タナトス



 いつもよりも心なしか賑やかで、それでいて浮き足立っているように感じられる教室の中、僕は机に突っ伏しながらため息を吐き出す。
 そんな僕の頭上に、聞き覚えのある声が降ってくる。

「なんや王子、浮かない顔して。今日はバレンタインやのに」

 声の主は鈴原トウジである。クラスメイトだ。鈴原くんの声はやたらと明るく、心に元気が少ない今は出来れば聞きたくない感じではあったのだが、まあ気でも紛らわせようかなととりあえず会話をすることに決めた。

「それだよ。バレンタインだから。どうやったら好きな子にチョコ貰えるか朝からずっと考えてるんだけど、さっぱり思いつかなくてさ」

 僕は正直に話をした。隠す必要もなさそうだと判断したからだ。
 僕の言葉を聞いて、鈴原くんは少しだけ意外そうな表情を浮かべてから、これ以上ない位の笑顔で言った。

「はー、そうかそうか、いやー王子はイケメンやし成績も国語除けばカンペキに近いし、それでも神は二物を与えても三物は与えなかったってことなのかもしれんなぁ。その点ワイは運動神経なかなかええけど顔は中の上ってくらいや。その分の数値が恋愛運に振られたって話なんかな。ほら、王子にも特っ別っに見せたるわ。ワイのラブラブバレンタインチョコレート!」

 中の上ってのは彼なりのジョークなのだろうかとか思いつつも、僕は光の灯らない目で彼の差し出した「ラブラブバレンタインチョコレート」を見つめる。長方形の箱にピンク色の包装紙が巻かれ、リボンそのものではなくリボン型のシールが貼られていた。僕は今すぐにでもその箱を鷲掴みにして丁度よく空いている窓から投げ捨てても許された立場だとは思ったのだが、あげた人間が悲しむかなとかふいに考えてやめた。前に告白してきた女子を言葉でこっぴどくフッた時にシンジくんが「女子には優しくしてやんなきゃダメなんだ」とか言ってた言葉を思い出したからだ。ラブラブバレンタインチョコレートを空の彼方にシュートして女子が悲しむとかそういうのは本当どうでもよかったけれど、鈴原くんの彼女はシンジくんの友達でもあるのでシンジくんの耳に僕の悪評というかなんというか、そういう情報が入ってしまう状況を避けるためにもここで僕が取るべき行動はひとつだった。

「相田くーん」
「はいよー」

 僕が、教室の端の自分の席で真面目な顔して月刊誌を呼んでいる相田くんを呼ぶと、相田くんは何も聞かずに立ち上がり、僕の横でニコニコしている鈴原くんのところまでやって来て無言でその両脇を拘束してくれた。鈴原くんは「なんやなんや」と混乱するが僕ら二人はお構いなしだった。僕は軽く助走を付け、相田くんに拘束されたままの鈴原くんの首に全力のラリアットをかました。鈴原くんはぐべえ!って感じの悲鳴と共に教室の床に沈んだ。
 合体秘奥義カップル惨殺拳が綺麗に炸裂し、用が終わった相田くんは僕と「nice kill☆」の意味を込めたハイタッチを一度だけして普通の顔で席に帰って再び月刊誌を開き自分の世界に戻って行った。余談ではあるが鈴原くんに彼女が出来てからというもの、僕と相田くんはそれなりに仲良しだった。

「……シンジくんのチョコレートかあ」

 意識を失いながらも、大切なチョコレートの箱は決して離しはしない鈴原くんの身体の横で、僕は天井に向かってアンニュイなため息を一つ吐き出す。
 シンジくんのチョコレートをどうすれば僕は貰うことが出来るのだろう。いやそもそもどうしてシンジくんは僕にチョコレートをくれないのだろう。バレンタインデーは好きな人にチョコレートをあげる日なのに。そこまで考えて、僕は「ああ」と思い至る。
 シンジくんは僕のことが好きじゃないのか。
 そして悲しくなる。
 確かに僕はシンジくんに好きだなんて言われたことがない。馬鹿だとか、嫌いだとか、前歯折ってやるとか、そういう言葉はよく言われる。そういえば笑顔とかもあんまり見せてくれない。
思考がそこまで行って、あれ、どうして僕はシンジくんからチョコレートが貰えるかもしれないとか考えてたんだろう、と思い至る。

(どうしてって……あれ?)

 僕はなんとなく、横たわる鈴原くんの横にしゃがみこんでしまった。脳みそが何か新しい考えを見つけ出そうと進捗インジケータをぐるぐる回してるのが分かる。
 膝に肘をついて、両方の手で自分の頬をむにむにしながら考えていると、ふいに自分の脳天に声が降ってきた。

「何やってんの渚……あと、トウジ?」
「シンジくん」

 顔を上げると、そこにはシンジくんが立っていた。窓からの逆光で表情はよく見えなかった。
 僕は、どうしたの、といつもみたいに勝手に嬉しそうに響く声で彼に応えようとしたのだが、それよりも先に、シンジくんのシンプルな言葉が僕の台詞を遮った。

「これやる」

 シンジくんが、僕のつむじに向かって何かをポトリと落とした。僕の頭の上を滑るようにして、シンジくんの落とした「箱」は順を追って僕の目の前の床へと辿り着いた。落下したそれを無意識のうちに拾い上げる。キットカットだった。
 季節が季節なので、受験生応援仕様のやつだ。
 黙ってそれを見つめる僕に、シンジくんが悪戯っぽく言った。

「バレンタイン、どうせお前うるさいだろうから。先手とってやった」

 ざまあみろ、ってシンジくんが笑った。
 この、明らかな義理チョコをに、ひび割れた大地をそっと撫でるよう、僕は触れた。そして、そのままシンジくんの目を見つめる。

(シンジくんが、僕にチョコレートをくれた)

 バレンタインデーは、好きな人にチョコレートを贈る日のことだ。

(シンジくんの愛)

 その時僕は唐突に理解した。見上げたシンジくんを外からの太陽の光が照らして何だか逆光で暗くて表情は確認できなくてそれでも声の感じから少し笑っていることだけは分かって、僕の海馬が「ピコーン!!」っていう甲高い音に揺さぶられた。
 この世に自分以外の自分つまりは最高の理解者が存在するとしてその相手を単純に「運命の人」と呼ぶのなら僕の場合その「運命の人」はシンジくんなわけなのだが、そういう人ってもしかしたら生まれる前に自分に成り得たかもしれない存在なんだ。だからもしかしたら僕は今こうしてシンジ君を見上げている渚カヲルではなく、渚カヲルを見下ろすシンジ君として存在していたのかもしれないし、だからといって隣でのびている鈴原くんとしてクラスの委員長からラブラブバレンタインチョコレートを貰うような可能性は一ミクロンもない。あくまで僕と視線を合わせている目の前のシンジ君だけが僕のもうひとつの、そして唯一の可能性なのだ。
 だからきっと僕らの間には人生の内に消費しなくてはいけないエネルギーを共有するみたいな関係性が生まれ、つまり僕の心が歓喜の歌を口ずさむ時シンジくんはジャンケンに負けて食事の取り分が減った子供みたいな憂鬱な気持ちになるはずだし、僕が思わず微睡んでしまうような穏やかな気持ちに包まれた時シンジくんは同じクラスの惣流アスカラングレーに理不尽にビンタなんかされて心を刺だらけにしているに違いないのだ。
 人の感情はエネルギーだ。そして僕らは生まれながらに供給されたそのエネルギーを共有する運命を持っている。だから僕がシンジくんを好きでいればいるほど、彼の僕への愛が小さく見えてしまうのは当たり前のことなのだ。だから悲しむ必要なんて本当に、どこにもなかった。
 だからこそ僕は、今日みたいにシンジくんが僕に愛を見せる瞬間を大切にしなくてはいけない。僕らの感情エネルギーは共有され飽和を許されない以上、僕は必ずどこかで帳尻を合わせなくてはいけない。僕はシンジくんがくれた小さな愛の対となるような莫大な愛を彼にお返ししなくてはいけない。しかしそこに存在するものは純然な愛だけではダメなのだ。

「渚?」

 黙ったままの僕を訝しんだシンジくんの声に応えはせず、僕はゆっくりと立ち上がる。そして、彼に貰ったキットカットを大切に大切にポケットの中にしまいこみながら、言った。
 僕は、徐に近くの窓を開ける。二月の光が僕を浄化するように侵食する。僕はその中へと飛び込むべく、窓枠に足をかけ、思い切りジャンプした。

「渚!?」

 シンジくんの驚いた声と、同時に僕に向かって伸ばされた右手の存在を確かに感じてはいたのだが、それに対する何かしらのアクションが僕から発せられることはなかった。
僕はただ、教室の窓から飛び降りるだけだったのだが何も自殺願望からの行動だとかそういう意味では決してない。全ては勢いだ。僕は今から銀行を襲ってそこで手に入れたお金で100万本の薔薇を買って彼にチョコレートのお礼をしなくてはいけないのだ。
 その時僕は海馬を揺らす目覚めのような真実の理解というものに気を取られ過ぎて、バレンタインデーのお返しは一ヶ月後のホワイトデーに行うものなのだということを完全に忘れていた。
inserted by FC2 system