7 相変わらず施設の中の空調はどこもかしこも不調のままで、修繕される見込みはない。 温度や湿度に悩まされることの少なかった人生だ。体調不良も相成って目眩にも似た錯覚を覚える。 だるいような、部屋に戻って横になりたいような倦怠感を抱えながら、十神はB棟の一角に設置されている自動販売機のスイッチを押した。 売り切れを示す赤いマークが半分以上も灯されているその中で、幸いにも十神は目的の物を手に入れることが出来た。きっと補充されることは希なのだろう。まあ、どうでもいいことだ。とにかく、ガランという音を立てて転がった、質量のあるその缶を取り出して、再び歩き出す。 どこにいても暑さが付きまとう施設の中、十神の掌に収まる缶だけが、面白いくらいの冷気を放っていた。 A棟へと繋がるエレベーターの近くで、朝日奈と霧切の二人と遭遇した。昨日もそうだが、最近こいつらは共に行動をすることが多いようだった。最も、朝日奈が霧切に一方的に付いていっているだけなのかもしれないが。少なくとも、女の友人としてはまだ、霧切の方が腐川よりは安心出来るだろう。詳しいことは、分からないが。 「あ……十神」 朝日奈は、なんというか、「あからさま」な表情で十神を見た。十神が苗木の首を絞めていたのを見た昨日の今日で、警戒心が強くなるのも当然だろうと、大した感情もなく事実としてそう思う。 「苗木を見なかったか」 そんな朝日奈と連れ立っている霧切の方に、十神はなんでもないような口調で声をかける。 霧切は、十神の掌に握られている、青色のスポーツドリンクの缶を一瞥した。 そして、十神同様、なんでもないような口調で、言った。 「苗木くんなら30分くらい前に、これからカウンセリングだって言ってA棟に向かったわよ。そろそろ終わるんじゃないかしら」 「ちょ、霧切ちゃん……」 教えちゃっていいの? と、苗木の身を案じているのか、朝日奈が霧切にそっと耳打つのだが、丸聞こえだ。 しかし、十神はそんな朝日奈に構う様子もなく、一言「分かった」とだけ霧切に返し、二人の横をすり抜けて、例の老朽化が激しいエレベーターに乗り込んだ。 ドアが閉まるまでの一瞬、霧切と目が合った。 相変わらず、何を考えているのか分からない表情がそこにはあったのだが、不思議と穏やかな雰囲気だ、と思った。 そのままドアは閉まり、霧切の姿は見えなくなった。 今にも落ちそうなエレベーターが、それでもやはり落ちることもなく、A棟へ向かう十神を運ぶ。 エレベーターから降りると、長い廊下の向こうに、人影が見えた。 いつもカウンセリングを行っている部屋の前の廊下には、簡素な長椅子がひとつ置かれていた。尻をまるで包み込む気がない硬いクッションに、一度だけ座ったことがあった。 そんな椅子の上に、苗木誠は座っていた。 十神は黙って、苗木の元へと歩み寄った。 しかし、隠れるわけでも息を潜めるわけでもなかったので、苗木の方も、すぐに十神の存在には気が付いた。 苗木の肩が、あからさまにビクリと揺れる。表情には、サッと警戒の色が滲んだ。 それを見て、十神は、 (まあ、そうだろうな) と、特に悲観もなく思う。 そして、 (手負いの獣だな) なんてことを考えた。 苗木は未だ長椅子に座っているままなのに、十神が歩み寄ることによって、その距離は当たり前に縮まっていった。 近付けば縮まる。 それは、どちらが歩み寄ろうが関係なく。同じように。目に見える単純な事実として。 それを見て、十神は何かに、気付く。 昨日見た夢……夏休みの学校で、苗木と二人で向き合っている、あの夢。 夢の中で苗木が、十神に言いたかった、何かに、気付く。 (ああ) そういうことかと、ひとり納得した。 そして、十神はついに、長椅子に腰掛ける苗木の前まで辿りついた。 苗木は完全に身体を強ばらせていた。昨日の今日なので、仕方がないことだろう。 そんな苗木は、十神の言葉を待っている。十神の出方を伺っているのだろう。苗木のくせに生意気だな、と思いながらも、十神は、まるで普通の友達のような口調で、言った。 「喉」 「え……?」 「乾いてないか」 強張っていた苗木の表情が、その瞬間。 不意をつかれたように、弛緩した。 そして、この暑さのせいで、苗木のこめかみに浮いた汗が一筋、流れた。 夢の中の苗木が、ヒントだと言って差し出した、その記憶が。 ゆっくりと、切り取られたピースのように、蘇る。 あの夏の教室。始まって間もない、夏休み。 理由は忘れてしまった……というか、思い出せないのだが、苗木と些細なことで喧嘩をした。いつもは基本的に他人に合わせる姿勢を取る苗木が、珍しく怒りを長引かせていた。 放っておけばいいはずなのに、それが出来なかった。 帰郷して、しばらく会えなくなる前に、こじれた関係を修正させたいと他でもない十神自身が思った。 ……そうだ。暑くて、全身から汗が滲んでいて、とても喉が渇いていた。 十神はその日、誰もいない教室に苗木を呼び出し、そして。 「……やる」 安っぽい、冷たい青色の缶を、苗木に向かって差し出した。 その日も苗木は、鳩が豆鉄砲でも喰らったような、間抜けな表情で十神を見ていた。 そして、 「くれるの?」 と、少し笑いながら見上げてくる。 喧嘩をしていたせいで、笑顔を見るのは久しぶりだ、なんてことを柄にもなく思った。 「何を笑っているんだ……やらなきゃよかったかもな」 「あはは、もう返さないよ」 苗木は、十神にとっては価値のないような、安物の缶ジュースで、すぐに機嫌を直してしまった。 今まで十神が気まぐれに与えようとした高価な品は素直に受け取ったこともなかったから、仲を修正するためのきっかけに使える物というものを、十神は実は真剣に考えた。 そうしている内にも帰郷の日は近付き、だから、この青いスポーツ飲料を渡したのは、殆ど苦し紛れだった。 いつか、こんな暑い日に、苗木が飲んでいた同じスポーツドリンクを分けられたことがあった。 安物のそれだというのに、喉の渇きが潤う感覚を、心地よく思った。 その時と同じものを、苗木に与えた。苗木はもう、喧嘩中と同じような不機嫌な表情ではなかった。 たった百数円の飲み物で、どうしてここまで全てが修復されるのか、純粋に不思議だった。そんなことを、つい心のままに口にすれば、苗木は確か、こう言った。 「喉が渇いてる時のポカリと、そうじゃない時のポカリって、それ自体は同じものなのに、飲む側にとっては全然価値が違ってくるじゃない。それと同じで、自分で何気なく買ったポカリと、十神クンが僕と仲直りするために買ってくれたポカリも、全然別物なんだよ」 物自体は変わらない。 変化しているのは、それを取り巻く周囲であり、個人であり、お互いの気持ちなのだと。 苗木は、そう言ったのだ。 人や、環境自体は変わらなくても……共にいることによって、自分にとっての、相手の価値は変わっていく。 必要なんだと、失いたくないのだと。 例えそれが、歩んできた道のりそのものを見失い、地図さえもないスタート地点から始まる、気の遠くなるような遠回りの旅なのだとしても。 やり直してもいいと思える程の、価値が、そこにはあった。 十神は、掌の中で未だ冷たさを失わない缶を、苗木に差し出す。 苗木は、戸惑うような視線のまま、自分の意思とは別の場所で、何かに動かされているような動作で、手を伸ばした。 その手はやがて、緩慢な動きを持って、十神の差し出した缶へと触れた。 その時、お互いの指先が触れ、驚くぐらいの熱が伝播した。 十神は、この熱に身に覚えがあった。昨日、苗木の首を絞め、そのまま倒れてしまった、あの瞬間。 自分の掌に、暖かいものが触れた。それは苗木の掌の体温だった。今触れた苗木の指先は、あの時の温度と、同じ暖かさでそこにあった。 苗木は、自分に首を絞められたあの時。 十神が倒れた瞬間、怒りも恐怖も何もかも忘れて、十神の手に触れ、握り、名前を呼んだ。 苗木は確かに線を引いた。 それでも、きっと、苗木自身にも、その線を踏み越えるだけの直感的な意思が……生きている。 苗木の驚いたような顔が、十神の視界に映る。 ぽたりと、露点に達した空気が、夢の中と同じ姿で水滴に変わり、足元へと落ちる。 ぱたり、ぱたりと絶え間なく落ち続ける。 それは、十神の目からこぼれ落ちる涙だった。 苗木は黙って、十神の涙を見つめていた。 その目には、恐れも怒りも諦念も浮かんでいなかった。 目の前の苗木と、夢の中の苗木の姿が、ブレ合うことなく、ぴったりと重なり合う。もう、頭痛は起きなかった。 お互いの距離を確かめながら。 覚束無い足取りで、ゆっくりと、少しずつ。 そうやって、心地よい距離を見つけていけばいい。 それでいいんだ。指先が触れ合い、熱の存在が確かめられる。 十神と苗木の距離は今、ゼロに戻った。学園で積み重ねた思い出を失い、そして亀裂さえ含む新しい距離も失い、何もかもが始まりへと、戻った。 ここからまた始めればいい。そうして辿りついた未来が、かつての二人の姿とは形が違うものになってしまったとしても。 それでも、きっと大丈夫だと思えた。 二人を隔てていた距離は、もうどこにもなかった。 Hedgehog's dilemma END |