浮上する意識の中、浅く短い夢を見た。
 蝉の声が聞こえる。どこまでも続く長い廊下が、窓から差し込む夏の日差しを受けて、ぼんやりと白く光っていた。
 そう、夏だ。
(暑い……)
 十神は、額に浮いた汗を拭いながら、ぼんやりとした視界の中で、その景色をじっと眺めていた。
 ここは、校舎?
 どうして自分はこんなところにいるんだろう。周りに人の気配はない。
 ……ああ、夏休みか。


 そして、聞き慣れない声に名前を呼ばれ、目を覚ます。







「お疲れ様です、十神さん」

 目を開くと、薄らとした視界の中に白い天井が映りこんでくる。
 簡素なベッドの上に寝転がったまま、視線を右へずらしてやれば、プログラム開始前にいたのと同じ人物の姿があった。とりたてて特徴のない風貌の、白衣を着たこの中年男性は未来機関の人間であり、今回のアルターエゴプログラムの責任者だった。
「何か、おかしなところはありますか」
 敵意というものとは無縁であるような声で問われ、十神はふと、プログラムの途中から気になっていた頭痛が、目覚めた今も続いていることに気が付いて、一言、
「少し頭痛が」
 と、答えた。
 その後もアルターエゴプログラムが及ぼす記憶への影響を測るためであろういくつかの質問に返答しながらも、十神は頭の片隅に残る痛みをやり過ごすのに気を取られ、医師の話はあまり真剣に聞くことが出来なかった。
それでも、何を言われたのか、何を聞かれたのか、というような情報自体はしっかりと把握していたので問題はない。
 質問を受けている最中、額に浮いた汗の存在に気が付いた。
 夢の中で見た校舎の映像と、肌で感じる現実の温度がリンクするようで不思議な気持ちだった。
 十神は、夢と同じような動作で、自分の額の汗を拭った。
 それを見た医師は、さして申し訳なさそうな顔も見せずに、
「すいません、空調壊れてて」
 と言った。
 その言葉に、十神は(大丈夫なのか)と純粋な疑問を覚えた。
 繊細な機械が多いはずなのに、エアコンが不調なのはどうだろう。あまりよろしくないような気がする。
 何より、自分自身が不快だった。
(暑い……)
 建物の中に熱が篭っている。実際、空調が壊れているらしいこの部屋以外のどこへ行っても温度は然程変わらなかった。
 まあ、こんな風に室内で保護されている期間が長くなってしまっていては忘れがちになるかもしれないが、未だ外で継続的に起きている被害のことを考えれば、食事や寝床を貰える現状だって贅沢すぎるものなのかもしれないので、文句は言わない。
 ちなみに、危険だという理由で窓も開閉出来ない状態で放置されている。相変わらずの閉塞感は、あの学園を脱出した今もなお続いている。仕方がないと言えば仕方ないのだが。


 ついでに数十分のカウンセリングを受け、医師がカルテに何やら沢山の情報を書き込み終わったのと同時に、「改めて、お疲れ様でした」と言われ、本日のアルターエゴプログラムの過程が終了した。
 額に浮いた汗を拭いながら、十神は白いベッドから立ち上がった。
「明日、同じ時間にまたここへいらしてください」という言葉を貰ってから、会釈もそこそこに部屋を出た。



 窓を閉め切られ、蛍光灯の光が反射する蒸し暑い廊下の反対側から、見知った人物がこちらに歩いてくるのを見つけた。
 十神は反射的に彼女の名前を呼ぶ。
「霧切」
 霧切響子はいつも通りの、あまり感情が読めない目で十神を見て、口を開いた。
「あなたも、アルターエゴプログラムを受けていたの?」
 その言葉が意味するものは、きっと霧切がこれから十神と入れ替わりで、この先の部屋でプログラムを受けるということだろう。
「何か、おかしなことはされなかったかしら」
「おかしなこと、とはどういう意味だ」
 何を言いたいのかいまいち分からない霧切の問いに、十神は治らない頭痛も手伝い、無愛想な声で質問を返す。そんな十神の態度にも、霧切は全く萎縮するような様子は見せず、答える。
「そのままの意味よ。機関は記憶を取り戻すためのプログラムだという名目でこの実験を始めたけれど、何か別の他の企みがないとも限らないでしょう」
「………」
 そういうことは、俺が実験を受ける前に言え!
と、十神はよっぽど言ってやりたかった。
 霧切は相変わらず機関を本心からは信頼していない。それは十神も同じなのだが、だからと言ってこの場所を出て行くわけにもいかないし、例え今回のプログラムや、今まで何度も受けてきた記憶回復のためのカウンセリングが、完全な好意……というのもおかしな表現だが、とにかく裏など全くないものだとしても、こんな状況だ。疑っておくに越したことはないだろう。
「どんな感じのプログラムだったのかしら。少し話を聞かせてくれないかしら」
 だからきっと、霧切がこの場所で十神に質問を投げかけてくるのも、情報収集のためなのだろうと思いながら、十神はその問いに素直に答える。
 少なくとも、目の前にいるこの無愛想な女の方が、未来機関の人間達よりもいくらか信用が出来るのだ。
「俺は、バーチャル空間で希望ヶ峰時代の苗木のアルターと会話をした。本当にただそれだけだ」
「苗木くんと?」
 霧切は少しだけ驚いたような顔を見せた。
 その反応に、十神は無意識の内にギクリとした。
 霧切が十神の言葉をするりと受け流さなかったことに、先程のバーチャル空間で希望ヶ峰学園時代のアルター苗木との会話した内容や、その時に抱いた感情の全てを……見透かされたかのような勘違いが、一瞬脳裏を掠めたのが原因だった。
 しかし、そんなわけがあるはずないと、すぐにブレかけた目線を、元に戻す。
「何かおかしいか」
 と、眉間に皺を寄せ、聞く。
「いいえ」
 と、霧切は十神の動揺に気付かないような様子で答えたので、とりあえず安堵する。
「あなたは苗木くんとだったのね」
 しかし、霧切は相変わらず、十神の相手が苗木アルターであったことを気にするような言葉を続ける。
「何か、おかしいか」
 今度は、俺の相手が苗木だったら、何かが変なのか、という意味を込めて問う。
 そして霧切は顔を上げ、答えた。
「別に。そういう意味じゃないの。むしろ納得しているくらい。そしてもしも、あなた以外の誰が苗木くんのアルターエゴに相手をしてもらったとしても、同じように納得した……と思うわ」
「………」
 確かに、その発言は一理あるような気がした。
 朝日奈だろうと葉隠だろうと、目の前にいる霧切だろうと……まあ、腐川であろうと。
 十神自身、他の人間に話を聞いて、「苗木のアルターエゴと会った」と言われても、特に疑問は抱かないだろう。
 苗木はコロシアイ学園生活の自由時間の中で、こまねずみのようにちょろちょろと、例え本人は無意識であろうと、生徒達との関係を良好にしようと、動いていた。
 その交流の中でも、決して波風を立てるようなことはせず、相手を受け入れ、理解しようという態度を一貫する。自分はこう思う、ということを口にしたとしても、相手の生き方自体を否定しようとは思わない。相手は相手、自分は自分。そういう風に、見えづらいけれど確かな芯を持っている。
 それが苗木誠だった。
 その結果、生徒達の殆どは苗木に対して少なからず好意を持っていたと思う。
 だからこそ、それ自体が苗木独特の線引きなのだということには、きっと奴を突き放した十神くらいしか気付いていない。
 線を、引かれていた。
 そんな事実に、アルターエゴプログラムで気付かされることになるなんて。

 ふと、またしても十神の脳内で、希望ヶ峰学園時代の苗木アルターと、コロシアイ学園生活で行動を共にした苗木の姿が、ぶれるように重なり合う。
 頭痛が、ひどくなる。
「十神くん?」
 ふいに表情の歪んだ十神に、霧切が怪訝そうな声をかける。
 十神は、自分の心の内が少しでも露呈することを恐れ、話を変えた。
「霧切、お前の相手は誰だ。事前に本人にだけは教えられているだろう」
 このプログラムが始まる前、他の生徒には自分の相手をするアルターエゴが誰なのか、教えないで欲しいと機関に言われていた。
 何が理由かは分からないが、どうにもきな臭いものを感じたのは事実だ。だから十神は、こうして今、そんな約束を平気で破り、霧切に自分の相手が苗木であったことを話した。
 霧切も考えることは同じようだった。しかし……彼女はどこか言いにくそうな表情で、口を開いた。
「……舞園さんよ」
「舞園?」
 その発言に、十神は少なからず驚いた。
 舞園さやか。超高校級のアイドル。コロシアイ学園生活の中で、最初の被害者となったクラスメイト。
「そう、舞園さん。だから、あなたが苗木くんのアルターエゴと会ったっていう事実に少し驚いたの。……彼女とは、あまり話をすることも出来ずに別れることになったから、理由が分からなくて」
 確かに霧切ならば、十神や他の生徒同様、コロシアイ学園生活の中でも接点の多かった苗木辺りと会話をした方が思い出すことも多いかもしれない。
 ……いや、そもそも問題はそこではない。
 十神が苗木アルターと会ったと言った時、霧切は驚いた。
 現実の苗木は、あの学園から脱出し、生きている。
 舞園は……確かに死んだ。つまり、機関は死んだ生徒のアルターエゴも制作したということになる。その事実に、少しだけ驚いたのだろう。
 機関は最も効率よく記憶を取り戻すための相手として、それぞれ会話をするアルターエゴを選んだという。死んだ舞園をトリガーにしてまで、霧切が思い出すべき記憶とは何だろう。

(……思い出すべき、記憶)

 アルター苗木の表情が蘇る。
 十神に萎縮せず、遠慮もない、真っ直ぐで、正直なあの目を。
 十神は、いよいよ頭痛をやり過ごすことが難しくなり、霧切に向かって口を開く。
「……俺は部屋に戻って休む。頭痛がする」
「そう。お大事にね」
 そう言って、霧切は十神の横をすり抜けて、今しがた十神が出てきたばかりの部屋の中へ交代で入っていった。
 あいつもあの、愛想のない鉄パイプがひとつ置かれただけの暗い部屋で、舞園さやかと話をするのだろう。
(舞園……)
 機関の狙いはなんだろう。なぜ霧切は、死んだはずの舞園さやかのアルターエゴを割り当てられたのだろうか。
 考えても答えは出なかったし、相変わらず継続する頭痛が思考を邪魔して仕方ないので、とりあえず、霧切にも言った通り、十神は部屋に戻って休むことにした。





 

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