朽ち果てた建物や電柱、ポストや自動販売機の残骸が、界面から顔を出している。
 絶望が滅ぼしかけた世界の現状が、ただ静かにそこにはあった。
 ……いつの間に、施設から外へ出たんだろうか。
 不思議に思いながら周りを見ていると、何かがおかしいことに気づく。
(海が、赤い?)
 海だけではなく、空まで赤い。真っ赤だ。ああ、夕焼けのせいなのか。と、納得する。
 そしてふと、自分以外の誰かが近くで会話をしていることに気が付いて、そちらの方へと視線を向ける。


「友達はもういらない」

「友達を失う苦しみはもうたくさんだ」

「友達なんて最初からいない方がマシだよ」

「こんなことなら最初から誰とも出会わなければよかった」

「前みたいにひとりのままでよかったんだ」



「僕のこと好きでもないし、友達だとも思ってないんだろ?」



 そこで、視界は砂嵐に遮られ、真っ暗になる。
 目が、覚める。



「……!」

 次に視界に入ってきたのは、少しだけ見慣れた白い天井だった。
 その天井を見て、ここがB棟の自室であることを知る。
(……なんだ?)
 それは、夢に対する感想だった。
 壊れ果てた世界の中で、二人組の誰かが会話をしていて、その声だけがやけに鼓膜へと響いてきたのだが、目が覚めた今はあまり詳しく思い出すことが出来ない。まあ、夢の中の出来事なんてどうでもいいし、非生産的極まりない思考であることは確かなので、深くは追求しないことにした。
 そんなことよりも、十神はどのような経緯で自分が今、部屋のベッドに横になり、眠りから覚めたのかということを思い出さなくてはいけなかった。

 自分は確か、いつものようにアルターえごプログラムを受け、この部屋へ戻ってくるために老朽化したエレベーターを降り、その途中で……。

「………」

 記憶の道を辿った先で、十神は出来れば思い出したくもなかった事実を、思い出す。
 苗木と出くわし、苗木の首を絞め、そのまま悪化する頭痛の影響で倒れてしまったという出来事を。

(嘘だろう……)

 十神は再び目眩にも似た感覚に襲われる。
コロシアイ学園生活の中のように、あの日常をゲームだと割り切り、あくまで可能性としての話だが、計画的に誰かを殺めようとしたわけでもなく。
十神はただ、殺し合いを必要としない現状の中で、何の計算も目的もないまま、すれ違う苗木を引き止め、激情のまま彼の首を、絞めた。
 何のためなんて、十神が一番聞きたいことだった。
 奇妙な喪失感に襲われ、今一度、硬いマットレスのベッドの上へと体を倒した。
(……誰か、あれも夢だと言ってくれ)
 と、柄にもなく切に願うのだが、時間の流れと比例するように記憶は鮮明な色を持って展開し、ついに十神の手のひらには先程掴んだはずの苗木の首の体温が、じわりと蘇るように思い出されたのだった。
(あんな醜態……)
 現実の残酷さに、十神は静かに負けそうになっていた。時間を戻して過去を変えたいとさえ思う。そんなこと、今まで考えたこともなかった。
 それ程までに、十神は先程自分が苗木にした行為が許せなかった。
 それは苗木を傷付けた云々という相手を思いやるような気持ちではなく……ただ純粋に、自分の恥を消し去りたいという人間らしい願望からの思いだった。
 十神は、未だ微妙に残る頭痛を押さえつけるように、ベッドの上で仰向けのまま横たわっていた。
 そうしている内にも、いろいろなことを芋づる式に思い出して……むしろ、全てがどうでもよくなってきた。
 世界が絶望に侵食されたこと、十神家が滅んだこと、未来機関という組織に対する警戒、苗木との、関係……そういうことに対して、いっそ本当に無気力になる。
 もしも自分にとって不都合な何かあったとしても、最悪死ぬだけだ。そう考えれば少しは気が晴れる。それ以下の出来事なんてもう何もないのだ。
 生まれてこの方、辿りついたことのないような思考に侵されて、十神は自分の精神がいかに追い詰められているのかを、苦虫を噛み潰すような気持ちで理解した。
(苗木ごときに、何故)
 そもそも、どうして自分はあの時苗木の首を絞める、なんて行為に走ってしまったのだろうか。
 目の前の苗木と、アルターエゴとして接触した苗木の存在が重なり、そしてブレ合い、吐き気を催すような頭痛に侵食され、気がつけば、苗木の細い首に指をかけていた。
 あの時、自分は確かにおかしかった。
 何故だろう。

 その時、十神の思考を中断するかのような騒音がひとつ、唐突に部屋の入口の方から、響いた。
 ばぁん!! という破壊音と共に、冷静をそのまま音にしたような女の声が、伝わる。

「失礼するわよ」

 それは、霧切響子の声だった。
 十神は、突然の来訪者の存在に、思わずベッドから飛び起きてしばし呆然としていたのだが、やがてハッと意識を取り戻し、叫ぶ。
叫ばずにはいられなかった。

「霧切!! 貴様、扉が壊れただろうが!!」

 あの破壊音は、霧切響子が十神の部屋の扉を蹴り開けた時に響いた音だったのだろう。十神の視線の先、外側からは引く形で開けるタイプの扉が、こちらから見て内側へ入ってきている。無理やり逆方向に力を加えられたドアの金具の部分は、ベッドから見ても明らかに損傷していた。
 希望ヶ峰学園の寄宿舎のように、生徒達が与えられた部屋はひとつの廊下に隣り合いながら並んでいる造りになっていたので、部屋自体の構造も大体は同じだった。つまり、霧切が外から引けば扉は開くのだという簡単なことを知らないはずもなかったので、意図的に十神の部屋の扉を壊して堂々と侵入してきたということになる。
 憤慨する十神に、霧切はぴしゃりと一言。
「そんなことは今どうでもいいじゃない」
 と言い放ち、我が物顔で部屋へと入り込んできて、十神のいるベッドの正面に位置する机に、すとんと腰掛けた。
 なんの前置きもなく扉を壊されておいてどうでもいいわけがなかったし、何より誰が勝手に入ってきていいと言った。
「おいおいおいおい何勝手に入ってきて勝手に座ってるんだ出て行け貴様」
「話があるのよ」
 霧切はあからさまに迷惑そうな顔で自分を追い払おうとする十神に臆することなく、机の端に腰をかけ、腕組をしながら、必要最低限とも言える言葉を紡ぐ。
「アルターエゴプログラムのことよ」
「……なんだと?」
 その単語には、流石に食いつかずにはいられなかった。
 ふいに神妙な顔で黙り込んだ十神に、霧切は想定の範囲内だというような態度で、口を開く。
「あなたもいろいろ混乱しているでしょうからね。説明してあげようと思って」
「どういう風の吹き回しだ?」
「失礼な言い方ね。人の好意はもっと素直に受け取ってもいいんじゃないかしら」
 霧切の言葉にどうしても薄ら寒いものを感じずにはいられなかったが、アルターエゴプログラムの話と言われれば、黙って聞くことしか出来ない。
 霧切は十神の沈黙から心境を察したのか、勝手に話を始めた。
「十神くん。あなた、アルターエゴプログラムの初日に私とすれ違った時、頭痛がするって言っていたわよね」
「……ああ」
「あの頭痛、ずっと続いていたんじゃない?」
「………」
 十神は、機関の担当者に頭痛のことを聞かれた時と同じ気持ちで、つい黙ってしまった。
霧切は大した言及もすることなく、淡々と話を進めた。
「あの頭痛もそうだけど、あなたは苗木くんに攻撃をしたあの時……アルターエゴプログラムによって、随分と精神に影響を与えられていたのよ。その不安定な精神のまま、自分自身の制御が効かなくなって、暴走してしまった」
 アルターエゴプログラムによって、自身の精神の制御が効かなくなった?
「俺のあの行動が、アルターエゴプログラムのせいだった、というわけか?」
「別に、プログラム自体が被験者を洗脳するためのものだとは言っていないけれど、結果としてそういうことになってしまったわね。単純に……精神が、不安定になるのよ」
「………」
「自分達が見ていた現実との乖離が激しいプログラムと対峙した人間は、特にね」
 苗木本人と鉢合わせした、あの瞬間。
十神の脳裏では二つの存在である苗木の発する声がぐるぐると混ざり合って、一種の錯乱状態に陥った。
何が現実で、何がプログラムなのか。実在する苗木の存在が、その境界線が曖昧になっているという事実を、突きつけるように十神に教えた。苗木本人に、そんな意図はなかったにせよ、そうなってしまった。
「アルターエゴプログラムは被験者の精神にひどく負担が掛かるシステムだったのよ。機関もそれは分かっていた。だからこそ、私とあなた……それから、苗木くんにだけ、より被験者の精神への危険が伴う相手を用意したんでしょうね」
「……どういうことだ?」
 十神は、霧切の言っている言葉の意味が分からなかった。
「つまり、私とあなたと苗木くん以外の生徒……朝日奈さん、葉隠くん、腐川さんね。あの三人には、以前からの関係性から見ても基本的に無害な存在である、アルター苗木くんが割り当てられていたはずよ」
「苗木が? あいつらの相手をしていたアルターエゴも、希望ヶ峰学園時代の苗木だったのか?」
「そう。彼らにとって……ううん、彼ら以外の誰だって、苗木くんのアルターエゴなら、安心して記憶を取り戻すためのプログラムを進めることが出来た。凡庸性があるからね、彼は。もちろん良い意味で」
「ちょっと待て、それならどうして俺ひとりだけ、あんな……あんな行動を起こすような、精神の異常が現れたんだ。俺だって、アルター苗木と共にプログラムを行っていたんだぞ」
 苗木誠のアルターエゴが、安定した存在として誰かの記憶に触れることが出来るプログラムだというならば、同じくアルター苗木と対峙したはずである自分だけが、どうして苗木本人の首を絞めるなどという奇行に走ってしまったのか。
十神の言葉に、霧切はやはり冷静な表情で言葉を返す。
「人の数だけ関係の形はあるのよ。葉隠くんや朝日奈さん、腐川さんにとっての苗木くんと、あなたにとっての苗木くんは違う。変な意味ではなく、単に現実の関係との振れ幅の差ね」
「振れ幅?」
「ギャップよ。あなた驚いたでしょう? アルター苗木くんの自分に対する態度の変化に。そして、そんなプログラム世界の苗木くんに慣れてしまった後、本物の苗木くんに鉢合わせた。二人の振れ幅に耐えられなくて、意識とは別のところで、おかしな行動に出てしまった」
「………」
 十神は、そろそろ霧切の様子がおかしいことに気が付き始めた。
 確かにコロシアイ学園生活の時から、単独行動の度に自分達の知ることのない様々な情報を拾ってきて、訳知り顔で話していたようあところはあったが、今こうして十神と向き合っている霧切は……もっと、捜査や情報収集という手段で得ることの出来る以外の情報を、明確に所持しているような気がした。
 十神は、アルター苗木と初めて会った時のような違和感を、目の前の霧切に対して抱き始めていた。
「お前、なんだか……雰囲気がおかしくないか」
 思わず、そのまま疑問を口にする。しかし、霧切は、
「今は関係ないでしょう」
 と、相手にしない。
 そして、何事もなかったかのように話を進める。
「少し整理しましょう。まず、あなたが知らない情報として、もうひとつ。苗木くんの相手だったアルターエゴは、十神くん。あなたの学園時代を模したプログラムよ」
「俺の……アルターエゴ?」
 十神は少なからず驚いた。自分が苗木のアルターエゴと共にプログラムを進めているのと反対に、苗木は十神の学園時代のアルターエゴと会っていた。
「それを踏まえて、私と苗木くん、そしてあなたにだけ、より被験者の精神への危険が伴う相手を機関が用意した、という話を思い出して欲しいの。それはどうしてだと思う?」
 霧切の問いに、十神は、彼女の相手のアルターエゴが舞園さやかだったという話を思い出す。
 しかし。
「……説明しろ」
 今は、霧切の質問を推理し考える元気は、十神にはなかった。霧切は「まあ、いいわ」と腕を組み直した。
「つまり、言ってしまえばあなたと私と苗木くんは、機関に選ばれたのよ。例え精神に負担がかかるやり方でも、現実との振れ幅が激しい相手と対峙した方が、記憶を取り戻せる可能性が上がる。アルターエゴプログラムというのはそういうシステムだったから。そして機関はあのコロシアイ学園生活と、今までのデータを見て、精神への負担に耐えうる可能性がある生徒として、私達三人を選んだんでしょうね」
「………」
「荒治療されたのよ、私達は。まあ、それで結局、十神くんが壊れてしまったわけだけどね」
 その言い方だと、まるで自分が機関の期待に応えられなかった、期待はずれの存在みたいではないか、と十神は思った。
「まあ、そういうことでしょうね」
「人の心を読むな!!」
 もう、何がなんだか。
 十神は自分の身に次々と降りかかる情報の数に、現実の疲労とも相重なって頭を抱えたくなった。
 そんな十神に、霧切は少しだけ声音を変えて、口を開く。
「……私も、あなたとは別の意味で現実との振り幅に、一時は気が狂いそうになったわ。それ程のものなのよ、あのプログラムは。機関も、今回のあなたの行動でやっとそのことを自覚したみたいで……アルターエゴプログラムは、中止になるそうよ」
「中止だと……?」
 思わず目を見開く。思い出されるのは、アルター苗木の姿だ。プログラムが中止になってしまえば、きっともう、あの苗木に会うこともなくなるだろう。同時に思い出される、現実の世界の、十神が首を絞めたはずの、苗木との距離。
 もう、何もかもが手遅れなのだと、そう言われているような気がした。
 アルターエゴプログラムさえなければ、こんな喪失感にも虚無感にも、無力感にも、出会うことはなかったのに。
 十神はいっそ、アルターエゴプログラムそのものを恨みかけていた。
(……まあ、いい。もう全てがどうでもいい)
 そう思えば、一時的であるとしても、驚くぐらい心が軽くなる。今までの人生で出会ったことのないような悩みに対し、見つけたことのないような解決法で対処する。
十神は疲れていた。損益や打算とは無関係の場所で、他人と意志を交差させ合うという行為に、疲れ果てていた。それなら初めから、何もいらなかった。

「言っておくけれど」

 そんな十神の頭に、霧切の澄んだ声が、妙に大きな音で響いた。

「苗木くんもあなたのアルターエゴと対峙していて……それが私たちと同じように、精神に負担がかかる程の振り幅の実験だったってこと、忘れないでちょうだい」
「……どういう、」
「苗木くんだって、エレベーターの前であなたと鉢合わせした時、同じような状況にあったってことよ」
 十神はふいに、自分が冷たい言葉を投げかけた時、驚いたような顔をした苗木の様子を、思い出す。
 何か、ひっかかる。まるで、初めて十神に冷たくされたかのような、あの態度。
「………」
 十神が黙り込むと、霧切は小さくため息をついて、立ち上がった。
「あなたがこれから、苗木くんとどういう風に向き合っていくかは自由よ。あなたと一緒で、荒治療でもなかなか記憶が戻らなかった苗木くん自身、同じような悩みに苛まれていた可能性はあるしね」
 ぴくりと、ある言葉に反応する。
 苗木が、同じような悩みに?
「……とにかく、後悔のないように進むことね。生きている内に出来ること、そんなに沢山ないわよ」
 どうしてだろう。霧切の言葉は、少しだけ苦しそうだった。
「霧切、お前」
「まあ、受け流してくれて構わないけどね、私は」
……さては根に持っているな、こいつ。
 人の心を思うことのない十神に対し、霧切は、当然嫌味も混ざっていただろうが、助言を与えてきた。しかし、十神はそんな霧切の言葉を「ありがたく受け流させてもらおう」と、嫌味で返す。
 そんなやりとりを思い出し、妙にしょっぱい気持ちになる。
 顔をしかめる十神に、霧切は言った。

「忘れないで、十神くん。苗木くんは、ちゃんと現実にいるのよ。望めば向き合うことが出来る」

 霧切は机から立ち上がり、部屋の出口へと足を進めた。ベッドに腰掛けたままの十神からは、彼女の後ろ姿しか見えなかったが、最後の一言だけ、ぽつりと、


「……さやかとは違って」


 という、言葉をこぼした。
気がした。
「……?」
 さやか、というあまり聞き慣れない名前と、間違いかもしれない程の小さな声音に、一瞬、その声が現実のものだったのかという疑念を抱いたせいで……十神は、とある重要なことに気付くのが、遅れた。

「霧切!! 帰るならドアを直して行けドアを!!」

 未だ十神の部屋のドアは、逆方向に開かれたままだったが、生憎霧切は十神が黙っている間に颯爽と姿を消してしまっていた。
 開きっぱなしのドアを、十神は仕方なく寝起きの身体で修繕する羽目になった。勿論、工具やなんやらで完全に直すことは今の状況から言って不可能だったので、とりあえず、閉まらないままのドアを元の位置に力技で戻し、外から室内が見えないように整える。後で機関の人間に修理を頼むしかない。

「……何だったんだ、あいつは」

 ひとまずの静寂を取り戻した部屋で、十神は再びベッドの上に横になる。ごろりと転がった瞬間、疲れがどっと込み上げた。
 霧切が唐突に現れ残していった情報を、脳内で反芻する。
 十神の頭痛と、苗木への暴力、そしてその後倒れてしまったのは、アルターエゴプログラムの影響だということ。
 十神と霧切、そして苗木には、特別に多少の危険を伴うプログラムが用意されていたということ。
苗木の相手をしていたアルターエゴが、学園時代の十神だったということ。
 アルターエゴプログラムが、中止になったということ。
 それら事実に加え、十神アルターと対峙していたという苗木の立場、心境。
 霧切の言う、苗木とどう向き合うかは、自分次第だという言葉。
(……ますます混乱するだろうが)
 十神は、いっそ霧切を憎らしく思うような気持ちだった。あの女の話を聞いたせいで、余計に脳内がごちゃごちゃと混乱してしまった。
 アルターエゴプログラムは中止になった。もう、十神が欲したはずの苗木には、会うことが出来ない。残ったのは、十神に首を絞められ、そんな十神を憎しみの篭った目を向けてきた、現実の苗木誠だけだ。

(……そういえばあいつ、最後に)

 怒っていたかと思った苗木は、十神が頭痛で倒れたあの時、今までの状況も忘れて十神の元に、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
 苗木が何を考えているのか、分からない。

 ……少し、疲れた。

 そう思って、十神は全てに目を瞑った。
睡魔は素直に十神の全身を包み込み、そのまま穏やかに眠りにつくことが出来た。






 

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