ヤマアラシの人生



 夏の日差しが脳天に突き刺さる。額にはじんわりと汗が浮かんでいた。
希望ヶ峰学園東エリアの中庭を、十神白夜は歩いていた。
その隣には、歩くたびに妙に特徴的なくせ毛をぴょこぴょこと揺らしながら、コンパスの違う十神と歩幅を合わせようと、少し不自然な動きで歩を進めている、ひとりの男子生徒の姿があった。
苗木誠。
超高校級の才能を持った者しか、その門を潜ることを許されない希望ヶ峰学園に、「超高校級の幸運」として抜擢された、何の才能もない人間の名前だった。
超高校級の幸運。それは、全国の高校生の中から抽選で選ばれた者に与えられる才能の名であり、それこそ「運」という曖昧な概念により、十神や他の超高校級と呼ばれる才能を持つ存在と共に、最高の設備で教育を受けることを許され、さらには卒業後の成功を約束されるという、そこへたどり着く事が出来なかった一般人から見れば、半ば理不尽とも思えるシステムを享受するという意味でもある。
「あっついねー、十神クン」
「夏なんだから、当たり前だろう」
 特筆した才能もなく、それでもこの学園へと入学することを許された苗木は、やはりその平凡な人生を歩むことによって形成された人格通り、何の変化球もない言葉を、十神に向かって吐き出すのだ。
 しかし十神も、大した反発もなく、その言葉に返事をする。まあ、言葉の端に滲ませる小馬鹿にしたような色は、相変わらず無くなったりはしないのだが。
 そんなやり取りの中でも、苗木は慣れたような態度で話を続けた。
「第二生物学室って、何で教室からこんなに離れてる場所にあるんだろうね。中庭通るだけでも暑いよ……早くクーラーのある部屋に行きたい……」
「軟弱者が」
 そうは言いながらも、十神だって暑いものは暑い。
 むしろ、超高校級の御曹司としてこの学園に入学した十神は、今までの人生で気温の変化などに悩むことは少なかった。一般人である苗木よりも、十神の耐性が低くてもおかしくはない。
 十神と苗木は、第二生物学室へ向かって歩いていた。
まるでひとつテーマパークのように広大な敷地を有する希望ヶ峰学園は、未来への希望という名の才能を育てるために、その道の専門家さえも羨む程のあらゆる研究や教育のための施設を整えている。
校内にある全ての部屋を見て回るとすれば、とても一日では回りきれない程だろう。とにかく、広い。
そうなれば、移動教室の際に、多少なりとも不便な教室だって存在するのだ。
二人が向かっている第二生物学室などが、その一例だった。
十神や苗木達78期生の教室と同じ棟にも、生物室は確かにあった。しかし、その第一生物学室は、何故か数ヶ月前に閉鎖されてしまったので、生物の授業を受ける生徒達は、第二生物学室を使用する他なかったのだ。
第二生物学室の位置する場所へ向かうためには、一度教室のある建物から外へ出て、東エリアの中庭を経由しなくてはいけない。
第二生物学室は、本来ならば一般の生徒達が授業で使用する部屋ではなく、それこそ生物学関連の学問を得意とする超高校級の生徒達が使用していた場所であり、研究施設としての特別棟として隔離されているものだった。
どうして第一生物学室が閉鎖されたのか、理由の説明は無かった。しかし、そのおかげで十神や苗木ら生徒達は、冷房の効いた校舎から真夏の空の下へと、一時的にでも足を踏み出し、そこを歩いていかなくてはいけないという状況を強いられることになったのだ。学生らしい文句のひとつも出てきて仕方がないだろう。
それでも、あくまで涼しい表情を崩さないのが十神だった。
また、堪え性なく暑い暑いと繰り返しながらも、実際はそこまで呪詛めいた声音を発するわけでもなく、ただ会話の一部として現状を軽い気持ちで憂いているのは、苗木だ。何も本気で、ちょっとした移動教室の不便を憎んでいるわけではなかった。もしもそうであれば、十神はこんな風に苗木と共に第二生物学室へ向かったりはしなかっただろう。
「そうだ。十神クン、喉渇いてない?」
 それは、脈絡のない問いだった。
確かに、攻撃的な暑さを持った夏の空気の中で、喉が乾いているかいないか、自分の状況をどちらかの枠に当て嵌めなくてはいけないというのなら、それは間違いなく前者だろう。水分補給はいくら行っても足りないくらいだ。
そんな十神の心境を察したのか、苗木は自分の問いに対する答えも待たずに、歩くスピードを落とさないまま、十神の視界に何やら青い塊を見せつけてきたのであった。
それは恐らく、その辺の自動販売機や、学園の購買で売られているような、清涼飲料水の缶だった。
「さっき、朝日奈さんに分けて貰ったんだ!」
「………」
だからなんだ、とは言わなかった。苗木の性格から考えて、ただ見せびらかすためにそれを懐から取り出したわけではないだろう。
案の定、苗木は言った。
「一緒に飲もうよ。分けてあげる」
「……恩着せがましいぞ」
そう言いながらも、十神は苗木が缶のプルタブを開ける姿を見つめた。
カシュリという音と共に、栓が開いた。苗木はまず、十神にそれを差し出した。
「はい、全部飲んじゃやだよ!」
「………」
 苛立ちにも似た気持ちが十神の中で湧き上がる。
 しかし、その気持ちを言葉にするのも妙に億劫で、十神は黙って苗木から缶を受け取って、まだ一口分も減っていない清涼飲料水を、含んだ。
 自分が思っていた以上に喉が渇いていたのだろうか、普段ならば口にすることもないような安物のそれが、妙に美味く感じられて、驚いた。
 思わず、もう一口。
 すると苗木は少しだけ慌てたような声で、十神に向かって言った。
「十神クン、ほんとに全部飲んじゃったりするつもりじゃないよね!?」
 先程までの能天気さを失い、こんなことであからさまに焦る苗木に、十神は僅かに愉快な気持ちになる。ニヤリと口元に嫌な笑みを浮かべれば、苗木はさらに動揺を露にした。「十神クン、本気!?」と、十神の視線の下で手をばたばた動かしている。
 しかし、その時だった。
「……あれ」
 自分より随分と背の高い十神に対抗しようと躍起になっていたはずの苗木の視線が、中庭に植えられている一本の木の下へと、ふいに移動した。
 それは偶然だったのかもしれない。それでも、苗木はその、「何か」を見つけた。
 そのおかげで苗木は、十神が手にしていた缶ジュースに対する興味を、全く失ってしまったようだった。
 何故か、置いてきぼりにされたような気持ちになった十神は、若干の苛立ちを滲ませた声で、「何だ」と言った。どこか問い質すような音で響いた声だった。
「あれ」
 返ってきた苗木の返事は、返事と呼べるようなしっかりとしたものではなかった。
 そうして苗木は、「何か」があるらしい木の下へと、早足で駆け寄る。
 授業に遅れるぞ、と言う声は、ひとまず飲み込んだ。
 十神は無意識の内に、苗木の突拍子のない行動を目で追い、さらにはその後を追いかけていた。
 苗木が辿りついた木の下。そこにある「何か」を見つけ、十神は単純な情報として「それ」を解析した。
 それは、雀の死骸だった。
 咄嗟に観察した分には、外傷らしいものは見当たらない。
 何故その雀が死んでいるのか、二人には分からなかった。寿命か、別の原因か。
 しかし、重要なのはそういうことではなかった。
 十神は、何かに導かれるように、再び視線を苗木の方へと移した。その瞬間、苗木はまさに動き出そうとしていたところで、十神は咄嗟に、苗木の片腕を掴むことによって、その行動を制止した。
 苗木は少し驚いたような表情で、唐突に自分の腕を掴んだ十神のことを見つめた。
「なに、十神クン」
 それは限りなく純粋な疑問の言葉だった。
 その質問に対して、十神もまた、質問で返す。
「何をしようとしている」
 十神の声には、まるで感情というものが滲んでいなかった。その声音に、十神自身が若干ではあるが驚いていた。自分以外の誰かが、自分の声帯を利用して苗木に言葉を投げかけているような錯覚さえ覚えた。
 しかし、苗木はそんな十神の態度に、然程驚いている様子は見せなかった。
「え、雀が死んでるから、埋めてあげようと思って」
「やめろ」
 苗木の答えに対して、十神のそれは一瞬の躊躇もなく放たれた言葉だった。
 そして、
「手が汚れるだろうが」
 と続いた。
 苗木は僅かに目を見開いた。
 そんな苗木の態度を見ても、十神は自分の言葉に何か問題があったとは思えなかった。
 自分達は今、次の授業を受けるために第二生物学室へと向かっている最中で、手にしている物は参考書とノート、筆箱ぐらいで、死んだ生き物を埋めるために必要となるであろう道具を一切所有していないわけで。
 とにかく、そういう現状から考えても、十神は自分の発言は理にかなったものだと信じていた。
 第一、野生の動物の死骸を素手で触ることには、大体の人間が抵抗感を持つはずだと十神は思っていた。
 病気が移らないとも言い切れない。
 十神は自分の言葉を正論だと思っていた。
 苗木はそんな十神の目を、ただ見つめた。その瞳は何かを考えているようにも思えた。
 そして、次に苗木の口から紡がれた言葉は、こうだった。
「でも、放っておけないし」
 そうして苗木はゆるい動作で十神の手を払った。
 自分に背を向ける苗木に対して、十神は若干の苛立ちを滲ませた声で、
「置いていくぞ」
 と言った。
「うん、先に行ってて」
 苗木は振り返らずに言った。
 勝手にしろ、と思いながら、十神はひとりで歩き出した。
(偽善者ぶりたいわけでもないだろうに、何を考えているんだ、あいつは)
 十神には、苗木がどうして生き物の死骸に興味を持つ……という言い方もおかしいが、何の愛着もないはずの、見ず知らずの雀を、遅刻をしそうな状況下でも埋めようとするのか。その考えが、全く理解出来なかった。
 そして、苗木が十神の手をゆるく拒絶した、その時に見せた、一瞬の表情。
 何かを伝えたそうな目が、諦めたように伏せられた瞬間に覚えた、苛立ち。その苛立ちの原因が、分からなくて。
(腹が立つ!)
 十神は眉間に皺を寄せたまま、ひとりでずんずんと歩いていく。頬を伝う汗の感触が、不愉快を倍増させた。

 苗木誠という人間に、多少なりとも興味を持ち始め、それでもまだ、自分とは住む世界の違う人間だという価値観を完全には覆しきれずにいた、夏。
 そばに置きながらも、見えない距離は確かにそこにあった。
 その距離を生んでいるものは、依然として存在する不理解から来るものでもあり、それが「未知」という不安の種として、十神の心にかつてなかった焦燥にも似た感情を根付かせ、足元の見えない心境を生み出していた、まだ幼い夏。
 いつもよりも蝉の鳴き声が、妙に印象深く残る季節の出来事だった。




 例年よりも冷え込みの厳しい冬だった。
 11月も後半になり、学園内は暖房が効いているので然程寒さに気を使うようなことはないのだが、いつもに増して外の気温が低いこんな日は、熱いコーヒーが美味いだろう、なんてことを考えながら、十神はひとり校内を歩いていた。
階段を降りながら踊り場に差し掛かったその時、下階を歩いていたクラスメイトの霧切響子と、ばったり出くわした。
「あら、十神くん」
霧切はいつも通りの感情が読みにくい表情で、同期である十神の名を呼んだ。そして、何を思ったのか、こちらに向かってわざわざ階段を上ってきた。結果、二人は踊り場で停滞し、向かい合うことになる。
「おはよう、今日も寒いわね」
 十神と霧切は特筆して仲が良い友達というわけでもなかったが、お互いが顔を合わせて挨拶もないような間柄ではなかった。基本的に、十神含めた希望ヶ峰学園78期生は特に仲が良いと評判だった。そういうことを言われている場面に出くわす瞬間、十神はいつも奇妙な感覚を覚えていた。自分から肯定などは決してしないが、だからと言って無駄に否定するわけでもない。他人と馴れ合うなど考えたこともなかった過去の自分を知っているからこそ、現状が妙に思える気持ちも同時に存在するのだろう。
 時間は既に二時間目の休み時間だったのだが、霧切と十神が今日になってから言葉を交わしたのはこれが初めてだったので、霧切の言った「おはよう」という言葉に、十神は素直に「ああ」と返した。
「職員室にでも行っていたのかしら」
 十神と霧切が鉢合わせたこの階段は、職員室のすぐ正面に設置されているものだった。職員室から十神達の教室へ向かうには、ここを通るのが普通なのだが、基本的にそれ以外の用途でこの階段を使用することは少なかった。
 だから霧切は、十神が職員室から帰ってきたばかりなのでは、と推理したのだ。そしてそれは正しい解釈だった。十神は答える。
「まあな。大した要件ではないが」
「そう」
 十神は先日、諸用で希望ヶ峰学園を離れていた。その際に外出先で行われた十神家の次期当主として関わった取引についてのレポートが完成したので、それを提出しに来ていた。これも、十神が超高校級の御曹司として学園に在籍することを許されるための、ひとつの課題のようなものだった。
 まあ、そんなことは、今はどうでもよかった。
 お前はこんなところで何をしていたんだ、と問うため、十神が改めて口を開こうとした、その時だった。
 二人が向かい合っていた踊り場に設置されている窓の向こうから、ひとつ大きな爆音が聞こえてきた。
 二人は反射的に窓の外へと目をやった。
 目下で繰り広げられていた景色は、希望ヶ峰学園の制服を纏った生徒が、暴動を起こしている姿だった。
 しかし、その生徒達は皆一様にとある特徴を持っていることに、二人は気が付いていた。
 ブレザーに光る緑色のバッジは、彼らが本科の生徒ではなく、予備学科の人間だということを、言葉もなく知らしめる。
「……パレード、最近また激しくなってきてるわね」
 霧切が、彼女らしくもない苦い声でそう呟いた。十神はその言葉にただ、「そうだな」という曖昧な返事を返す。
 霧切は言葉を続ける。
「ここ最近の彼らの暴走は、ちょっと見逃せる域を超えてしまっていると思うの」
「まあ、そうだな。ああやって昼夜問わず校内で暴れまわられては、いい迷惑だ」
 予備学科の生徒が巻き起こす暴動。通称「パレード」。
 それは、希望ヶ峰学園が数年前に実施し始めたシステムが原因で起こったデモストレーションのことである。
 希望ヶ峰学園は本来、生徒の入学に関しては完全なるスカウト制を採用していた。
しかし近年、資金不足という問題に直面したことにより、「予備学科」というシステムを投入し始めたのだ。
 予備学科は本科とは違い、通常の学校と変わらないような入学試験を行い、加えて膨大な入学資金を払うことにより、「確実に将来を約束される」はずの希望ヶ峰学園へと通うことを許される、謂わば補欠のような存在だった。
 しかし、表向きには本科へ編入出来るシステムも存在すると彼らは教えられているのだが、それが正しく機能した例は今まで一度も無かった。
 そうして次第に高まりつつあった不満は、現在、こうしてパレードという名のデモによって、目に見える被害にまで発展してしまったのだ。
 十神は忌々しそうな声音で言った。
「奴らだって自分自身が才能を持たない人間だということを初めから自覚した上で、金を積みここへやって来たはずだろう。それを今更やれ詐欺だの何だのと暴れられては、本科である俺たちに迷惑がかかる」
「まあ、あなたならそう言うと思ったわ」
 特に非難するような声音でもなく、霧切は言った。
 そして、そんな彼女の表情に、ふと影がさした。
「霧切?」
 突然黙り込んだ霧切を不審に思い、十神はどこか言及するような声音で彼女の名前を呼んだ。
「……予備学科の彼らが暴れているのは、もう分かっていることだし、教員も解決策を探して行動しているだろうからいいけれど」
 霧切は。どこか神妙な声で切り出した。
「今、少し気になるのは、本科の生徒の動きよね」
「本科の?」
 十神は意外そうに霧切を見た。彼女の言っている言葉の意味はどういうことなのか。
 霧切は言葉を続けた。
「予備学科の生徒が起こすパレードの混乱に乗じている本科の人間がいたりするのよ」
「本科の生徒が? パレードに参加しているというのか」
 十神の問いに、霧切は首を横に振りながら、答えた。
「いいえ。本科の生徒はパレード自体に参加はしていない。ただ、パレードのせいで教員達の監視の目が甘くなっているこの隙に、犯罪まがいの行動を起こしている馬鹿が現れてる、ってことよ」
「犯罪まがい?」
 何やら物騒な言葉を紡ぐ霧切に、十神の声は先ほどよりもさらに固くなる。
霧切は、また少し眉間の皺を深くしながら、話を続けた。
「さやかがストーカー被害に合ったのよ」
「……舞園が?」
 さやかとは、クラスメイトである超高校級のアイドル、舞園さやかのことだろう。
 舞園に関しては、普段は特に親しい友人である霧切と共に行動することが多いという認識ぐらいしかなかったが、アイドルという職業上、「舞園」と「ストーカー被害」という言葉は、そこまでかけ離れた世界のものではないように思えた。
 霧切は言った。
「まあ、犯人を見つけるのは難しいことじゃなかったけれど」
「超高校級の探偵、か」
 ストーカーの一匹や二匹、超高校級の探偵としてこの学園に入学した霧切が見つけることはそれなりに容易だっただろう。既に犯罪まがいの行為をした生徒が霧切によって炙り出されたのなら、恐らくその人間は謹慎処分にでもされた後のはずだ。予備学科のパレードで混乱している上層部だが、世間体とブランドを気にする希望ヶ峰学園は、こういうことに関する対処のスピードだけはいつも早かった。
 だが、問題はそこではない。
 霧切が再び口を開く。
「さやかのストーカー被害もそうだけど、この学園は最近……なんだか様子がおかしい。夏頃から少しずつ狂ってきていた何かが、目に見えるレベルにまで成長しているんだと思う」
「夏頃から?」
 不満を抱えた予備学科によるパレードが始まったのは、確か今年の夏頃からだったはずだ。霧切はそれについて発言しているのだろうか。
「……当時あの人に、もっと詳しく話を聞ければ良かったんだけど」
「霧切?」
 聞き取れない程の独り言を漏らした霧切に、怪訝そうな目を向ければ、やはり彼女はいつものポーカーフェイスで「なんでもないわ」と答えた。
 そして、何事もなかったかのように、話題を戻す。
「とにかく、学園内もそうだけど、休日に外へ出ても、何だか街の雰囲気が異様なのよね。何があるかわからないから、あなたも用心しておくことね」
「ふん、俺はそう簡単にやられん」
「あなたはそうでも、苗木くんなんかは結構危ない立場にいたりすることもあるから、出来れば注意して見ていてあげて欲しいわ。私一人では守りきれない場合もあるから」
「苗木?」
 十神は、苗木という言葉を繰り返す。すると霧切は、当然のようにこう言った。
「仲、良いでしょう」
「………」
 どんな言葉を返そうか悩んでいる内に、何も言えなくなってしまった。妙な沈黙が流れる。
 十神は改めて考える。
 自分が苗木と仲が良いと第三者に思われている、この現状。
 この学園に入学し、しばらくの内は誰と連むこともなく、馴れ合いをよしとしなかった十神に、唯一根気よく話しかけてきたのが苗木誠だった。
 はじめは鬱陶しいとしか思っていなかった苗木との会話も、共に時間を過ごす内に少しずつ、まあ、なんというか……慣れてきた。
 苗木との時間が、そんなに苦痛でなかったことは事実だ。むしろ、十神は次第に苗木をそばに置くことを自分から望んでいるような素振りを見せるようになり、こんな風に同級生である霧切から「仲が良い」と言われる今に至るのだが、それを素直に認めてしまうには、十神はいささか天邪鬼過ぎた。
 そんな心境を抱える十神を気にする様子もなく、霧切は話を続けた。
「……これも夏頃の話なんだけど、苗木くん、ちょっとした事件に巻き込まれてたみたいだから」
「事件?」
「私が個人的に受けていた依頼と関係してることかもしれない。それでもやっぱり……詳しいことは分からないわ」
「俺はもっと分からないぞ」
 曖昧な表現を繰り返し使用する霧切の言葉に、十神は若干の苛立ちを顕にし始めていた。
 自分の関与していない場所で起こっている、何かしらの出来事。
 その中で、何かに巻き込まれていたらしい苗木。そして自ら渦中へと身を投じていたような発言をする霧切。
 そもそもどうして霧切はこんな話を自分に……ああ、苗木が今後も何か厄介事に巻き込まれないように、という言葉の意味を説明するためか、と思い至る。
 しかし結局、彼女の話す「何かしらの異常」について、理解出来ることはまるでなかった。
 もしかすると、霧切自身も現状を正しく理解しているわけではないのかもしれない。交わした会話を脳内で反芻した時、そんなことを思った。
 霧切響子の超高校級の探偵としての能力は、希望ヶ峰学園で一年近く生活を共にしてきた結果、十神でさえも素直に認める程のものだった。
 そんな霧切でも、事の真相を鮮明に見つめることは出来ていないらしい異変。
 何が起ころうとしているのか、または起きているのだろうか。
 窓の外の寒空の下で、予備学科生のパレードによる絶え間無い爆音と怒声を聞きながら、そんなことを考えていた十神の鼓膜を、妙に殊勝な音で響く霧切の声が揺らした。
「いきなり変なことを言って悪かったわ」
「……いや」
 調子のおかしな霧切に、なんだか拍子抜けする。普段は、もう少しお互いに嫌味を織り交ぜたような会話をすることが多いのだが。
 十神の思考は霧切自身も自覚していたことなのか、彼女はひとつ「ふう」と溜息をついてから、言葉を続けた。
「いろいろ混乱しているの。……こんなことを言ったらあなたは馬鹿にするかもしれないけれど、私には死神の足音みたいなものが聞こえるのよ」
「……あ?」
 突拍子もないその発言に、十神は思わず眉間に皺を寄せた。
 死神の足音が聞こえる?
「ほら、その反応」
「当然だろうが……ふざけているのか」
 霧切響子という人間は、時たま本気で言っているのか冗談で言っているのか分からないようなことを、感情の読めない表情で……やはり、冗談で言ったりするような女だったので、今の発言もそういうことなのだろうか、と思った。
 しかし、どうやら今回は、そういう冗談が言いたいわけではなかったらしい。
「まあ、仕方ないわね。別に信じて欲しいわけじゃないけれど……死神の足音っていうのは、何かしらの危機が迫っていることを感知できる感覚っていうか……そういうものが昔からあるのよ、私」
「……それがどうしたと言うんだ」
 シックスセンス的なもの、むしろオカルトじみたことを真顔で話してくる霧切の意図とは何なのか。彼女の能力を、頭ごなしにありえないと否定したところで話は進まないと判断した十神は、死神の足音が聞こえるという「設定」を、とりあえず受け入れた上で、霧切に説明を要求した。
 霧切は答える。
「足音が聞こえる時と同じ感覚を、最近常に感じるようになってるのよ。言ってしまえば、単純に嫌な予感がするの。それに最近の周囲は……やっぱり変よ。一部の生徒や学園全体の雰囲気そのものが、おかしい」
「……考えすぎだろう」
「だといいけど」
 個々の問題はいつの時代も尽きないが、世界そのものはそう簡単には大きく変わったりはしないだろう。
 このどこまでも現実的で理論的な霧切が、目に見えない何かに恐怖心を抱いているらしい現状が純粋に不思議だった。
 外では絶え間なく予備学科生のパレードが行われている。窓を隔てて聞こえる叫び声は、どうしてか現実味を帯びて十神の耳には届かない。
 むしろ、無意識の内に頭の中で思い出される映像は、隣にいる霧切や、先程彼女の口から紡がれた舞園、そして苗木と言ったクラスメイトの顔であり、かつての十神自身では考えられないような穏やかな日々こそが、容易な感覚で手に触れることの出来る現実そのものだった。
 ……もしかすると自分は、平和ボケをしているのだろうか。
 十神は自分の胸に僅かな危機感が滲むのを感じた。
 十神家の次期当主として、兄弟たちを蹴落とし、一切の情や甘さを捨て、それを疑問に思うこともなく生きてきた自分の価値観が、たった数ヶ月の間に覆されてしまったのだろうか。
 十神は知っていた。情や甘さは自分の行く道で確実に邪魔になるものだった。だから捨てたはずだった。それを、知らず知らずの内に、手にしてしまっているかもしれないのだ。
 情や甘さに片足を取られ、身を滅ぼす。そういう人間を見たことがないわけではない。それは、十神が何より嫌悪し、蔑んでいた人種に違いなかった。
 自分の生きる道を改めて見つめ返す、その時が来れば。
 十神は再び、手にした平穏を自分の意思によって捨ててでも、感情そのものを殺すことになるのかもしれない。
 それが、自分の信じる強さだった。
 情は人を弱く、愚かにする。
 十神はそう信じていた。
 パレードの喧騒を聞き流しながら、そんなことを考えていた十神の鼓膜を、唐突な霧切の声が揺らした。
「探偵は時に非情なまでに感情を殺すことも必要になる。私はそう教えられてきた。だから私は感情というものを、極力抑えて生きるようになった」
「………」
 霧切の話が、脳内で考えていたことが読まれたわけでもないはずなのに、微妙に自分の思考とリンクして、ドキリとする。
 そんな十神に気付かないまま、霧切は言葉を続けた。
「だけど……」
 彼女は、どこか決意するような目で、告げる。
「……守るって、約束したから」
「……約束?」
 十神は怪訝そうに、その言葉を繰り返した。
「ストーカー事件の時、さやかに約束したのよ」
「舞園に?」
「ええ」
 霧切は、十神と視線を合わせることはなく、窓の外の景色をぼんやり睨みつけるような表情で、言った。
「大切なものを失った瞬間、人は動揺し、弱くなり、冷静な判断が出来なくなり、自分の根幹となる意志を達成出来なくなる……だから友達なんて、二度と作るべきじゃないと思っていたんだけど」
 十神はふいに、その言葉に違和感を覚える。
 霧切は何かを思い出しているようにも見えたし、また、それは単なる十神の思い違いのようにも思えた。基本的に、表情から得られる情報が少ないのだ、この女は。それでも今日はまだマシな方だとも思う。
「それでも、この学園で、さやかや苗木くん、まあ、あなもそうかもね。とにかく、皆と出会えて私、今がとても楽しいわ。だからこそ、それが壊れてしまうかもしれない危険を、恐れている」
「………」
「超高校級の探偵……いいえ、霧切家に生まれたものとしての宿命、そういう別の意味で大切なものも、きっと失う時は同時だと思う。だから友達はいらなかった。私は探偵としてしか生きられないと思っていたし、そう思い知る機会だって、あった」
 だけど、と霧切は続ける。
「さやかが被害に合って、初めて分かった。私は、あの子を守りたい。その感情はきっと、探偵としての誇りを守ろうとしている時の気持ちと似ているのよ。どちらも無くせるものではないの。情は人を強くも弱くもする。それなら私は、もっと強くなろうと思うわ。大切なものを失ったりしないくらい、全てを守れるくらい、強く」
 大切なもの。
 そして、自分の根幹となる意志。
 それは、霧切にとって、この学園に入学してからこれまでの、普通の学生らしい日々で得た舞園や苗木のような存在と、彼女がこの学園に来るまで殆ど人生そのものとしての概念である探偵業、それら二つのことなのだろうと十神は理解した。
 探偵という「概念」は、もはや霧切という存在そのものを形作る、人生とは切っても切り離せない存在なのだということは、分かる。
それでも、その信念じみた概念を貫き通すためには、いつか邪魔になりうるかもしれない「平穏」を、同時に守っていけるくらいの圧倒的な力を手にすることで、どちらを捨てることもなく歩いていくのだと、霧切は決意していたのだ。
 十神は窓を背中に隣に並ぶ霧切の表情を、ぼんやりと盗み見た。彼女の目に迷いはなかった。
 しかし十神には、まだ彼女の意志の全てを理解することは出来ない。
 十神に生まれてしまった情や甘さのような不要な感情は、自分自身が得ようとして得たものではなかった。気が付けばまとわりついていたものだった。その情というものを脳内でイメージしたとき、何故か苗木の姿が浮かんだ。
 情や思い出が、何になるというのか。
 果たしてそれは霧切が言うように、全てをかけてでも守るに値するものなのか。
 十神は自分の中に燻る覚えのない感情を持て余していた。手の平の上で転がしながら、捨てるべきか、それとも守るべきものなのか、自分でも分からないまま呆然とそれを見つめている。
 霧切との会話で、その感情は十神自身に明確な疑問を投げつける形となった。
 十神が黙っていると、彼女はふいにハッとしたように目を見開き、言った。
「嫌だわ。私どうして十神くんにこんなこと話してるのかしら」
「……なんだそれは。お前から話し始めたことだろうが」
「まあ、そうなんだけど」
 霧切は十神に向けた自分の発言を然程悔いているようには見えなかった。普段と変わらぬポーカーフェイスがそこにはあった。だから十神には、霧切が何を思い、必要以上に胸の内を自分に対して晒したのかは分からない。
 複雑な表情を浮かべる十神の傍ら、霧切は再び口を開く。今度は先程以上に、独り言じみた声音だった。
「だから私は、もっと現状の異変について調べなくちゃいけない。探偵としての矜持を守るためにも、今の生活を持続させるためにも……」
「響子ちゃん!」
 ぼそぼそとした霧切の言葉は、階下から響いた鈴の鳴るような声によって、意図的でなくとも遮られた。
 それは、舞園さやかの声だった。
 舞園は今まで霧切が話していたことの内容など知る由もない笑顔で、霧切の名前を呼んでいた。
「響子ちゃん、もう授業始まっちゃいますよ。移動教室済ませておかなきゃ、先生に怒られてしまいます!」
「あら、もうそんな時間だった?」
 霧切も霧切だ。彼女らしくもない発言なんてまるで無かったかのように、平然とした表情で舞園の元へと階段を下りる。
 舞園はやはり笑顔で、霧切に言った。
「はい、響子ちゃんの教科書も持ってきましたよ。このまま物理室まで行きましょう」
「ありがとう。でも、あんまりひとりで行動しちゃ駄目よ」
 舞園は二人分の教科書を持っており、その内のひとつを彼女の身を案じる言葉を紡ぐ霧切に渡した。
 十神は自分が何か大切なことを忘れているような気持ちになる。二人のやり取りを見て、それを思い出しかけていた。
 休み時間が始まってすぐ、十神は校内放送によって職員室に呼び出された。大した用では無かったので、話が終わればすぐに自分の教室へ戻ろうとした。その途中で、霧切と遭遇した。霧切と会話をしている内に、知らず時間が経過していた。舞園が霧切の元へと現れた。彼女は霧切の分の教科書を持っていた。その教科書は、恐らく次の授業で使うことになる物理学の教科書だった。
そう、次の授業は物理学だ。そして授業が行われる物理室は、十神達の教室からは少し遠くなっており、少なくとも歩いて三分位はかかってしまう場所にあった。
ついでに言えば、現在地である職員室から近いこの階段から物理室までは、然程時間はかからない。ただ、十神は次の授業で必要となる教科書を持っていない。すぐに戻るつもりだったので、教室に置いてきたままだ。今から教室に戻り、再び物理学室を目指すとなれば、かかる時間は……。
そこまで思考して、十神はハッとしたように霧切を見た。霧切はどこまでも涼しい顔で、言った。
「早く教室に戻って教科書を取ってこなくちゃ、授業に遅れるわよ」
 こいつ、気付いていたのか!
十神は咄嗟に自分の腕時計を見る。あと三分で次の授業が始まる時間だった。教室から物理学室までは三分。ここから教室までは二分程だろうか。しかしそれは歩きでの時間だ。全力で走れば、或いは。
「貴様、覚えておけよ霧切!」
 十神は走り出す。その背中を霧切はやはり無表情に近い目で見つめていたが、やがて「行きましょう、さやか」と舞園を促し、十神のことなど気にしないように歩き出した。




 午前の授業が終わり、十神は東エリアの中庭を歩いていた。
 三時間目の物理学の授業に遅刻しかけ、柄にもなく全力で走ってしまったせいもあるだろうが、妙な疲労感と空腹感が体内でぐるぐると回っているような感覚だ。
あの後、教科書を取りに戻ってから、なんとか教師よりも早く物理室へたどり着くことが出来た十神は、舞園の隣の席で涼しい顔をしていた霧切を睨みつけたが、やはり彼女からの謝罪などはなかった。
 そして十神は苛立ちを抑えられぬまま、先に移動教室を済ませて桑田や葉隠とくだらない雑談をしていた苗木の元へとつかつかと歩み寄り、自分の教科書でその小さな頭をバシンと叩き、「お前も俺の教科書を持ってくるなりの気を使え!」と、八つ当たりまがいの言葉を吐き捨てたところで、授業開始のチャイムと共に休み時間が終了したのであった。
 授業が始まってからも、苗木は少しの間「意味が分からない」と言いたげな目で十神を見ていたが、やがて板書をノートに書き写すことに集中し始めた。十神の唐突な理不尽には、割と慣れていたのだ。
 それからの授業は、特にいつもと変わらない平凡な時間だった。そして昼休みとなった今、十神は第3学生食堂へ向かって東エリアの中庭を歩いている。
 前述した通りの空腹を抱え、学園内にいくつか存在する食堂の内のひとつであるその場所を目指す理由は、ひとつだった。
第3学生食堂の料理は、全て超高校級の料理人である生徒によって作られているものであり、御曹司として舌の肥えた十神でさえも、ここで出される料理には文句のつけ所がないと思っていた。
なので、全寮制であるこの学園に入学して以来、十神は毎回の昼食を、この食堂で済ませることに決めていたのだ。
 先程までは騒がしかったパレードも少し収まって、こうして屋外を歩く十神を妨害するような存在は、少なくとも目に見える範囲にはいなかった。同じように昼食のために食堂を目指しているらしい生徒や、弁当を持ってどこかへ向かっている女子の群れなどが行き交うばかりだ。
 それでも、耳を澄ませば遠くの方から物騒な音は聞こえてくる。予備学科のある西エリア方面からだろうか。非生産的としか言い様がないその行為を、十神は純粋な他人事として愚かだと思っていた。
 ひとつ大きな風が吹いて、中庭を行き交う生徒達の体を震えさせた。分厚いねずみ色の雲が空を覆い隠し、世界と太陽の光を明確に遮断していた。
 吐く息は一瞬で白く染まり、ポケットに突っ込んだ手は、それでもやはり冷たかった。
 無意識の内に早足になりつつも、十神はふと、何かに気が付いて、立ち止まった。
 十神が現在歩いている、コンクリートで舗装された道の脇には、綺麗に刈られた芝生のエリアがあった。暖かい時期であれば、そこで持参した弁当や購買のパンなどを広げ、昼食を取っている生徒も少なくないのだが、寒波が押し寄せるこの時期に、ピクニックまがいの行為を行うような物好きはいなかった。
 しかし、そんな物好きのかわりに、何やら生垣の根元に、どこか見慣れたアホ毛を見つけた十神は、数秒どうしようかと悩み、結局。
「苗木」
 ごそごそと妙な動きをしているアホ毛から導き出される見知った人物……苗木誠の名を、呼んだ。
「!」
 その名を呼んだ瞬間、苗木の肩は大げさなくらい、ビクリと跳ねた。
しかし、声に導かれるようにこちら振り返った苗木は、あからさまに安堵した表情を浮かべながら、「なんだ、十神クンか」と、どこか失礼な言葉を漏らした。
「なんだとは何だ」
 そう言って、苗木がしゃがみこんでいる隣へと歩み寄る。
 この寒いのに屋外で何をしているのかだとか、早く食堂なり購買へ行かなければ昼食を食いっぱぐれるぞだとか、十神が言える言葉はそれなりに沢山あったはずだ。
 しかし十神は、生垣の近くで蹲っていた苗木の傍へと近寄り、彼の手の中に収まっている物体を目にした瞬間、それらの言葉を紡ぐことを止めてしまった。
 そうして改めて十神の口から溢れた言葉は、
「……猫?」
 これだった。
「うん」
 苗木は普通の声音で返事をした。
 苗木の目線は、完全に猫に奪われていた。
 白い毛に、ところどころオレンジ色が混ざっている。どう見ても雑種であり、十神が今までの人生で目にしてきたような血統書付きの猫とは、似ても似つかないような野良猫だった。
 子猫というわけでもなく、だからといって成猫というわけでもない。そして、その小さく痩せ細った体は、毎日安定した食事にありついているわけではないということを、分かりやすい事実として二人に教えていた。
「野良猫なのかなあ」
 思うことは苗木も同じだったようだ。
 痩せた体に加え、目の周りが目やにで汚れた猫は、どこかの家から逃げ出してきた飼い猫、というようには見えなかった。
 希望ヶ峰学園のセキュリティはそんなに甘くないはずなのだが、猫一匹を取りこぼしているようでは見直しが必要だろう、と考えながらも、現状として混乱の渦中にある学園の姿を思い出す。
 見逃せないレベルで予備学科生による被害が大きくなっていく学園内では、教員は猫などに注意を払っている場合ではないのかもしれない。
 それでも、不安定な日常の中にも秩序は必ず存在する。
「里親見つかるまで飼ってあげられないかな」
「何を言っているんだお前は」
 呑気に猫の頭を撫でている苗木に、十神は呆れたような声で言った。
「寮含め、学園内は動物の持ち込み禁止だぞ」
「でも寒くなってきてるし、なんか見つけた時からずっとここから動かないで蹲ってるし、ほっとくのも心配じゃん」
 苗木は相変わらず、十神の方を見ず、猫に夢中だった。苗木にさすられている猫が、ごろごろと喉を鳴らしている音が僅かに聞こえた。
 十神の脳裏に、いつかの光景が蘇る。
 学園で生活を始めて数ヶ月、焼き付くような太陽が世界を照らしていた、いつかの夏の日。
 移動教室をしている途中で、雀の死骸を見つけた苗木は、あの日も十神の言葉や存在を意識の外へと放り出すようにしながら、かわいそうだという理由で雀を埋めるためにその場に残った。
 十神は今、自分が僅かな苛立ちを感じていることに、気が付いてしまった。
(話をする時くらい、こちらを見ろ!)
 それは至極単純な思いだった。誰だって会話をしている相手にないがしろにされて嫌な気持ちにならないはずがない。
 しかし十神は、自分がそんな小さなことで苛立っているという現状を、苗木に悟られたくなかった。苗木ごときに振り回されるわけにはいかないのだ。
 そうして十神が取った手段は、自分の意識を苗木ではなく、猫に向けるという行動だった。
 苗木の隣にしゃがみ、先ほどよりもよく猫を観察する。
(しかし……)
 見れば見るほど貧相な猫だ、と十神は悪気もなく思った。
 痩せた体躯は少しでも力を入れて抱けば、ぐにゃりと歪んで壊れてしまいそうだった。しかも、苗木に撫でられ続けている猫からは、なんというか、まるで警戒心というものが感じられなかった。苗木の手の動きに合わせて体をしならせ、ついには腹を見せながら横になっている。十神にはまるで理解出来ない行動に違いなかった。
 そう、猫も。かつての苗木も。
(苗木)
 十神は、そっと同じような体勢で隣にしゃがんでいる苗木の表情を、覗き見る。
 出会ったばかりの頃、十神は苗木を、まるで理解出来ない、理解する必要のない世界で生きる人間だと、切り捨てながら日々の生活を送っていた。
 しかしいつしか、目の前の猫のように、警戒心を捨てながら歩み寄ろうとする苗木という人間が、自分の学んできた帝王学だけでは掌握しきれない存在なのだということを認め、庶民の代表としてそばに置いてやろうと勝手に決めて、以後苗木と行動を共にすることが多くなっていった。
 理解する必要がない、と捨てたはずの存在を、苗木のような層を掌握するという半ば建前のような理由を繕いながら……理解したいと初めに望んだのは、いつのことだったか。
十神はそれを明確に思い出すことが出来なかった。
 ただ、順序はもしかしたら逆だったのかもしれない。
 苗木と共にいる時間は、悪くなかった。
 だからこそ、何かに理由をつけて苗木を傍に置こうとした。理解への願望やそういうものは、後からついてきただけなのかもしれない。
(……いいのか?)
 十神は今、自分の今までの行動や思考を、改めて見つめ直すことになった。
 心の深い場所で、何かが警報を鳴らしている。
 それは先程、霧切と話をしていた時にも聞こえた音のような気がした。
 十神家の当主として、不要であるはずの「何か」を拾い集めながら、無駄の多い時を生きる。
 それはやはり、平和ボケに違いないのではないだろうか。
 知らず知らずの内に牙を抜かれ、学園を卒業して本格的に家を継ぐことになってから、弱くなりすぎた自分の存在に気付いたなんて、なんて滑稽なイメージだろう。
「………」
 猫を撫でる苗木を眺め続ける。事の起こりの全てはこいつだ。こいつが自分を気にかけ続け、事あるごとにクラスの輪の中へと引っ張っていったりするから、そこから新たな糸は紡がれ、関係というものは肥大した。
 いらないはずの感情も、生まれた。
 それならやはり、自分は苗木と距離をおくべきなのではないか……。
 その時、唐突なチャイムの音が、学園全域に響いた。
 それは、ピンポイントで苗木を職員室へ呼び出すための放送だった。
苗木誠さんは、今すぐ職員室へ来てください、という声が、確かに鼓膜を揺らした。
「あれ、なんだろう」
 苗木は少し考えてから、何かを思いついたように「あっ」と声をあげた。
「そういえば、午前中に出さなきゃいけなかったプリント、まだ出してなかった!」
 苗木は大慌てで立ち上がろうとするが、自分が今まで撫でていた猫の存在に、どうしようかと戸惑いを露にした。
「うーん、どうしよう……このままほっとくのはちょっと……」
 十神の存在を頼る素振りも見せずに、苗木はひとりで困り果てていた。
 その事実に、やはり十神は妙に苛立った。
 ほうっておけ、と切り捨ててしまうことは出来ただろう。しかし、何故か十神の口から、その言葉は出てこなかった。
 かわりに、ひとつ思いついていた考えを、殆ど無意識の内に提案してしまっていたのだ。
「……学園内は動物の持ち込み禁止だが、例外はある」
「え?」
 唐突に始まった十神の話に、苗木は少し驚いたように目を見開き、十神を見た。二人の目線がしっかりと合った。何故だか妙に気分が良かった。
「ひとつ上の学園に、超高校級の飼育委員という生徒がいる。あの生徒は、確か例外的に学園での動物の飼育を許されていたはずだ」
「あ……聞いたことあるかも」
 学園にはありとあらゆる才能を持った生徒達が集まっている。特徴的な才能ならば、どこかで聞いたこともあるだろう。
 苗木も、名前や容姿こそは詳しく思い出せないが、超高校級の飼育委員という生徒がい存在することくらいは、情報として知っていた。まあ、使用頻度の低いその記憶自体は、脳みその中で様々な記憶の下に埋もれてしまっていたため、十神に言われてようやく思い出せる程度のものであったのだが。
 解決策を思いついた苗木は、嬉しそうに猫の頭を撫でながら、言った。
「やっぱり希望ヶ峰学園はすごいや! とりあえず今は職員室に呼び出されてるし、昼休みだから飼育委員の先輩もどこにいるか分かんないし……うん、五時間目の後にでも頼みに行ってみよう!」
 そうして苗木は突然、自分のブレザーを脱ぎ始めた。いきなり何をしているのかと十神は軽く言葉を失ったのだが、ブレザーの下に着込んでいた学校指定のカーディガンを脱いでから、苗木は再びブレザーを纏い直す。
 結果として、苗木は中に来ていたカーディガンだけを脱いだ形になった。
 木枯らしが吹き付けるこんな寒空の下、唐突に何を考えついたのだろうかと、十神は苗木の頭が心配になった。
 そんな十神の心境も知らず、苗木は当然のように、自分のカーディガンで猫を包み込み、それを毛布の代わりにしたのであった。
「とりあえず、これ貸してあげるからここで待っててね」
「おい、お前……」
 十神は信じられないような目で、猫に語りかけ続けている苗木を見る。
 苗木のカーディガンに包まれた痩せた猫は、安心したように大人しくなる。ずっとこの場所から動かなかった、という苗木の言葉は正しかったようだ。
 未だ戸惑いを顕にする十神に、苗木は笑顔を向けながら、言った。
「十神クン、飼育委員の人のこと教えてくれてありがとう! それじゃ、僕とりあえず職員室に行くから!」
「おい、苗木!」
「また授業でね!」
 そう言って、苗木は十神の言葉も待たずに走って行ってしまった。
 苗木はたまに、人の話を聞かない。
 しかしそんな苗木の姿を見るようになったのは、ここ最近のことだと十神は思う。
 出会った頃は、とにかく苗木は人の話を聞いた。だからこそ、勝手に中立の立場に立たされて、クラスメイトのちょっとした諍いをたしなめるような場面も、頻繁に見た。
 十神の話も、喋る十神を邪魔しないようなタイミングで、今思い返せば心地よい相槌を打ちながら、丁寧に聞いていた。
 きっと、そういうところから積み重なっていった無意識下の苗木に対する好意が、苗木を傍に置こうと決意するに至らせる、決定的な要素となったことは違いない。
 だけど現時点の十神は、今のように十神の話を最後まで聞くことなく、勝手にはしゃいで勝手に礼を言って勝手に走り出してしまうような苗木の行動に、そこまでの嫌悪感を覚えることが出来なかった。
 もしも出会ったばかりの苗木が同じような態度を持って十神に接していたのなら、十神は苗木を傍に置こうなんて思わなかっただろう。
 何かが、変わり始めている。
 十神はその「何か」を、少しだけ恐れている自分がいることに、気が付いた。
 遠くから未だ聞こえ続ける予備学科によるパレードの音に紛れて、足元の猫の寝息が、やけに鮮明に十神の鼓膜へと、届いた。





(本編へ続く)



inserted by FC2 system