初めてアルターエゴプログラムを受けた日から数日、十神は毎日のようにバーチャル空間で苗木誠のアルターエゴと時間を共にしていた。
 それは十神だけではなく、他の78期生メンバーも同じスケジュールで、かわるがわる交代しながら、この部屋で各々の手配されたアルターエゴと交流を進めているらしい。
 アルターエゴプログラムを行える場所はこの部屋でひとりずつ、というのが決まっているので、最近では他の面子と顔を合わせる機会が減りつつあった。
 毎日繰り返される実験の中で、十神は、自分を理解してくれる苗木誠のアルターエゴと、それなりに打ち解けつつあった。
 かと言って、失われた記憶を思い出しつつあるのかと問われれば、
(……微妙だ)
 と、答える他なかった。
 それは機関の人間も把握していることらしく、「記憶の回復には個人差がありますので、どうぞ気楽に」とあからさまなフォローを入れられたのだ。
 どうやら十神以外のメンバーは、このプログラムによってそれなりに記憶を回復しつつある者もいるらしい。それを聞いて十神は、自分の現状について考えた。
 時々、頭の片隅で何かが瞬きそうになるイメージはあるのだが、しかし。
それよりもずっと、目の前のアルター苗木の存在が、自分の中で「苗木誠」とはこういうものなのだという形として作り上げられていく感覚の方が強かった。
 そしてその現状に、違和感を覚えなくなっている自分がいるのも、確かだ。
 今、自分が「苗木」という名前で無意識の内に思い浮かべる人物は、希望ヶ峰学園の茶色いブレザーを着た苗木誠になりつつある。
 それでもまだ、次の瞬間には自ら(違う)と否定して、あの学園から共に脱出した、緑色のパーカーを着込んだ苗木誠に、自分の中の「苗木」という存在の互換作業を行うことは出来た。
 しかし、そんな作業に果たして意味はあるのかどうか……。

(こいつは、苗木誠なんだろう)

 それならば、そのまま単純に、目の前のアルターエゴを苗木誠として捉えることに、何か問題はあるのだろうか。
 ……無い、気がする。
 改めて、苗木の目をじっと凝視する。


「それでさあ、十神クンが……」
「僕、困っちゃってさ」
「十神クン、全然話聞いてくれなかったし」
「朝日奈さんや大和田クンと、すぐ喧嘩するし」


 ……十神の覚えていない、学園生活での話をしているんだろうが、妙に文句が多い気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
 それでも、
「まあ、なんだかんだで優しいところもあるんだもんね」
 なんて、十神本人に向かって、当たり前のことのように言ったりするから。
 十神のどんな言葉も、それが十神なのだから、と受け入れ、自分自身も決して傷つくことも臆することもなく、ブレずに前を見ているその瞳の色が、奇妙に心地よかった。
 希望ヶ峰学園の制服を身に纏った苗木。
そして、コロシアイ学園生活に挑んだ時と変わらぬ黒い制服を纏う、十神。
二人の間に、心の距離などないような気がした。

(……あ)

 その時、記憶が蘇る。
 それは忘れていた過去二年間の記憶ではなく、あのコロシアイ学園生活の中で、苗木と共に過ごした自由時間のことだった。

「自分が満足する生き方さえ出来れば、僕は幸せだよ」

 ゆっくりと、苗木の声が、あの日の温度のまま、蘇る。

「だって、他人と比べてもキリがないし……それこそ、生まれながらにして成功を約束された十神クンなんかと比べても……」

 その言葉が思い出された瞬間、十神は脳の中心に、焼けるような怒りが湧き上がる感覚を覚えた。
 それは苗木に、夢さえ抱けないまま、あくせく働いて小銭を稼ぎ、その小銭で生きながらえるだけの人生に意味などあるのか、という問を投げかけた時、苗木が発した言葉だった。
 十神の人生を知るはずもない苗木が、十神が敷かれたレールの上を進むだけで成功へと辿り着けるような人間なのだと思い込み口にしたその言葉に、十神は確かに、怒りを覚えた。

(もしかすると、俺は)

 十神は見つめる。
 自分を受け入れ、受け止め、微笑むことの出来る、希望ヶ峰学園時代の、アルターエゴの姿を。

 こいつに理解されたかったのだろうか。

 平凡で、生きてきた世界が違って、お互いの距離が近づくこともなくそれぞれの道を歩んでいくはずの、苗木誠に。
 それはきっと……心のもっと奥の、自分の意識が届かないくらい、向こう側で。
 それこそ、無くしてしまった二人の関係が溶けて漂う記憶の海の中から聞こえてくる、声のように。
 蹲り、自分の意思が通用しないことに癇癪を起こす小さな子供のように。

 こいつに理解されることを、望んでいたのだろうか。

 だからあの時、何を知っているわけでもない苗木が、「生まれながらに成功を約束された存在」だと十神を評した瞬間。
 裏切られたような、そんな怒りがふいに湧き上がり、思わず声を荒げたのだろうか。
 お前は本当に何もわかってないな、といつものように嘲笑混じりで突き放すことも出来たはずだ。
 なのに、そうはしなかった。
 ほんの一瞬のことだったが、小さく怒りに震えながら、「お前はわかっていない、全く分かっていない」と、苗木のあの目を睨みつけた。

 十神はようやく、ずっと引っかかっていた違和感の正体に気が付いた。

 苗木との距離。
 感情が、熱が、伴わないはずの二人の時間が。
 あの自由時間の中で、既にブレ始めていた瞬間。
 
 それがきっと、あの瞬間だったのだ。
 十神が、苗木の無理解に怒りを露にした、あの時。
 きっと無意識に、理解されたいと望んでいた。

(なんだ)

 そうだったのか。
 理解されたいと望み、目の前の苗木に、理解して貰えているという現状に、一切の不愉快を感じない時点で、そういうことだったのだと、穏やかに受け入れることが出来る。

「十神クン、僕の話聞いてる?」
 ふいに、もう随分と聞きなれたその声が、十神の思考を中断させる。
 もちろん、声の主はアルター苗木だ。
 十神は今もこうして、バーチャル空間でアルターエゴプログラムを受けている最中だった。
 会話の最中で自分の考えに耽ってしまった十神を、不服そうな顔で苗木が呼んだ。
 初めは違和感しか覚えなかった、その遠慮のない態度や、コロシアイ学園生活の中での苗木のそれに少なからず滲んでいた、十神に萎縮するような音のまるで無い声も、随分と自然に受け取ることが出来るようになっていた。
 思考を妨げられたことを然程気にする様子もなく、それでも十神は言葉に悪戯な嫌味を織り交ぜながら、口を開く。
「俺はお前のような愚民と違って、考えなくてはいけないことが山ほどあるんだ」
 十神がそう言うと、苗木は「ひっどいなあ、もう」と憤慨する。しかし、その怒り自体に明確な「質量」のようなものは存在しなく……まあつまり、不服を表現するためのポーズみたいなものだった。
「僕は十神クンみたいに難しいこと考えずに、健やかに成長するんだからいいもんね」
 そうやって、苗木が妙な軽口を言い返してくるのにも、慣れた。
 だから十神もその軽口に乗ってやるのが、最近の二人の傾向だった。
「健やか……お前とは無縁の単語に聞こえるが」
「えっ、何でさ」
「健やかに成長している人間が、高校生にもなってその身長なのはおかしいだろう」
「なっ!? 身長の話はやめてよ! ていうか、まあ仮に今が低いとしても、これから伸びるに決まってるんだから!」
「お前はもう成長が止まっているだろう……現時点で何歳だと思ってるんだ」
「あああっ! そっちの発言の方が傷つく! やめて!」
「事実だろうが」
「まだ伸びるよ! 多分!」
「無理だな。この妙なくせ毛で少しでも「全長」を嵩増しするくらいしかお前に残された道は……」
 そう言って、十神は苗木の特徴的なくせ毛を掴んでやろうと、手を伸ばした。
 その手は苗木に触れることなく、宙を切る。
「………」
 行き先を失ったその手を、元の位置に戻すことも出来ず、途方に暮れる。
 十神はただ、苗木の目を見つめた。その時、自分の目が、小さく動揺で揺らいだことを、自覚した。

 アルターエゴは実在しない。
 こうして目の前で確かに話しているのだとしても、触れられる実体など、どこにもないのだ。
 思わず言葉を忘れてしまった十神の顔を見て、アルターエゴは、
「……そんな、まるで傷ついたみたいな顔しないでよ、十神クン」
 と、笑った。

 その瞬間、十神は確かに、自分の手が、アルターエゴに触れられなかったことに、驚いた。
 今まで確かに出来ていたはずの互換作業……アルター苗木は現実に存在する苗木誠ではなく、架空のバーチャル世界の中だけで生きるプログラムなのだという事実とのすり替えが、出来なかった。
 足元がおぼつかないような、そんな錯覚を、ふいに覚える。
(何だ?)
 頭の片隅がぢくりと音を立て、吐き気を伴うような頭痛が訪れる。
 ここ最近、十神の悩みの種となっているのが、この不定期に襲ってくる頭痛だった。
 長く持続こそしないその頭痛は、何か規則性を持って訪れているような気がしたが、確かなことはよく分からない。機関に支給された薬を飲めば回復する場合が多かったので、あまり気にしようとは思わなかったが、ただ純粋に不気味だった。
「十神クン」
 それでも、苗木が自分の名前を呼び、ふざけたように笑っている顔を見ていると、不思議と痛みを遠ざけることが出来た。
 アルターエゴである苗木の存在が、十神の中で明確になればなる程、十神は頭痛を忘れることが出来る。
 つまり、頭痛が起こる法則としては、その逆を考えればいいのだが。
 逆とは、つまりはどういうことなのだろうか。
 明確な答えは、未だ出ない。
(……別に、いいか)
 苗木と話していると、そういう細かいことはどうでもいいような気がした。
 そうして、なんだ、本当はずっとこうして、受け入れて貰える存在を求めていたのかと、柄にもなく自覚する。
 十神家の後継として……そういう道を選んで、勝ち残って、蹴落として、決めたのは確かに自分自身ではあるのだが、いつもどこか気を張りながら生きてきた自分が、初めて、気兼ねなく接することが出来る存在が、目の前にいる苗木だった。
 軽口を言い合い、利害の全く関与しない場所で、隣り合える。

(……友人、か)

 心のどこかで、苗木に対する感情の、関係の、熱の、答えが出た気がした。
 悪くはない。
 と。
 そうやって、ひとり微笑んだ。





 

inserted by FC2 system