絶望の国のアリス(サンプル)




 1 うさぎの穴

 その規則的なプレス音が耳へと届いて鼓膜を揺らす度に、自分の体温が一度、また一度と下がっていくような錯覚を覚えた。
生きている内に確かめることの出来る温度が最後には何も無くなってしまうのだという点では正解なのかもしれない。そんな場違いなことを考えている間にも、自分を乗せたベルトコンベアーは、ゆっくりと後退し続けていた。
 目の前で繰り広げられるのは生命の始まりを教える補習授業という名の茶番だ。背後で響く魔物の鳴き声を聞きながら、不気味なデザインのマスコット、モノクマが持っている指差し棒の動きを目で追う。そうでもしていなければ気が狂いそうだった。むしろどうして気が狂わずにいられるというのか。どこまでも残虐性を追求し続けた公開処刑は今まさにクライマックスを迎えようとしているのに。
 長方形の鉄の塊が上下運動を繰り返す、その真下へと運ばれる自分は、膝を揃えて椅子にぴったり腰掛けている。逃げ出してしまえばいいのに。そう思う。思っている。
 それでも体は動かない。接着剤で椅子に貼り付けられてしまったわけでもないのに、何か不思議な力が働いているのか、逃げるどころか立ち上がることも叶わなかった。
 だから苗木は、まるで受け入れているかのような顔で、自分を殺すためのプレス機械へ向かって進んでいく。少しずつ、だけど確実に。音は大きくなっていく。
 そして、数秒後に迫った死の瞬間を迎えたとき、苗木の脳内にふっとよぎった考えがあった。
(……お腹すいたな)
 最後にご飯を食べたのはいつだったっけ。
 この学園での生活は、システム上では飢えに怯える必要はないはずなのだが、それと気持ちの問題はまた別物だ。
 これから一緒に希望ヶ峰学園で学園生活を送るはずだったクラスメイトがひとり、またひとりと狂気の渦に巻き込まれ命を落としていくような状況下で、心の平穏を保つことなんて初めから不可能だったのだ。
 生きるためには食べなくてはいけない。だから勝手に補充される食料を毎日食べた。
食べる。
ただ、生きるために。
 こうやって、処刑の瞬間になった今でもまだ、「お腹がすいた」なんてことを考える自分がいることに驚いた。そうして、ああ、生きていたいんだな、という無意識の希望と出会った。
 だけど背後から聞こえる死の足音はだんだんと大きくなるばかりで、そんな希望は決して叶わないのだというように苗木のことを嘲笑う。
 死にたくない。
 プレス音は響く。少しずつ大きくなる。震える空気さえも鮮明に感覚を刺激する。
 死にたくない!
 その時だった。
 脳に直接響くような、重く低い死の足音が、消えた。
「え……?」
 それは誰の驚く声だったのだろう。自分以外の生き残った生徒達の内の誰のものでもあるような不思議な声だった。
(あれ)
 重力がおかしい。視界がおかしい。見上げた先で、先程までしつこいくらいに上下運動を繰り返していた長方形の鉄の塊が、叱られた子供のようにぴくりとも動かなくなっているのが見えた。
そうして何かに背中を引っ張られるように、ゆっくりと自分の体が傾いていく。
その時、今まで指し棒をゆらゆら揺らしていただけのモノクマの、驚いたような表情が見えた。
自分の身に、イレギュラーな事態が降りかかっているのだと、静かに理解した。
しかし、何がどうなって自分があの鉄の塊に押しつぶされずに済んだのかは、分からない。誰か教えてよ、と思うよりも先に、自分が椅子に座ったままの姿で落下しているのだという事実に気付き、それどころではなくなった。
頭から真っ逆さまだ。
「嘘!」
 久しぶりに自分の声を聞いた気がするのは、ベルトコンベアーを流れていくあの時間がまるで永遠のように感じられたからだろうか。
とにかく、苗木はまたしても死に向かって急降下している。この緩急の振り幅。まるでジェットコースターのような人生だ。最後に待っているものが死という点ではきっと十分なメンテナンスが行われていなかったのだ。
「死にたくないよ!」
 声が出せる。どうしてさっきは出なかったんだろう。気が狂って喚き散らすには十分すぎる程の焦らされ方をしたのに。
真っ逆さまに落ちていく。視界の上で伸びかけた前髪がばたばたと揺れる。あ、髪の毛切りたいって思っていたんだっけ。近所の床屋さんに行こう。そういえば、中学の頃からの友達の半分位は、美容院で髪の毛切るようになったって話してたけど、どうしよう。いつ変えるのが正しいんだろう。
(なんて、そんなこと考えてる場合じゃない!)
 今にも頭から地面に激突してしまいそうな状況にあるのに、無意識のうちだとしても、どうしてそんな呑気なことを考えられるのだろうかと、自分で自分に疑問を覚えた。
 落下していく体。姿勢は未だに、与えられた椅子に腰掛けたままの妙なビジュアルだ。ヒュルルルと風を切る間抜けな音が聞こえるというのに、苗木は授業中と変わらぬ姿勢で椅子にぴったり張り付いている。
(……それにしても)
 苗木はふいに不安になった。
 いつまでたっても穴の終わりが訪れない。ぐんぐんと落ちていく速度の中、苗木はそんな疑問を覚え始めていた。
 いや、地面と衝突してぐちゃぐちゃになることを望んでいるわけではないのだが、それにしても、もう随分と長いことこの穴を落ち続けているのではないかと、その事実に対して純粋な疑問を抱いているだけなのだ。
 希望ヶ峰学園に秘密の地下室でも存在していたとでも言われなければ納得できない。そんなことを考えている内にも、苗木はどんどんどんどん下へ下へと落下していき、ついには地下室なんてものでは片付けられないくらいの時間が経過してしまっていたのであった。
「……もしかして、これが僕に対するオシオキ?」
 永遠の落下。そう考えれば、何だか納得がいくような気がした。
 自分の仲間たちをあの手この手で次々に処刑して、エクストリーム! なんて喜んでいた相手だ。どんな絶望を用意しているのかなんて分からない。
苗木に与えられたこの状況も、精神と体力の限界に挑戦させるような過酷な処刑の姿なのだと言われてしまえばそれまでだ。
そんな残酷なことってない!
 なんて言葉は、モノクマ及びモノクマを操作する黒幕にとっては、街中で聞こえる新興宗教の勧誘の声以上にどうでもいいものなのだ。右から左へと流される。
「……でも、まだ生きてるんだよね」
 苗木はぽつりと呟いた。
 もしも黒幕の用意した処刑が、本当に永遠の落下なんていう長期戦なものだというのなら、むしろそこに希望はまだ残っている。
 まだ生きている。死にたくない。ならば、死なないためにどうするべきか。それを考えることが出来る。まだ生きているのだから。
 持ち前の前向きさで、苗木は周囲を見渡し始めた。
 そして、何かが圧倒的におかしいことに、気が付く。
「これ……写真?」
 いや、写真じゃない。
 落ちていく速度の中、苗木は四方を囲む壁で、何かが断続的に瞬いているのを確かに見た。
 それこそ写真サイズの長方形の光が、切れかけの電球のようにじわじわと画像を映し出している。そこに見えたものが、見覚えのある人物たちを写した静止画だったからこそ、苗木はその光を写真なんかと間違えたのだ。
「……なにこれ」
 思わず言葉を失った。
 写真のように像を作り出す幾つものその光。その内のひとつに、この学園生活の中で殺された山田、セレス、そして舞園が笑い合いながら、まるで普通のクラスメイトみたいに、教室で笑い合っている画像があった。
 苗木は慌てて他の光へと目を向ける。
「!」
 目を凝らし眺めた、明滅する光に映し出されるその画像は、山田やセレス、舞園がそうであったように、大和田、不二咲、石丸、大神、桑田が、楽しそうに学園生活を送っているという不可思議なものだった。
 まるで、有り得たかもしれない未来の姿のようだった。希望ヶ峰学園に入学し、始まった高校生活の中で、たくさんの個性豊かな仲間たちが、騒がしくも楽しい毎日を送る。初めて学園の門の前に立ったあの時、ぼんやりと想像した未来が、光の中に写し出されている。
死んだはずの仲間たちが、笑っている。
「……どういうことなの!」
 苗木は思わず叫んだ。あまりにも悪趣味だ。写真の中で笑う、この先の未来を共に生きるはずだった友達は皆等しく命を落としている。有り得たかもしれない未来は、絶対に有り得ない未来でもあるのだ。
 苗木は、その光に触れようと、まるで張り付いていたかのようにずっと一緒にあった椅子から離れた。椅子は苗木を止めたりしなかった。あまりにもあっけなく、椅子と苗木が引き離される。
 そうして頭から真っ逆さまに落下していた体勢を、苗木はぐるりと反転させる。それも簡単に出来た。
 気が付いた時には、急降下していたはずの苗木の体は、いつの間にかゆっくりと、見えないパラシュートでも身につけているかのような穏やかさで、ゆっくりと下へと進み始めた。自分がたんぽぽの綿毛にでもなってしまった気分だ。
 苗木は腕を組んで考え始めた。
「おかしくない? どうして急に落ちていく速度が遅くなったの?」
 考えて考えて、もしかしたら有り得るかもしれない可能性を、とりあえず思い浮かべてみる。
実は下から風が吹き上がってきていて、それに押される力に、落下する力がうまい具合に相殺されて、結果として丁度いい速さで苗木の体はまだ見ぬ底へと向かって進み始めている。とか。
「まあいいや。そういうことにしておこう」
 とりあえずの結論を出し、苗木は再び、昔映画で見た飛行石の洞窟のように眩く光る周囲の壁に視線を向けた。
 楽しそうに笑うクラスメイト達の像。瞬いては消え、消えては瞬いてを繰り返す、覚えのない未来。
 その時、苗木はふとした違和感を覚えた。
「あれ、これって……」
 しかし、苗木がその「違和感」を声に出すよりも先に、唐突に、本当に唐突に、永遠だったはずの落下は、呆気なく終わりを迎えたのだった。
 苗木のつま先が、地面のようなものに触れる。
「むぎゅ」
………。
むぎゅ?
足元から聞こえた珍妙な音、いや、声か?
 そもそも、地面にしては柔らかすぎる気がした。苗木は、恐る恐るといった様子で、自分のつま先に視線を下ろす。
「………」
 サアッと、顔が青ざめていく音が聞こえた気がした。そして、一瞬の間のあと、絶叫。
「ぎ、ぎゃあああああああ!」
「むぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ」
 苗木の足の裏で、その物体は何かを喋りたそうに、もごもごと口を動かした。しかしその物体からこぼれる音、または声は、一向に言葉として成立しないのだ。何故なら、苗木が未だにその口らしき部位を、着地したばかりの足で踏みつけているからだ。
「うわあああああああ!」
 苗木は二度目の叫び声をあげてから、降り立った地点であるその場所から、一目散に飛び退いた。
 そして、その「物体」から大体3メートル程の距離を置いてから、今度こそ意味のある言葉を叫んだ。
「首っ!!」
 混乱のせいで、うまく文章を作り出せない。口から溢れたその音はただの単語だった。
 首。
 苗木が距離を置いた物体。それはまさしく、正しく、その単語のまま、どこまでも、首だった。
「あわ、あわわわ」
 苗木は混乱していた。そんな苗木に向かって語りかけられる声は、苗木を混乱の渦中に招いたその首本人なのだから奇妙な話だ。
「こんなところに人が来るなんて!」
 第一声を発しながら、首は驚いたようにこちらを見た。驚きたいのは苗木の方なのだが。
 苗木は3メートルの距離を保ちながら、改めて首を観察する。白い頭髪、不思議と整った顔面のパーツ、そして、なんだか聞き覚えのある声。
 怪しいにも程があるはずのその首に、苗木は思わず話しかけていた。
「き、君は何? 人間なの……?」
 身体を持たない、まるでサッカーボールのような首は、苗木の質問に素直に答えた。
「ううん。人間じゃないよ。人間は首と胴体を離されてしまえば生きてはいけないだろう?」
「や、それはそうなんだけど……」
 おかしな生き物に最もなことを言われ、苗木はなんだか腑に落ちない気持ちになる。
「人間は首と胴体を切り離されたら死んでしまう。だけど僕は、こうして君とお喋りをすることも出来るし、ここにある両目で君の姿を見つめることだって出来る。何故なら僕は、最初から首と胴体を切り離されてなんていないんだからね」
「ど、どういうこと?」
 意味の分からない姿で意味の分からないことをベラベラ話す首に、苗木はビクビクと聞き返す。
 首は、今日の天気でも教えるかのような口調で言った。
「僕には初めから胴体なんてないからね。切り離される胴体が無かった、それだけさ」
 そうして、こう続けた。
「僕は人間でもなんでもない。設定のない僕なんて、物語の上では落書き同然のゴミクズさ」
「ゴミ……クズ……?」
 笑顔で自分を卑下する首の言葉を苗木が繰り返す。首はさも当然のように笑い続ける。
「だけど君には設定がある。君の知る、君以外のクラスメイト達にもね。そしてこの場所は君の知る世界とはまた別の……そう、世界と呼ぶのもおこがましい、所謂バグのようなものさ」
「ん、んん?」
 苗木には、首の言っている言葉の意味がまるで理解出来なかった。
「昔、ゲームとかであったでしょ? バグのせいで先に進めなくなっちゃったり、ゲームそのものがおかしくなっちゃたりしたこと。そういうゲームと同じで、世界にもバグが存在するのさ」
「バグ……」
「君があの処刑の瞬間、死を免れてダストシュートへ落ちていったことがバグのきっかけになったみたい。ここは本来プレイヤーが辿り着くはずのない、設定だけが与えられた未完成の物語だから」
「も、もう少し簡単に言ってもらえるかな」
 一向に話を理解することが出来ない苗木に、首は全く苛立つ様子も見せず、にっこりと笑顔を浮かべた。
「要は、君はひょんなことから異世界に紛れ込んじゃったわけなんだよね。不思議の国のアリスって知ってる? あんな感じだよ」
「……へ!?」
 そこに至った原因こそ分からないものの、ようやく状況だけは理解した。
自分のおかれた現状が、理解出来るものではないということを、理解した。
そうして改めて、辺りを見渡す。
たった今、落ちてきたばかりの上方を見上げる。自分の立っている場所から数十メートル位までは、ちかちかと四角い光が点在しながら輝いているのだが、それ以上になると、吸い込まれるような闇のみが満ちている。
どれくらい落ちてきたのかは分からないが、スタート地点は全く見えない。処刑の瞬間を思い出す。
プレス機械に押しつぶされるはずだった自分が、長い長い縦穴へ落ちていった姿を青い顔で見つめていた、残りのクラスメイト達。この穴の向こうで、今でもちゃんと生きているだろうか。
……どれくらいの時間を落ちていたのだろう。改めて考えれば、何百年も落下を続けたような気もするし、ほんの一瞬でここまでたどり着いたような気もするから、感覚自体がおかしくなっているのかもしれない。
とにかく、自分は生きている。その事実を、大神さくらの学級裁判の後、共に黒幕を倒すと決めた仲間たちに伝えたい。何もかもが黒幕の手の平の上ではないのだと、希望は残っているのだと。
……どうすれば、あの場所に戻ることが出来るのだろうか。
頭上で伸びている暗闇を見つめ、苗木の表情が曇る。
「どうしたの?」
 そんな苗木に声をかけるのは首だった。
 苗木は少し、いや、かなり胡乱な表情を浮かべながらも、この状況で現状に精通している存在は目の前の首しかいないのだという事実を思い出し、口を開く。
「どうやったら元の場所に戻れるか、君は知ってる?」
「知ってるよ」
 あっさりと答えは返ってきた。苗木は思わず拍子抜けしてしまった。
「本当? 教えてくれないかな」
「勿論だよ。そもそも、君はそう言うように出来ているんだ」
「?」
「それが君の設定だからね。羨ましいな。君には目指すべき道と、信じるべき設定がある。誰も知らない僕にはそれ自体が無いんだ。だからこうしてゴミクズみたいにこんなところに転がったまま動けない。だけど君は僕の前に現れた! それがバグだとしても構わないよ。今から始まるこの物語の中で設定を持たない不完全な姿の僕は自分で動くことも叶わないけれど、設定を持たない故に意思だけは自由だ。だから僕は自分の意志を持って、君に助言を与えたいんだ」
「ま、またわけが分からなくなっちゃったよ……」
 苗木が頭を抱える。首はどこか興奮した様子でべらべらと喋り続けた。
「この世界から脱出しようとする君の意思は、君に与えられた最も尊い設定だ。僕はそんな君を助けたい。そうすることによって自分の存在を確立したい。何もない僕に、設定が与えられていく。ああ、たまらないね!」
 首はついに、はあはあと息を切らし、口の端から唾液を垂らし始めた。目の焦点もどこかピンボケだ。
 苗木は耐えられず叫んだ。
「も、もういいよ! 分かったから! とにかく、どうすればここから帰ることが出来るのか教えてよ!」
 自分で言っていておかしな話だ。あんなに抜け出したい、脱出したい、と懇願していたはずの希望ヶ峰学園に帰るための方法を必死になって聞いている。
 未だ興奮した様子の首だったが、苗木のその問いに、ああ、と思い出したように目を見開き、言った。


「ハートの女王を見つけ出して、殺してしまえばいいんだよ!」

 沈黙。
 首は恐らく、苗木の言葉を待っている。しかし、苗木が黙り込むので、二人の間に静寂が訪れるのも仕方のないことだった。
「……えっと」
 苗木は慎重に言葉を選んだ。
 殺すとか、殺されるとか、コロシアイ学園生活なんて非現実的な状況に巻き込まれてからは随分と口にしたり口にされたりすることが多くなったワードを、ここでも聞くハメになってしまうなんて。
 苗木は半ば辟易するように口を開いた。
「殺すとか、そういう言葉が出てこない感じの、他の方法って……」
「証拠を見つけて、ハートの女王が誰なのか裁判で決定して、殺すんだよ!」
 裁判!
 またそれか!
 そうやって叫びたくなった。
「僕は誰も殺さないよ!」
 どこに行っても同じような目に遭わなくてはいけない現状に、苗木はほとほと疲れ果ててしまった。
「他に帰る方法はないの!?」
 そんな苗木を宥めるように、首は優しげな声でこう言った。
「大丈夫。そこが例えどんな場所であろうとも、世界には必ずルールってものが存在するんだ。他の設定を持った君のクラスメイト達が、必ず道を示してくれるよ。必ずさ。君たちは設定通りにしか動くことが出来ないんだから。ああ、素敵だなあ」
「設定……」
 しつこいくらいに繰り返されるその単語。苗木は少し嫌な気分になった。まるで、最初から決められた道の上を歩かされているみたいで、もやもやする。
 そしてふと、思いついたように首に問いかけた。
「君がこうして僕に助言? してくれるのも、設定なの?」
 すると首は驚いたような顔で「とんでもない!」と叫んだ。
「言っただろう、僕には設定がないんだ。設定がないから物語に登場できない。だからこそ、僕は設定に縛られるこの世界で唯一自由に行動することが出来るんだけど、設定がないから身体がない! つまり、自由に動けないんだ! こんな滑稽なことってあるかい!?」
 途端にヒステリックな声をあげる首に少し驚きながらも、苗木は今までの首の発言を脳内で思い返しながら、言った。
「それじゃあ、僕を助けてくれる、っていうのは、君自身の意志なんだね」
「まあ、そういうことになるのかな」
「それを聞いて安心したよ。……とにかく、ハートの女王を見つけ出して殺すのが、この世界で僕に与えられた設定なら、僕はその設定を壊したい。きっと出来るはずだよ誰もが設定なんかに縛られたりしないんだってこと、君が証明してるんだから」
「……まあ、君がそう思うなら、そういうことでいいよ」
 首は初めて少し不服そうな表情を見せた。
 どうにも、この首は「設定」というものを盲信している節があるな、と苗木は思った。
「どうしてそんなに設定にこだわるの?」
 苗木の問いに、首は自嘲するような笑みを浮かべながら、答えた。
「それが自分にないものだからさ。設定のない僕なんて、何も無いのと一緒なんだよ。誰にも見てもらえない。誰にも感情を向けてもらえない。ゴミ以下なんだ」
「……そんなことないよ。だって、君はこうして今、僕に話しかけてくれてるし、僕も君に話しかけている。設定がどうとかっていう話はよく分からないけど、何も無いだなんて、そんなことは有り得ないよ」
「………」
 首は黙り込み、苗木をじっと見つめる。そして、ふいに笑顔を見せ、「君は優しいね」と言った。その言葉に、どういう真意が込められているのかは、苗木に分からない。
 とにかく、苗木はこの場所から希望ヶ峰学園に帰らなくてはいけない。
そのためには、どうしても首の助けが必要となるだろう。ひとりで非現実の中を彷徨ってもろくなことが起きないという事実は、ここ数日のコロシアイ学園生活の中で嫌というほど実感した。例えそれが水の中で漂う一本の藁だとしても、無力で無知な自分は縋って進まなくてはいけないのだ。
「僕はとにかく、元の世界に帰りたい。ハートの女王? を殺すっていうのは納得してないけど、他に方法を見つけることが出来るかもしれないし、とりあえずこの穴の底以外の場所に出たいな。君なら出口を知ってるんでしょ?」
 苗木の頼みに、首はぱあっと笑顔を浮かべた。
「勿論! 案内するよ! 嬉しいな、誰かに頼まれ事をされるなんて初めてだよ!」
「そ、そう。とりあえず、君の名前を教えてくれないかな」
「うん、僕の名前は……」
 そこまで言って、首はハッと何かに気が付いたように目を見開き、黙り込んだ。
「……どうしたの?」
 今までペラペラと笑顔で喋り続けていたくせに、急に声でも失ってしまったかのように口を噤んだ首に、苗木は恐る恐る話しかける。不気味に思っていることには変わらないのだが、黙り込まれるよりは喋っていてもらえる方がミクロ単位でまだマシだ。
 眉を寄せて見つめてくる苗木に、首は再び笑いかける。それは困り顔のような笑顔だった。
「まいったなぁ。君に自己紹介をしたいのは山々なんだけど、何度も言ってるとおり、僕には設定がないから、勿論名前なんて素敵なものは持っていないんだ」
「あ……」
 首はからからと笑ったが、苗木の目にはなんだかその笑顔が悲しそうに映った。首が「設定」に固執していることを知ってしまったからかもしれない。
 それでも首はあっけからんとした様子で、言った。
「適当に、首でもゴミでも好きに呼んでくれて構わないよ!」
「そ、そんなの、出来ないよ……」
 どこまでも自分を卑下する首に、苗木は少しばかり同情していた。苗木はすぐに相手に感情移入してしまう癖があった。だからこそ、いつも厄介事に巻き込まれてばかりなのだが、性分ゆえに改善の見込みは今のところ無い。
「うーん、設定かあ……」
 苗木は考え込む。設定を重んじる首に、何か自分がしてやれることはないか。
 そして、ひとつ思いついたことがあった。
「そうだ、僕が君に名前をつけてあげる」
 苗木の提案に、首は「気持ちは嬉しいけれど」と前置きをしてから、続けた。
「それは無理じゃないかなあ。僕の設定はまだどこにもないんだから、僕に名前がつくような状況はありえないんだ」
「な、なんで?」
「百聞は一見に如かず、ってやつだね。実際に頭の中で僕の名前を考えてみなよ。何も思い浮かばないはずだから」
「そんなわけ……」
 言われるままに、苗木は首の名前に成りうるような何かを、脳内で思い浮かべてみようとした。
「……あれ?」
 そこで、ふいに違和感を覚える。
 何も思い浮かばない。
「ね、言ったとおりでしょ」
「え、なにこれ、え?」
 ネーミングセンスがないだとか、急に考えても何も思いつかないだとか、そういうのとはまた違った。
 本当に、何も浮かんでこない。からっぽの水槽を見つめているような気分だ。
「初めから設定されていないものを見つけることなんて出来ないんだ。君は悪くないよ」
「設定……」
 未だうんうんと唸りながら、苗木は必死になって名前を考えようとするが、相変わらず何一つ浮かんでこない。初めからそういうシステムとして出来上がっているような奇妙な感覚だった。
 そうして、ふと思い出す。首には無くて、自分は持っているという、「設定」。
「そうだ!」
 苗木は、パッと顔を上げる。そして口を開いた。
「僕の設定ってやつを、君に分けてあげるよ!」
「うん?」
 首が、首を傾げた。実際には、僅かにコロンと右方向に傾いただけなのだが。
「きっと無いものから作り出そうとするから作れないんだ。それなら……」
 苗木は今一度、うんうんと唸り声をこぼし始めるが、今度は長く続かなかった。
「苗木誠……なえぎまこと……とこま……なぎ……あっ」
 思い付いた、というように、苗木の頭上で電球が光る。比喩ではなく、実際に現れた。ここは全てがでたらめな世界だ。
「こまえだなぎと! こんなのどうかな!?」
「こまえだ……?」
「君の名前!」
 首がポカンとした表情を浮かべながら、黙り込む。
そんな首の様子を見て苗木は、もしかして自分は何かとんでもなく見当違いなことを言ってしまったのではないかと、今更不安になった。
 確かに名前なんて記号のようなものなのだから、首の言うとおり適当に呼べばいいだけの話なのかもしれない。だけど苗木は、設定が無いと嘆く首を気の毒に思ってしまった。
だけどこの世界で、設定の無いものは「無い」ことと同じらしい。それは存在そのものも、名前も同じこと。だから苗木は首の名前を考えることが出来なかった。
それなら、設定設定と繰り返す首のために、自分の設定を分け与えればいいのではないか、と考えた。
つまり苗木は、自分の名前である「苗木誠」という文字から、新しい名前を作り出したのだ。
 結果は大成功だ。
「狛枝凪斗」
 その名前は、何に遮られることもなく、スルリと喉の奥からやって来た。
「狛枝……それが、僕の名前」
「えっと、気に入らなかったかな……」
「とんでもない!」
 首の……いや、狛枝の表情が輝いた。
「こんなに素晴らしい日はないよ! 狛枝……狛枝凪斗! ああ、素晴らしいね!」
 狛枝ははあはあと涎を垂らしながら喜んでいた。そこまで喜んでもらえると、こちらまで嬉しくなってしまう。
 興奮した様子のまま、狛枝は声を張り上げた。
「それじゃあ、早速ハートの女王を見つけ出すための証拠を探しに行こう!」
「お、おー?」
 その勢いに押されて、苗木は思わず右手を上げて答えてしまったが、これでいいのだろうか。
 狛枝は満足げに笑う。
「よし、急ごう! 世界の終わりまであと28日と6時間と42分12秒しかないよ」
 どこかで聞いたことのあるようなそのセリフだが、とにかく今は従うしかなかった。
 そうして苗木は、身体のない狛枝の首をそっと持ち上げて、彼の言う方へと歩き出すのだった。




 2 名無しの森

 苗木は狛枝に促されるまま、ぐんぐんと前に伸びている細い道を歩いていた。
 苗木が落ちてきた縦穴の底で、狛枝がごろりと転がっていた場所のすぐ後ろには一本の道があった。というか、そこ以外に他の場所へ続いているらしい道はなかったし、さらに言えばそれは道というよりも廊下だった。
 板張りの廊下を進んでいく中、苗木は周囲を見渡しながら、腕の中の狛枝に声をかける。
「ねえ、どれくらい進めばいいのかな。もう結構歩いてる気がするんだけど」
「そうだねえ、もう少しだと思うよ」
「えっ、思うよって、どういうこと?」
 この道がどれだけ続くのか、もしかして狛枝自身も理解していないのだろうか。狛枝の存在そのものを疑うような目をした苗木に気付いているのかいないのか、狛枝は歌うように言葉を続ける。
「それより、どうだい。そろそろお腹が空いてこないかい?」
「おなか?」
 言われてみれば、空いているような。
 というか、空いている。苗木は、自分がベルトコンベアーでプレス機械の下へと運ばれていた時のことを思い出した。
 お腹がすいたな、なんて場違いなことを考えていたではないか。なんだか随分と昔のことのような気がしたけれど……まあ、実際あれからどれくらいの時間が経ったのかなんて、苗木にはさっぱり分からなかったのだけれど。
「うん、確かに空いてるかも」
 苗木が正直に答えた、その時だった。
「うへっ!?」
 歩みを続けていた苗木の足が、「何か」に躓いた。
 狛枝と会話くらいはしていたのもの、前方から注意を背けていたわけでもない。だって苗木の目の前には、どこまでも続く廊下ばかりが、障害物もなく真っ直ぐに伸びていたはずなのだ。
「痛い!」
 苗木は躓いた勢いのまま、ゴロンと一回転して地面に転んだ。バラエティのリアクションとしてなら万点を貰えただろうが、自分と狛枝しかいないこの場所では無駄に大げさ過ぎる動作だった。勿論、好きでそんな風に転んだわけではない。
 苗木が転んだ拍子に、抱えていた狛枝も腕の中から放り出され、ゴロンゴロンと廊下を転がった。「狛枝クン!」と苗木は叫ぶけれど、その首を回収するよりも先に、自分が躓いた「何か」に、無意識に視線が吸い寄せられた。
「……プレゼントボックス?」
 苗木が躓いたものは、カラフルなストライプ柄をした長方形の箱だった。昔、クリスマスの朝に似たような物が毎年枕元に置かれていたことを思い出す。
「なんでこんなものが、こんなところに?」
 今一度言うが、苗木は前方から注意を背けていたわけではない。本当に突然、そのプレゼントボックスは苗木の足元に現れたというわけなのだ。
「さ、触らない方がいいよね」
 そうひとりごちて、再度廊下を進もうと決めた。
 しかし、苗木がプレゼントボックスに背を向け、今までの進行方向へと体を向け直したその時、またしてもイレギュラーな自体が目の前に現れていることに気付くのだった。
「……行き止まり!?」
 目の前に、白い壁。
 先程のプレゼントボックス同様、その壁は本当に唐突に、伸び続けていた廊下の終わりとして、苗木の目の前に当たり前のような姿で存在していた。
 当然、「あとどれくらい進めばいいのか」という意味合いの言葉を狛枝に向けて発した通り、箱に躓くその前まで、苗木の目にはちゃんと(ちゃんとというのもおかしな話だが)、永遠に続くような廊下の姿が見えていた。
 それが突然、終わっている。白い壁に遮られ、永遠の廊下など初めから無かったかのように。
「こ、狛枝クン!」
 不可思議な状況に、苗木は狛枝の名を呼んだ。しかし、転んだ拍子に取り落としてしまった首の姿が、どうしてか見当たらない。
 そこに無いはずのものが唐突に現れたり、あったはずのものが消えたり、もうめちゃくちゃだ。苗木は今にも泣いてしまいそうだった。
「なんだよもう……なんなんだよっ」
 当然、叫んで状況が変わる訳もなく。細く狭い廊下に、わんわんと木霊する自分の叫び声がひどく虚しかった。
「行き止まりだし、狛枝クンはいないし、これからどうしよう……ん?」
 ふと、苗木は行く先を遮る壁の下の方に、何か柄のようなものがついているのを見つけた。
「なんだこれ?」
 よく見れば、それは柄ではなく、猫やウサギぐらいの大きさの動物がギリギリ通れることの出来るような、小さな扉だった。
 苗木は床に蹲り、その扉を観察した。何せ今の苗木に出来ることといえば、その怪しい扉を観察することか、もっと怪しい後方のプレゼントボックスの蓋を開けるかの二択だったのだから。
 扉同様小さなドアノブを、人差し指と親指で摘むようにして、回す。施錠はされていなかった。慎重に、苗木はその扉をこちら側に引いた。そうしてそのまま、扉の向こう側を覗き込むために、蹲った姿勢でゆっくりと床に顔を近付ける。
「……希望ヶ峰学園!?」
 なんと、覗き込んだ扉の向こうは、つい先程まで苗木が、出会ったばかりのクラスメイトとコロシアイ学園生活なんていうふざけた生活を共にしていたはずの、希望ヶ峰学園へと繋がっていたのだった。
 なんだ、案外簡単に帰れてしまったじゃないか!
 苗木は手放しで喜んだ。
 そもそも、あんなに出たい出たいと望み続けていた学園へ戻れることを喜ぶなんて、やっぱりおかしい話なのだが、苗木は今現在、その違和感を完全に忘れ去っていた。
 そして同時に、手放しで喜んでいる場合ではない、いくつかの問題点も浮上する。
「……どうやってくぐり抜けろって言うんだろう」
 苗木が渋い顔をするのも無理はない。
「こんな扉、僕が赤ちゃんだったとしても通れないよ」
 何度観察しても、その扉は猫でギリギリ通るか通れないか、というくらいの大きさだ。いくら通常の男子高校生よりも小柄な苗木だろうと、一目見ればそこをくぐり抜けることが不可能であることくらい理解出来る。
 またしても、八方塞がりだ。
(……いや)
 苗木はそっと立ち上がり、後ろを振り向く。
 そこには、先程唐突に現れて、自分を転ばせたプレゼントボックスが、何も言わずに存在している。
 いや、何か言われても怖いけれど。
「これを、開けるしかないのかなあ……」
 それ以外に、今自分が出来ることは何もなかった。
道がない。扉は小さくて潜れない。来た道を戻っても、自分が落ちてきた穴が伸びているだけだ。
「……自分から危険に飛び込んでみなくちゃ、何も変わらない、か」
 苗木は意を決し、プレゼントボックスの前に戻って来た。そして、そのカラフルな蓋を、そっと持ち上げる。蓋は、拍子抜けするくらいあっさりと開く。
「? なんだろう、いい匂いがする」
 蓋の中には何かが入っていた。しかし、その何かの上に、白い布がかけられていたせいで、蓋を開けただけではその何かが何なのかは、まだ分からない。しかし、なんだかとてもいい匂いがした。
 ふと、蓋の裏に、張り紙のようなものが貼ってあることに、苗木は気付いた。
 そこには、女子高生が書いたような丸い文字で、
「カニバリズムなんて絶望的! 私の愛する絶望よ、どうぞ私を食べてみて!」
 と、あった。
 意味が分からない。
「食べる……」
 しかし、食べるだのなんだのという文章と、未だ漂い続ける謎のいい匂いのせいで、苗木は再び自分が空腹だという事実を思い出した。
 もしかすると、この白い布の下にあるものは、食べ物なのかもしれない。ていうか、きっとそうだ。そうに違いない。
 苗木は無意識の内に期待に胸を膨らませながら、白い布をそっと取り払った。
 そして。
「……うぎゃあああああああああ!」
 持てる限りの反射能力で、思い切り後方へと後ずさった。
 箱の中に入っていたもの、それは、どこからどう見ても、人間の左腕に違いなかった。
「どうして腕が!」
 苗木は涙目で叫んだ。
 だって、あんなにいい匂いがしたのに。あんなにカラフルで無害そうな箱に入っていたのに。どうして腕なんだ。そして、誰の腕なんだ。
「なんなんだよ……」
 学園に来てからも、この穴に落ちてきてからも、そればかりだ。なんなんだ。どうしてこんな目に合わなくちゃいけないんだ。誰かに説明して欲しい。
「……狛枝クン」
 唯一、苗木の知らないはずの何かを知っているであろう狛枝も、自分が取りこぼした時にどこかへ行って、それきりだ。なんだか、懐いていた家猫が、扉を開けた瞬間に一目散に逃げて行ってしまったような寂しい気分だ。
 そしてふと、苗木はとあることを思い付いた。
「……もしかして、あの腕って、狛枝クンのものなんじゃない?」
 その言葉に答える声はないけれど、そんなことは初めから分かっているので気にしない。
 だってそうだ。当たり前のように首だけがぽつりと存在している世界なんておかしい。圧倒的に間違っている。それなら、他の様々なパーツが、この世界のどこかにあったとして、何も不思議ではないだろう。
 そもそも、苗木はついさっきまで、言葉をベラベラ喋る生首と一緒に行動をしていたのだ。今更、腕の一本や二本が何だというのだ。
「……よし」
 苗木は今一度、こくりと唾を飲み込んで、プレゼントボックスの前まで恐る恐ると戻って来た。
 そうして、冷や汗をたらたらかきながら、箱の中身を覗き込む。
 そこにはやはり、さっき見たままの姿で左腕が収まっていたのだが、ふと、違和感を覚える。
「……あれ?」
 腕の切断部と思われる部分に、血痕のようなものは何もない。それどころか、そうやって切り離されることによって見えるはずの骨や肉も、何もなかった。
 ただ、なだらかな白い皮膚が続いているだけだった。
 ……いや、皮膚?
「………」
 苗木はそっと、箱の中から腕を取り出した。そうして改めてまじまじとそれを観察した後に、ぽつりと独り言をこぼした。
「……パン?」
 そう、よく見ればそれは、白い生地で作られた、腕の形のパンだったのだ。
 悪趣味。
 事実を知った今、その一言に尽きる。
「……それにしても」
 苗木は、手にしたパンをじっと見つめて、黙り込む。静寂が息をしているようなその場所に、唐突な騒音が響きわたった。
 それは、苗木の腹の音だった。
「……お腹すいた」
 どうしてこんなに飢えているのだろう。先程、狛枝に問われ空腹を自覚した時とは比較にならない程の飢えが、突如として苗木の全身を蝕んだ。
 お腹がすいたお腹がすいたお腹がすいた。
 苗木の脳内で、その言葉だけがリフレインする。そうして鼻腔をくすぐるのは、相変わらず凶悪なまでに強烈な、目の前のパンのいい匂いだった。
 ぐるるるる、と、まるで動物の鳴き声のような音が、苗木の腹から絶え間なく聞こえてくる。
 ぼたぼたと口の端からよだれがこぼれて足元に落ちていく。苗木は殆ど狂っていた。
「……もう我慢できない!」
 苗木は本能で、手にしていたパンにかぶりついた。
 あからさまに怪しいものを口に含むなんて、普段であれば考えられない。毒でも入っているかもしれないと誰だって訝しがるのが普通だ。
 その行動を取った時点で、苗木は最早普通ではなかった。何が苗木をそうまでさせているのかは、分からない。ただ、催眠術にでもかかっているような精神状況であったことは、確かだった。
「!」
 そうして、パンを飲み込む音がゴクンと響いた、その瞬間。
 苗木は自分の身体がおかしなことになっている事実に、すぐさま気付いた。
「なっ、縮んでる!?」
 まるでジェットコースターに乗っているような勢いで、ぐんぐんと苗木の視界は地面へ向かって急降下していったのだが、今度は先ほどのように穴を落下しているわけではない。足は依然として地についたままであり、それでも見える世界が瞬く内に変わっていく。そう、苗木のサイズ自体が、急速に縮んでいってしまっているのだ。
 そうして気が付いた時には、苗木の視界は巨大な布の山によって遮られていた。巨大な布。恐らく、苗木が身に纏っていた衣服である。
「ぶふっ、冗談じゃないよっ……!」
 洋服の波に溺れてしまいそうになりながらも、苗木はなんとか自力でそれをかき分け、脱出する。
 ぜいぜいと息を切らしながら、苗木は状況を確認した。
 目の前には、折り重なる巨大な洋服。今の今まで着ていたブレザーやパーカーに違いない。そして、恐る恐る自分の体を見下ろせば、パンツ以外の衣服を全て失っている、可哀想で頼りない裸体が視界に入ってきた。
「なんでパンツは一緒に小さくなってるんだよ……」
 謎である。パンツがキーポイントでも言うのだろうか。そんなわけがない。
「腕の形をしたパンを食べたら体が縮むだなんて、いよいよファンタジーじみて来ちゃったなぁ」
 長い長い穴や喋る首を目の当たりにしておきながら、この発言である。コロシアイ学園生活からの延長線上で、苗木もかなり状況に毒されてきているというわけだ。
「でも、もしかしたらこれでさっきの扉がくぐれるかも!」
 そこは取り柄である前向き思考が生かされ、すぐさま行動へと移された。
 どうしようもないくらい巨大になってしまった(正しくは苗木が縮んだだけなのだが)服は仕方なく放置して、苗木はパンツ一枚のまま、つい先ほどまでは向こう側を覗き込むしか出来なかった小さな扉の前に駆け寄り、そのドアノブに手を伸ばす。
 ドアはやはりあっさりと開き、苗木はその先の景色の中へ、足を踏み入れた。

***

 そこは確かに希望ヶ峰学園だった。
 苗木がくぐり抜けてきたドアの先には、保健室や視聴覚室の扉があった。そして、改めて振り返ると、苗木の目の前のドアには「希望ヶ峰学園購買部」というプレートがかけられていた。
「って、おかしくない?」
 これでは自分は、購買部の部屋から出てきたということになってしまう。そんなの変だ。だって今まで、苗木は狛枝と出会った穴の底から続く廊下を進んで、この見覚えのある場所まで歩いてきたのだから。
 本当に、今くぐり抜けたばかりの扉の向こうが購買部なのかどうかを確かめようと、苗木はドアノブを回す。
 しかし扉は開かずに、ガチャガチャと耳障りな音が聞こえるばかりだった。
「えっ、なんで?」
 苗木は困惑する。しかし何度やっても扉は決して開かない。
仕方がないので、改めて扉に背を向けて、周囲の様子を窺った。
「……ここ、確かに希望ヶ峰学園なんだけど」
 何かが、おかしい。苗木は本能で感じ取る。
「まあ、元々さっきまでいた希望ヶ峰学園だって、変じゃないわけじゃなかったんだけどね」
 なんだか独り言が多くなる苗木だ。まあ、そんなことは置いておいて、確かに苗木の言うとおり、殺し合いをしろと命じられ閉じ込められていた時の学園の空気も普通ではなかった。それは日常とは完全に乖離しきった現実であった。馬鹿げた監禁生活と常軌を逸した脱出方法に、不安焦燥そして疑心暗鬼に駆られた仲間たちが次々と同じ仲間を殺した。普通ではない。
 だけどこの空間は、なんだろう。
「これがこうだから、普通ではない」と言い切れる場所ではなく、本当にシックスセンス的な部分がおかしいと感じ取るというか、なんというか。
 とにかく、現実という概念がどこにも見当たらないような、妙な気分になってしまう。
「……へっくし!」
 そんな時、苗木がひとつ大きなくしゃみをした。
 現在、苗木はパンツ一枚しか身に纏っていない。扉の向こうの学園内は、なんだかとても肌寒かった。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。
「なんか着るもの……」
 とりあえず、着るものを探してみることにした。寒いのは勿論のこと、誰かと鉢合わせをしたとき、こんな格好では変態扱いをされてしまう。
少しは見慣れたはずの学園の廊下を進む。服がありそうな場所はどこだろう。
「ランドリーかなあ」
 苗木は、寄宿舎のランドリーを思い出す。あそこなら、洗濯しておいた服があるはずだ。そうと決まれば、苗木はすぐさま寄宿舎の方へと歩を進める。
 視聴覚室と一年生の教室前を通り抜ければ、寄宿舎へと続く廊下の前まで辿り着く。苗木はふと、そこにあった看板の文字に視線を奪われる。
「……あれ、ここに書いてあった文字、こんなんだっけ?」
 そこには、「絶望の国」という文字の列が並んでいた。確か元々は、「絶望ホテル」というふざけた表記がされていたと思うのだが、何か理由でもあるのだろうか。
「また黒幕が、ろくでもないことでも起こそうとしてるのかな」
 多少の不安を覚えながらも、苗木は仕方なく再び寄宿舎へと足を向けたのであった。

***

「……相変わらず誰もいないなあ」
 薄暗い校舎に慣れたせいで、寄宿舎の白い壁が目に痛い。しかし、それもいつも通りの風景だ。自分以外の人間の姿が、どこにもいないという点を除いては。
 自分が処刑されるはずだった学級裁判から、どれくらいの時間が経過しているのか、本格的に気になり始めた。もし、あれから随分と時が経ち、残された生徒の中でまたもや殺し合いが起こって裁判が始まり、万が一にもクロが勝ち抜いてしまったとかで、この学園がもぬけの殻になっているのだとしたら。
「いや、もう皆で決めたんだ。殺人は起こさないって。黒幕の正体を暴くって」
 だから、この学園から皆がいなくなった場合、考えられる可能性としては……。
「……もしかしてあれから数百年が経過して、みんな死んじゃってるとか、ないよな……」
 それこそファンタジーじみた考えだ。浦島太郎でもあるまいし。
「と、とにかく服を着て、皆を探しに行こう!」
 自分で自分の不安をかき消しながら、苗木はランドリーの扉の前へと駆け足で近付いた。そして、何の疑問も持つことなく、その扉を勢いよく開く。
 そうして、息を呑んだ。
「……え?」
 洗濯紐に無数にぶら下がる衣服の群れが、まるで木々の連なる森のようになって苗木を迎え入れている。異常な具合だった。衣服に遮られているせいで、蛍光灯の照明も部屋の隅々にまで届かない。薄暗い室内の中心で、何か大きな塊が動いた。苗木は自分の両目をごしごしと擦る。そして再び、その大きな塊を、見る。
 思わず呼吸が止まりそうになった。
「山田クン!?」
 そこには、数日前に死んでしまったはずの、山田一二三の姿があった。苗木に呼ばれた山田は、その大きな体をビクリと揺らして、振り返る。
「むむぅ、お客さんですかな」
 身体と顎に挟まれ陥没した首、丸いメガネ、避雷針のようなアンテナのある髪型、間違いない。山田一二三本人である。苗木は感激したように、山田の元へと駆け寄った。
「山田クン、生きてたんだね! やっぱりあんな生活、悪い夢だったんだ!」
「む、そうですぞ。この世界は夢で出来ているのです」
「やっぱり!」
 苗木は嬉しくてたまらなかった。
 皆生きてる! コロシアイ学園生活なんて無かった! 誰も殺してないし、誰も殺されてない!
「絶望なんてない!」
「盛り上がっているところ申し訳ないんですが」
 苗木とは対照的に、比較的落ち着いた山田の声が響く。苗木は少し照れくさくなりながらも、山田の方を見た。
「あ、ごめんね。でも僕、嬉しくて」
「分かってますとも。皆まで言わない! さあ、お求めの作品はどちらになりますかな?」
「作品?」
 苗木はきょとんとした表情を浮かべて山田を見た。山田は山田で、腰掛けていたランドリーの粗末な椅子から立ち上がり、鈴生り状になってぶら下がる幾つもの衣服の中へと、いそいそと乗り込んでいった。苗木は何も言えず、山田の丸い後ろ姿を見ていた。
 そうして衣服の森へと消えていった山田だったのだが、数分後、何やら数枚の洋服を携えて苗木の元へと戻って来た。
「これなんかどうですかな」
「なにこれ?」
 山田がまず差し出してきたものは、セーラー服を基調とした洋服だった。白い生地に、黒い襟、黄色のスカーフ。下半身はショートパンツだが、どう見ても女物に違いない。
 苗木は、現在の自分の格好と、山田がその服を差し出すという行為を照らし合わせ、まさか、と思いながらも、聞いた。
「……もしかして、それを僕に着ろって言うの?」
「わかっておりますとも!」
 噛み合わない返事を返しながら、山田はセーラー服をポイと放り投げた。
「本当は、こちらが良いのですな!」
 今度は、ピンクを基調とした、やたら装飾が目立つフリフリのドレスだった。
「近年の魔法少女と言えばコレ! どうですかな!」
「いや、どうですかな、と聞かれても……」
 苗木はやんわりと彼の好意を拒否する。「着ろ」という意味で差し出されているのなら、お断りするしかないだろう。だってどう見ても女物だ。先ほどのセーラー服も含め。
「わかっておりますとも!」
 山田は、またしても同じような言葉を発し、魔法少女がどうこうと言っていたフリフリの服を、ポイと投げ捨てる。
「ああ、また……」
 別に、粗末に扱って欲しいわけではないので、苗木は何となく申し訳ない気持ちで捨てられた服の軌道を眺めていた。しかし、そんな苗木の気持ちも、山田には関係がないらしい。
「何事も焦らしは大切ですぞ! エロエロの同人誌でも、最初からズンズンしていては趣が無いというものです! 本当は分かっておりましたとも! 君がここで僕から受け取るべき衣装! じゃじゃーん!」
 山田が今度こそ自信満々で掲げた服を見て、苗木は言葉を失った。
 それは、赤を基調としたエプロンドレスだった。苗木が着ればちょうど膝のあたりの長さになるであろうスカートを見て、いよいよ「からかうのもいい加減にしてよ」と言いたくなってしまう。
「あのさぁ……」
「それでは早速、更衣室へゴーですぞ!」
「へ?」
 思わず素っ頓狂な声が出る。苗木は心のどこかで、山田はパンツ一丁の自分のために服を用意してくれていて、苗木が着てもおかしくないような、つまりは男物の服を差し出してくれると信じていた。
 何度も女物の服を差し出されるのも、ふざけているだけだと思っていた。一回目のセーラー服、二回目の魔法少女、それらをポイと投げ捨てたことで、無意識にそんな考えを抱いてしまっていたわけなのだが。
「さあ、さあ!」
「ちょちょちょちょっと待ってー!」
「ダメダメ! 衣装はきちんと更衣室で着る! イベントのマナーですぞ!」
「わ、わけ分かんない……ていうか、そういうことが言いたいんじゃなくて!」
 苗木は、ぐいぐいと背中を押してくる山田に抵抗しようともがいてみるが、この体格の差ではまず敵わない。
 そして、その時ふと、
(あれ、前にもこんな感じのこと、あった……?)
 と、どこか既視感のようなものを感じた。
 しかし、そのデジャブの正体が何なのか理解することは出来なかった。それより先に、山田が思い切り苗木の背中を押してきたのだ。
「うわっ!?」
 苗木は前方へと思い切りつんのめる。そうして倒れた先は、ランドリーに設置されている沢山の洗濯機のうちの一つだった。
「って、洗濯機!?」
 苗木が脱出を図るよりも先に、山田は苗木同様、手に持っていた赤いエプロンドレスも洗濯機の中へと放り投げ、まるで悪びれる様子も見せずに、その扉を閉めてしまった。
「山田クン何考えてるの! ここから出して!」
 当然、苗木は丸い透明の窓をバンバンと叩いて抗議するが、山田は聞く耳持たずの笑顔だった。
「それじゃあ、スイッチオンですぞ!」
 扉越しに聞こえるくぐもった声に、苗木の表情がザアッと青ざめる。
「ちょ、冗談……」
 意味を持った言葉はそこで途切れることになる。
 苗木とエプロンドレスを孕んだ洗濯機は、無慈悲にもぐおんぐおんという豪快な音を立てて回転し始めた。苗木の視界がぐるぐる回る。このままバターにでもなってしまいそうな勢いだった。
(シャレにらならない!)
 なんとかしようにも、洗濯機は一秒の休憩もなく苗木を転がすばかりだったので、何も出来ずに回される他ないのだ。このまま本当に天地の境も無くなって、永遠に渦のような世界で回り続けなくてはいけないのか、と苗木が思った瞬間、始まりと同じ唐突さをもって、洗濯機はピタリと静止した。
 そして、開かれた扉から、まるで吐き出されるように苗木が放出される。
「ぶべっ!」
 そのままの勢いで床に打ち付けられる。なんかもう散々だ。
「おおっ! 似合っておりますぞ!」
 未だクラクラと回り続ける視界の中で、大きな塊……山田一二三が、分かりやすい賛辞の声を上げた。
「似合ってるって……」
 何が、と言おうとした苗木の目に、自分の姿がパッと映った。
 いつの間にか、自分と山田の間に現れたのは、等身大の鏡だった。鏡の中に映る姿を見て、苗木は「ぎゃあ!」と悲鳴をあげる。
 そこには、先ほど一緒に洗濯機の中に放り込まれたエプロンドレスを身に纏った自分の姿が映っていた。
 それどころか、足元には白い靴下と黒い靴、頭にはカチューシャが装着されている。一体何がどうなっているのだ。
 混乱する苗木を余所に、山田はご満悦の表情を浮かべながら、何やらひとり頷いている。
「いやあ、想像以上の完成度ですな。アリスが売り子を手伝ってくだされば、次のイベントも超高校級の同人作家の名に恥じぬ売上を期待できそうですぞ!」
「な、何言ってるの山田クン……」
「頼みますぞアリス! 僕のお手製コスプレ衣装は、君に会うために生まれてきたのです」
「あ、アリスって何さ」
 言っている言葉の意味はいまいち理解出来なかったが、自分が自分以外の名前で呼ばれていることが気になった。
 アリスだなんて、そんな外国人みたいな名前で呼ばれる理由はない。セレスさんじゃあるまいし。苗木は、とりあえずそこのところを抗議しようと口を開いた。
「僕はアリスじゃないよ!」
「うん?」
「僕の名前は……」
 ……僕の名前は。
 あれ?
 苗木は言葉に詰まってしまった。
どうしてだろう。何も、なにも思い浮かばない。
 そうして、迷子の子供のような声で、ぽつりとつぶやいた。
「僕の名前は……何だ?」
 その瞬間、先ほど山田が掲げていた等身大の鏡の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。その声を聞いたとき、苗木は一瞬、自分が無意識の内に独り言を喋ってしまったのかと思った。
「そんなときは、僕の名前を思い出して」
 苗木は驚いて鏡の中を覗き込む。その向こうの景色に映りこんでいる、髪の毛の白い首を見つけて、思わず叫んでしまった。
「狛枝クン!」
 そうして、彼の名前を呼んだ瞬間、真っ暗だった部屋の中に明かりがついたような感覚で、思い出す。
「あっ……苗木誠! 僕の名前!」
「!」
 山田が、ブルリと大きく震えた。しかし苗木は、それに気が付かなかった。鏡の中の狛枝の姿に夢中になっていたからだ。
「狛枝クン! どうしてそんなところにいるの!? 出てこれないの!?」
「そっちじゃないよ、苗木クン。こっち」
 穏やかな声の狛枝に、苗木は、ふと後ろを振り返る。
「あ……」
 苗木の後ろの、幾重にも重なり合う衣服の森の片隅に、狛枝の首はコロリと転がっていた。鏡の中とは対象になっているだけの、今まで通りの彼の姿に、苗木は少し恥ずかしい気持ちになる。
 狛枝は苗木同様、単に鏡に映っていただけだった。本体は当然こちら側にある。不思議なことが起こりすぎて動揺してしまった。その姿を見られたことが無性に照れくさかった。
 苗木はぽりぽりと頬を掻きながら、安堵したような声で言った。
「良かった、もう会えないのかと思った」
「僕みたいなゴミにそんな風に言ってくれるなんて嬉しいなあ」
 相変わらずの自己卑下を交えつつ、狛枝は出会った時と同じように笑う。苗木はつられて笑顔になった。いくらヘンテコな見た目でも、自分に優しい存在は蔑ろに出来ない苗木の性質が発揮される瞬間だった。
 苗木に抱き上げられた狛枝は、どこか満足そうな表情を浮かべながら、言った。
「ここは名無しの森だから、油断してると名前を奪われちゃうよ。名前をなくしたら、君は設定を失って物語の上から動けなくなってしまう」
「名前を……失う?」
 名無しの森、と呼ばれたこのランドリーを、苗木はぐるりと見渡した。確かに、重なり合う衣服の群れは森のように見えないことはないが、それでも無理があるような気がした。
「設定のない僕が設定を失うことはないから、君がまた名前を忘れそうになったときは、君がくれた僕の名前を思い出せばいいよ」
「う……なんだかよく分からないけど、そうするよ」
 釈然としない気持ちを抱きながらも、苗木は「あっ」と思い出したように振り返った。
「そうだ、山田クン! 服を用意してくれたのはありがたいんだけど、出来ればもっと別の、や、つ……」
 言葉を最後まで紡ぐことは叶わなかった。
「……!?」
 それはまたしても突然の出来事だった。
 目の前の山田の身体が、変化していく。今までだって十分丸かった体型が、本当に、比喩ではなく、一切の角や歪みのない、楕円形になっていった。
「山田クン!?」
 苗木は叫ぶ。しかし、その声に山田は答えてくれなかった。というか、答えることが出来ない。
 何故ならもう、山田には口が無かったのだ。口だけではなく、目や鼻や耳、全てがつるりとした白い殻に変化している。
 それは、どこからどう見ても、卵だった。
「そんな……どうして!」
 目の前で変わり果てた姿になるクラスメイトに、苗木は嫌でも過去の出来事を思い出し、ガクガクと震える。
 死んだはずの山田は生きていて、こうして苗木と再び会話をしてくれたはずなのに。
 赤い血を海のように流しながら事切れていた山田が、今度は得体の知れない卵になってしまったという事実が、純然な恐怖として苗木の心を鷲掴む。
 しかし苗木は、怯えている場合ではなかったのだ。
「苗木クン、逃げたほうがいいかも」
「え……?」
 狛枝が助言のような言葉をこぼした、その時だ。
 つるりとした卵になった山田の表面に、ピキピキという音と共に、割れ目が走った。山田クン、と叫ぶよりも先に、完全に崩壊した卵から、無数の「物体」が飛び出した。
 白と黒の体をした無数の物体とは、どう見ても「モノクマ」だった。
「って、うわあああ!?」
 山田を突き破り飛び出してきた沢山のモノクマは、凶悪な爪をむき出しにして、なんと苗木に向かって襲いかかってきたのであった。苗木は咄嗟に攻撃をかわし、狛枝に言われた通り、素直に逃げ出すことにした。
「た、助けて!」
 ランドリーの扉を開け、外へと飛び出していく。
「どうして山田クンの中からモノクマが!?」
 必死に逃げながらも、苗木は腕の中の狛枝に向けて問う。狛枝は大して焦った様子も見せずに、いつも通りの表情で「彼は役目を終えたからじゃないかな」と答えた。
「役目って……いっ!?」
 その時、苗木は自分で自分の足にもつれて転んでしまった。咄嗟に以前のことを思い出し、今度は狛枝の首を離してしまわないようギュッと抱きしめていたのだが、迫り来るモノクマの攻撃は避けられない。
「う、うわあああああ!」
 何度目になるかは分からない叫び声をあげる。苗木の悲鳴も虚しく、無数のモノクマは爪や牙をむき出しにしたまま、苗木に向かって襲いかかってくる。自分からは手をくださないと言っていたのはどこの誰だ、と苗木は涙目になりながら自分の死を覚悟した。
 目を固く瞑ったことにより黒く塗り潰された苗木の視界の外側で、キン、という金属音が聞こえた気がした。
 そして、苗木が恐れていた、自らの身が切り裂かれるような痛みは、いつになっても訪れない。
「……?」
 苗木が恐る恐る、目を開けようとした、その時だ。
「いつまで蹲っているつもりだ」
 ガン、という音と共に、自分の身体が横に向かって倒れこむ。倒れた方とは逆側の半身が酷く痛んだ。
 いや、そんなことより。
 どこか聞き覚えのある、この声は。
「十神クン!?」
 苗木は起き上がり、今度こそ両目をしっかりと開いて、目の前の状況を確かめる。
 そこには、細身の剣を一本携えた、長身の男が立っていた。苗木がこのコロシアイ学園生活の中で出会ったクラスメイトのひとりであり、他者との馴れ合いを極端に嫌う彼は、間違いなく十神白夜本人だった。
「も、モノクマは!?」
「倒した」
 さらりと告げられるその事実に、苗木は両目を見開いて驚く。
 見れば、十神の足元には無数のモノクマの残骸らしきものが転がっていた。そのどれもが、すっぱりと首と胴体を切り離されるようにして別々になっている。
何か鋭利なもので一刀両断にされたのだろうか、と考えるよりも先に、十神が握っている一本の剣に、再び視線を奪われた。
 苗木は、ごくりと息をのみ、口を開く。
「と、十神クンが斬ったの?」
「そうだ。何度も同じことを言わせるな」
 十神は相変わらず不機嫌そうな表情を浮かべながら、ぷいと苗木から視線をそらす。
 そんな十神を見て、失礼な話ではあるが、苗木は少し不気味な気持ちを抱いてしまった。十神が自分を助けるなんて、変だ。しかし、彼のおかげでモノクマの猛攻から逃れられたのも、紛れもない事実だった。
「あ、えっと、助けてくれてありがとう」
「……自惚れるな」
 とりあえずの礼儀として頭を下げれば、十神は釈然としないような顔で、無愛想な言葉を返す。十神らしいといえば十神らしい。彼が自分を助けてくれた理由は、未だ分からないままだけど。
 それより、学園長であるモノクマを傷つけた場合の罰則はどうなっているのだろう。戦刃むくろが殺される前の夜に、十神らクラスメイト達がモノクマの解体を行ったことは知っていたが、今こうして倒された無数のモノクマは確実に意志を持て行動していたわけで、例の一体とは違い停止状態ではなかった。江ノ島盾子の時のように、罰が下ってもおかしくない。
 そして何度も言うが、自らに罰が下るかもしれない状況で、十神が苗木を当然のように救ったことが何よりの不自然だ。
結果としてグングニルの槍の時のような悲劇は訪れなかったが、十神は何を考えているのだろうか。罰が訪れないことを、知っていた?
「ねえねえ苗木クン」
 何事もなかったかのように、狛枝が腕の中から苗木に向かて話しかける。その声に気付いたのか、口を開いたのは狛枝に名前を呼ばれた苗木ではなく、十神の方だった。
「何だその不気味な生き物は……!?」
「あっ、えっと……」
 どう説明したものか。十神の表情に浮かぶ「どういうことだ説明しろ苗木!」という声を心で聞きながら、苗木は助けを求めるように狛枝の目を見た。
「こ、狛枝クン……」
「苗木クン、早くハートの女王を探そうよ」
 ダメだ。
 狛枝は、十神の存在など気にも止めていないようだった。
「ハートの女王とは何だ?」
 十神は相変わらずの仏頂面で問うが、その質問に苗木が正しい答えを出せることはない。
「ぼ、僕にもよく分からない……。だけど、この狛枝クンが言うには、ハートの女王を見つけて殺さないと、僕は希望ヶ峰学園に……元の世界に戻れな、い、って……あれ?」
「元の世界?」
 十神が怪訝そうに繰り返す言葉に、苗木も同様の違和感を覚えた。
 そして、改めて現状を見渡してから、一言。
「……戻って来てる、よね」
 帰りたいと望んだ希望ヶ峰学園の景色が、そこにはあった。
確かに戻ってきている。思い出したように自覚する。
しかし、処刑場から繋がる深い穴、あの長い長い廊下、腕の形をしたパン、喋る首、そして、つい先ほど森のように衣服を連ならせるランドリーで見た光景は、どう説明をつければいいのか。
 そこまで思い出して、苗木はハッと十神を見た。
「そ、そうだ十神クン! 大変なんだよ!」
「何だ、騒々しい」
 十神の冷たい声なんて気にしている場合ではなかった。
「そこのランドリーに、山田クンがいたんだよ!」
「……何?」
 十神の端正な顔が僅かに歪む。そうして、億劫そうに口を開いた。
「山田とは山田一二三のことか。バカバカしい。奴はもう死んだだろう。お前だって確かに見たはずだ」
「で、でも本当にいたんだ! 僕に服をくれて、洗濯機に押し込んできて、それで……山田クンの体が卵になって、そこからさっきのモノクマが出てきたんだ!」
 自分で言っていながら、信じてもらえそうもないなと苗木はどこか冷静に考えた。あり得なすぎる。
現に十神は、虫でも見るかのような表情で苗木のことを見下している。見下されてしまうのは、二人の身長差が原因ではあるのだが、苗木は自然と悲しいやら情けないやらといった気持ちに支配される。
「……そ、そうだ十神クン、他のみんなは?」
「知らん」
「えぇ……あ、僕が殺されそうになった裁判のあとに一旦解散したとか? それなら部屋にいるのかな」
「………」
「十神クン?」
 十神は何かを考え込むように顔を伏せる。そして、彼の目線の先にある「それ」を見て、苗木は思い出したように口を開いた。
「ていうか、十神クン、その剣どうしたの? それも学園内にあった模擬刀、とか……?」
「……知らん。いつの間にかあった」
「へ?」
 苗木はきょとんとした表情を浮かべ、十神を見る。十神は自分でも自らの発言に納得がいっていないような顔で黙り込んだ。そして、沈黙。
 そんな静寂を破ったのは、苗木の腕の中の首の声だった。
「仕方がないよ。そういう設定なんだから」
「こ、狛枝クン?」
「……おい、首。お前は何を知っている」
 その異様な姿に臆することなく、十神は狛枝に話しかける。苗木は少し感心してしまった。
「この物語の道筋と意義……みたいなものかな。大したことは知らないよ。そもそもゴミに発言権なんてないんだからね」
「あっ、また自分のことゴミって……」
 苗木は場違いにも不機嫌な声で狛枝を叱ってしまう。少しの間でも、不可思議な状況で自分を助けるような態度を取ってもらえたことで愛着が湧いたのか、彼が自分を卑下する部分が許せない。
「ゴミとか、そういうこと言わないって約束してよ。僕、嫌だよ。親切にしてくれた人がそういう風に自分で自分を傷つけてるの」
「優しいなあ苗木クンは! 感動で涙が出そうだ……!」
「勝手に関係のない話をするな!」
 涙の代わりによだれを垂れ流している狛枝と、そんな狛枝を抱いている苗木に向かって十神の怒号が飛んだ。
「いい度胸だな苗木……俺をないがしろにするとは……」
「ちょちょちょ……ごめん、ごめんってば!」
 青筋の浮かんだ顔を近付けられ、苗木は反射的に謝ってしまう。
「話を戻すぞ。おい首。お前は何を知っているんだ」
「だーかーらー、この物語の道筋だってば。何度も言わせないでよ」
 苗木以外には意外と辛辣な狛枝だった。
 そんな狛枝の態度が気に入らないのか、十神は青筋を立てながら口を開きかけたが、彼の言葉は陽気な狛枝の声によって遮られた。
「さあ、苗木クン、ハートの女王を探しに行こうよ」
 先ほどと同じ意味の言葉を繰り返す狛枝に、苗木は言いにくいような声で言った。
「えっと、あのね狛枝クン。僕はもう希望ヶ峰学園に帰ってくることが出来たから、ハートの女王を探す必要はなくなっちゃったんだ」
「……帰ってきた?」
 ふいに、狛枝の表情から笑顔が消えた。思わず苗木は心臓に冷水を流し込まれたような気持ちになる。
なんていうか、笑顔がデフォルトであるような存在から、唐突にその要素が消えると、ギャップも手伝い恐ろしく不気味に見えるのだ。
 苗木は悪い意味でドキドキしながら、狛枝の言葉に答えた。
「う、うん。帰って、来てるよね……?」
「意味の分からないことを俺に聞くな」
 思わず十神に確認してしまった苗木だが、十神の答えもこの様子なので当然安堵は出来ない。
 そんな二人の内の苗木の方に向けて、狛枝は問い続ける。
「それは、苗木クンがバグから解放された……って意味?」
「? う、うん?」
「もしそういう意味で言ってるんなら……残念だけど勘違いだと思うなあ」
 相変わらず理解不能なことを言う狛枝だが、その言葉が何だか不穏な色を孕んでいるような気がして、苗木は冷や汗をかく。
 まあ確かに、狛枝という首のみの存在が未だここにいる、という意味では、ここが苗木の元いた希望ヶ峰学園そのものだと考えることは難しい、のかもしれない。穴の底で見た景色同様、相変わらず何かが狂っている。死んだはずの山田が生きていたり、自分が女物の服を着ていたり。
「………」
 そして苗木は、ふと当然の疑問を、思い出したように覚えた。苗木の視線はそのまま十神へと向けられる。
「何だ、その目は」
「……十神クン、僕の格好につっこんだりしないの?」
「………」
 言われて、十神は改めて苗木の姿を、じっくりと眺める。
 赤い膝丈のワンピース。白いエプロン。繊細な刺繍の入った靴下。艶やかなエナメル質の黒い靴。
 男が着るような服ではないことくらい、一目見た瞬間に気付けそうなものだろうが。
「……何だ、その服は」
「遅いよ!」
 取ってつけたような十神のツッコミに、逆に苗木がつっこんでしまう。十神にしてみれば理不尽な話だ。いつもとは立場が逆である。
 そんな二人の仲裁に入ったのは、再び張り付けたような笑顔を取り戻していた狛枝だった。
「まあまあ苗木クン、仕方がないよ。君のその姿は設定上のものだから。そもそも君にその衣装を着せることが、彼の役割だったわけだし」
「設定……役割……」
 言っている狛枝本人にしか分からない言葉の数々に、苗木はまたしても頭を抱えたくなったが、そんなことをしたところで状況は変わらないのだということは嫌でも学習してきてしまった。
「……とにかく、皆に僕が生きてることを報告しなくちゃ。それぞれの部屋にいるかなあ」
「さあな」
「もう、十神クン……」
 興味なさそうに答える十神に頬を膨らませながらも、苗木は各々の部屋が配置されている方へと足を進める。
 しかし。
「……あれ?」
 視線の先にあった光景を目にして、苗木は思わず立ち止まる。そして、何かの間違いではないかと、ごしごしと両手で目をこすった。
 そうして、再び前を見る。
「………」
 ない。
「部屋が、ない……?」
「……は?」
 無意識の内の言葉のように響いた苗木の声に、十神が表情を歪める。そうして、苗木が見ている景色と同じ方向へと視線を向け、二人は同時に言葉を失うのだった。
「……なんで?」
 本来ならば、少し不気味な赤いライトに照らされている廊下の両脇の壁には、この学園で共に殺し合いを強要された仲間達がそれぞれ割り当てられた部屋があるはずだった。
しかし、一番手前の霧切から始まるはずのそれら部屋へと繋がる扉が、無い。
「……霧切さんの部屋、確かこの場所にあったはずだよね?」
「……ああ」
 素性を明かそうとしない霧切を怪しんだ十神は、用心のために彼女から部屋の鍵を預かっていた。第一の事件の際に、ネームプレートが入れ替えられるというトリックが用いられた殺人が起こったことをきっかけに、各々の部屋の位置を頭の中に叩き込んでいたこともあり、霧切の部屋が一番手前の位置にあるのはまず間違いなかった。そして、次に近い位置にあるはずの部屋は、廊下を挟んでその手前の石丸だ。そこにも、扉は無かった。
 二人は警戒しながらゆっくりと順番に廊下を観察する。
 苗木、大和田と続くはずの扉も、やはり見当たらない。
 しかし。
「……ある」
 ようやく、本来あるべき場所にあるべき姿で沈黙している、ひとつの扉が見つかった。
 そのドアのネームプレートには、「白の女王」という名前が掲げられていた。
「ここは、舞園さやかの部屋だな」
「……!」
 分かっていたことだが、十神が実際に口に出した言葉を聞き、苗木は心が締め付けられるような気持ちになってしまう。引きずりながらでも生きていくと決めた過去だったが、それと心の痛みはまだ切り離せないところにあるらしい。情けないような、そんな気持ちになった。
「……ここより先は、また何も無いようだな」
 感傷に浸る苗木の傍らで、十神は勝手に捜査を続けていた。舞園の部屋の手前にあったはずの自室も含め、以降に続く部屋の扉が一切無くなっているという情報を手に入れた十神は、何の躊躇いもなく苗木に向かってこう言った。
「開けろ、苗木」
「……は?」
「そのドアを開けろと言っているんだ」
 さらりとした音で響く十神の声に、苗木は一瞬、何を言われているのか分からなかったのだが、そのドア、と指された先を見て、ようやく意味を理解する。
「ま、舞園さんの部屋を開けるの? なんで?」
「他のドアが消えているのに、ここだけが残っているということは、何かそれなりの意味があるんだろう。だから調査する」
「と、十神クンが開ければいいじゃん!」
 そもそも、いくらこの世にいない人だからといって、やはり勝手に部屋を覗き見することは憚られる。やるなら勝手にやってほしい。
 しかし、そんな苗木の考えなど知ったことかといった態度で、十神は平然と口を開いた。
「どう考えても怪しいだろうが。罠でも仕掛けられていたらどうする。お前が先に入って確かめろ。何かに襲われたら、丁度いい武器もあるだろう。それを投げつけてやれ」
「それっていうのは、僕のことかなあ」
 今まで沈黙を保っていた狛枝が、朗らかな声でそう言った。
 ドッジボールじゃあるまいし、と苗木は憤慨する。
「狛枝クンは武器じゃないよ! 武器っていうなら、十神クンの方がずっといいもの持ってるじゃないか!」
 十神曰く、いつの間にかあったというレイピアを指し、苗木は抗議した。
「それとこれとは別問題だ。自分に降りかかるリスクは少ないに越したことはない。それにしても、お前、随分その首にご執心じゃないか。情でも移ったか? 捨て犬を放っておけないタイプなんだろうな。自分自身が駄犬のくせに」
「ぐっ……もういいよ!」
 降り注ぐ十神の言葉の暴力に、苗木は「このままでは自分の精神が持たない」と判断した。
 そんな時、狛枝が嬉しそうな声でこう言った。
「僕をかばってくれるなんて、嬉しいなあ。まあ、その必要はないはずなんだけど、もしものことがあった場合は、彼の言うとおり遠慮なく僕を武器にしてくれて構わないからね」
「狛枝クン……」
「相変わらず気に食わん首だ。全て知ったような口ぶりは攪乱のためか? お前、本当はモノクマ同様、黒幕が操る人形なんじゃないのか」
「そ、そんな言い方って」
 しかし、どこか納得してしまいそうになる部分があるのも確かだ。この独特のセンスというか、なんとうか。美形の首が笑って喋る、というシチュエーションも、モノクマやらオシオキやらのセンスと似通ったところがあるような、無いような。
「苗木クン」
「ひゃっ!?」
 唐突に呼ばれた自分の名前に、狛枝を疑うような思考が読まれたのではと苗木は驚いたが、どうやらそういうわけではなかったようだ。
「扉を開けよう。ハートの女王を探さなくちゃ」
「………」
 ニコニコとした笑顔。苗木は、脱力するような、逆に気が張ったような、そのどちらでもないような、不思議な気分になった。
「……ん、ちょっと待って、狛枝クン。それって、舞園さんの部屋に、君の言うハートの女王がいるかもしれないってこと?」
「そういうことでもあるし、そういうことじゃないかもしれない。物語をひとつの道筋として考えるのなら、そういうことなのかもしれないね」
「ハッキリしろ!」
 十神が思わず声を荒げる。普段よりもいくらか沸点が低いようだ。どうにも狛枝と馬が合わないらしい。
「ふ、二人とも喧嘩しないで!」
 一方的に好戦的な態度を取っているのは十神だけなのだが。
「と、とりあえずドア開けるよ! 二人ともやろうとしてることは同じなんだから仲良くしようよ」
 仲良くしよう、という言葉に、十神の表情が盛大に歪む。この首と、俺が? と言いたげな顔だった。狛枝は狛枝で何も言わずに笑顔を浮かべている。肯定と取るべきか否定と取るべきか。狛枝はそもそも十神をどう思っているのだろう。あまり友好的とは思えないけれど。
「……じゃ、開けるね」
 そうして意を決したように、苗木は舞園の部屋の扉に手をかけた。
(ごめん、舞園さん)
 心の中でそっと謝罪をしながら、しばらくぶりに開く彼女の部屋のドアは、何の抵抗もせずに苗木の力に従って動く。
 白い光が、苗木の視界をいっぱいに埋め尽くした。




(本編へ続く)






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