を見たその時、十神はコロシアイ学園生活の記憶の中の苗木の目を同士に思い出す。
 諦念で揺れる、あの瞳の色。足元がいつまでもおぼつかないような、お互いの距離と、関係。
 しかし、プログラムであるはずのアルターエゴの目には、その色がない。
 こんなことを考える自分はおかしいのかもしれないが、なんていうか、絶対的な安心感、というようなものが、見えた。
 そうして十神は、催眠術にでもかかったような心境で、またしてもいらないことを口にする。
「お前は、俺に傷つけられて、それでも、どうして普通に接することが出来るんだ」
 コロシアイ学園生活の中で、争いを避けるために十神の冷たい言葉にも食ってかかってくるような真似はしなかった苗木とは違い、アルターエゴの苗木は、まあプログラムとしての役目というものもあるのだろうが、少なくとも十神と友好的な関係を築く必要もないはずだ。
 初めからそう設定されているのだと言われればそれまでだが、どうしてか十神には、目の前の苗木が、かなり忠実に希望ヶ峰学園時代の本人を再現しているような気がして仕方がなかった。
 ……何かを、思い出しそうになる。
 十神の問いに、苗木はこう答えた。
「まあ、十神クンは十神クンだし」
「……それはどういう意味だ」
 苗木は続ける。
「僕はずっと一緒にいた十神クンを知ってるから、今こうして目の前にいる昔の十神クンを見ても、そんなことを言われまくってた時もあったなって、普通に受け止められちゃうのかな」
「………」
 目の前にいる苗木は、十神に言われた冷たい言葉に対して感じた気持ちを素直に曝け出しながらも、それでいて、十神そのものを受け入れ、目をそらさずに、見ている。
 どうしてか、その目と視線が合う度に、十神は不思議と心の内の靄のようなものが、少しずつ晴れていくような、そんな気持ちを覚えた。

 俺は、こいつに……。
理解、されている?

 その時、バチン!という謎の電子音がひとつ、響いた。

「あ、時間みたい」

 苗木がそう言うと、その体は薄らとデジタルのモザイクに紛れていき、同時にプログラムの一時終了を十神に知らせるブザーが鳴り響く。
 もうそんなに時間が経っていたのか。
「また明日ね、十神クン!」
 担当者の話によると、明日からもしばらく同じような実験が続くらしい。それを知ってのアルターエゴの言葉だったのだろうが、十神はその台詞に、どこか懐かしい気持ちを覚えた。
 また、明日。

「……ああ」

 手を振る苗木の残像を見つめながら、十神の意識はゆっくりと、プログラムの世界からログアウトされた。まるで眠りから覚めるような感覚だった。

 その時、十神は薄れゆく意識の傍らで、確かに。
 また明日も会いたい、と。
 そう、思った。








 浮上する意識の中、浅く短い夢を見た。
 蝉の声が聞こえる。どこまでも続く長い廊下が、窓から差し込む夏の日差しを受けて、ぼんやりと白く光っていた。
 そう、夏だ。
(暑い……)
 十神は、額に浮いた汗を拭いながら、ぼんやりとした視界の中で、その景色をじっと眺めていた。
 ここは、校舎?
 どうして自分はこんなところにいるんだろう。周りに人の気配はない。
 ……ああ、夏休みか。


 そして、聞き慣れない声に名前を呼ばれ、目を覚ます。







「お疲れ様です、十神さん」

 目を開くと、薄らとした視界の中に白い天井が映りこんでくる。
 簡素なベッドの上に寝転がったまま、視線を右へずらしてやれば、プログラム開始前にいたのと同じ人物の姿があった。とりたてて特徴のない風貌の、白衣を着たこの中年男性は未来機関の人間であり、今回のアルターエゴプログラムの責任者だった。
「何か、おかしなところはありますか」
 敵意というものとは無縁であるような声で問われ、十神はふと、プログラムの途中から気になっていた頭痛が、目覚めた今も続いていることに気が付いて、一言、
「少し頭痛が」
 と、答えた。
 その後もアルターエゴプログラムが及ぼす記憶への影響を測るためであろういくつかの質問に返答しながらも、十神は頭の片隅に残る痛みをやり過ごすのに気を取られ、医師の話はあまり真剣に聞くことが出来なかった。
それでも、何を言われたのか、何を聞かれたのか、というような情報自体はしっかりと把握していたので問題はない。
 質問を受けている最中、額に浮いた汗の存在に気が付いた。
 夢の中で見た校舎の映像と、肌で感じる現実の温度がリンクするようで不思議な気持ちだった。
 十神は、夢と同じような動作で、自分の額の汗を拭った。
 それを見た医師は、さして申し訳なさそうな顔も見せずに、
「すいません、空調壊れてて」
 と言った。
 その言葉に、十神は(大丈夫なのか)と純粋な疑問を覚えた。
 繊細な機械が多いはずなのに、エアコンが不調なのはどうだろう。あまりよろしくないような気がする。
 何より、自分自身が不快だった。
(暑い……)
 建物の中に熱が篭っている。実際、空調が壊れているらしいこの部屋以外のどこへ行っても温度は然程変わらなかった。
 まあ、こんな風に室内で保護されている期間が長くなってしまっていては忘れがちになるかもしれないが、未だ外で継続的に起きている被害のことを考えれば、食事や寝床を貰える現状だって贅沢すぎるものなのかもしれないので、文句は言わない。
 ちなみに、危険だという理由で窓も開閉出来ない状態で放置されている。相変わらずの閉塞感は、あの学園を脱出した今もなお続いている。仕方がないと言えば仕方ないのだが。


 ついでに数十分のカウンセリングを受け、医師がカルテに何やら沢山の情報を書き込み終わったのと同時に、「改めて、お疲れ様でした」と言われ、本日のアルターエゴプログラムの過程が終了した。
 額に浮いた汗を拭いながら、十神は白いベッドから立ち上がった。
「明日、同じ時間にまたここへいらしてください」という言葉を貰ってから、会釈もそこそこに部屋を出た。



 窓を閉め切られ、蛍光灯の光が反射する蒸し暑い廊下の反対側から、見知った人物がこちらに歩いてくるのを見つけた。
 十神は反射的に彼女の名前を呼ぶ。
「霧切」
 霧切響子はいつも通りの、あまり感情が読めない目で十神を見て、口を開いた。
「あなたも、アルターエゴプログラムを受けていたの?」
 その言葉が意味するものは、きっと霧切がこれから十神と入れ替わりで、この先の部屋でプログラムを受けるということだろう。
「何か、おかしなことはされなかったかしら」
「おかしなこと、とはどういう意味だ」
 何を言いたいのかいまいち分からない霧切の問いに、十神は治らない頭痛も手伝い、無愛想な声で質問を返す。そんな十神の態度にも、霧切は全く萎縮するような様子は見せず、答える。
「そのままの意味よ。機関は記憶を取り戻すためのプログラムだという名目でこの実験を始めたけれど、何か別の他の企みがないとも限らないでしょう」
「………」
 そういうことは、俺が実験を受ける前に言え!
と、十神はよっぽど言ってやりたかった。
 霧切は相変わらず機関を本心からは信頼していない。それは十神も同じなのだが、だからと言ってこの場所を出て行くわけにもいかないし、例え今回のプログラムや、今まで何度も受けてきた記憶回復のためのカウンセリングが、完全な好意……というのもおかしな表現だが、とにかく裏など全くないものだとしても、こんな状況だ。疑っておくに越したことはないだろう。
「どんな感じのプログラムだったのかしら。少し話を聞かせてくれないかしら」
 だからきっと、霧切がこの場所で十神に質問を投げかけてくるのも、情報収集のためなのだろうと思いながら、十神はその問いに素直に答える。
 少なくとも、目の前にいるこの無愛想な女の方が、未来機関の人間達よりもいくらか信用が出来るのだ。
「俺は、バーチャル空間で希望ヶ峰時代の苗木のアルターと会話をした。本当にただそれだけだ」
「苗木くんと?」
 霧切は少しだけ驚いたような顔を見せた。
 その反応に、十神は無意識の内にギクリとした。
 霧切が十神の言葉をするりと受け流さなかったことに、先程のバーチャル空間で希望ヶ峰学園時代のアルター苗木との会話した内容や、その時に抱いた感情の全てを……見透かされたかのような勘違いが、一瞬脳裏を掠めたのが原因だった。
 しかし、そんなわけがあるはずないと、すぐにブレかけた目線を、元に戻す。
「何かおかしいか」
 と、眉間に皺を寄せ、聞く。
「いいえ」
 と、霧切は十神の動揺に気付かないような様子で答えたので、とりあえず安堵する。
「あなたは苗木くんとだったのね」
 しかし、霧切は相変わらず、十神の相手が苗木アルターであったことを気にするような言葉を続ける。
「何か、おかしいか」
 今度は、俺の相手が苗木だったら、何かが変なのか、という意味を込めて問う。
 そして霧切は顔を上げ、答えた。
「別に。そういう意味じゃないの。むしろ納得しているくらい。そしてもしも、あなた以外の誰が苗木くんのアルターエゴに相手をしてもらったとしても、同じように納得した……と思うわ」
「………」
 確かに、その発言は一理あるような気がした。
 朝日奈だろうと葉隠だろうと、目の前にいる霧切だろうと……まあ、腐川であろうと。
 十神自身、他の人間に話を聞いて、「苗木のアルターエゴと会った」と言われても、特に疑問は抱かないだろう。
 苗木はコロシアイ学園生活の自由時間の中で、こまねずみのようにちょろちょろと、例え本人は無意識であろうと、生徒達との関係を良好にしようと、動いていた。
 その交流の中でも、決して波風を立てるようなことはせず、相手を受け入れ、理解しようという態度を一貫する。自分はこう思う、ということを口にしたとしても、相手の生き方自体を否定しようとは思わない。相手は相手、自分は自分。そういう風に、見えづらいけれど確かな芯を持っている。
 それが苗木誠だった。
 その結果、生徒達の殆どは苗木に対して少なからず好意を持っていたと思う。
 だからこそ、それ自体が苗木独特の線引きなのだということには、きっと奴を突き放した十神くらいしか気付いていない。
 線を、引かれていた。
 そんな事実に、アルターエゴプログラムで気付かされることになるなんて。

 ふと、またしても十神の脳内で、希望ヶ峰学園時代の苗木アルターと、コロシアイ学園生活で行動を共にした苗木の姿が、ぶれるように重なり合う。
 頭痛が、ひどくなる。
「十神くん?」
 ふいに表情の歪んだ十神に、霧切が怪訝そうな声をかける。
 十神は、自分の心の内が少しでも露呈することを恐れ、話を変えた。
「霧切、お前の相手は誰だ。事前に本人にだけは教えられているだろう」
 このプログラムが始まる前、他の生徒には自分の相手をするアルターエゴが誰なのか、教えないで欲しいと機関に言われていた。
 何が理由かは分からないが、どうにもきな臭いものを感じたのは事実だ。だから十神は、こうして今、そんな約束を平気で破り、霧切に自分の相手が苗木であったことを話した。
 霧切も考えることは同じようだった。しかし……彼女はどこか言いにくそうな表情で、口を開いた。
「……舞園さんよ」
「舞園?」
 その発言に、十神は少なからず驚いた。
 舞園さやか。超高校級のアイドル。コロシアイ学園生活の中で、最初の被害者となったクラスメイト。
「そう、舞園さん。だから、あなたが苗木くんのアルターエゴと会ったっていう事実に少し驚いたの。……彼女とは、あまり話をすることも出来ずに別れることになったから、理由が分からなくて」
 確かに霧切ならば、十神や他の生徒同様、コロシアイ学園生活の中でも接点の多かった苗木辺りと会話をした方が思い出すことも多いかもしれない。
 ……いや、そもそも問題はそこではない。
 十神が苗木アルターと会ったと言った時、霧切は驚いた。
 現実の苗木は、あの学園から脱出し、生きている。
 舞園は……確かに死んだ。つまり、機関は死んだ生徒のアルターエゴも制作したということになる。その事実に、少しだけ驚いたのだろう。
 機関は最も効率よく記憶を取り戻すための相手として、それぞれ会話をするアルターエゴを選んだという。死んだ舞園をトリガーにしてまで、霧切が思い出すべき記憶とは何だろう。

(……思い出すべき、記憶)

 アルター苗木の表情が蘇る。
 十神に萎縮せず、遠慮もない、真っ直ぐで、正直なあの目を。
 十神は、いよいよ頭痛をやり過ごすことが難しくなり、霧切に向かって口を開く。
「……俺は部屋に戻って休む。頭痛がする」
「そう。お大事にね」
 そう言って、霧切は十神の横をすり抜けて、今しがた十神が出てきたばかりの部屋の中へ交代で入っていった。
 あいつもあの、愛想のない鉄パイプがひとつ置かれただけの暗い部屋で、舞園さやかと話をするのだろう。
(舞園……)
 機関の狙いはなんだろう。なぜ霧切は、死んだはずの舞園さやかのアルターエゴを割り当てられたのだろうか。
 考えても答えは出なかったし、相変わらず継続する頭痛が思考を邪魔して仕方ないので、とりあえず、霧切にも言った通り、十神は部屋に戻って休むことにした。








 初めてアルターエゴプログラムを受けた日から数日、十神は毎日のようにバーチャル空間で苗木誠のアルターエゴと時間を共にしていた。
 それは十神だけではなく、他の78期生メンバーも同じスケジュールで、かわるがわる交代しながら、この部屋で各々の手配されたアルターエゴと交流を進めているらしい。
 アルターエゴプログラムを行える場所はこの部屋でひとりずつ、というのが決まっているので、最近では他の面子と顔を合わせる機会が減りつつあった。
 毎日繰り返される実験の中で、十神は、自分を理解してくれる苗木誠のアルターエゴと、それなりに打ち解けつつあった。
 かと言って、失われた記憶を思い出しつつあるのかと問われれば、
(……微妙だ)
 と、答える他なかった。
 それは機関の人間も把握していることらしく、「記憶の回復には個人差がありますので、どうぞ気楽に」とあからさまなフォローを入れられたのだ。
 どうやら十神以外のメンバーは、このプログラムによってそれなりに記憶を回復しつつある者もいるらしい。それを聞いて十神は、自分の現状について考えた。
 時々、頭の片隅で何かが瞬きそうになるイメージはあるのだが、しかし。
それよりもずっと、目の前のアルター苗木の存在が、自分の中で「苗木誠」とはこういうものなのだという形として作り上げられていく感覚の方が強かった。
 そしてその現状に、違和感を覚えなくなっている自分がいるのも、確かだ。
 今、自分が「苗木」という名前で無意識の内に思い浮かべる人物は、希望ヶ峰学園の茶色いブレザーを着た苗木誠になりつつある。
 それでもまだ、次の瞬間には自ら(違う)と否定して、あの学園から共に脱出した、緑色のパーカーを着込んだ苗木誠に、自分の中の「苗木」という存在の互換作業を行うことは出来た。
 しかし、そんな作業に果たして意味はあるのかどうか……。

(こいつは、苗木誠なんだろう)

 それならば、そのまま単純に、目の前のアルターエゴを苗木誠として捉えることに、何か問題はあるのだろうか。
 ……無い、気がする。
 改めて、苗木の目をじっと凝視する。


「それでさあ、十神クンが……」
「僕、困っちゃってさ」
「十神クン、全然話聞いてくれなかったし」
「朝日奈さんや大和田クンと、すぐ喧嘩するし」


 ……十神の覚えていない、学園生活での話をしているんだろうが、妙に文句が多い気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
 それでも、
「まあ、なんだかんだで優しいところもあるんだもんね」
 なんて、十神本人に向かって、当たり前のことのように言ったりするから。
 十神のどんな言葉も、それが十神なのだから、と受け入れ、自分自身も決して傷つくことも臆することもなく、ブレずに前を見ているその瞳の色が、奇妙に心地よかった。
 希望ヶ峰学園の制服を身に纏った苗木。
そして、コロシアイ学園生活に挑んだ時と変わらぬ黒い制服を纏う、十神。
二人の間に、心の距離などないような気がした。

(……あ)

 その時、記憶が蘇る。
 それは忘れていた過去二年間の記憶ではなく、あのコロシアイ学園生活の中で、苗木と共に過ごした自由時間のことだった。

「自分が満足する生き方さえ出来れば、僕は幸せだよ」

 ゆっくりと、苗木の声が、あの日の温度のまま、蘇る。

「だって、他人と比べてもキリがないし……それこそ、生まれながらにして成功を約束された十神クンなんかと比べても……」

 その言葉が思い出された瞬間、十神は脳の中心に、焼けるような怒りが湧き上がる感覚を覚えた。
 それは苗木に、夢さえ抱けないまま、あくせく働いて小銭を稼ぎ、その小銭で生きながらえるだけの人生に意味などあるのか、という問を投げかけた時、苗木が発した言葉だった。
 十神の人生を知るはずもない苗木が、十神が敷かれたレールの上を進むだけで成功へと辿り着けるような人間なのだと思い込み口にしたその言葉に、十神は確かに、怒りを覚えた。

(もしかすると、俺は)

 十神は見つめる。
 自分を受け入れ、受け止め、微笑むことの出来る、希望ヶ峰学園時代の、アルターエゴの姿を。

 こいつに理解されたかったのだろうか。

 平凡で、生きてきた世界が違って、お互いの距離が近づくこともなくそれぞれの道を歩んでいくはずの、苗木誠に。
 それはきっと……心のもっと奥の、自分の意識が届かないくらい、向こう側で。
 それこそ、無くしてしまった二人の関係が溶けて漂う記憶の海の中から聞こえてくる、声のように。
 蹲り、自分の意思が通用しないことに癇癪を起こす小さな子供のように。

 こいつに理解されることを、望んでいたのだろうか。

 だからあの時、何を知っているわけでもない苗木が、「生まれながらに成功を約束された存在」だと十神を評した瞬間。
 裏切られたような、そんな怒りがふいに湧き上がり、思わず声を荒げたのだろうか。
 お前は本当に何もわかってないな、といつものように嘲笑混じりで突き放すことも出来たはずだ。
 なのに、そうはしなかった。
 ほんの一瞬のことだったが、小さく怒りに震えながら、「お前はわかっていない、全く分かっていない」と、苗木のあの目を睨みつけた。

 十神はようやく、ずっと引っかかっていた違和感の正体に気が付いた。

 苗木との距離。
 感情が、熱が、伴わないはずの二人の時間が。
 あの自由時間の中で、既にブレ始めていた瞬間。
 
 それがきっと、あの瞬間だったのだ。
 十神が、苗木の無理解に怒りを露にした、あの時。
 きっと無意識に、理解されたいと望んでいた。

(なんだ)

 そうだったのか。
 理解されたいと望み、目の前の苗木に、理解して貰えているという現状に、一切の不愉快を感じない時点で、そういうことだったのだと、穏やかに受け入れることが出来る。

「十神クン、僕の話聞いてる?」
 ふいに、もう随分と聞きなれたその声が、十神の思考を中断させる。
 もちろん、声の主はアルター苗木だ。
 十神は今もこうして、バーチャル空間でアルターエゴプログラムを受けている最中だった。
 会話の最中で自分の考えに耽ってしまった十神を、不服そうな顔で苗木が呼んだ。
 初めは違和感しか覚えなかった、その遠慮のない態度や、コロシアイ学園生活の中での苗木のそれに少なからず滲んでいた、十神に萎縮するような音のまるで無い声も、随分と自然に受け取ることが出来るようになっていた。
 思考を妨げられたことを然程気にする様子もなく、それでも十神は言葉に悪戯な嫌味を織り交ぜながら、口を開く。
「俺はお前のような愚民と違って、考えなくてはいけないことが山ほどあるんだ」
 十神がそう言うと、苗木は「ひっどいなあ、もう」と憤慨する。しかし、その怒り自体に明確な「質量」のようなものは存在しなく……まあつまり、不服を表現するためのポーズみたいなものだった。
「僕は十神クンみたいに難しいこと考えずに、健やかに成長するんだからいいもんね」
 そうやって、苗木が妙な軽口を言い返してくるのにも、慣れた。
 だから十神もその軽口に乗ってやるのが、最近の二人の傾向だった。
「健やか……お前とは無縁の単語に聞こえるが」
「えっ、何でさ」
「健やかに成長している人間が、高校生にもなってその身長なのはおかしいだろう」
「なっ!? 身長の話はやめてよ! ていうか、まあ仮に今が低いとしても、これから伸びるに決まってるんだから!」
「お前はもう成長が止まっているだろう……現時点で何歳だと思ってるんだ」
「あああっ! そっちの発言の方が傷つく! やめて!」
「事実だろうが」
「まだ伸びるよ! 多分!」
「無理だな。この妙なくせ毛で少しでも「全長」を嵩増しするくらいしかお前に残された道は……」
 そう言って、十神は苗木の特徴的なくせ毛を掴んでやろうと、手を伸ばした。
 その手は苗木に触れることなく、宙を切る。
「………」
 行き先を失ったその手を、元の位置に戻すことも出来ず、途方に暮れる。
 十神はただ、苗木の目を見つめた。その時、自分の目が、小さく動揺で揺らいだことを、自覚した。

 アルターエゴは実在しない。
 こうして目の前で確かに話しているのだとしても、触れられる実体など、どこにもないのだ。
 思わず言葉を忘れてしまった十神の顔を見て、アルターエゴは、
「……そんな、まるで傷ついたみたいな顔しないでよ、十神クン」
 と、笑った。

 その瞬間、十神は確かに、自分の手が、アルターエゴに触れられなかったことに、驚いた。
 今まで確かに出来ていたはずの互換作業……アルター苗木は現実に存在する苗木誠ではなく、架空のバーチャル世界の中だけで生きるプログラムなのだという事実とのすり替えが、出来なかった。
 足元がおぼつかないような、そんな錯覚を、ふいに覚える。
(何だ?)
 頭の片隅がぢくりと音を立て、吐き気を伴うような頭痛が訪れる。
 ここ最近、十神の悩みの種となっているのが、この不定期に襲ってくる頭痛だった。
 長く持続こそしないその頭痛は、何か規則性を持って訪れているような気がしたが、確かなことはよく分からない。機関に支給された薬を飲めば回復する場合が多かったので、あまり気にしようとは思わなかったが、ただ純粋に不気味だった。
「十神クン」
 それでも、苗木が自分の名前を呼び、ふざけたように笑っている顔を見ていると、不思議と痛みを遠ざけることが出来た。
 アルターエゴである苗木の存在が、十神の中で明確になればなる程、十神は頭痛を忘れることが出来る。
 つまり、頭痛が起こる法則としては、その逆を考えればいいのだが。
 逆とは、つまりはどういうことなのだろうか。
 明確な答えは、未だ出ない。
(……別に、いいか)
 苗木と話していると、そういう細かいことはどうでもいいような気がした。
 そうして、なんだ、本当はずっとこうして、受け入れて貰える存在を求めていたのかと、柄にもなく自覚する。
 十神家の後継として……そういう道を選んで、勝ち残って、蹴落として、決めたのは確かに自分自身ではあるのだが、いつもどこか気を張りながら生きてきた自分が、初めて、気兼ねなく接することが出来る存在が、目の前にいる苗木だった。
 軽口を言い合い、利害の全く関与しない場所で、隣り合える。

(……友人、か)

 心のどこかで、苗木に対する感情の、関係の、熱の、答えが出た気がした。
 悪くはない。
 と。
 そうやって、ひとり微笑んだ。








 アルターエゴプログラムが終了した後は、いつも眠りと目覚めの境目にいるような感覚の中で、担当者の声を聞くことになる。
ぼおっとしていた頭が、徐々に思考回路を取り戻しクリアになっていく感覚にも、もう随分と慣れたのだが、今日はなんだか、ひどく眠い。
「……相変わらず、記憶自体の回復は芳しくないようですね」
 パソコンのモニターと、手の中のカルテのような物を見比べながら、渋い声をこぼす医師の姿を、十神は何を思うことなく眺めていた。
返事のない十神に、医師は言葉を続ける。
「しかし、十神さん以外のメンバーにも、あまり記憶の回復が進んでいない生徒さんがいますから」
「はあ」
 どうにも気のないような返事しか出来ない十神の態度をどう曲解したのか、担当者は「特別に」というような態度で、改めて口を開いた。心なしか、声が小さくなったような気がするが、それもまた演出なのだろうか。
「実は、苗木誠さんもそうなんですよ。なかなか記憶の回復が進んでいないようで」
「……苗木が?」
 今度はしっかり反応する。
 十神の脳裏に、苗木の姿が浮かんだ。
 苗木は希望ヶ峰学園の茶色いブレザーを着て、赤いネクタイを締めている。笑い合いながら自分の名前を呼ぶ
 そうか、あいつも記憶の回復が芳しくないのか。
 会話をした限り、苗木は十神のことを忘れておらず、十神に対して普通に接し、何の問題もないように思えたが、そうか。
 あいつも、思い出していないのか。
 そうして十神は、
(何か、おかしい)
 と、その違和感に引っかかる。しかし、何がおかしいのかが、分からない。

(……どうでもいいか)

 ぼんやりと、相変わらずの空調が効かない熱気の篭った部屋の中で、十神は汗を拭う。
 記憶が戻っていなくても、苗木は苗木として十神と接していた。それでいいじゃないか。
 不完全なものなど、何もないような気がした。
「そういえば、頭痛の方はどうですか?」
 頭痛に悩まされていることを医師に言えば、いつも鎮痛剤を受け取ることが出来たので、とりあえず報告はしていたのだが、その時、十神はどこか本能のようなところで、ふいに危機感を覚えた。
 そして、
「もう、大丈夫です」
 と、咄嗟に嘘をついた。
 どうしてだろう。……何故か、頭痛が一向に回復しないことを明かしてしまえば、アルターエゴプログラムを受けることを中断させられてしまうような、そんな気がした。
 十神の頭痛が始まったのは、アルターエゴプログラムが開始された初日からである。何か原因があるとするのならば、そこなのだろうが。
 別に、取り立てて問題にするようなレベルではないと、そう思った。
 そうやって、目には見えない何かを、先送りにしたのだ。



 十神はいつものように部屋を出て、自室へと帰るために、殺風景だが蒸し暑い廊下を歩いていた。
 機関の本拠地であるこの建物は、大まかに分けてA棟とB棟の二棟で構成されており、そこからちょろちょろと枝分かれするように、建て増されたことが簡単に見て取れる不格好な部屋がいくらかあった。
 アルターエゴプログラムを受けていたのはA棟の一室であり、こちらの建物には大体の研究機関、それから会議室や資料室と言った、「未来機関」が機関として存在するための重要な施設がまとまっている。
そして、十神が今向かっている場所はB棟であり、そちらには機関の人間や十神ら生き残りが生活するための場が整えられていた。機関の大人達は違うのかもしれないが、少なくとも十神達には、部屋が各自一室ずつ与えられている。とりあえず、今のところは。
 アルターエゴプログラムを受ける部屋はA棟の三階にあるので、十神は一度エレベーターで一階まで降りて、B棟の自室まで戻らなくてはいけない。
 面倒な造りの建物にも、何度かプログラムを続けている内に慣れつつあったのだが、このエレベーターが、妙に古くて今にもロープがちぎれ、落下でもしそうな点だけは、慣れない。
(妙に揺れるしな)
 メンテナンスした方がいいんじゃないのか、と思いながら、十神はゆっくりと降下する。
 いつか乗り合わせた葉隠が「落ちて死んだらせっかく学園から脱出した意味がないべ」と震える声で言っていたのを思い出す。
 あいつはいつも大げさに、何かに怯えている。それは不確かな幽霊という存在であったり、落下するかもしれない老朽化したエレベーターであったり。
(落ちるわけないだろうが)
 と、言い切ることは出来ないが、十神は少なくとも、葉隠ほどこのエレベーターに恐怖を抱いたりはしない。
 落下するイメージが、明確でないからだろうか。
 一階まで降下したエレベーターは、チンという音と共に扉を開く。
 かわり映えしない廊下へと足を踏み出した。背後でドアが勝手に閉まる音がする。
しかし、ふと前を見て、進みかけていた足が、止まった。


「あ、十神クン……」


 ぼんやりとした蛍光灯に照らされた、白い空間。
 その真ん中に、緑色のパーカーを着込んだ、ブレザー姿の苗木誠が、立っていた。

「苗木?」

 無意識に呼んだはずの、その名前に、途方もない違和感を覚える。
 そしてその違和感を自覚した瞬間、またしても、あの頭痛がやって来た。
 苗木の、自分を見ているその目に、違和感。
 ブレ始め、境界が分からなくなりつつある世界の中で、ふと、十神が変だと思った苗木の目にも、同じような色が浮かんでいる、そんな気がした。
 苗木が、何かに驚いたように小さく目を見開いたのだ。

 十神が、その行為に何かしらの言葉をかけるよりも先に、口を開いたのは苗木だった。
「えっと、このエレベーターから降りてきたってことは、十神クンもアルターエゴプログラムを受けてきたのかな」
 現在A棟に来る理由といえば、アルターエゴプログラム以外の用事もない十神達だ。そして、自室のあるB棟へと戻るには、たった今使用したエレベーター以外の手段もないので、この場所で出会ったという事実は、そのまま何をしてきたのかという答えに直結する。
 当たり前のことを、当たり前に聞いてくる苗木。
 そんな苗木に、十神は少し冷静さを取り戻した。そして、冷静になった頭は、何にそんなに驚いていたのだろうかという純粋な疑問と共に、無意識に強ばった筋肉を弛緩させる。
(馬鹿馬鹿しい)
 十神は自らに向ける皮肉から、嘲笑に似た笑みを口元に浮かべた。そして、そのまま、目の前の苗木に向かって、いつものように……先程まで会っていたアルターエゴと同じように、あからさまな嫌味を織り交ぜた、返事をする。
「ここから出てきたということは、そういうことに決まっているだろうが。少し考えれば分かるようなことを聞くのは、頭が足りない証拠だな」
 十神はそう言って、苗木の反応を待った。「なんでそういうことばっかり言うのさ!」と、分かりやすい怒りを顕にしながら、それでも強気に、「本当に十神クンって口が悪いんだから」なんて笑い、次の話を始めようとする、その一連のやりとりを、待った。
 しかし。
 十神が見た苗木は、またしても一瞬、ひどく驚いたように目を見開き……そして。
 その目をあからさまにそらすように、足元へと移す。
 一瞬、何かを言いたそうに開かれたはずの口からは、

「あ、あは。そうだよね……うん、ごめんね」

 という言葉が、大きく空気も震わせることなく、紡がれる。
 そらされた苗木の目を見た、その時。

 十神の中で、何かが張り詰めていた糸のようなものが、切れた。

 苗木の驚いたような目は、確かに、何かを言いたげに揺れたはずだった。
 しかし、そんな苗木の口からこぼれたのは、「同意」と「謝罪」の、ふたつ。
 誰かと争いを起こさないためには、何よりも必要になる、この二つの要素が。
 苗木の中で、十神との線を引いたあの日に生まれた「諦念」と混ざり合い……。
 
 二人の間に横たわる、明確な距離を、露にした。

 十神はまるで、前触れもなく思い切り頬を張られたかのような衝撃に、目を覚ます。
 そして、「それじゃあ、僕行かなくちゃ」と、自分の横を通り過ぎようとする苗木のその手を、無意識の内に、掴んだ。

「……十神クン?」

 無論、何も言わない十神がいきなり腕を掴んできたという事実に、苗木の目は戸惑いを顕にする。
 そして、苗木のその、戸惑いと萎縮にブレ始める目の色が、十神の眼球の中心から、視神経へとダイレクトな映像として映りこんだ、瞬間。
 無理矢理にはめ込んだジグソーパズルのピースが、ついに弾けて崩壊したような。
そうして、ただそこにある純然な事実というものが、音を立てて流れ込んできた気がした。
 鼓膜の向こうで、不愉快な不協和音が響き始める。



「超高校級の御曹司の十神クンと比べたら」
「僕が十神クンみたいになるのは無理だけど」
「生まれながらに成功を約束された十神クンなんかと比べても」
「ずっと勝ち続けなくちゃいけないなんて、そんな生き方で辛くないの?」



 いつかコロシアイ学園生活の中で聞いた苗木の声が、ぐるぐると渦を巻いて脳内で暴れまわる。あの時の……そして今の苗木が十神を見る目は、未知の存在に対する恐怖心を少なからず孕んでいて、それは安堵や信頼とは全くの対局に位置するものだった。


 分かっている。あいつが俺に歩み寄ろうとしていたこと。それを否定し続けて初めに距離を作ったのは俺だということ。それでも俺の誘いに乗ることもなく「自分自身の納得できる生き方を探す」と言った苗木の言葉に少なからず価値観を狂わされかけていたことも。そんな自分のブレが、そこまで不愉快ではなかったことも。


 それでも、苗木が最後の最後で、これ以上一緒にいたとしても、互いに得るものなど無いと言い放った十神の背中を追ってこなかったあの時。
生まれてしまったのは、紛れもない。
 取り返しのつかない距離と。
 いつか分かり合えるかもしれなかった、未来への可能性だった。



「十神クンは十神クンだし」
「僕はずっと一緒にいた十神クンを知ってるから、今こうして目の前にいる昔の十神クンを見ても、そんなことを言われまくってた時もあったなって、普通に受け止められちゃうのかな」
「また明日ね、十神クン」



 アルターエゴの声が聞こえる。あんなに心地よく聞こえていたはずの言葉達が、十神の心のどこにも引っかかることなく、無機質な音声として上滑っていく。
 そうしてその声が、十神にとっての事実である、現実のコロシアイ学園生活で時間を共にした苗木の声と、混ざり合う。ぐるぐると渦を巻く。
 今までに感じたことのないような、激的な頭痛に、襲われる。
 普通に立っていることもままならない程の、痛み。その痛みを抱えながら、目の前に立っている苗木の姿を見る。
「十神クン?」
 十神は、自分が異常な表情をしているという自覚があった。
痛みに目を見開き、その目が映す苗木の、緑色のパーカーが違和感とリアルを同時に孕みながら、十神の中に根付いた、希望ヶ峰学園の茶色のブレザーを着た苗木誠の姿と、重なり合いながら、ブレる。
 声は脳内で木霊する。それはもう、苗木本人のものなのか、アルターエゴのものなのかも、分からない。混ざり合い、切れ目もなく、壊れたオーディオプレイヤーのように、不規則に、回る。


 そして、一瞬。
全ての音が、消える空白が、訪れる。
 その時、十神の脳内で、いつかどこかで聞いたはずのあの言葉が……蘇った。








「十神クンとは一生、友達にはなれないんだろうな」








 苗木が、十神との関係に線を引いた、その言葉が。
 底の見えない穴を覗き込んでいた十神の背中を、押した。
 あとはもう、ただ落ちていくだけだった。

(あの苗木は、現実には存在しない)

 希望ヶ峰学園の茶色いブレザーを着て、十神を真っ直ぐに見つめることを躊躇わない苗木こそ、十神の欲しているはずの苗木だった。
 しかし、そんな苗木は、少なくとも今、この現実から消えて無くなってしまっているのだ。
 積み重ねていた過去を全て失うという、あまりにもイレギュラーな現状。十神自身も、その過去を忘れているために、どこに手を伸ばせば欲したそれを掴めるかどうかも分からない。
 記憶を奪われ、その記憶が戻ってくるかどうかも分からない現実で。
 苗木はもう、十神を受け入れたアルターエゴのようには戻らないかもしれなくて。
 そもそも、コロシアイ学園生活で過ごしたあの時間の中、苗木が十神との間に見つけた、「適切な距離」。
 立ち去る十神の背中を、追わないという、答え。
 あの答えを弾き出した苗木が、十神の目の前に立つ苗木なのだというのなら。
 新しい答えに上書きされた苗木は、希望ヶ峰学園時代の苗木を消し去り、二度と十神の前には現れないのかもしれない。
 見えかけていた未来は、ただの偶像でしかなくて。
 未来が枝分かれする幾つもの選択肢だというのなら、コロシアイ学園生活という道筋を歩んだ二人の関係は、希望ヶ峰学園で培った関係とは、最早全くの別の存在で。
 それを今、十神からそらされた苗木の目を見た瞬間、はっきりと理解して……進んでいた道の先に現れた落とし穴に、落ちた。
(……そんな未来なら、いっそ)
 暗い、穴の底へと落ちていく感覚のまま、十神は。

「とが……っ!?」



 目の前にいる苗木の細い首に、手をかけた。



「ぐ、あ……!」
 苗木の酸素を求めて喘ぐ声が、遠い。
 腹の底から、焼けるような怒りが湧き上がる。
 それは目の前にいる、十神に線を引いた苗木に対するものでもあり……また、変えようのない現実そのものに対する怒りでもあった。
 どんなに理不尽な理由で暴力を振るっているのかなど、関係ない。
 頭痛が収まらない。苗木の首に食い込む指の感触が確かになっていく度に、十神の頭痛も大きくなる。今にも割れそうな頭を首にぶら下げたまま……もしも、このまま。
 本当に、自分の頭が真ん中から割れでもすれば。
 十神が今、何を考え、どんな気持ちで、この細い首を握り締めようとしているのか、目の前の苗木にも伝わるのだろうかと。
 そんなことを、場違いにも考えていた。
「とが……く……離し……っ!」
 しかし、そんな十神の思考を知る由もなく、また考えている余裕などあるはずもない苗木は、必死で自分の首にかかったその大きな手を、バリバリと掻き毟りながら抵抗をしていた。
十神の手の甲に、何本もの赤い爪痕が浮き出て、そこからじわりと溢れる熱は唐突に、リアルというものに直結した。
 そして十神は、そのリアルに導かれるように、熱でぼんやりとしていた目を、すぐ近くにいるはずだった苗木の顔へと、向けた。

「………!」

 思わず、自分が相手の首を絞めていることも忘れて、ハッと目を見開いた。

 苗木の表情は、明らかな怒りに滲んでいた。
 その怒りはきっと……自分と同じ種類の怒りだったと、思う。

(何を怒ってるんだ、こいつは)

 十神は確かに動揺した。
 苗木の目が、十神と同じ種類の怒りでカラカラに乾いている。
 それは、十神に対する諦念を宿していたコロシアイ学園生活の中での苗木の目でも、十神を受け入れ穏やかに笑っていた希望ヶ峰学園時代のアルターエゴでもなく。


 もっと、別の。
 十神が初めて見る、苗木の目だった。


「っ、……僕だって……!」
 十神の拘束が若干緩んだ、その時。苗木の喉の奥から、吐き出されるように言葉が、溢れた。
 そしてその時、苗木の全身から溢れ出す怒りの中に、確かな憎しみが混じった。苗木の怒りが、憎悪が、目の前の十神に注がれた瞬間。

 十神には、自分が首を絞めている苗木の姿が、一瞬、十神自身の姿に見えた。
 唐突に、苗木の首から伝わる、苗木自身の熱に、気付く。
 十神は確かに苗木そのものに触れていた。今頃になって気が付いた。バーチャル世界で、アルターエゴに触れようとした、あの時のシーンが思い出される。
 目の前の、実在する苗木の熱が、十神の手に触れることのなかったアルターエゴの存在と、またしても重なり合う。頭痛の波が襲う。


(何なんだ、お前は)


 その時、誰かが廊下の向こう側から現れて、叫んだ。
「苗木くん!?」
「ちょ、何やってんの十神!?」
 霧切と朝日奈だった。二人は目の前の異常な光景にまず驚いてから、コンマ一秒の間に目の前で起こる現状の単純な関係を理解した。
 理由は分からない。だけど今、この廊下で、仲間であるはずの十神が、同じく仲間であるはずの苗木の首を絞めて、確かな殺意を向けている。
「やめなさい!」
「そうだよ十神! 何があったか知らないけど、苗木を離してっ!」
 二人がかりとは言え、女の力によって、十神は呆気なく苗木から引き剥がされた。それには霧切も朝日奈も少し意外だったようで、思わず目を見開くのだが、次の瞬間。

「十神!!」

 朝日奈の声が、脳天で回る。十神は、糸の切れた人形のように、そのまま床に倒れ込んだ。
(頭痛が)
 止まない。痛い。何も考えられなくなる。もう指先一本動かすことも出来ないくらいだ。
 意識が、朦朧とする。
 そして、頭を押さえながら倒れた十神の視界が捉えたものは、何かに気付いたような霧切が一瞬、立ち尽くしたまま動けなくなっている姿と、

「十神クン!!」

 と、今の今まで自分に向けて途方もない程の憎悪を向けていたはずの苗木が、本当に心配そうな顔で、こちらに向かって駆け寄ってくる光景だった。

(なんでお前の方が、そんな顔……)

 その時、何か温かいものが、手のひらに触れた気がした。そのまま、握り締められる。
 泣きそうに歪む苗木の表情が、網膜に焼き付いたまま、瞼が閉じる。
 そうして、手放される意識。

 深い穴の底へ落ちていったまま、十神は耳の奥の方で、蝉の鳴く声を聞いた気がした。








 朽ち果てた建物や電柱、ポストや自動販売機の残骸が、界面から顔を出している。
 絶望が滅ぼしかけた世界の現状が、ただ静かにそこにはあった。
 ……いつの間に、施設から外へ出たんだろうか。
 不思議に思いながら周りを見ていると、何かがおかしいことに気づく。
(海が、赤い?)
 海だけではなく、空まで赤い。真っ赤だ。ああ、夕焼けのせいなのか。と、納得する。
 そしてふと、自分以外の誰かが近くで会話をしていることに気が付いて、そちらの方へと視線を向ける。


「友達はもういらない」

「友達を失う苦しみはもうたくさんだ」

「友達なんて最初からいない方がマシだよ」

「こんなことなら最初から誰とも出会わなければよかった」

「前みたいにひとりのままでよかったんだ」



「僕のこと好きでもないし、友達だとも思ってないんだろ?」



 そこで、視界は砂嵐に遮られ、真っ暗になる。
 目が、覚める。



「……!」

 次に視界に入ってきたのは、少しだけ見慣れた白い天井だった。
 その天井を見て、ここがB棟の自室であることを知る。
(……なんだ?)
 それは、夢に対する感想だった。
 壊れ果てた世界の中で、二人組の誰かが会話をしていて、その声だけがやけに鼓膜へと響いてきたのだが、目が覚めた今はあまり詳しく思い出すことが出来ない。まあ、夢の中の出来事なんてどうでもいいし、非生産的極まりない思考であることは確かなので、深くは追求しないことにした。
 そんなことよりも、十神はどのような経緯で自分が今、部屋のベッドに横になり、眠りから覚めたのかということを思い出さなくてはいけなかった。

 自分は確か、いつものようにアルターえごプログラムを受け、この部屋へ戻ってくるために老朽化したエレベーターを降り、その途中で……。

「………」

 記憶の道を辿った先で、十神は出来れば思い出したくもなかった事実を、思い出す。
 苗木と出くわし、苗木の首を絞め、そのまま悪化する頭痛の影響で倒れてしまったという出来事を。

(嘘だろう……)

 十神は再び目眩にも似た感覚に襲われる。
コロシアイ学園生活の中のように、あの日常をゲームだと割り切り、あくまで可能性としての話だが、計画的に誰かを殺めようとしたわけでもなく。
十神はただ、殺し合いを必要としない現状の中で、何の計算も目的もないまま、すれ違う苗木を引き止め、激情のまま彼の首を、絞めた。
 何のためなんて、十神が一番聞きたいことだった。
 奇妙な喪失感に襲われ、今一度、硬いマットレスのベッドの上へと体を倒した。
(……誰か、あれも夢だと言ってくれ)
 と、柄にもなく切に願うのだが、時間の流れと比例するように記憶は鮮明な色を持って展開し、ついに十神の手のひらには先程掴んだはずの苗木の首の体温が、じわりと蘇るように思い出されたのだった。
(あんな醜態……)
 現実の残酷さに、十神は静かに負けそうになっていた。時間を戻して過去を変えたいとさえ思う。そんなこと、今まで考えたこともなかった。
 それ程までに、十神は先程自分が苗木にした行為が許せなかった。
 それは苗木を傷付けた云々という相手を思いやるような気持ちではなく……ただ純粋に、自分の恥を消し去りたいという人間らしい願望からの思いだった。
 十神は、未だ微妙に残る頭痛を押さえつけるように、ベッドの上で仰向けのまま横たわっていた。
 そうしている内にも、いろいろなことを芋づる式に思い出して……むしろ、全てがどうでもよくなってきた。
 世界が絶望に侵食されたこと、十神家が滅んだこと、未来機関という組織に対する警戒、苗木との、関係……そういうことに対して、いっそ本当に無気力になる。
 もしも自分にとって不都合な何かあったとしても、最悪死ぬだけだ。そう考えれば少しは気が晴れる。それ以下の出来事なんてもう何もないのだ。
 生まれてこの方、辿りついたことのないような思考に侵されて、十神は自分の精神がいかに追い詰められているのかを、苦虫を噛み潰すような気持ちで理解した。
(苗木ごときに、何故)
 そもそも、どうして自分はあの時苗木の首を絞める、なんて行為に走ってしまったのだろうか。
 目の前の苗木と、アルターエゴとして接触した苗木の存在が重なり、そしてブレ合い、吐き気を催すような頭痛に侵食され、気がつけば、苗木の細い首に指をかけていた。
 あの時、自分は確かにおかしかった。
 何故だろう。

 その時、十神の思考を中断するかのような騒音がひとつ、唐突に部屋の入口の方から、響いた。
 ばぁん!! という破壊音と共に、冷静をそのまま音にしたような女の声が、伝わる。

「失礼するわよ」

 それは、霧切響子の声だった。
 十神は、突然の来訪者の存在に、思わずベッドから飛び起きてしばし呆然としていたのだが、やがてハッと意識を取り戻し、叫ぶ。
叫ばずにはいられなかった。

「霧切!! 貴様、扉が壊れただろうが!!」

 あの破壊音は、霧切響子が十神の部屋の扉を蹴り開けた時に響いた音だったのだろう。十神の視線の先、外側からは引く形で開けるタイプの扉が、こちらから見て内側へ入ってきている。無理やり逆方向に力を加えられたドアの金具の部分は、ベッドから見ても明らかに損傷していた。
 希望ヶ峰学園の寄宿舎のように、生徒達が与えられた部屋はひとつの廊下に隣り合いながら並んでいる造りになっていたので、部屋自体の構造も大体は同じだった。つまり、霧切が外から引けば扉は開くのだという簡単なことを知らないはずもなかったので、意図的に十神の部屋の扉を壊して堂々と侵入してきたということになる。
 憤慨する十神に、霧切はぴしゃりと一言。
「そんなことは今どうでもいいじゃない」
 と言い放ち、我が物顔で部屋へと入り込んできて、十神のいるベッドの正面に位置する机に、すとんと腰掛けた。
 なんの前置きもなく扉を壊されておいてどうでもいいわけがなかったし、何より誰が勝手に入ってきていいと言った。
「おいおいおいおい何勝手に入ってきて勝手に座ってるんだ出て行け貴様」
「話があるのよ」
 霧切はあからさまに迷惑そうな顔で自分を追い払おうとする十神に臆することなく、机の端に腰をかけ、腕組をしながら、必要最低限とも言える言葉を紡ぐ。
「アルターエゴプログラムのことよ」
「……なんだと?」
 その単語には、流石に食いつかずにはいられなかった。
 ふいに神妙な顔で黙り込んだ十神に、霧切は想定の範囲内だというような態度で、口を開く。
「あなたもいろいろ混乱しているでしょうからね。説明してあげようと思って」
「どういう風の吹き回しだ?」
「失礼な言い方ね。人の好意はもっと素直に受け取ってもいいんじゃないかしら」
 霧切の言葉にどうしても薄ら寒いものを感じずにはいられなかったが、アルターエゴプログラムの話と言われれば、黙って聞くことしか出来ない。
 霧切は十神の沈黙から心境を察したのか、勝手に話を始めた。
「十神くん。あなた、アルターエゴプログラムの初日に私とすれ違った時、頭痛がするって言っていたわよね」
「……ああ」
「あの頭痛、ずっと続いていたんじゃない?」
「………」
 十神は、機関の担当者に頭痛のことを聞かれた時と同じ気持ちで、つい黙ってしまった。
霧切は大した言及もすることなく、淡々と話を進めた。
「あの頭痛もそうだけど、あなたは苗木くんに攻撃をしたあの時……アルターエゴプログラムによって、随分と精神に影響を与えられていたのよ。その不安定な精神のまま、自分自身の制御が効かなくなって、暴走してしまった」
 アルターエゴプログラムによって、自身の精神の制御が効かなくなった?
「俺のあの行動が、アルターエゴプログラムのせいだった、というわけか?」
「別に、プログラム自体が被験者を洗脳するためのものだとは言っていないけれど、結果としてそういうことになってしまったわね。単純に……精神が、不安定になるのよ」
「………」
「自分達が見ていた現実との乖離が激しいプログラムと対峙した人間は、特にね」
 苗木本人と鉢合わせした、あの瞬間。
十神の脳裏では二つの存在である苗木の発する声がぐるぐると混ざり合って、一種の錯乱状態に陥った。
何が現実で、何がプログラムなのか。実在する苗木の存在が、その境界線が曖昧になっているという事実を、突きつけるように十神に教えた。苗木本人に、そんな意図はなかったにせよ、そうなってしまった。
「アルターエゴプログラムは被験者の精神にひどく負担が掛かるシステムだったのよ。機関もそれは分かっていた。だからこそ、私とあなた……それから、苗木くんにだけ、より被験者の精神への危険が伴う相手を用意したんでしょうね」
「……どういうことだ?」
 十神は、霧切の言っている言葉の意味が分からなかった。
「つまり、私とあなたと苗木くん以外の生徒……朝日奈さん、葉隠くん、腐川さんね。あの三人には、以前からの関係性から見ても基本的に無害な存在である、アルター苗木くんが割り当てられていたはずよ」
「苗木が? あいつらの相手をしていたアルターエゴも、希望ヶ峰学園時代の苗木だったのか?」
「そう。彼らにとって……ううん、彼ら以外の誰だって、苗木くんのアルターエゴなら、安心して記憶を取り戻すためのプログラムを進めることが出来た。凡庸性があるからね、彼は。もちろん良い意味で」
「ちょっと待て、それならどうして俺ひとりだけ、あんな……あんな行動を起こすような、精神の異常が現れたんだ。俺だって、アルター苗木と共にプログラムを行っていたんだぞ」
 苗木誠のアルターエゴが、安定した存在として誰かの記憶に触れることが出来るプログラムだというならば、同じくアルター苗木と対峙したはずである自分だけが、どうして苗木本人の首を絞めるなどという奇行に走ってしまったのか。
十神の言葉に、霧切はやはり冷静な表情で言葉を返す。
「人の数だけ関係の形はあるのよ。葉隠くんや朝日奈さん、腐川さんにとっての苗木くんと、あなたにとっての苗木くんは違う。変な意味ではなく、単に現実の関係との振れ幅の差ね」
「振れ幅?」
「ギャップよ。あなた驚いたでしょう? アルター苗木くんの自分に対する態度の変化に。そして、そんなプログラム世界の苗木くんに慣れてしまった後、本物の苗木くんに鉢合わせた。二人の振れ幅に耐えられなくて、意識とは別のところで、おかしな行動に出てしまった」
「………」
 十神は、そろそろ霧切の様子がおかしいことに気が付き始めた。
 確かにコロシアイ学園生活の時から、単独行動の度に自分達の知ることのない様々な情報を拾ってきて、訳知り顔で話していたようあところはあったが、今こうして十神と向き合っている霧切は……もっと、捜査や情報収集という手段で得ることの出来る以外の情報を、明確に所持しているような気がした。
 十神は、アルター苗木と初めて会った時のような違和感を、目の前の霧切に対して抱き始めていた。
「お前、なんだか……雰囲気がおかしくないか」
 思わず、そのまま疑問を口にする。しかし、霧切は、
「今は関係ないでしょう」
 と、相手にしない。
 そして、何事もなかったかのように話を進める。
「少し整理しましょう。まず、あなたが知らない情報として、もうひとつ。苗木くんの相手だったアルターエゴは、十神くん。あなたの学園時代を模したプログラムよ」
「俺の……アルターエゴ?」
 十神は少なからず驚いた。自分が苗木のアルターエゴと共にプログラムを進めているのと反対に、苗木は十神の学園時代のアルターエゴと会っていた。
「それを踏まえて、私と苗木くん、そしてあなたにだけ、より被験者の精神への危険が伴う相手を機関が用意した、という話を思い出して欲しいの。それはどうしてだと思う?」
 霧切の問いに、十神は、彼女の相手のアルターエゴが舞園さやかだったという話を思い出す。
 しかし。
「……説明しろ」
 今は、霧切の質問を推理し考える元気は、十神にはなかった。霧切は「まあ、いいわ」と腕を組み直した。
「つまり、言ってしまえばあなたと私と苗木くんは、機関に選ばれたのよ。例え精神に負担がかかるやり方でも、現実との振れ幅が激しい相手と対峙した方が、記憶を取り戻せる可能性が上がる。アルターエゴプログラムというのはそういうシステムだったから。そして機関はあのコロシアイ学園生活と、今までのデータを見て、精神への負担に耐えうる可能性がある生徒として、私達三人を選んだんでしょうね」
「………」
「荒治療されたのよ、私達は。まあ、それで結局、十神くんが壊れてしまったわけだけどね」
 その言い方だと、まるで自分が機関の期待に応えられなかった、期待はずれの存在みたいではないか、と十神は思った。
「まあ、そういうことでしょうね」
「人の心を読むな!!」
 もう、何がなんだか。
 十神は自分の身に次々と降りかかる情報の数に、現実の疲労とも相重なって頭を抱えたくなった。
 そんな十神に、霧切は少しだけ声音を変えて、口を開く。
「……私も、あなたとは別の意味で現実との振り幅に、一時は気が狂いそうになったわ。それ程のものなのよ、あのプログラムは。機関も、今回のあなたの行動でやっとそのことを自覚したみたいで……アルターエゴプログラムは、中止になるそうよ」
「中止だと……?」
 思わず目を見開く。思い出されるのは、アルター苗木の姿だ。プログラムが中止になってしまえば、きっともう、あの苗木に会うこともなくなるだろう。同時に思い出される、現実の世界の、十神が首を絞めたはずの、苗木との距離。
 もう、何もかもが手遅れなのだと、そう言われているような気がした。
 アルターエゴプログラムさえなければ、こんな喪失感にも虚無感にも、無力感にも、出会うことはなかったのに。
 十神はいっそ、アルターエゴプログラムそのものを恨みかけていた。
(……まあ、いい。もう全てがどうでもいい)
 そう思えば、一時的であるとしても、驚くぐらい心が軽くなる。今までの人生で出会ったことのないような悩みに対し、見つけたことのないような解決法で対処する。
十神は疲れていた。損益や打算とは無関係の場所で、他人と意志を交差させ合うという行為に、疲れ果てていた。それなら初めから、何もいらなかった。

「言っておくけれど」

 そんな十神の頭に、霧切の澄んだ声が、妙に大きな音で響いた。

「苗木くんもあなたのアルターエゴと対峙していて……それが私たちと同じように、精神に負担がかかる程の振り幅の実験だったってこと、忘れないでちょうだい」
「……どういう、」
「苗木くんだって、エレベーターの前であなたと鉢合わせした時、同じような状況にあったってことよ」
 十神はふいに、自分が冷たい言葉を投げかけた時、驚いたような顔をした苗木の様子を、思い出す。
 何か、ひっかかる。まるで、初めて十神に冷たくされたかのような、あの態度。
「………」
 十神が黙り込むと、霧切は小さくため息をついて、立ち上がった。
「あなたがこれから、苗木くんとどういう風に向き合っていくかは自由よ。あなたと一緒で、荒治療でもなかなか記憶が戻らなかった苗木くん自身、同じような悩みに苛まれていた可能性はあるしね」
 ぴくりと、ある言葉に反応する。
 苗木が、同じような悩みに?
「……とにかく、後悔のないように進むことね。生きている内に出来ること、そんなに沢山ないわよ」
 どうしてだろう。霧切の言葉は、少しだけ苦しそうだった。
「霧切、お前」
「まあ、受け流してくれて構わないけどね、私は」
……さては根に持っているな、こいつ。
 人の心を思うことのない十神に対し、霧切は、当然嫌味も混ざっていただろうが、助言を与えてきた。しかし、十神はそんな霧切の言葉を「ありがたく受け流させてもらおう」と、嫌味で返す。
 そんなやりとりを思い出し、妙にしょっぱい気持ちになる。
 顔をしかめる十神に、霧切は言った。

「忘れないで、十神くん。苗木くんは、ちゃんと現実にいるのよ。望めば向き合うことが出来る」

 霧切は机から立ち上がり、部屋の出口へと足を進めた。ベッドに腰掛けたままの十神からは、彼女の後ろ姿しか見えなかったが、最後に一言だけ、ぽつりと、


「……さやかとは違って」


 という、言葉をこぼした。
 気がした。
「……?」
 さやか、というあまり聞き慣れない名前と、間違いかもしれない程の小さな声音に、一瞬、その声が現実のものだったのかという疑念を抱いたせいで……十神は、とある重要なことに気付くのが、遅れた。

「霧切!! 帰るならドアを直して行けドアを!!」

 未だ十神の部屋のドアは、逆方向に開かれたままだったが、生憎霧切は十神が黙っている間に颯爽と姿を消してしまっていた。
 開きっぱなしのドアを、十神は仕方なく寝起きの身体で修繕する羽目になった。勿論、工具やなんやらで完全に直すことは今の状況から言って不可能だったので、とりあえず、閉まらないままのドアを元の位置に力技で戻し、外から室内が見えないように整える。後で機関の人間に修理を頼むしかない。

「……何だったんだ、あいつは」

 ひとまずの静寂を取り戻した部屋で、十神は再びベッドの上に横になる。ごろりと転がった瞬間、疲れがどっと込み上げた。
 霧切が唐突に現れ残していった情報を、脳内で反芻する。
 十神の頭痛と、苗木への暴力、そしてその後倒れてしまったのは、アルターエゴプログラムの影響だということ。
 十神と霧切、そして苗木には、特別に多少の危険を伴うプログラムが用意されていたということ。
 苗木の相手をしていたアルターエゴが、学園時代の十神だったということ。
 アルターエゴプログラムが、中止になったということ。
 それら事実に加え、十神アルターと対峙していたという苗木の立場、心境。
 霧切の言う、苗木とどう向き合うかは、自分次第だという言葉。
(……ますます混乱するだろうが)
 十神は、いっそ霧切を憎らしく思うような気持ちだった。あの女の話を聞いたせいで、余計に脳内がごちゃごちゃと混乱してしまった。
 アルターエゴプログラムは中止になった。もう、十神が欲したはずの苗木には、会うことが出来ない。残ったのは、十神に首を絞められ、そんな十神を憎しみの篭った目を向けてきた、現実の苗木誠だけだ。

(……そういえばあいつ、最後に)

 怒っていたかと思った苗木は、十神が頭痛で倒れたあの時、今までの状況も忘れて十神の元に、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
 苗木が何を考えているのか、分からない。

 ……少し、疲れた。

 そう思って、十神は全てに目を瞑った。
睡魔は素直に十神の全身を包み込み、そのまま穏やかに眠りにつくことが出来た。








 蝉の声が聞こえる。どこまでも続く長い廊下が、窓から差し込む夏の日差しを受けて、ぼんやりと白く光っていた。
 そう、夏だ。
(暑い……)
 十神は、額に浮いた汗を拭いながら、ぼんやりとした視界の中で、その景色をじっと眺めていた。
 ここは、校舎?
 どうして自分はこんなところにいるんだろう。周りに人の気配はない。
 ……ああ、夏休みか。


 独特の静けさに包まれた廊下に立ち尽くしながら、十神は自分の目的を思い出そうとしながら、ゆっくりと歩き始めた。
 どうして休みの日だというのに、自分は登校しているのだろうか。
 全寮制の希望ヶ峰学園では、夏期休暇の間は地元へ帰郷している人間が殆どだった。いつも騒がしい寄宿舎も、夏休みだからという理由で、妙に寂しげな空気に満ちていて、まあ十神の性格上、そういう雰囲気の方が逆に落ち着けるというところもあったのだが。
 そんな十神も、今日から一度実家へ帰って、形だけでも顔を見せるつもりだったのだが。
(どうして、俺は校舎に……)
 何か、忘れたものでも取りに来たのだろうか。

 忘れ物。
 それは一体、何だっただろうか。

 十神の足は教室の前で止まる。
ガラリと、音を立てて引き戸を開けると、静寂に包まれた室内に、いくつもの机と椅子が規則正しく並んでいる、見慣れた景色。
 授業中でも、休み時間でもない。登校前でも、放課後でもない。長期休暇という特別な時間、いつも見ていたはずのクラスメイトがいない、日常の中の些細な非日常。
 誰かが開け忘れたのだろうか。使用していないはずの教室なのに、窓にかかる白いカーテンが閉じたままになっていて、薄い布の表面を通り抜けるように、夏の日差しが静かに部屋を満たしていた。

 教室の真ん中。机の前に、ひとつの人影。

 十神は、思わず教室の敷居を跨ぐことを忘れ、立ち止まる。
 人影の正体は、恐らく苗木誠だった。例のやり取りを思い出して、無意識に警戒する。
 十神がドアを開けた音に気が付いたのか、人影はこちらを振り返った。

 それは、確かに苗木誠だ。

 しかし、希望ヶ峰学園の茶色いブレザーと、十神を見つめたその瞳の一瞬の色見て、
(ああ、アルターエゴの方か)
 と、思い至る。

 どうしてアルターエゴがここに?
 と、考える。これは例のプログラムの続きか何かなのだろうか。
 霧切は、アルターエゴプログラムは中止になったと話していたはずだった。
 プログラムの中止は、十神の精神に異常が見られ、突飛な行動や身体への影響が分かりやすく現れたのが原因だった。だから十神は、もう二度とアルターエゴと対峙することはないのだと思っていた。

「………」

 アルターエゴは、敷居の向こうに立つ十神に、やはり穏やかな目を向けていた。十神は、そんな苗木に引き寄せられるように教室の中へと足を踏み入れた。
 二人以外は誰もいない教室で、十神と苗木は向かい合った。窓から時折吹き込む小さな風が、ささやかにカーテンの裾を揺らしていた。
 自分よりも随分と低い位置にある、苗木の目と視線を合わせる。
アルターエゴが逸らさずに見つめる十神自身の姿が、その丸く大きな瞳の中に映り込み、十神は自白剤でも飲んでしまったかのような、妙な感覚に支配される。
 それともこれも、アルターエゴプログラムで精神そのものがおかしくなった影響なのか?
 そんな考えを頭のどこか冷静な部分で考えながら、十神は自分を真っ直ぐに見つめるその瞳に向かって、ぽつりと声をこぼした。

「……俺は、お前がいい」

 そうして、確かめるように、もう一度。

「お前がよかったんだ」

 と、言う。

 十神は、自分で言ったはずのその言葉に、まるで人ごとのように、(ああ、そうか)と納得した。
 十神には過去の記憶がない。戻ってくる保証もない。だから目の前で穏やかな表情で十神を見つめるアルターエゴの存在だって、本当は知らない。
 しかしそれは十神が忘れてしまった、歩んだはずの過去、または未来の中で隣にいたはずの苗木だった。
 穏やかに十神を受け入れ、笑う、そんな存在に十神は惹かれ、欲した。十神が求めた苗木の存在は、かつて確かに十神が手にしていたはずのものだった。
 初めから隣にいたわけでもない。それでも、街ですれ違うだけの他人にさえもなり得なかったかもしれないはずの二人が、一切の面識もなくあの学園で出会った、という条件だけは、希望ヶ峰学園の二人も、コロシアイ学園生活の二人も、同じだった。
 そんな条件のもとで、過去の十神と苗木は、分かり合うことが出来た。笑い合うことが出来た。共に生きることが出来た。だからきっと、潜在的には今のコロシアイ学園生活を過ごすことになった自分達だって、本当は同じ場所へ辿り着けるかもしれなかったのだ。

 それでも、苗木は十神に線を引いた。

 希望ヶ峰学園の十神と、コロシアイ学園生活の十神。
 そして、希望ヶ峰学園の苗木と、コロシアイ学園生活の苗木。
 それぞれ、生きる世界が違ってしまったのだ。世界が違えば価値観も変わる。その考えは、それこそ十神が苗木に言った言葉そのものだったはずだ。

 何度でもやり直せる。人は分かり合うことが出来る。そんなこと、一体誰が約束してくれるんだ。覚えていない、思い出せないかもしれない記憶と共に失われた関係を、道筋を、正しくなぞり返すことなんて最早不可能なはずなのに。
 生徒達の声に溢れ、賑やかな喧騒に包まれていた希望ヶ峰学園は、もうどこにもない。そこでしか培えなかった絆があったはずだ。関係があったはずだ。その結果こそが、目の前にいるアルターエゴである苗木誠なのだ。
 知らなければよかった。取り戻せないものならば知らないままいればよかった。
 大切にしていたものを落としてしまったとして、それを知らなければ無くしたことにさえ気付かないまま生きていけるのに、中途半端に気付いてしまうから、知ってしまうから、手を伸ばしたくなってしまう。

 でも、もう手に入らないと知っている。
 目の前の苗木は幻で、現実の苗木は十神に線を引き、距離を決め、そんな苗木に十神もまた、牙を剥いた。手の平の中に、未だあの熱の温度が残っている。
 アルターエゴは黙って十神の言葉を聞いていた。カーテンを閉めていても照りつける、夏の日差し。蝉の声。額に汗が浮く。十神にも、目の前の苗木にも。
 その、苗木の白い肌に薄らと浮かぶ汗の存在に気付いた時、十神はふとした違和感を覚えた。

「ごめんね」

 十神が苗木の頬を見つめていたその時、自分以外の声が響いた。
 それが苗木のものだということに、一瞬気付けなかった。

「僕もさ、まあ……知っての通り普通の高校生だから。十神クンみたいなタイプ、今までに出会ったことなかったし。正直言って、最初は馬鹿にされたり怒られたり……憎まれたりするくらいなら、むしろ最初から関わらないように、距離を決めていたほうがいいんだって、思ってた」
「………」

 これは、本当に苗木のアルターエゴなのか?
 何かが違う。アルターエゴではない。だからと言って、現実の、十神が首を絞めたはずの苗木でも、ない。
 それなら、この苗木は一体……。

「でも、本当は違った。僕は十神クンを知らなかったし、十神クンも僕を知らなかった。あの学園で一緒にいて、一緒に過ごして、少しずつだけど、二人が本当に居心地良くいられる距離を見つけて、他の人達とのやり方と比べたら随分遠回りになっちゃったけど、それでも、だからこそ……十神クンと友達になれたこと、ずっと特別だったよ」

 そう言った苗木は、真っ直ぐな瞳で十神を見つめた。

「僕たちの記憶、もう思い出せないかもしれないんだよね。同じ思い出は二度と作ることは出来ないし、その頃の僕らの距離と寸分の狂いもない姿には戻らないかもしれない」

 ……アルターエゴじゃない。じゃあ、誰だ。十神を理解し、十神と苗木の過去を語る、目の前の人物は。
 見たはずがない、夏の希望ヶ峰学園の景色。静けさの中に反響する蝉の声。どうしてか懐かしい情景。教室にひとり立つ、苗木。

「でも、それが本当に無くしたくないと、取り戻したいと、心の奥から思えるものなら、きっと……違う姿になってしまったとしても、何度でもやり直すことが出来るんだ」

 苗木は改めて十神を見つめ、微笑みながら、言った。

「考えは変わるし、変えることが出来る。どっちが先に歩み寄ったかなんて関係ない」

 どちらが先に歩み寄ったかなんて、関係ない。
 脳内でリフレインするその言葉に、十神はコロシアイ学園生活の中で、何度も自分と共に時間を過ごそうとした苗木のことを、思い出す。
 苗木は十神に歩み寄ろうとしていた。十神を理解しようとするために、様々な話をした。
 あの時、既に苗木は十神との距離を確かめようとしていた。改めて考えれば、それは、十神にどれだけ近付けるか、という方向の考えだった。
 記憶を無くしてもなお、苗木は、十神に近付こうとしていた。

 今、少しずつ積み重なった価値観の相違、意志のすれ違い、それらのせいで離れてしまった二人の距離。
 今更……取り戻すことが出来るのか。

「うん、でもどんな場合でも、喧嘩しちゃったら仲直りするのってすごく大変だよね。時間が経てば経つほど気まずくなるし……」

 ……喧嘩、なんて可愛らしい言葉で済ませられるようなものではないのだが。

「だから、ひとつだけヒントをあげる」

 十神の心情を察したかのように、苗木が妙に明るい口調でそう言った。
 ヒントとは、何に対するものなのか。十神が聞こうとした瞬間、足元に何かが転がるような音が聞こえて、自分の靴の方へと視線を向ける。

「……缶ジュース?」

 十神の靴のつま先に触れるよう、青色のパッケージをした缶ジュースが転がっていた。
 不思議に思いながらも、十神は誘われるように、その青い缶に手を触れた。
 指先を伝わる温度は冷たかった。露点に達した空気が水滴へと変わり、缶を持ち上げた瞬間、ぽたりと雫が落ちる。

「なえ……」

 一筋の大きな風が吹き込んで、カーテンが踊るように揺れた。金色の日差しが世界全てを照らし出す。
 缶を拾い、顔を上げた十神の目の前には、もう誰もいなかった。
 十神は四角く切り取られた、焼き付くような青空の色を呆然と見つめた。
 そして蝉の声だけが、いつまでも鼓膜の奥で響き続ける。

 夏の教室。ひとり立ち尽くす十神の掌の中で、缶の冷たさが溜め込まれた熱を吸い取っていく。
 十神は気が付いた。


 あの苗木はきっと、自分の中の忘れられた記憶の中に住んでいるはずの苗木だ。





 7


 相変わらず施設の中の空調はどこもかしこも不調のままで、修繕される見込みはない。
 温度や湿度に悩まされることの少なかった人生だ。体調不良も相成って目眩にも似た錯覚を覚える。
 だるいような、部屋に戻って横になりたいような倦怠感を抱えながら、十神はB棟の一角に設置されている自動販売機のスイッチを押した。
 売り切れを示す赤いマークが半分以上も灯されているその中で、幸いにも十神は目的の物を手に入れることが出来た。きっと補充されることは希なのだろう。まあ、どうでもいいことだ。とにかく、ガランという音を立てて転がった、質量のあるその缶を取り出して、再び歩き出す。
 どこにいても暑さが付きまとう施設の中、十神の掌に収まる缶だけが、面白いくらいの冷気を放っていた。
 A棟へと繋がるエレベーターの近くで、朝日奈と霧切の二人と遭遇した。昨日もそうだが、最近こいつらは共に行動をすることが多いようだった。最も、朝日奈が霧切に一方的に付いていっているだけなのかもしれないが。少なくとも、女の友人としてはまだ、霧切の方が腐川よりは安心出来るだろう。詳しいことは、分からないが。
「あ……十神」
 朝日奈は、なんというか、「あからさま」な表情で十神を見た。十神が苗木の首を絞めていたのを見た昨日の今日で、警戒心が強くなるのも当然だろうと、大した感情もなく事実としてそう思う。
「苗木を見なかったか」
 そんな朝日奈と連れ立っている霧切の方に、十神はなんでもないような口調で声をかける。
 霧切は、十神の掌に握られている、青色のスポーツドリンクの缶を一瞥した。
 そして、十神同様、なんでもないような口調で、言った。
「苗木くんなら30分くらい前に、これからカウンセリングだって言ってA棟に向かったわよ。そろそろ終わるんじゃないかしら」
「ちょ、霧切ちゃん……」
 教えちゃっていいの? と、苗木の身を案じているのか、朝日奈が霧切にそっと耳打つのだが、丸聞こえだ。
 しかし、十神はそんな朝日奈に構う様子もなく、一言「分かった」とだけ霧切に返し、二人の横をすり抜けて、例の老朽化が激しいエレベーターに乗り込んだ。
 ドアが閉まるまでの一瞬、霧切と目が合った。
 相変わらず、何を考えているのか分からない表情がそこにはあったのだが、不思議と穏やかな雰囲気だ、と思った。
 そのままドアは閉まり、霧切の姿は見えなくなった。
 今にも落ちそうなエレベーターが、それでもやはり落ちることもなく、A棟へ向かう十神を運ぶ。
 エレベーターから降りると、長い廊下の向こうに、人影が見えた。
 いつもカウンセリングを行っている部屋の前の廊下には、簡素な長椅子がひとつ置かれていた。尻をまるで包み込む気がない硬いクッションに、一度だけ座ったことがあった。
 そんな椅子の上に、苗木誠は座っていた。
 十神は黙って、苗木の元へと歩み寄った。
 しかし、隠れるわけでも息を潜めるわけでもなかったので、苗木の方も、すぐに十神の存在には気が付いた。
 苗木の肩が、あからさまにビクリと揺れる。表情には、サッと警戒の色が滲んだ。
 それを見て、十神は、
(まあ、そうだろうな)
 と、特に悲観もなく思う。
 そして、
(手負いの獣だな)
 なんてことを考えた。

 苗木は未だ長椅子に座っているままなのに、十神が歩み寄ることによって、その距離は当たり前に縮まっていった。
 近付けば縮まる。
 それは、どちらが歩み寄ろうが関係なく。同じように。目に見える単純な事実として。
 それを見て、十神は何かに、気付く。
 昨日見た夢……夏休みの学校で、苗木と二人で向き合っている、あの夢。
 夢の中で苗木が、十神に言いたかった、何かに、気付く。

(ああ)

 そういうことかと、ひとり納得した。
 そして、十神はついに、長椅子に腰掛ける苗木の前まで辿りついた。
 苗木は完全に身体を強ばらせていた。昨日の今日なので、仕方がないことだろう。
 そんな苗木は、十神の言葉を待っている。十神の出方を伺っているのだろう。苗木のくせに生意気だな、と思いながらも、十神は、まるで普通の友達のような口調で、言った。

「喉」
「え……?」
「乾いてないか」

 強張っていた苗木の表情が、その瞬間。
 不意をつかれたように、弛緩した。
 そして、この暑さのせいで、苗木のこめかみに浮いた汗が一筋、流れた。


 夢の中の苗木が、ヒントだと言って差し出した、その記憶が。
 ゆっくりと、切り取られたピースのように、蘇る。







 あの夏の教室。始まって間もない、夏休み。
 理由は忘れてしまった……というか、思い出せないのだが、苗木と些細なことで喧嘩をした。いつもは基本的に他人に合わせる姿勢を取る苗木が、珍しく怒りを長引かせていた。
 放っておけばいいはずなのに、それが出来なかった。
 帰郷して、しばらく会えなくなる前に、こじれた関係を修正させたいと他でもない十神自身が思った。
 ……そうだ。暑くて、全身から汗が滲んでいて、とても喉が渇いていた。
 十神はその日、誰もいない教室に苗木を呼び出し、そして。

「……やる」

 安っぽい、冷たい青色の缶を、苗木に向かって差し出した。
 その日も苗木は、鳩が豆鉄砲でも喰らったような、間抜けな表情で十神を見ていた。
 そして、
「くれるの?」
 と、少し笑いながら見上げてくる。
 喧嘩をしていたせいで、笑顔を見るのは久しぶりだ、なんてことを柄にもなく思った。
「何を笑っているんだ……やらなきゃよかったかもな」
「あはは、もう返さないよ」
 苗木は、十神にとっては価値のないような、安物の缶ジュースで、すぐに機嫌を直してしまった。
 今まで十神が気まぐれに与えようとした高価な品は素直に受け取ったこともなかったから、仲を修正するためのきっかけに使える物というものを、十神は実は真剣に考えた。
 そうしている内にも帰郷の日は近付き、だから、この青いスポーツ飲料を渡したのは、殆ど苦し紛れだった。
 いつか、こんな暑い日に、苗木が飲んでいた同じスポーツドリンクを分けられたことがあった。
 安物のそれだというのに、喉の渇きが潤う感覚を、心地よく思った。
 その時と同じものを、苗木に与えた。苗木はもう、喧嘩中と同じような不機嫌な表情ではなかった。
 たった百数円の飲み物で、どうしてここまで全てが修復されるのか、純粋に不思議だった。そんなことを、つい心のままに口にすれば、苗木は確か、こう言った。

「喉が渇いてる時のポカリと、そうじゃない時のポカリって、それ自体は同じものなのに、飲む側にとっては全然価値が違ってくるじゃない。それと同じで、自分で何気なく買ったポカリと、十神クンが僕と仲直りするために買ってくれたポカリも、全然別物なんだよ」

 物自体は変わらない。
 変化しているのは、それを取り巻く周囲であり、個人であり、お互いの気持ちなのだと。
 苗木は、そう言ったのだ。
 人や、環境自体は変わらなくても……共にいることによって、自分にとっての、相手の価値は変わっていく。

 必要なんだと、失いたくないのだと。
 例えそれが、歩んできた道のりそのものを見失い、地図さえもないスタート地点から始まる、気の遠くなるような遠回りの旅なのだとしても。
 やり直してもいいと思える程の、価値が、そこにはあった。







 十神は、掌の中で未だ冷たさを失わない缶を、苗木に差し出す。
 苗木は、戸惑うような視線のまま、自分の意思とは別の場所で、何かに動かされているような動作で、手を伸ばした。
 その手はやがて、緩慢な動きを持って、十神の差し出した缶へと触れた。
 その時、お互いの指先が触れ、驚くぐらいの熱が伝播した。
 十神は、この熱に身に覚えがあった。昨日、苗木の首を絞め、そのまま倒れてしまった、あの瞬間。
 自分の掌に、暖かいものが触れた。それは苗木の掌の体温だった。今触れた苗木の指先は、あの時の温度と、同じ暖かさでそこにあった。

 苗木は、自分に首を絞められたあの時。
 十神が倒れた瞬間、怒りも恐怖も何もかも忘れて、十神の手に触れ、握り、名前を呼んだ。

 苗木は確かに線を引いた。
 それでも、きっと、苗木自身にも、その線を踏み越えるだけの直感的な意思が……生きている。

 苗木の驚いたような顔が、十神の視界に映る。
 ぽたりと、露点に達した空気が、夢の中と同じ姿で水滴に変わり、足元へと落ちる。
 ぱたり、ぱたりと絶え間なく落ち続ける。

 それは、十神の目からこぼれ落ちる涙だった。

 苗木は黙って、十神の涙を見つめていた。
 その目には、恐れも怒りも諦念も浮かんでいなかった。
 目の前の苗木と、夢の中の苗木の姿が、ブレ合うことなく、ぴったりと重なり合う。もう、頭痛は起きなかった。

 お互いの距離を確かめながら。
 覚束無い足取りで、ゆっくりと、少しずつ。
 そうやって、心地よい距離を見つけていけばいい。
 それでいいんだ。指先が触れ合い、熱の存在が確かめられる。
 十神と苗木の距離は今、ゼロに戻った。学園で積み重ねた思い出を失い、そして亀裂さえ含む新しい距離も失い、何もかもが始まりへと、戻った。
 ここからまた始めればいい。そうして辿りついた未来が、かつての二人の姿とは形が違うものになってしまったとしても。
 それでも、きっと大丈夫だと思えた。
 二人を隔てていた距離は、もうどこにもなかった。





Hedgehog's dilemma END
 

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