ビューティフルグランブルー



 燦々と降り注ぐ太陽の光、白く輝く砂浜、エメラルドグリーンの海。
 そんな心躍るような美しい景色とは裏腹に、雀ケ森レンはむっすりとした表情を浮かべながら、ビーチパラソルの下でトロピカルジュースを啜っていた。ハワイアンブルーのジュースが満ちたグラスには、赤いハイビスカスの花が飾られている。しかしレンが銜えるカラフルなストローの先は、彼の歯型でギザギザに歪んでしまっていた。
ストローを噛む人間の心理として、甘えたがり、寂しがり、または欲求不満などと説は様々だが、今現在レンがカジカジとストローの先を潰している理由として適切なのは、「イラついている」という単純なものに他ならなかった。

「面白くないです」

 肌をピリピリと刺激するようなオーラを放出するレンは、両頬を膨らませながらそう言った。

「せっかくアイチくんを誘ってプライベートビーチにやって来たっていうのに、どうして余計なものがあんなに沢山くっついて来ているんですか!」

 キィキィと癇癪を起こすアロハシャツ姿のレンを見て、隣に立つテツは思わず深い溜め息をつきそうになった。喉元まで出かけていた憂鬱を何とか飲み下しながら、キラキラと輝く景色に溶け込むような明るい声に、耳をすます。
 ここから少し離れたところに、自分達以外の人間の姿が確かにある。人影は水面が反射する光を受けながら、いかにも楽しそうな雰囲気を撒き散らしながらはしゃぎ回っていた。

(変な意地をはらずに、混ざって来ればいいものを)

 白いビーチチェアに腰掛けながら、双眼鏡で遠くを観察するレンの姿を眺めつつ、テツは今日に至るまでの経緯を、ぼんやりと思い出した。




***




 ヴァンガード全国大会でレンとアイチがぶつかり合い、熱い戦いの果てにチームQ4が優勝を手にした記念すべき瞬間から、一週間ほど経過したある日のことだった。
 いつものように気の合う仲間たちがカードキャピタルでファイトを楽しんでいると、なにやら店の前で車のドアが閉まる音が聞こえてきた。何を考えるわけでもなく、音のした方へと自然に顔を向けたアイチや他のメンバーが次の瞬間に目にしたものは、少し意外な人物達の姿だった。

「こんにちは、アイチくん。それから櫂とその他の皆さん」
「レンさん!?」

 バラバラと、持っていたカードがアイチの小さな手からこぼれ落ちる。思わぬ来客に、アイチは無意識のうちに身構えてしまった。
 雀ケ森レン。それから、彼の両脇に控えるチームAL4の幹部、新城テツと鳴海アサカ。突然の彼らの訪問に、未だ新しい激闘の記憶が蘇る。
 確かにレンとは、全国大会の時に和解をしたと思っている。力に固執し、誰に認められなくてもいい、自分だって誰も認めないと叫んでいたレンを、アイチはその屈折した感情ごと認め受け入れた。マジェスティ・ロードブラスターの攻撃により倒れてしまいそうになったレンの手を握り締めたアイチに、かつての櫂の姿が重なった。そうしてレンは思い出した。自分がどうして力を手に入れたがっていたのか。どうして強くなりたいと願っていたのか。全ては大切な仲間のためであったはずなのに、どこで忘れてしまっていたのだろう。アイチを介してレンの目に映る櫂は言った。「戻ろう、レン」と。まだ自分には戻れる場所がある。自分を想ってくれる人がいる。そのことを、アイチは教えてくれたのだ。
 そうしてかつての仲間たちを隔てていた確執は取り除かれ、両者の関係はかつての穏やかさを取り戻したと思われていた。
 だから、こうしてレンがカードキャピタルに訪れることも、別にこれと言って警戒するべき事態ではないはずなのだ。むしろレンにビクビクと怯えたような態度をとることは、彼に失礼なのではないか。
 過去の経験から、他人の心の動きというものに敏感なアイチは、一早くそのことに気が付き、半ば無理やりに好意的な笑顔を浮かべながら、レンに向き合った。

「えっと、こんにちは、レンさん。今日はカードキャピタルにお買い物ですか?」
「いえ、そういうわけではないんですよ」

 にこやかに答えるレンに、アイチはひとまずホッとした。彼に敵意はなさそうだった。
 アイチ以外の人間はというと、誰一人としてレンに対してかける言葉を持っていなかった。アイチの友人である森川や井崎などはレンと直接の面識があるわけではないし、ひとつ歳上の三和も同じ理由で口を閉じていた。全国大会で彼らAL4と戦ったチームQ4のメンバーであるミサキやカムイも、別段親交があるというわけではない。どちらかと言えば敵対意識の方が強かった。
 唯一繋がりを持つ櫂はというと、何やら感情の読めない表情でレンの姿をジッと見つめていた。しいていえば、警戒している、という表現が当てはまるのかもしれない面持ちだった。
 なんだか穏やかではない空気が漂うカードキャピタル内だが、原因とも言えるレン本人は、まるで気にする様子を見せなかった。相変わらずの笑顔を浮かべながら、やたら近い距離でアイチのことを見下ろしている。一歳しか違わないはずの二人なのだが、こうして並ぶと体格の差があまりにも歴然で、アイチは無意識の内に少し凹んだ。
 しんなりと頭のアホ毛が萎んだアイチの様子を気にかけるわけでもなく、レンはニコニコと言葉を続ける。

「今日はアイチくんをお誘いに参りました」
「お誘い……?」
「はい、これを見てください」

 そうしてレンがアイチに手渡したものは、一冊の分厚いフォトアルバムだった。中を見てください、と促されたので、アイチは大人しくアルバムを開いた。
 そうして目に飛び込んできた写真の数々に、思わず感嘆の声が溢れた。

「うわぁ、綺麗な海……!」

 そこには、エメラルドグリーンに透き通る広大な海を初めとして、真っ青な空に白い雲、つややかに輝く濃い緑に囲まれた熱帯の自然、色とりどりの魚達と、旅行会社のパンフレットに載っていても何ら不思議ではない程の魅力的な写真たちが、びっしりと並んでいたのであった。純粋に素晴らしいと思える景色を見て、アイチは自然と笑顔になった。

「どうです、気に入って頂けましたか」
「はい、綺麗なところですね!」
「それは良かったです」

 アイチは、レンが自分にこのアルバムを見せた本来の理由になど気付かずに、ただただ美しい景色そのものを賞賛するばかりだった。アイチの色好い反応に気を良くしたレンは、「そのアルバムは差し上げますので、当日まで眺めて楽しみにしているのがいいでしょう」と微笑んだ。
 その言葉に、アイチはきょとんと首を傾げた。

「当日?」

 自分を見上げるアイチの顔を見つめながら、レンは察しのよくない子供に優しく教えるかのような口調で、言った。

「旅行に出発する日のことですよ。部屋はもちろんですが、着替えや食事もこちらで全て用意しておきますので、準備はゆっくりで大丈夫ですからね」
「……旅行!?」

 いつの間にそんな話になっていたのか。アイチは思わずここに至るまでの展開を脳内で巻き戻し再生する。しかしいくら考えたところで、レンが旅行を提案し、自分がその誘いに頷いたような記憶はこれっぽっちも思い出せなかった。あえて言うのならば、受け取ったアルバムを覗いて、綺麗な景色だと喜んだことがそれに当たるのだろうか。しかしいくらなんでも強引な解釈だ。結論として、やはりレンの誘いはあまりにも唐突過ぎた。
 たらたらと冷や汗をかいて黙り込むアイチに、流石に不信感を抱いたのか、レンは唇の先を尖らせながら、むっすりとした声で言った。

「何か不満でもあるんですか」
「不満っていうか、あの」
「別に、なにか企んでいるとか、そんなんじゃないですよ」

 アイチはギクリとした。少なからず、レンの言うようなことを想像していた部分があるからだ。
 だけど、と。アイチは純粋な疑問を口にする。

「でも、どうして僕のことを誘ってくれるんですか?」

 アイチの言葉に、まっ先に口を開いたのはテツだった。

「レン様はお前を気に入っている」
「僕を?」
「はい、僕はアイチ君と仲良くなりたいんです。今よりもっともっとです。だから、今日はアイチくんと遊びの約束を取り付けに、こんな辺鄙な場所へと赴かせて頂いたというわけです」
「辺鄙な場所で悪かったね」

 レジカウンターから店員の戸倉ミサキが刺々しい声で言い放った。しかし、レンは気にする様子を見せなかった。どこまでゴーマイウェイな人間なのである。
 レンはアイチを気に入っている。テツは確かに言った。
 それは、同じPSYクオリアという能力に取り付かれていたから、というかつての理由とは違い、自分に対する純粋な好意や興味から来る感情なのだろうか。能力が消失した現状を前提とするに、そういうことになるのだろうが、如何せんアイチは自分が誰かに好意を持たれるという状況をいまいち信用出来ないという、面倒な性質を持っていた。いじめに合っていた過去を考えれば、仕方ながないことなのかもしれないけれど。
 一方、レンがアイチに抱いている感情を、単純な「好意」と表現してしまうのは少しばかり躊躇われるところがあった。
 このところレンは、PSYクオリアに取り付かれる以前のような表情をよく見せるようになっていた。先導アイチとのファイトによって憑き物が落ちたのだろうと、いつの間にかレンの世話係になってしまっていたテツは、どこかほっこりしたような微笑みを浮かべながら軽く考えていたのだが、何やらそう穏やかでいられるわけでもないことに気が付いた。
 自動ドアにぶつかる、紅茶を飲んでいたかと思えば中身を零す、靴を左右逆に履く、Suicaと間違えてヴァンガードをかざし改札に挟まる、人が話をしているのにまるで上の空、エトセトラ。赤信号を気にせず渡ろうとして車にひかれかけているのを見たとき、テツは流石に「これはヤバい」と判断した。そうして、やんわりとレンに何か悩みがあるのか、という旨の質問を投げかけた。
 レンは、うーんと腕を組みながら、自分でも不思議そうに、最近の心の動きについて語り出した。
 テツが聞く限り、こういうことらしい。
 夜眠る前、朝起きた瞬間、食事をしている最中、おやつを食べている時間、デッキを調整している時、テツに部屋の掃除をさせている間……、ありとあらゆる生活の場面で、アイチの姿が脳裏に浮かんで一秒たりとも離れてはくれないのだ。
 人は誰にだって認めたくない一面がある。他人を虐げ、見下し、愉悦を感じる汚い感情。レンと同じような境遇に陥りながらも、迫り来る闇を払いのけ、その全てを受け入れてくれた、ひとつ年下の可憐な少年。
 あの日イメージの中で、アイチの手がレンの腕を握ったあたたかな感触を、今でもずっと覚えている。目を瞑れば、穏やかな笑みを浮かべるアイチの顔が蘇る。無意識に吐き出すため息の数が増えた。百合の花を手にすれば、花びらをちぎりながら占いを始めた。金に任せて雇った業者に隠し撮りさせた写真は一枚一枚丁寧にラミネート加工してデッキを作った。
 早い話が惚れていた。

「やはり、同じPSYクオリアを持っていたもの同士、惹かれあうところがあるんでしょうかねぇ」
(気付いてねえええええ)

 テツはひどく動揺したが、ポーカーフェイスが自慢の15歳、それを表情に出すような真似はしなかった。
 そんなテツを気にすることなく、レンは右手で頬を押さえるアンニュイなポーズのまま、はふぅと悩ましげな溜め息をつき、呟いた。

「アイチくんともっと仲良くなりたい……あわよくばチューしたり髪の毛をもふもふしたりしたいです」
「はあ」
「首輪を着けて飼うのもいいですが、それはまだちょっと早すぎるかもしれないですね」
「そうですね」

 当たり障りのない発言をしつつも、テツは脳裏に浮かぶ小さな少年の身に極力危害が加わらないように、レンを安全思考な道へ誘導するための言葉を選んでいた。体は大きく厳つい顔付きをしているが、テツはとても心優しい青年だったのだ。

「そういうのは、お友達としてもっとお互いのことを知ってからでしょうしね」
「仰る通りで」

 チューしたり髪の毛をもふもふしたり、は百歩譲って有り得ないことでもないけれど、首輪を着けて監禁は、お友達としては明らかにおかしい。テツは思った。しかし勿論口には出さない。

「仲良く……そうです!」

 パン、と両手を叩いて立ち上がったレンは、部屋の角に置かれていた「大事なものボックス」をごそごそ漁り出した。嫌な予感がする。そしてその予感は恐らく的中する。テツは瞬時に悟った。そしていろいろなことを諦めた。
 レンが箱の中から取り出したものは、一冊の分厚いアルバムだった。

「これを見せて、アイチ君を僕のプライベートビーチに招待しましょう!」

 そこから行動は早かった。早急に車を出し、アイチの出没スポットであるカードキャピタルまで、こうしてテツとアサカを引き連れやって来たというわけだったのだ。


「ね、行くでしょう、アイチ君」
「あの」
「僕すごく楽しみです! 友達と旅行に行くなんて、初めてなんです!」
「ともだち……」

 友達、というレンの言葉に、今の今まで困ったような表情ばかりを浮かべていたアイチの顔は、ほとんど反射でふわりと和らいだ。友達。アイチはこの言葉に弱い。レンが自分を友達だと思ってくれている。そう考えるだけで、心の中が心地よい光に満ちるかのような感覚を確かに覚えた。尤も、レンの中にある「友達」というものの定義が、アイチのなかにあるものと同じだとは限らないし、事実レンは友達としてアイチにチューしたり髪の毛をもふもふしたりあまつさえ首輪を着けて飼おうと考えていたのだから。最早それは友達に抱く感情ではない、ということを唯一知るはずのテツなのだが、やはり口出しはしなかった。
 僅かに明るくなったアイチの表情を見て、レンはひとり「イケる!」と確信した。が、その時だった。

「よっしゃー! 海だー!!」
「はい……?」

 アイチの返事を待っていた(と言ってもイエス以外の答えを受け取るつもりはなかったのだが)レンは、思わぬ方向からの歓声に、ついレンらしからぬポカンとした表情を浮かべてしまった。
 声のした方へと顔を向ければ、そこにはガッツポーズで満面の笑みを浮かべるアイチの友人、森川カツミの姿があった。
 レンが混乱している間に、またしても話に乗る形での言葉が耳に入り込んでくる。

「おおっ、いいな! プライベートビーチでバカンスなんて漫画みてぇ!」

 櫂の友人、三和タイシの言葉である。レンは流石に焦り始める。

「ちょ、ちょっと君たち……」
「久しぶりだね、海に旅行なんて。新しいビーチサンダル買っちゃおうかな」
「いや、僕はアイチ君を……」
「お兄さん、アルバムちょっと見せて下さい!……おっ、ここスゲェ! 牛乳洞って奴か!?」
「写真を見る限り、鍾乳洞のことですねぇ。いやぁ、楽しみです!」
「な、何勝手に話を進めているんですか! 僕はアイチくんと二人で……」

 ぽん、と。自分の肩が誰かに叩かれる感覚に、レンは後ろを振り返った。

「よろしく頼むぜ、レン」

 そこには、ニタァと凶悪な笑みを浮かべる、友人であるはずの櫂トシキの姿があった。しかしその目には、袋小路に追い詰めたネズミを見る猫のような、残忍な光が確かに存在していたのである。レンの体がわなわなと震え出す。

「どうしてこうなるんですかー!!」

 レンの悲痛な叫びが、カードキャピタルの外にまで響きわたった。



***



 足元でちょこちょこと動き回っている小さなカニを見下ろしながら、テツはぼんやりと波が寄せては引いていく心地よい音に耳を澄ませていた。隣には、相変わらずビーチチェアの上で双眼鏡を覗き込み、その先に映る景色を眺めじったんばったん暴れているレンの姿がある。

「ムカつきます! さっきから櫂がアイチ君を独り占めしてるせいで、ぜんっぜん面白くないです!」
「落ち着いてください、レン様」
「これが落ち着いていられますか!」

 双眼鏡に映る景色の中では、仲睦まじい二人が波打ち際をゆっくり歩いているようだった。恋愛映画そのものの世界観に、レンの苛立ちはますます大きくなっていく。
 そして、双眼鏡に映る仲睦まじい二人の内の一人、アイチが何かに躓いて、思わず転びそうになった。しかし、隣を歩いていた櫂が、倒れかけるアイチの華奢な体を難なく受け止める。あまりにベタな光景に、レンはいよいよ黙っていられなかった。

「もう我慢できません! 邪魔してきます!」

 双眼鏡を放り投げ、レンはビーチチェアから立ち上がった。

「これ、アサカにあげます!」
「えっ!? れ、レン様!?」

 飲みかけのトロピカルジュースをグイと差し出され、思わずアサカはそれを受け取った。アサカの動揺を気に止める暇もなく、レンはダッシュで櫂とアイチの元へと飛び出していったのだった。

「レン様、高波にはくれぐれもご注意ください!」
「分かってます!」

 走っていくレンの背中に注意を投げかけてから、テツはふっと視線を横に移した。そこには、飲みかけのジュースが入ったグラスを両手で抱えながら、ブルブルと震える鳴海アサカの姿がある。ちなみに、アサカは黒いビキニにピンク色のリボンが装飾された、なんとも彼女らしい水着を着ていた。

「れれれれれレン様と関節キ………!」

 ボオン!という爆発音と共に、アサカの脳天から白い煙が立ち上がった。あまりの刺激に思考回路が焼き切れてしまったらしい。
 テツはひとり、平和だ、と呟いた。




 太陽にじりじりと焼かれ続けた真昼の砂浜の中に、寝転がった姿勢で森川カツミの体が埋まっている。彼の身体の上にこんもりと盛られた砂は、乳の部分だけがベタに二つの山になっており、グラビアアイドルのような肢体に象られていた。
 砂の芸術をもくもくと作り上げる三和と井崎に向け、森川は切羽詰った声で叫び続けた。

「違う! コーリンちゃんの体はなぁ、こんなもんじゃねえんだ! 細かく言えばウエスト部分のクオリティが足りねえ! もっと砂を削れ!」

 三和と井崎の目は死んでいた。
 彼らの濁りきった瞳の理由は、たかだか遊びにやたら注文をつけてくる森川に疲弊してしまっている、というのも勿論あるのだが、根本的な原因はもう一つ存在した。

「この浜辺は俺たちが吐いた砂で出来ている……」

 三和がげっそりと呟いた。井崎も、同意だと言いたげな目で三和を見る。キラキラと輝く海を背後に砂いじりを続ける二人の鼓膜を、聞きたくもない甘い声が揺らしていた。

「見て、櫂くん! 綺麗な貝殻……」
「それはさくら貝だ」
「小さくて可愛いね……そうだ、いっぱい集めてお守りにしよう! あ、あっちの方にも落ちてるみたい!」
「待て、アイチ。砂の上であんまり走ると……」
「えっ……うわあ!」
「……全く、言わないことではない」

 砂に足を取られ、走り出そうとしていたアイチがバランスを崩して前へつんのめった。しかし、咄嗟に櫂が手を伸ばし、アイチの体を支えたことにより、転んで砂まみれになってしまうような事態は避けられたのだった。
 いつかの大会で、クオリアを使ったアイチが疲労で気を失いかけてしまった時と同じように、櫂は右手でアイチの腕を掴み、もう片方の手で腰を支えていた。あの時はアイチの意識が朦朧としていたのだが、今回はちゃんと現状を把握出来ている。アイチは、手にしていたさくら貝と同じような色に頬を染め、自分を支える櫂を見つめた。

「か、櫂くんごめんね……」
「本当に危なっかしい奴だ。……こうして掴んでおかないと、ふらふら飛んでいってしまうんじゃないか」
「も、もう! そんなことないよ!」
「……井崎、俺は今、ジョッキいっぱいのパフェを食わされた挙句にピッチャーでチョコレートソースを喉に流し込まれたような気分だ」
「やめろよ、想像しちまっただろ……」

 櫂とアイチの会話に胸焼けしながら、三和と井崎はだんだん帰りたくなってきた。アイドルであるコーリン以外に恋愛感情を向けたことがないという事実の弊害か、森川だけが砂浜のバカップルによるダメージを受けることなく、今も平然と砂の中に埋まっているのだった。
 全国大会が終わり、櫂とアイチが幸せなファイトを交わした後ぐらいからだろうか。何かの封印でも解かれたかのように、櫂が目に見えてアイチに対してデレ出した。
 櫂は今までだって、ただアイチを蔑ろにしていたわけではない。アイチのことは気になるが、どのようにその愛を表現すればいいのか分からない。そんな雰囲気を、特に三和は感じていた。アイチが一時期ヤンデレヒロインよろしくおかしくなってしまった時、ついに三和の予感は確信に変わったのであった。
 不器用な奴、というのが、櫂の友人という非常に狭い枠の中に存在する三和が、櫂本人に抱く評価だった。そう、不器用な男なのだ。例えるのならば、拘束持ちのヴァンガードユニットのようなものだった。強い力を秘めているものの、それを解き放たなくては何の意味もないのだ。
 しかし、その拘束が解き放たれてしまった現状に、いざ対面してしまった時。
 三和を初めとした櫂とアイチ周辺の人物は、櫂とアイチにファイトさせてしまったことを、少しだけ後悔し始めていた。
 見上げればどこまでも広がる青い空、白い雲、エメラルドグリーンの海。背後にはいちゃつくバカップル。目の前にはナイスバディの森川。
全てを諦めてしまったかのような目をしながら、三和はぽつりと呟いた。

「……俺も彼女ほしー」
「分かってるとは思うけど、アイチは男だからな」

 大した意味など持たない井崎のツッコミに、三和は乾いた笑いを浮かべることしか出来なかった。
 櫂とアイチは相変わらず、ナチュラルかつ大胆に、他人の目を気にすることなく甘い雰囲気を放出し続けていた。

「このさくら貝、もっといっぱい見つけて、櫂くんにもあげるね」
「……俺はこれでいい」
「え?」

 櫂はアイチの手の平の中のさくら貝をそっと奪い、その細い腰を抱く腕に力を込めた。
 と、その時だ。

「アイチ君から離れなさい、櫂!」

 チュイン、という音をたてて、櫂の前髪を弾丸が掠めた。はらはらと数本の毛が落ちる。
 何事かと泡を食うアイチを余所に、櫂は見るもの全てを焼き殺しかねない光を両目に宿し、声のした方を睨みつけた。

「何のつもりだ、レン」
「ムカつくんですよー! いちゃいちゃいちゃいちゃと鬱陶しい!」

 レンの言葉に、三和と井崎は心の中でこっそり(同意だ)と呟いた。
 愛用する小型回転式拳銃、ニューナンブM60を両手に構え、突如現れた雀ケ森レンはキー!と叫ぶ。爽やかな風にアロハシャツの裾をたなびかせながら、レンは今一度、ふたつの銃の焦点を櫂へと合わせた。レンの腕ならばアイチを誤射するような真似はしないだろうが、万が一に備えて、櫂はアイチを支えていた腕をそっと離して、距離を置く。
 レンに向かい合う櫂を見て、アイチは心配そうな声で彼の名前を呼んだ。

「櫂くん……」
「心配するな。すぐに片を付ける」

 そうして櫂は、自らの聞き手に鉄製のナックルを嵌めて戦闘態勢を取った。両者の間にぶわりと巻き起こる並々ならぬ臨戦オーラに、砂浜がビリビリ音をたてて揺らいだ。

「二丁拳銃の雀ケ森と呼ばれた僕の射撃の腕で、君を今すぐ物言わぬ肉塊に変えてさしあげますよ!」
「面白い、やってみるがいい……しかし俺に喧嘩を売った以上、肉塊になるのは貴様の方だ、レン。冷凍便でルミネTHEよしもとまで送り付けてやろう」

 櫂とレンが動いたのは同時だった。近距離での戦いを得意とする櫂は、間合いを詰めるため、地を蹴る利き足に全ての力を集約させ、解き放つ。目にもとまらぬスピードでレンとの距離を数センチまで縮めた櫂は、間を置かずナックルを装備した聞き手を振りかぶる。櫂の全力のパンチを、レンは両手の拳銃をクロスさせることによって防御した。

「っ!……、なかなかっ……やりますね……!」
「ふ……貴様こそ、よくこの攻撃を受け止めたな……だが、次はない!」

 二人の体が弾かれるように、一定の距離を持って遠ざかる。しかし、バックステップで間合いを取ったのも束の間、二人は再び光の速さで力と力を交差させた。櫂のパンチを今度は片手で受け止めたレンが、生まれた隙を狙ってもう片方の銃を発泡する。櫂は至近距離で発射された弾丸を、首の動きだけで辛うじて躱した。次の瞬間には、櫂の蹴りがレンのボディへ繰り出されたが、再びバックステップで後退したレンによって、その攻撃がダメージに変わることはなかった。

「クッ、小癪な!」
「次こそ仕留めます!」

 両者一歩も引かない攻防を、アイチや三和、井崎はぼんやりと眺めていた。そんな三人の背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「やあ、皆さん楽しんでいるようですね」
「あ、店長。ミサキさんとカムイ君も」

 シンとミサキ、それからカムイの三人は、レンに貸し出されたペンションの一室で、持ち込んだ荷物の整理をしてから合流する、という話になっていたのだった。シンとミサキはともかく、常であれば一番に海へ駆け出していってもおかしくはない葛木カムイが、こうして荷物の整理を手伝うことになった経緯としては、ひとえに先導エミの不在が原因だった。
 カムイが熱い愛情を向ける存在、アイチの妹でもあるエミは、今回の旅行のメンバーに含まれていなかった。偶然にも、彼女の通う小学校のレクリエーションと日程が重なってしまったのである。
 エミと海へ行けない事実を知ったカムイは目に見えて落胆した。エミさんがいないんじゃ何の意味もない、と絶望の表情を浮かべるカムイを、せっかくの旅行なんですから、とシンが半ば無理やり引っ張ってきたのであった。そのままの流れで、カムイはシンとミサキと共にペンションで荷物の整理を済ませ、やはりどこか浮かない顔で、こうしてアイチ達のいる海へと繰り出してきたのである。
 いつもの元気を失っているカムイに、アイチは居た堪れないような気持ちになった。

「カムイ君、元気出して」
「お兄さん……」
「ほら、この辺、こんなに綺麗な貝殻が落ちてるんだよ。エミへのお土産、一緒に探そう?」
「エミさんに……お土産……」

 アイチが指さした砂浜には、キラキラと光る美しい貝殻がぽつぽつと落ちていた。カムイの脳内で、貝殻をプレゼントした際にエミが浮かべる至高の笑顔が光の速さでシミュレートされる。現金なことに、今の今まで落胆していた彼の表情が、みるみる内に活気に満ちた。

「エミさぁん!」
「良かった、カムイ君が元気になったみたい」
「心配するだけ無駄だったね」

 ミサキのツンとした発言に、アイチは「あはは」と苦笑を浮かべた。

「いやぁ、元気になってくれたのなら何よりです!」

 蘇ったカムイの顔を見て、シンが満足そうに保護者らしい笑顔を零した。

「カムイくんがいつもの調子を取り戻したところで、皆さんで鍾乳洞見学にでも行ってみませんか?」
「鍾乳洞……あ、カムイ君が写真で見てた場所だよね」

 アイチの言葉に、シンが頷いた。

「そうです。ここからそう遠くないですし、すぐに戻ってこれますよ」

 シンの言葉に、アイチは未だ戦いの手を休めない櫂とレンの方を振り向いた。そんなアイチの反応を予め予想していたからこその、「すぐに戻ってこれる」というシンの言葉だったのだ。

「櫂君と雀ケ森君の戦い、ちょっと長引きそうですし、残ってる皆さんで見に行ってみましょう」

 シンの提案に、カムイを初めとして、三和や井崎、それからミサキもなかなか色よい反応を浮かべていた。乗り気な友人達の姿に、アイチは自分も鍾乳洞見学に着いていくことを決めた。
 チラリと今一度後ろを振り返れば、相変わらず、櫂はレンとのバトルに夢中になっているのだった。アイチは自分の胸の中に、もやもやとした感情が生まれる感覚を、何となく覚えていた。
 シンが朗らかな声で、櫂とレンに向かって言葉を投げかけた。

「櫂君と雀ケ森君! 僕たちちょっと鍾乳洞の方を見てきますので、君達も怪我をしない程度に楽しんで下さいね!」
「これでファイナルターンです! 混沌なる静寂に叫びし絶望、幻すら見られぬ闇より暗き闇の力を我に……アブソリュート・ゼロ!」
「そんな攻撃が効くものか! 終わりなき探求の果てに辿り着いた最終進化、荒ぶる魂を昇華させ現した我が真の姿! 喰らえ、殺撃幻竜拳!」

 シンの声は、どうやら櫂達の耳には届いていないようだった。しかし、そんな事実をあまり気にすることもなく、シンは相変わらずの笑顔を浮かべながら「それじゃあ、行きましょう!」と、お目当ての鍾乳洞の方向へと歩きだした。カムイやミサキも、特に異論はないようだった。平然とした表情で、先を歩くシンの横へと並んだ。

「………」
「アイチ、どうした?」

 何やら複雑な表情を浮かべるアイチの顔を覗き込み、三和が問う。アイチは驚いたように目を見開き、あわあわと「な、何でもないよ!」と返事をした。

「さっさと行こうぜ。店長やねーちゃんらとはぐれちまう」

 井崎が三和とアイチに呼びかけた。

「おう、悪ぃ! ほら、行こうぜアイチ」
「う、うん」

 三和に促され、アイチは後ろ髪を引かれるような思いを抱えながらも、足を動かした。最後にもう一度、後ろをチラリと振り返った。櫂は相変わらず、レンとの勝負に夢中だった。
 ちなみに森川は、砂の中に埋まったままいつの間にか熟睡していた。夢の中では、ウルトラ・レアのコーリンと二人でバカンスを楽しむイメージが無限に広がっていたのだった。




 波打ち際に沿って歩いていくと、鍾乳洞らしきものへの入口は次第に大きくなっていく。何やらやたら興奮しているシンの様子に気づき始めたミサキは、いつもの彼女らしいジト目で彼を見ながら、口を開いた。

「シンさん、なんかテンション高くて気味悪いよ」
「ひ、酷いですよミサキィ……」
「どうせまた変な薬でも作るための材料の調達、みたいなこと考えてるんでしょ」
「ギク……そんなことないですよアハハ……」

 RPGにおけるメガネの研究者枠であるシンの個人的趣味のひとつに「薬物の調合」というものがあったのだが、その趣味は家族であるミサキ以外には殆ど知られていない事実だった。幻覚が見える等の類ではなく、もっとメルヘンでファンタジーな二次元特有の症状しか現れない薬だからセーフ、というのがシン本人の主張であった。幼児化、女体化といった具合の『アレ』である。この場合、アウトなのは主にシンの思考だった。

「店長とミサキさん、なんの話してんだ?」
「アンタは知らなくていいことだよ」
「?」

 訝しげなカムイに、ミサキがサラリとした口調で答える。シンは曖昧な笑顔を浮かべていた。
 一方、アイチと三和、井崎は、三人のすぐ後ろを固まって歩いていた。話題は主に、これから行く鍾乳洞や、今晩の飯、予定されている花火や枕投げ大会のことである。ただ、アイチだけは、相変わらずの浮かない表情を浮かべながら、きらめく海面をぼんやりと眺め歩いていた。
 思い描くイメージは、もちろん櫂トシキの姿である。

(櫂くん、生き生きしてたなあ……)

 あれを生き生きしていると捉えるアイチはなかなかの天然だったが、脳内で呟いた言葉にツッコミを入れてくれるような人間は残念ながらいなかった。

「アイチ、どうしたんだよ。元気ないぞ」
「あ、三和君……」

 三和の方を振り向けば、彼は井崎と共に不思議そうな表情を浮かべてアイチのことを見ていた。楽しい空気に水を差してしまったような気がして、アイチはますますしゅんとした。

「ご、ごめんね」
「別に謝って欲しいわけじゃないっての。どうした? 腹でも痛いのか?」
「……櫂くん」
「櫂?」

 アイチの言葉に、三和と井崎は先程の戦闘を思い出す。耳を澄ませば遠方からは断続的な爆音や銃声が聞こえてきていたので、戦いは依然として継続中なのであろう。
 その櫂がどうしたのか、と聞けば、アイチは少し言いにくそうにしながらも、口を開いた。

「櫂くん楽しそうだったから……僕なんかと一緒にいるより、ずっと」
(えええええ……)

 予想もしていなかったアイチの発言に、三和と井崎はげっそりした。しかし、アイチのネガティブ思考が彼の明るくはない過去により形成されたものだと考えると、簡単にスルーすることもいけない気がするのだった。
 僕なんか、僕よりも。そんな考えに自然と行き着いてしまうアイチの性格も、このところ随分とプラス思考に変わりつつあったように見えてはいたのだが、実際のところはまだまだらしい。染み付いた性質はそう簡単に拭えるものではないようだ。そして、彼の感情はいつだって櫂の一挙一動によって左右される。こればかりは共通だった。

「き、気にすることでもないと思うぞ、うん」
「三和の言うとおりだよ。気にすんな、アイチ」
「……うん」

 無理するように笑うアイチに、三和と井崎は、どうしたもんか、という表情で顔を合わせることしか出来なかった。



 歩を進めていく内に、足元の地面は砂浜から岩場のような場所へと変化していった。透明な海の底には深く暗い闇が広がっている。

「これ、足踏み外したらヤバそうだな」
「そうでもないんじゃね? 波も高くないし、泳げれば余裕だろ」

 確かに、岩場の下に広がる海は、手を伸ばせば指先が触れるような高さに存在しているわけだったし、三和の言うとおり、波は至って穏やかだ。よほどのことがなければ、溺れる心配はないだろう。
 美しい透明の海を見下ろしながら、アイチが思い浮かべる人物は、やはり櫂トシキのことばかりだった。いつだったか、アイチが不貞腐れ落ち込んでいた時も、海ではないが、こんなふうに水面に映る自分の姿を見つめていた。

(あの時は、櫂くんが……)

 ふと、あの時のように櫂が現れることを無意識に期待しながら、アイチは水面に映る自分の顔をジッと見つめなおした。
 その時、何かがアイチを呼ぶような声が、唐突に聞こえた。

(え?)

 海面に映る自分の口元が、三日月のようにゆっくりと釣りあがる。しかし次の瞬間、もう一人のアイチの姿は、ぶわりと歪んで消えてしまったのだった。
 海面が揺れ、波が起きた。
 突如打ち付けられた大きな波によって、自分の体が海の中へと引きずり込まれたことに、アイチ本人は気付く暇もなかった。






「アイチが海に落ちたー!」

 三和の絶叫が周囲に響く。それとほぼ同時に、今の今まで遠方で戦いを続けていたはずの櫂とレンが、あらゆる物理法則を無視してその場に現れた。

「おい、どういうことだ!」
「アイチ君が海に!?」

 もう突っ込まねえ。三和は固く決意しつつ、今しがたアイチが落ちた海の方へと視線を向けた。
 焦ったような声を上げるのは、井崎だった。

「大変だ! アイチのやつ、泳げないんだよ! 前に水泳の授業で森川がふざけてアイチからビート板奪ったら、あいつ足の付くプールで溺れてやがったんだ!」
「何だと……!?」

 井崎の言葉を聞いた櫂とレンは、一目散に海へ向かって走り出した。

「アイチ!」
「今行きますよアイチ君! あと森川カツミはアイチ君を救出後にコンクリートに詰めて東京湾に沈めるんで覚悟しておきなさい!」
「に、逃げろ森川ー!!」

 溺れたアイチよりも、ビーチで寝ている森川にこそ命の危機が迫っていることを悟った井崎は、その友人の名を絶叫した。



***



 薄れゆく意識の中、アイチは自分の瞼の裏で、きらきらと輝く光のようなものを確かに見た。それはアイチの記憶の中へとゆっくり侵食していき、やがて全ては真っ白な景色の中へと消えてしまった。思い出も、心も、何もかもが白く塗りつぶされていく。
 そうして最後に見たはずの景色は、輝く外の世界をバックに、自分に向かって手を伸ばす誰かの姿だった。



***



「アイチお兄さん、目を覚まして下さい!」
「アイチ、しっかりしてアイチ!」
「だから僕が人工呼吸をすると言っているでしょう! 時は一刻を争うのです!」
「こんな時にふざけたことを吐かすなレン……!」

 海の中から救出された瀕死のアイチのすぐ傍で、不穏すぎる空気が場違いにも流れていた。

「あんたらアイチが大変な時に、馬鹿なこと言ってるんじゃないよ!」

 ミサキのもっともな怒声が響いた。
 次の瞬間、ゴボォ!と、およそヒロインが立てるものとは思えぬ擬音と共にアイチが勢い良く水を吐き出した。頬を伝い顔の横に出来上がった小さな水溜まりの中で、知らぬ内に踊り食いしてしまった小魚がぴちぴちと跳ねている。
 程なくして、アイチの長いまつげに縁どられた目蓋が、ゆっくりと開いた。未だ意識がはっきりしていないのか、どこか虚ろな眼差しは、覗き込む人々の顔をきょとんと眺めていた。

「………」
「お兄さん、良かった!」
「いやあ、意識が戻ったようで何よりです! なんともなさそうですが、一応ペンションに戻って休憩をさせた方がいいかもしれませんね」
「シンさんの言うとおりだね。服も濡れちゃったし、着替えた方がいいよ」
「ああ、それならテツに言って換えの服を用意させます。アサカに頼んでチョイスしてもらった服が沢山ありますので、心配しないで下さい」
「………」
「……どうした、アイチ」

 意識は戻ってきているものの、それから一度も口を開かないアイチの様子に疑問を覚えたのか、櫂が低い声で問いかける。

「お兄さん?」
「アイチ、大丈夫? 気分悪いの?」
「水飲みますか? それともポカリ持ってきますか? テツが」
「おーい、アイチー」

 まるで反応を示さないアイチに、その場にいた者はかわるがわるに声をかけた。そして、三和がアイチの顔を覗き込んだ、その時。

「……!」

 ピシャリと、アイチの体が雷に打たれたかのように、跳ねた。ぼんやりと虚ろだった目には一瞬の内に光が宿り、ぽっかりとあいた口から驚いたようにヒュッと息がこぼれる。

「……見つけた」

 アイチの細い腕が、目の前にいる三和の首元へ、ふわりと伸びた。
 そのまま、まるで映画のワンシーンのように、アイチは三和の身体に、思い切り抱きついたのだった。
 声変わりを迎えていないアイチの高い声が、ビシリと凍りついた真夏の砂浜に、ひとつ響いた。

「僕の王子様!」

 胸で感じるアイチの体温よりも確かな、背中で感じる圧倒的威圧感。わけの分からない状況に陥っているはずの三和は、静かに自分の死を悟った。



***



「セイレーンアズーロの伝説ですね」

 どこをどう見ても観光パンフレットとは思えないような、表紙がボロボロに風化し始めている分厚い本開き、その中の一頁を指さしながら、シンがどこか興味深そうな声音で言った。

「セイレーンアズーロ?」

 訝しげな表情を浮かべるのは、カムイとミサキ、そして井崎である。三和は縋り付くアイチを振り払うのに必死で、シンの話どころではなかった。今にも体を貫通しそうな程の後方からの殺意を全身でびんびんに感じながら、アイチの小さな青い頭を遠ざけようともがいている。この光景はまるで、いつも大文字ナギサとカムイとの間で繰り広げられるやりとりの再現のようだった。アイチは、普段の彼からは想像できないような強引さを持って、三和を絞め殺さんとばかりに抱き着いていた。

「やめ、やめろアイチ、マジで離れ……魚臭っ!?」

 魚屋や水族館を彷彿とさせるような生臭いにおいが、三和の鼻腔を刺激した。その言葉を聞いたシンが、やはり、といったような表情で口を開いた。

「恐らく、アイチくんはセイレーンアズーロの霊に取り憑かれているのでしょう」
「ハァー?」

 まっ先に口を開いたのは、感情表現豊かな最年少、カムイであった。言葉には出さなくとも、他のメンバーは思うことは一緒のようだった。何言ってるんだこの大人、と。

「まあ、この本をちょっと見てくださいよ」
「本?」

 シンが先程から指さしている頁を、皆がようやく覗き込む。
 そこには、今時珍しい手書きの文字と、古ぼけた写真が胡散臭くプリントされていた。紙質は見た感じクラフト紙なのだが、いかにも古い本であると主張するような質感が、むしろどこかわざとらしい。カムイとミサキが、訝しげな目をしながらシンを見上げた。

「シンさん、これ……」
「そ、そんな目で見ないで下さい! とにかく、ここに書いてある内容を読みますよ!」

 シンが半ば強引に本の朗読を始めた。

「この地方にまつわる逸話のひとつに、『セイレーンアズーロの悲劇』という言い伝えがあるそうです。セイレーンアズーロとは、イタリア語で『青い人魚』という意味合いを持ちます」

 シン曰く、セイレーンアズーロの伝説とは、こういうことらしい。
 かつてここら一帯の海は人魚の生息地であり、セイレーンと呼ばれる人魚達がひっそりと暮らしていたのである。セイレーンとは、美しい歌声で船乗りたちを惑わし、遭難させてしまうという、恐ろしい生き物として語られていた。
 この物語に登場する『アズーロ』というセイレーンは、青い髪と尾ヒレを持った、若く美しい人魚であった。
 ある日アズーロは自分の歌によって転覆させた船に乗っていた一人の青年に恋をしてしまった。海へと沈んでいく青年を助け、陸へと連れ戻したアズーロは自らの命を落としてしまった。セイレーンとは、歌を聞かせた者の中にひとりでも生存者がいた場合、岩になり死んでしまうと言われていたのだ。
死に至るまでの間、アズーロは最後に愛した男のことを想いながら、密かに持ち帰っていた彼の胸のブローチを握り締め、はらはらと涙を流し続けたのだった。いつか再び男と会えることを祈りながら、とある洞窟の奥で、彼女は静かに岩へと変わっていったのである。
 その後この地には、かつて恋した青年と再び合間見えるために、セイレーンアズーロの霊が自らの媒体に使える「清純な乙女」を探しさ迷い続けている、という逸話が生まれたのであった。
 シンの話を一通り聞き終わり、初めに口を開いたのはミサキだった。

「途中から微妙にアンデルセンの童話が混ざってない?」
「そ、そうですかね?」
「……まあ、それにしても」
「青い人魚……」
「清純な乙女……」

 皆の視線がアイチに向けられた。

「頼むから離れろアイチ! そろそろ櫂と雀ケ森レンの殺意によって俺の命がマジでピンチなんだ! 俺はまだ死にたくない!!」
「王子様……ずっと会いたかった」
「三和……」
「びわ……」
「三和だ! いや今そんなことはどうでもいい! お前ら二人その目やめろー!」

 暗い光を携えた眼差しを三和に注ぎ続ける背後の櫂とレンのことはひとまず置いておいて、皆は「青い人魚」「清純な乙女」というワードから、アイチがアズーロの媒体に選ばれた理由を何となく察した。

「もしこの場にエミさんが来ていたら……」

 カムイがひっそりと青ざめる。青という色はともかく、人魚、それから清純な乙女と聞けば、彼の中では先導エミの存在がダイレクトに当てはまってしまうのだ。もしもエミが一緒に来ていたのならば、アイチではなく彼女が取り憑かれてしまっていたに違いない、とカムイは勝手に確信していた。

「お兄さんが……エミさんの身代わりにぃ……!」
「あんた何いきなり号泣してるの……」

 男泣きするカムイに、ミサキが呆れたように口を開いた。

「ていうか、なんでアイチの奴は三和に向かって王子様とか言い出してるんだ?」

 井崎がシンに聞いた。するとシンは、再び本の中の一行を指さして、「こういうことでしょう」と言った。

「アズーロが一目惚れした青年は、一国の王子というお話だったそうです。曰く、その王子の特徴が、陽の光を集めたような美しい金髪だとかで」
「陽の光を集めたような、」
「美しい金髪」

 皆が一様に、三和の方を振り向いた。
 そして、ああ……と納得する。

「金髪だな」
「金髪ですね」
「王子かどうかは置いといて」
「納得してないで助けてくれー!!」

 泣きつく三和を放置しつつ、ミサキが神妙な顔付きでシンに聞いた。

「それで、アズーロの霊に取り憑かれてるアイチはどうなっちゃうの? ずっとこのままなわけ?」
「そんな……!」
「えっと、ちょっと待ってください……」

 ミサキの言葉を聞き、悲痛な表情を浮かべるカムイをよそに、シンは改めて本に書かれる文字へと目を滑らせた。そして、ある一文を見つけると同時に、極めて明るい声で、こう言った。

「あ、大丈夫です! ここにきちんと、呪いを解く方法が記載されていますよ」
「本当か!?」

 まっ先に食いついたの三和だった。

「このビーチ周辺のどこかにあるはずの『アズーロ岩』の前で、アズーロの霊の媒体となった者が、愛した王子とキスを交わすことによって、彼女の魂も成仏を果たし、呪いは完全に解けるとのことです」
「なんだそりゃー!!」

 やはり、まっ先に叫んだのも、三和だった。

「それはつまりあれか! アイチが元のアイチに戻るためには、俺の命と引き換えにする他ないってことなのか!?」

 三和の命と引き換えと言ってしまっては多少アレだが、まあつまりはそういうことである。三和とアイチがキスをするのならば、まず櫂とレンが黙っていないからだ。察しの良すぎる三和は瞬時にこれから起こる悲劇を悟った。三和とて決して弱いわけではないのだが、敵に回さなくてはいけない相手の力が強大すぎる。
 自分の身に突如降りかかった悲劇に、三和はさめざめと泣いた。こんなことならば教師の言うことを大人しく聞いて黒染めしておくべきだった。

「王子様、大丈夫?」

 アイチ、いや、この場合はアイチに取り憑いているアズーロと言った方が正しいのだろう。アイチの姿で、アズーロが後悔に暮れる三和の顔を覗き込んだ。
 そんな光景を見ながら、今の今まで黙り込んでいるばかりだった櫂が、口を開いた。

「……その『アズーロ岩』というのはどこにあるんだ」

 櫂の言葉に、シンが「そうですねぇ」と思案した。

「文献によると、アズーロは『とある洞窟』の中で岩になったとのことです。この辺りでそれらしきものと言えば……」

 皆の視線を一斉に浴びながら、シンは、どこか思い出したような声で言った。

「この先の鍾乳洞ですね!」



***



 テツに心配をかけないためにと、井崎は報告の意味も込めて元いた浜辺に引き返したため、今現在、目的の鍾乳洞らしき洞窟の前に立つメンバーは、アズーロに取り憑かれているアイチ、そんなアイチにぎゅうと腕を掴まれたままの三和、そして、櫂、レン、ミサキ、カムイ、シンの七人だった。
 しかし、ここに来て、一行は思ってもいなかったような問題に直面することになった。

「な、なんだこれ……!?」

 驚きを隠せないといった具合で、カムイが聳え立つ『鉄の扉』を見上げながら、言った。
 そう、『鉄の扉』である。
 たどり着いた洞窟の入口は、どういうわけか、物言わぬ重い鉄製の扉によって、虫の一匹さえも侵入できないようなバリケードを張られていたのであった。何をどう考えても人の手によって施されたとしか思えない鉄の扉は、そこ以外の全ての景色が岩壁や木々といった自然物により象られているせいもあり、不自然で不格好なコラージュにさえ思えてくる。一同はただただ絶句することしか出来なかった。
 ただひとり、雀ケ森レンを除いては。

「………」
「……レン?」

 ジッと扉を見つめていたかと思えば、何かを思案するかのように首を傾げる。そして再び扉を見る。今度は景色と合わせ、ぼんやりと全体を見ているかのような視線だった。そうして、何かを確信するかのような表情を浮かべたレンは、ゆっくりと扉に向かって足を進めた。

「ちょっと待っていて下さい」

 そう言って、レンは鉄の扉の隅に立ち、よく見れば僅かな窪みがある一画を、コン、コンコンと、何やら意味のありそうなリズムで叩き始めた。
 すると次の瞬間、シュインというスライド音と共に、一枚のパネルが現れた。レンはさほど驚く様子も見せず、操作パネルの前に立ち、浮かび上がるボタンの数字をポチポチと押し始めた。パスワードなのだろうか、複雑な数字の組み合わせを打ち込むこと数十回、ようやくレンはぽつりと口を開いた。

「……最後に、1、2、1、2」

 言葉通りにボタンを押し終わると同時、ピーという機械音が響き、重く聳えていた扉が、埃を巻き上げながら左右へとゆっくり開いていった。

「ひ、開いたー!?」

 あんぐりと口を開けたままだったメンバーを代表するように、カムイが大声で叫んだ。

「……やはり、そういうことなんでしょうかねぇ」

 レンが何やら意味ありげな言葉を漏らした。しかし、つぶやくようなその声が、誰かの耳へと届くことはなかったのだった。

「おい、レン。これは一体どういうことだ」

 櫂が不信感を露にした低い声で問えば、レンはぷうと頬を膨らませながら、こう答えた。

「僕にもまだよく分からないんですよぅ。あんまり怖い顔しないでください」
「何か、あんた怪しいよ」

 今度はミサキが口を開いた。こちらもレンに対する不信感がじわじわと募ってきているようである。元々、ミサキの中のレンへの信頼度は限りなくゼロに近いのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが。
 ミサキはジト目でレンのことを見ながら、言葉を続けた。

「アイチがアズーロの呪いにかかるように仕向けたの、あんたなんじゃないの。最初っから、私たちをここに誘き寄せるつもりだった、とかいう理由で」
「言いがかりはやめてくださいよ。そもそも、僕は元々アイチくんだけ誘ったつもりだったのに、勝手についてきたのは君たちじゃないですかー。ていうか、仮に僕が君たちに何らかの罠を仕掛けようと企んでいたのなら、こんな不愉快なシナリオを用意するはずないです」

 ズビシ、とレンは三和に擦り寄るアイチの方を指さして言った。
 三和を王子様と呼びながら、一秒だって彼から離れようとはしないアイチを見て、ミサキは妙に納得してしまった。
 独占欲と支配欲の強いレンのことだ。こんなシナリオを用意しないという言葉にも、素直に頷ける。

「た、確かに」
「疑うなんて、ミサQ、ひどいですよ!」
「ミサQって呼ぶな!」
「茶番は済んだか? 俺は中へ入るぞ」

 急におかしな呼び方をされ、反射で顔を赤く染めたり青く染めたりしているミサキと、相変わらずぷくりと頬を膨らませているレンに冷ややかな視線を投げかけながら、櫂はひとり勝手にスタスタと洞窟の中へと足を踏み入れた。

「あっ、待てよ櫂! 勝手に行動すんな!」

 カムイが主人公らしいことを言いながら、闇の中へと溶けていった櫂の背中を急いで追った。その後に着いていく形で、シンとミサキ、それから三和に促されながらアイチが、同じように洞窟の中へと進んでいく。

「………」

 レンはひとり、洞窟の中に広がる闇を、ぼんやりと眺めていた。すると突然、耳を劈くような大きな叫び声が、彼らの消えた闇の中から響いたのである。

「……やっぱりそういうことですよねぇ」

 ふう、と溜め息をひとつこぼし、レンはゆっくりと鍾乳洞の中へと進んでいったのであった。





「なんっじゃこりゃあああ!」

 文字通り、『闇が蠢く空間』を目の当たりにし、まっ先に叫び声をあげたのは、最年少のカムイだった。

「騒がしいですよ、少年」
「あっ、テメェ! レン!」

 遅れて洞窟の中へと足を踏み入れて来たレンに、今にも掴み掛らんとばかりの勢いでカムイが詰め寄っていく。

「どうなってんだ、この洞窟は! ここら辺はお前のプライベートビーチなんだろ!?」
「そうですよ。それがどうかしましたか」

 何やら激高しているカムイに、レンはしれっとした態度で聞き返した。そんなレンの態度に焦れながら、カムイは改めて、全身全霊を込めて、叫んだ。

「どう見てもダンジョンじゃねえか!!」

 ズビシ、とカムイが指さした先には、どんよりと湿った空気の充満する洞窟の中で、言葉にすることの出来ないような唸り声を轟かせながら徘徊する、無数の『生きもの』たちの姿がある。
 その生きものたちはいずれも、当たり前のように繰り返される日常生活の中では、決して目にすることの出来ないような、あまりに現実から逸脱し切った、『化け物』と呼ぶに相応しい姿をしていたのであった。
 這いずるように地を徘徊するのは、上半身は一見豚そのもの見えるものの、下半身はまるで蛇のような姿をしており、皮膚は爬虫類特有の鱗に覆われる異形の生き物だ。
 鍾乳石により凹凸の激しい天井には、よく見ればびっしりと何かがぶら下がっているようだった。
それは確かにコウモリだった。
 しかし視界に映る生き物達は、本やテレビで見たことのあるコウモリとは圧倒的に違う部分があったのだ。
口からはみ出す程の大きさの牙は、サーベルタイガーを彷彿とさせるような鋭さを持って、暗闇の中で怪しく光を放っていた。

「これはマズイですねぇ。二つ以上の意味で」

 言葉とは裏腹に、レンはあっさりとした声で呟いた。

「おいレン、この化け物達は何だ」

 珍しく焦りを含んだような低い声で櫂が問えば、レンは相変わらず感情の読めない声でこう紡いだ。

「雀ケ森グループのバイオ研究所が極秘で制作したバイオ生物の隠蔽先がこの洞窟だった、とでも考えるのが妥当でしょうね」
「妥当でしょうね、じゃねえよ!」

 カムイが叫ぶと同時に、今の今まで沈黙を保っていた天井のコウモリ達が、一斉に羽ばたき飛び立った。向かう先は勿論、侵入者と判断された一同の元だった。
 怪しく光る牙が、キシャアアという不穏な鳴き声と共に露になる。

「クソッ! 黙ってやられてたまるかよ!」

 迫り来るコウモリを、常備していたボウガンで撃ち落としながらカムイが叫んだ。
 シン特性のカムイ専用武器のボウガンは、小学生にも扱いやすいよう、何度も改良を重ねられた特注品であった。射出武器の弱点である発射までのタイムロスを考慮し、矢が飛び出す部分を二箇所に作り、尚且つ軽量化にも成功したという自慢の武器なのだ。
 一発、二発とコウモリを撃ち落としながら、カムイは改めて、皆が思っているはずの言葉をレンに向かって吐き出した。

「完全にキメラの類じゃねえか!」
「ていうか、どうしてこんな化け物の巣窟みたいな場所の先に、セイレーンアズーロの石が祀られてるの?」

 ミサキの問いに、レンはふむ、と右手を頬に当てながら思案した。

「逆ですね。元々石が祀られているだけだったこの鍾乳洞で、後になってバイオ生物達が繁殖したんでしょう。このビーチから数十キロ程離れた地点に、今は使用していない研究施設があるんですが、恐らくそれを手放す際に、作ったバイオ生物達をこの洞窟に隠蔽したのでしょう。伝説なんて所詮はオカルトを信じない者からすれば単なる作り話ですし、大して問題にはならなかったんじゃないですか。生物達を放し、封印の意味で頑丈な扉を作り放置したはいいけれど、まさか中で繁殖されているとは思いもしなかったんじゃないですかねぇ」
「冷静に分析してんじゃねー!」

 カムイが次々と向かってくるコウモリを撃墜しながら、レンに背中を見せたままの姿で叫ぶ。

「雀ケ森グループはどうなってんだ! ヤバイにおいがぷんぷんするぞ!」
「そうは言いましてもねえ」
「今は呑気におしゃべりしてる場合じゃなさそうだよ!」

 ミサキの叫びに促されるように再び戦闘態勢を取る。しかし、反応が遅れたせいか、カムイの横をすり抜けたコウモリは、後方に控えるシン達の元へと向かって行ってしまったのだった。

「ヒィ!」

 近距離での戦いにまるで耐性のないシンが情けない声を上げるのと同時に、彼の目の前で、ゴツ!という、何やら骨が砕けるような音が聞こえた。

「シンさん! ぼさっとしてないで!」
「み、ミサキぃ!」

 勢い良くシンの前に躍り出たミサキは、両手に構えたトンファーで、シンを狙い飛び迫ってきていたグロテスクな飛行生物を叩き落としたのだった。

「……ここに長居をしている場合ではなさそうだな」

 ぽつりと、迫り来るキメラの大群を目の前にしながら、櫂が呟いた。ざっと敵の数を見て、全てを相手にしていてはあまりに時間がかかり過ぎると判断したのだ。そう考えている間にも、キメラは攻撃の手を休めることなく、闇の奥から次々と溢れ増援するばかりだった。

「キリがないですねー」

 襲いかかるコウモリを両手の拳銃で撃ち落としながら、レンも辟易するように言葉を漏らした。彼が空中からの攻撃を凌ぐ間に、接近戦を得意とする櫂が、豚と蛇が素材であろうキメラを殴りつけ、連携を取る。さらにその後方では、カムイとミサキ、レンと櫂のバリケードを突破した数匹の化け物を、三和が隠し持っていたバールのようなもので殴り、背後に隠れているアイチを守る。
 カムイとミサキ、レンと櫂の2グループが壁となり、その壁を掻い潜った敵は三和が沈める。咄嗟に出来上がった陣形は、それなりに機能しているようだった。
 しかし、戦いの流れは掴みきっているものの、今回は化け物の討伐が目的ではないのだ。一刻も早くアズーロ岩を見つけ出し、アイチを元のアイチに戻さなくてはいけない。こんなところで時間を取られている場合ではなかった。
 考えていることは、皆同じようだった。

「……埒があかない。仕方ないね」

 そう言って、シンを守りつつ前線でトンファーを振るうミサキは、少し後ろでボウガンを打ち続けるカムイを小さく振り返り、アイコンタクトを取った。
 言うほど長い付き合いではないのだが、同じチームでファイトを重ねる内に培った絆のおかげで、カムイにはミサキの言わんとすることが理解できた。そして、了解したという意味を込め、ひとつ大きく頷いたのだ。

「やるよ、カムイ!」
「分かった、ミサキさん!」

 その掛け声と同時に、自然に作り上げていた隊列を強引に崩し、カムイとミサキは敵の最前線、つまりはキメラの群れの中へと勢い良く走り込んでいった。

「ねーちゃん!? カムイ!?」

 驚いたような声をあげたのは三和だった。
 次々と襲いかかってくるキメラ相手に、ミサキは光の速さでトンファーを叩き込む。先程まで中距離からの攻撃を専門としていたカムイは、敵の群れに突入したと同時に、その手に構えていたボウガンを『変形』させた。
 ボウガンは両手剣のような形に『変形』し、剥き出しの刃をカムイが思い切り振りかざすと同時に、苦しむようなキメラの咆哮が響きわたる。両手剣のリーチはカムイの半身程の大きさもあるというのに、カムイ自身にそれを持て余している様子は微塵もなかった。軽々と、まるで箒やバットでも振り回すかのような身のこなしで、次々とキメラやコウモリを倒していく。これも、シンによる技術の賜物だった。後は、カムイに元々備わっていた抜群の運動神経が合わさり、接近戦でも十分な威力を発揮することが出来ていた。いや、攻撃の火力に限っては、先程よりも上である。しかし、多数の敵を相手に連携を取るというシチュエーション上、カムイは中距離からミサキのサポートに徹する他なかったのだ。
 その陣形を崩してまで、カムイとミサキが取ろうと考えた作戦とは。

「!」
「……成る程、そういうことですか」

 突然の彼らの行動を訝しく思っていた櫂とレンが、その真意に気が付いた。

「……! 道が出来てる!」

 三和が驚いたように叫んだ。
 カムイとミサキが群れの中心に集中的な攻撃を浴びさせたことにより、そこには一本の道が出来上がっていた。
 あそこを一気に駆け抜ければ、奥へ進むことが可能だ。

「早く! ここは私たちが食い止める!」
「お兄さんを連れて、アズーロ岩を探せ!」

 二人の叫び声に応えるよう、櫂とレン、三和は地を蹴り走り出した。
突然の出来事に驚き、反応の遅れたアイチに気が付いたのは、櫂だった。

「来い、アイチ!」
「!?」

 三和の後ろに隠れていたアイチを強引に引き寄せ、櫂は焦れったいと言わんばかりに、その小さな体を抱き上げた。そうして、脇目も振らずに屍の道を走り出す。
 ミサキとカムイの無事を祈りながら、アイチを託された三人は、さらなる闇の奥へと溶けていったのだった。


***


「姉ちゃん達、大丈夫かな」

 前へ進む足を動かしながら、三和が心配そうに後ろを振り返る。視界に映るものは、どんよりと湿った深い闇であり、キメラ達の群れの中に飛び込んでいったカムイとミサキの姿は、勿論見えることはない。先程まで聴覚が捉えていた動物の咆哮や、骨が砕けるような物騒な物音も、すっかり聞こえなくなってしまった。今はただ、自分たちの忙しない足音と息遣い、そしてどこかからか水が流れ続けるような音だけが、四人の鼓膜を揺らしていた。

「……とりあえず、ここまで来れば追っ手の心配はないでしょうね」

 ひとまずの危機を逃れ、各々が走り続けていた足を止めた。ぜえぜえと息を切らしているのは三和ひとりで、目の前の櫂とレンは呼吸一つ乱すことなく、涼しい顔でその場に立っていたのであった。

「あ、あの……」

 控えめな声が、水の流れる音に混じりながら小さく響いた。その声が自分に向けられたものだと気付いて、櫂はいつも通りの低い声で返事をする。

「何だ」
「お、おろしてもらえますか」

 アイチは櫂に抱きかかえられたままの姿で、困ったように冷や汗をかいていた。先程キメラの大群から逃れる際に、行動の遅れたアイチを櫂は咄嗟に横抱き、所謂『お姫様抱っこ』をして走り出したのだった。
 腕の中から、アイチが懇願するように櫂を見上げる。
櫂はしばし逡巡するような態度を見せながらも、結局は無言のまま、彼らしくもない、まるで壊れ物を扱うかのごとく、アイチをそっと地面に下ろした。

「………」

 そんな櫂の態度に、アイチは何やら複雑そうな表情を一瞬浮かべた。しかし数秒後には、まるで極端に人見知りの激しい子供のような動作で、パッと三和の後ろに隠れてしまったのだった。
 背後でアイチがポロシャツにしがみついている感覚を覚え、三和は生きた心地がしなかった。櫂とレンの目が怖いからである。

「さっさと先へ進みましょうよ!」

 不機嫌そうな表情でレンが言う。ずいずいと先へ進んでいこうとするレンの足元がガラリと小さく崩れ、レンは「おっと」とバランスを整えた。

「危ないですねー。ていうか、足場がもの凄く悪くなってきましたね」

 いつの間にかたどり着いたこの場所は、非常に高低差の激しい造りになっており、四人が立つ足場は小さな崖の上のようであった。道は細く、薄暗い洞窟内では、注意深く歩かなくてはうっかり落下してしまってもおかしくない。万が一落下した先にあるものが何かと下方を覗き込めば、それなりに流れの激しい川があった。先程から聞こえ続けていた水音は、この川が原因だったらしい。

「アイチ、気をつけろよ」

 三和が背後のアイチに声をかける。何やら櫂の行動を気にしていたアイチだったが、三和の言葉を聞いた途端に、ぱああと表情を輝かせた。

「うん、王子様!」
「いや、だからね……」

 三和がげっそりと弁解しようとした、その時だった。

「……!? なんだ、今の声!?」
「……何かいるな」
「ですね」

 グルル、という、先程聞いたキメラ達とはまた違う、それでも間違いなく人間の発する唸り声ではない音が、これから進もうとしていた闇の先から聞こえてくる。櫂とレン、三和が息を潜めながら声のする方をじっと見つめていると、闇の奥から一匹、またしてもキメラが現れたのだった。
 しなやかな動きのそのキメラは、ヒョウのような姿をしていた。しかしキメラの顔には、その周囲を取り巻くように、ライオンのたてがみに似た毛が生えており、身体のラインはヒョウでありながら、模様はヒョウではなく間違いなくトラそのものであったのだ。
 凶暴な猫科の生物を滅茶苦茶に融合したとしか思えないキメラを目の前に、レンが突然口を開いた。

「……キャスパリーグ?」
「は?」

 意味の分からないカタカナの並びに、恐怖と焦燥で汗をダラダラ流し続ける三和が、苛立ち混じりの言葉を吐き捨てた。
 しかしレンは、そんな三和の視線をまるで気にすることもなく、突如現れたキメラを見ながら、わなわなと震え出したのだった。

「キャスパリーグじゃないですか!?」

 今一度放たれたその声は、どういうわけか妙な喚起に満ちていた。
 次の瞬間、『キャスパリーグ』と呼ばれた猫科のキメラは、グルルルと唸り声をあげながら、今にもこちらに飛びかからんとばかりに、姿勢を低くし攻撃に移れる構えを取った。
 その行動は、レンに名らしきものを呼ばれて反応した、というよりも、ただ単にレンの大声に警戒心を逆なでられた、と言った方が正しそうだった。

「おいレン、キャスパリーグとは何だ」

 櫂が問えば、レンは僅かに興奮しているような声で、こう答えた。

「僕が小さい頃に飼っていた猫の名前です! あの勇ましいたてがみ、あのしなやかな身体、あの美しい模様! 間違いありません、あの子はキャスパリーグです!」
「あんな化け物を何の疑問も持たずに飼うなー!」

 三和がついにレンの頭をバールのようなもので一発殴った。
 流石に限界だったのだろう。彼の中に染み付いてしまったツッコミ気質故のストレスが爆発したのである。
 三和の攻撃を受けたレンは、「痛いですー!」とぷんすか怒りながら自分の頭をさすっていた。
 レン曰く、目の前で唸り声を上げる、いかにも肉食なキメラは、彼が幼少期に飼っていた『猫』らしい。
 幼少期のレンはどこか抜けており、まあ今でもその天然さはそう変わらないのだが、とにかく、雀ケ森レンという人間は根本的な価値観が常人とは明らかに違っていた。昔馴染である櫂は、テツも含め自分たちが中学生だった頃にレンがよく提唱していたトンデモ理論を知るところの人間だったのだが、彼の性格上、今ここでレンの幼少時代の話が語られることはないだろう。ただ、レンの性格なら、過去にキメラの一匹や二匹を寵愛していてもおかしくない、と一人静かに納得するだけだった。
 しかし、と、三和は冷静になって考えた。
 あの『猫』がレンの元ペットであるのならば、こちらに襲ってくることもないかもしれない。上手くいけば戦力として使える可能性もある。猛獣使いとか、そんな感じのペイルムーンなノリだ。あの化け物が、レンに懐いていればいいのだ。三和は期待するように、『猫』の飼い主であるレンを見た。
 相変わらずキラキラと表情を輝かせながら、レンは嬉しそうに叫んだ。

「手首を食いちぎられかけて入院している内に、いつの間にか消えてしまったキャスパリーグ! こんなところで生きていたんですね!」
「懐いてねー! 殺されかけてた! ダメだわこれ!」

 三和の期待は瞬時に泡と消えた。
 レンが大声で叫び続けたせいか、キメラはついに地を蹴りこちらに向かって飛びかかって来た。

「キャスパリーグ! 僕が分からないんですか!」
「分かったところで無駄だー!」

 猫科のキメラは、寸分の迷いもなく三和の方へと突進した。三和は瞬時に、襲い来るキメラの鋭い牙をバールのようなもので防いだ。

「ぐっ……、おらぁ!」

 全身の力を込め、三和はキメラを押し切るような形で弾き飛ばす。生まれた隙を見逃すことなく、ふらついたキメラのボディに向かって蹴りを一発ぶち込んだ。
 キメラはグゥと苦しそうな唸り声をあげながらも、再び体制を立て直す。そしてやはり、今度も三和に向かって攻撃を仕掛けてきたのであった。

「何で俺ばっかりー!?」

 情けない声で叫びながらも、牙はしっかりと防いでいる。キメラがギチギチとバールのようなものに噛み付いている隙に、横から援護に入った櫂の拳が、キメラの横面へとクリーンヒットする。

「分かったぞ、キメラの狙いは三和ではない。アイチだ」

 櫂が言った。三和は一瞬、「どういうことだ」と言いたげな表情を浮かべたが、僅かな思考の後、櫂の言葉の意味を理解した。

「! 魚のにおいか!」
「そういうことだ」

 セイレーンアズーロの霊に取り憑かれたアイチからは、魚屋の中にいるようなにおいが漂い続けている。相手は猫科のキメラだ。分かりやすい餌の臭いに興奮しているのだろう。
 防御力の高いキメラは、岩さえも砕く櫂の鉄拳を受けて尚、立ち上がった。

「やめなさい、キャスパリーグ! アイチくんを食べる気なら、僕は君を許しません!」
「話通じないんだって言ってるだろー! いいからアンタは援護してくれよ!」

 レンがキメラの足を目掛けて銃弾を打ち込んだ。キメラが怯んだ一瞬の隙を狙い、三和は地を蹴り高く飛び上がり、全身全霊でバールのようなものを振りかぶる。落下の力を利用した、三和の出せる限りの最大級のパワーが、キャスパリーグの頭部にヒットした。
 残念ながら致命傷には至らなかったようだが、勝機は見えてきた。三和はキメラの狙いであるアイチに向かって叫んだ。

「アイチ、化け物の狙いはお前だ! とりあえず、こいつが倒れるまで俺から離れて下がっててくれ!」
「う、うん。分かった、王子さ……」

 次の瞬間。
 背後を確認しないまま後退ったアイチの足元が、ガラリと音をたてて崩れた。

「!?」
「あ、アイチ!」
「アイチくん!」

 足場の悪い、崖のような道の上でバランスを崩したアイチは、そのまま数メートル下の川へと落下してしまった。三和は相変わらずキャスパリーグにバールのようなものをくわえ込まれているせいで身動きが取れない。彼を援護するレンも、咄嗟に動き出すことは出来なかった。

「アイチ!」

 唯一、自由に動くことの出来た櫂が、ひとつの躊躇いもなく、今まさにアイチの落ちた川の中へと飛び込んでいった。

「櫂、アイツ……!」

 キメラの攻撃に耐えながら、三和が小さく後ろを振り返る。そこにはもう、先に落下したはずのアイチは勿論のこと、櫂の姿も見えなかったのだった。



***



 瞼の裏でキラキラと何かが瞬いている。誰かが自分に向けて手を伸ばすイメージは、いつか見たおぼろげな光のように、アイチの海馬の中へじんわりと侵食してくるのだ。
 彼の名前をよく知っている気がした。もがけばもがくほど力が奪われていく世界の中、アイチは必死に手を伸ばした。
 何かに導かれるように、それしか縋るものを知らない子供のように、アイチはただ、光の方へと手を伸ばした。



***



「ん……」

 ぴちょんと、自分の頬に水滴が落ちる感覚を覚え、目を覚ます。開けた視界の先には、天井から伸びるいくつもの鍾乳石があった。
 薄暗い洞窟の中、湿った空気が、自分の身体に纏わりついていた。

「気が付いたか」

 隣から突然聞こえてきた声に、アイチはビクリと飛び上がる。茶色の髪と新緑色の瞳が特徴的な体格の良い男が、地面に寝転がるアイチを見下ろしていたのだった。彼のことは覚えている。先程まで、自分と王子様……三和についてきていた男のうちの一人だった。
 そうしてアイチはふと、自分が置かれている状況に気が付いた。

「お、王子様は……?」
「三和とレンならいない。仕方がないことだが、はぐれてしまった。……随分と遠くまで流されたようだ」

 忌々しそうな溜め息をひとつ零しながら、男は周囲を見渡した。
 男の全身はゲリラ豪雨にでも打たれたかのようにぐっしょりと濡れており、先の記憶では無造作に跳ねていた髪の毛も、矯正をかけたように真っ直ぐだ。そして、上半身が裸だった。どういうことかと混乱したアイチだったが、ふと、自分が何か布のようなものの上に寝転がっていたことに気が付いた。それは、先程まで櫂が身にまとっていたシンプルな黒いポロシャツだった。

「あ……」

 深く考えなくても理解できる。気絶する自分のために、櫂が施してくれた即席のシーツとでも言ったところだろう。流れ着いた凹凸の多い岩場はひどく固く、冷気さえも放出しているようだった。
 自分が敷いているものが彼のシャツだということに気が付いた瞬間、アイチは慌てて立ち上がる。そして、完全に湿気ってしまっている黒い布を持ち上げて、おずおずと持ち主へと差し出した。

「あの、これ……」
「……川に流されたせいで濡れてはいるが、岩場にそのまま寝かせるよりはマシだと判断した。悪く思うな」
「そ、そんなこと! えっと、あの……ありがとうございます」

 よそよそしいアイチのことを、櫂はジッと見つめる。彼の視線を感じたアイチは、どこか居心地の悪い思いを胸の中に芽生えさせた。
 鼓動が常時よりもずっと早く鳴り続け、頬が火照り、苦しくなる。
 この感覚を、どこかで味わったことがあるような気がした。

「………」
「………」

 互いの間に沈黙が落ちる。妙な気まずさから、アイチは胃が痛むような感覚を確かに味わった。
 そんな思いを胸にアイチが冷や汗をだらだら流していると、同じように黙り込んでいた櫂が、ふいに口を開いた。

「……あの先」
「え?」

 どうやら櫂は、ただ黙っていたのではなく、周囲の状況を確認していたようだった。そうして言葉を発した彼の視線の先には、周囲を岩壁に囲まれた、どこかへ抜けられそうな細い道が続いていた。流された距離のことを考えて、レンや三和と合流することは中々に困難だと判断した櫂は、このままここでじっとしていても埒があかない、と抜け道のようなその穴の先へと進むことにした。

「行くぞ、アイチ」
「え、あ……」

 未だ微妙な混乱を抱えたアイチの手を取り、櫂はすたすたと歩き出す。慌てて歩幅を進めるアイチは、そんな彼の背中をちらりと盗み見ながら、曖昧な思考を巡らせた。
 アイチ、とは、自分のことなのだろうか。
 セイレーンアズーロに記憶を改竄されたアイチは、自分の名前さえも忘れてしまっていた。ただ、自分が恋をした王子に愛されなくてはいけない。その想いだけが、アズーロに取り憑かれたアイチを動かす原動力だった。
 美しい金髪。優しい微笑み。三和と呼ばれていた彼が、自分の王子様なのだ。
 そう確信していたはずのアイチだったが、どういうわけか、心の中に妙な蟠りのようなものが、ふつふつと生まれ始めていた。

(この手……どこかで)

 ふいに、自分の手を握る彼の体温に、見覚えのある何かを、アイチは確かに感じた。息が苦しい。何も見えない。暗闇の中へ沈み込む、自分の体。身に覚えのないはずのイメージが、アイチの脳に何かを直接訴える。
 視界の中心で、何かが瞬くように、アイチの眼球を焼いた。眩しくて思わず目を閉じる。そうして瞼の裏に浮かび上がるのは、深い海の底から覗いた、キラキラと輝く海上の光のような世界だった。
 アイチの心の奥から、先程よりも強い感情が沸き上がる。

(君は……誰?)

 歩くたびに落ちる水滴を見つめながら、彼に握られた手のひらの体温を確かめるように、自分の右手に込める力を少しだけ強くする。
 数分も歩かないうちに、櫂とアイチは少し開けた空間へと足を踏み入れることが出来た。陽の光が差し込まない洞窟内は相変わらず薄暗い闇に支配されてはいるのだが、広間のようなこの場所は、今まで見てきた他の空間よりも、僅かにぼんやり明るくなっていた。
 何よりも、広間の中心には大きな湖のような水溜まりがあった。そしてその真ん中に、櫂の背丈程の大きさの、青く美しい宝石のような岩が、淡い光を放ちながら存在していたのであった。

「あれは……」

 櫂は瞬時に、その岩が探し求めていた『アズーロ岩』だということに気が付いた。どういう仕組みなのかは分からないが、ぼんやりと青く発光する岩の影響で、この部屋には他とは違う神秘的な空気が漂っている。川に落ちた事実も、まあ無駄ではなかったかもしれない、と思いつつ、櫂は改めて、シンが言っていたアズーロの呪いを解く方法を思い出した。
 そうしてふと、隣に並ぶアイチの姿を見下ろして、黙り込む。
「………」
「? あの……?」

 櫂の視線に気が付いて、アイチが困惑気味に首を傾げた。繋いだままの手から伝わる体温が、今まで以上の鮮明さでアイチの細胞を刺激する。またひとつ、心臓の鼓動が大きくなった、気がした。

「アイチ、お前は……」

 櫂が静かに口を開いた、その時だった。
 二人の息遣い以外、どんな音さえも耳に入ってこなかったはずの空間に、けたたましい爆音が響きわたった。同時に二人の立つ地面に激しい揺れが起こり、バランスを崩し倒れそうになったアイチを櫂は素早く抱きかかえた。

「爆音、地震……!? どこかで爆発が起こったのか……!?」

 アイチの頭部を守るようにしながら抱き締める櫂は、とっさに周囲を見渡した。視界が捉えられる範囲で不穏な動きがあったようには思えない。恐らく、ここではない区域で、何かが起こったのだろうと考える。

(戸倉と葛木、それか三和とレンか……? 一体何が……)

 幾度となく繰り返される遠方の爆音に、櫂はハッと何かを思い出した。

「この爆発……そうか、レン、あいつ……!」

 櫂の脳裏に、いつかの記憶が蘇った。櫂、レン、そしてテツが中学生だったあの頃、まだメンバーが三人だったフーファイターが集う部室が爆発したことがある。はちゃめちゃな思考回路を持つレンが、「部室の床の下に徳川の埋蔵金が埋まっていると夢が教えてくれたんです!」とわけの分からないことを言い出して、二人が止める間もなく手製の時限爆弾のスイッチを押したのだ。時限制であったことが幸いし、爆発前に逃走した三人が怪我をすることはなかったのだが、教師たちにはこれ以上は無いというレベルで怒られた。
 あの時の火薬が爆発する音と、今回の爆音を、櫂の耳は同じものだと判断した。

「何をやっているんだあの馬鹿は……!」

 何が理由かは分からないが、恐らくこの爆音はレンによるものだろう。櫂は忌々しげに舌打ちをする。
 しばらくすると爆発は止まったようだったが、ぐらぐらと収まらない揺れにより、ついに天井の鍾乳石が崩れ落ち始めた。いや、鍾乳石だけではない、天井そのものが崩壊し始めていると、櫂は気付いた。

「っ、冗談でない……!」

 アイチを抱きしめる手に力がこもる。落ちてくる天井は最早豪雨のようだった。このままここに留まっていては、まず間違いなく落石にぶつかり死んでしまうだろう。櫂の防御力ならば一度や二度のダメージは何てことはないかもしれないが、草花のようにか弱いアイチともなれば、一撃のヒットが確実に致命傷となりうるだろう。

「……仕方がない、アイチ! 来い!」
「えっ……!?」
「水中に飛び込むんだ!」

 アイチの体を先程のように抱き上げて、櫂はアズーロ岩の浮かぶ湖へと走り出した。そのまま助走を殺すことなく、アイチを抱きしめたまま、湖の中へと躊躇いもせずに飛び込んだのだった。
 水中に逃げ込むことで、落石の衝撃を殺すしかない。櫂はとっさに判断したのだ。






 体が沈んでいく。突然奪われた自由に、アイチは、酸素を求めるようにして目を開いた。
 水中から見上げる景色の中心に、切な気に表情を歪める男の顔があった。
 この人を、自分は知っているような気がする。
 彼のことを考えると、苦しくて仕方がない。胸が痛い。呼吸がままならない。酸素が欲しい。縋るように手を伸ばす、この感覚に、覚えがある。
 彼の顔が、ゆっくりと自分に近付いた。
 そうして、その唇が、自分のそれと重なる感覚を、アイチは確かに感じとった。
 冷たい水に体が沈み込む中で、彼の唇の温度だけが、本物の熱を持ってアイチの記憶に呼びかける。
 覚えている。彼のことを。そう、いつだって彼は……櫂くんは、こうやって沈んでいく自分を、救い、助けてくれた。

 海に落ちたあの時も、最初に自分を抱きとめてくれたのは、櫂だった。
薄れゆく意識の中、アイチは自分の瞼の裏で、きらきらと輝く光のようなものを確かに見た。それはアイチの記憶の中へとゆっくり侵食していき、やがて全ては真っ白な景色の中へと消えてしまった。思い出も、心も、何もかもが白く塗りつぶされていく。

輝く外の世界をバックに、自分に向かって手を伸ばす誰かの姿は、確かに櫂だった。



***



 崩れ落ち、入口も出口も最早完全に分からなくなってしまった鍾乳洞を目の前に、カムイと三和が絶叫している。

「お兄さーん!! うわあああ嘘だー! どうか返事をしてくださいー!!」
「櫂ー! アイチー! どこにいるんだ! いるなら返事しろー!」

 ごろごろと積み重なる岩の山を手作業で掻き分けながら、カムイと三和、それからミサキとシンは、今この場にいないアイチと櫂を必死で探していた。
 そんな姿を見つめながら、レンはいつになく焦ったような表情を浮かべながら、それでもどこか余裕の垣間見える言葉を淡々と紡いだ。

「大丈夫ですよ、皆さん。アイチ君は櫂と一緒にいるはずですし、そして櫂がこの程度のことで死ぬとは思えません……多分」
「確証ねぇんじゃねーか!」

 三和が半べそでレンの後頭部をバールのような物で殴った。何気に今日二回目の物理的ツッコミである。

「洞窟が崩壊したんだぞー! 生き埋めになったんじゃ、流石に櫂も生きてらんねぇよ! アイチなんて尚更だ!」

殴られた頭をさすりながら、レンはジト目で三和を見つめ返したが、少しは反省しているのか、何かを言い返そうとする気配は無かった。

「ていうか、そもそもどうして洞窟がいきなり爆発したの? あの二人は脱出出来てないみたいだし、私たちと別行動した後、一体何があったの」

 瓦礫を掘り起こす手を休めずに、ミサキがレンと三和に聞いた。
 三和は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、ゆっくりと口を開く。

「……姉ちゃんとカムイと別れた後、俺たちは別のキメラと遭遇しちまったんだ。そんで、そいつと戦ってる内に、アイチが足を踏み外して近くを流れていた川に落ちた。櫂はアイチを追って川に飛び込んだから、俺たち四人はその時点で分散されたわけなんだが……」

 三和曰く、こういうことらしい。



***



「クッソー! 何でアイツあんなに硬ってーんだよ!」

 三和がバールのような物を、キメラに向かって振りかぶる。繰り出された攻撃はサーベルタイガーのような二本の牙の内の一本に当たり、ガキンと硬い音を立てた。キシャア、とヒステリックにも聞こえる叫び声が、キメラの口から吐き出される。

「櫂とアイチを追っかけなくちゃなんねぇって時によぉ!」

 三和の攻撃はなかなか致命傷にはならなかった。キメラは激しく動き回り、なかなか狙いも定まらない。少しずつダメージが蓄積されているのは確かなのだろうが、それでも完全に倒しきるには至らなかった。
櫂とアイチが川に落下し流されてから、恐らく既に十数分が経過してしまった。ここから先、どんな驚異が再び降りかかるかも分からない状況下だというのに、これ以上の戦力の分散は危険である。一刻も早く合流するべきだと、三和のこめかみを冷たい汗が伝った。

「騒がしいですよ、びわタイシ。大丈夫です、ダメージは確実に蓄積しています。キャスパリーグにこれといった弱点が無い以上、あの子を倒すにはちまちまHPを削る以外の方法はありません」

 レンが銃弾を連続で打ち込んだ。足、胴体、耳をかするようにヒットした攻撃に、キメラは確かに苦悶の表情を浮かべる。心無し、はじめの頃よりは確かに動きが鈍くなっているようだ。三和は改めて、キャスパリーグに向かい合った。そうして、背後で自分を援護するレンに、背中を見せたまま問いかける。

「……おい、アンタ、ダメージは確実にたまってるって言ったよな」
「言いましたね」
「あの猫の動き、一時的にでも止められるか?」
「それが出来たとしたら?」
「……俺の全力を、あいつの脳天に叩き込む!」

 三和の言葉に、レンは少しだけ微笑みながら「了解しましたよ」と返した。三和は次の一発で、キメラを完全に討ち取るつもりなのだ。
 全神経を、バールのようなものを握る掌に集中する。そんな三和に向かって、キメラは唸り声を上げながら突進してきた。レンが両手の愛銃から、連続で弾丸を打ち出した。弾は数発を外しながらも、殆どがキメラの足にヒットした。しかし、失速しながらもキメラの動きは止まらなかった。レンは冷静に、アロハシャツの裏に隠していた新たな拳銃を、素早くもう二丁取り出して、構えた。
 しかしその拍子に、隠し持っていた何か『別のもの』まで、一緒にシャツから出てきてしまい、カランと乾いた音を立てて、地面へと落ちた。

「あ」

 レンは銃を撃ちながらも、落ちた『それ』に気が付いた。
先程の倍以上の銃弾を受けたキャスパリーグは、今度こそ前へ進み続けていた足を止めた。キメラの動きが止まったのと、三和の精神統一が終わったのは、ほぼ同じタイミングだった。

「これでもっ、くらええええ!!」

 三和の最大級の攻撃が、キメラの脳天にダイレクトヒットした。キメラは今度こそ、悲痛な叫び声を上げ、倒れた。ピクリとも動かなくなった獣を目の前に、三和は息を切らしながら、笑みを浮かべ後退る。

「はは……やったぜ、ざまあみろってん」

 だ、と三和が続く言葉を発したのと同時に、「ポチリ」という謎の音が、確かに響いた。

「へ?」
「ありゃ」

 レンが気の抜けた声を出す。三和は、自分の足の裏に妙な違和感を覚え、視線を下げた。
 そこには、何やら四角い鉄の箱のようなものを踏んでいる、ビーチサンダルをはいた自分の右足があったのだった。

「なんだこれ?」
「あー」

 『鉄の箱』を拾い上げる三和を見ながら、レンが「あちゃー」と真顔で言う。まるで「あちゃー」と思っていないような表情だが、レンだから仕方がない。そんな様子を怪訝に思い、三和は直ぐ様レンに問う。

「おい、アンタ。これが何か知ってるのか? ていうか何だよ、これ」
「この洞窟に仕掛けておいた、時限爆弾のスイッチですよ」

 レンが、今夜の夕食のメニューでも教えるような気楽さで、口を開いた。

「……は?」

 突然の展開に、三和の思考は完全に置き去りになっていた。
 ゆっくりと、言われた言葉を反芻する。
『時限爆弾』
 雀ケ森レンは、確かに言った。

「って、時限爆弾んんんんんん!?」

 その意味を時間差で理解し、三和は改めて絶叫する。

「なんっで、そんなもんのスイッチがここにあるんだよ!? ていうか、何で時限爆弾が仕掛けてあるんだ! おかしいだろ!」
「僕がここまで歩く途中にちょいちょいと仕掛けてきたんですよ」
「それこそ何でだよ!? 俺たちを殺す気だったのか!?」
「やだなぁ、人聞きの悪い。そんなんじゃありませんよ。無事にアイチくんがセイレーンアズーロの呪いから開放され、全員で脱出した後に爆発させる予定だったんですから。この洞窟の中の生物たちが万が一にでも公になるのは、雀ケ森グループにとってあまり宜しくない状況なんですよ。それだったら、ポチっと証拠隠滅、ですよね」
「ですよね、じゃねー! ていうか、俺今これ踏んじまったんだけど、まさか……!」
「そのまさかです」
「に、逃げろー!!」

 時限爆弾による爆発が始まったのは、脱出を図った三和とレンが、入口付近でミサキとカムイ、それからシンに合流し、洞窟を抜け出した、ほんの数秒後のことだった。



***


「結局はだいたいアンタのせいかよ!」

 ミサキの怒号が飛ぶ。レンはむーっと唇を突き出した。

「スイッチを押したのはビワです!」
「不可抗力だ!」

 高校生が言い争いをしている傍ら、今も必死で崩れ落ちた岩を退かし続けるカムイが、ボロボロと泣きながら呟いた。

「アイチお兄さんは、もう……」

 その声が小さく響いた、次の瞬間だった。
 ガラガラと音を立てて、崩壊した鍾乳洞だったものの中から、一人の男が現れた。全身が濡鼠である以外は、特に外傷も見られない彼は、そこにいた人物にとって見覚えの有りすぎる男に違いなかった。

「か、櫂!?」
「アイチ!」

 仏頂面の茶髪は、間違いなく櫂トシキその者だった。そして、彼の腕の中には、目を瞑ったまま抱かれるアイチの姿があった。
 まっ先に二人の元へ駆けつけたカムイが、興奮気味に叫んだ。

「櫂、お前無事だったんだな! お、おい、アイチお兄さん、大丈夫なのか!?」
「俺がこの程度の危機でどうにかなるものか。アイチは気絶しているだけだ。爆発のショックのせいだろう。心配しなくても、直に目を覚ます」

 櫂の言葉通り、アイチは「んう」と寝言のような声を零したかと思えば、ゆっくりと瞼を持ち上げた。目覚めてすぐなので意識がはっきりしていないのか、ぼんやり周囲を見渡してから、ようやく意思のある言葉を紡ぎ始めた。

「櫂……くん……?」
「……気が付いたか」

 アイチの言葉に、三和が驚きながら反応した。

「あれ、アイチ、櫂が分かるってことは……セイレーンアズーロの呪いが解けたのか!?」
「セイレーン、アズーロ……?」
「……どうやらそのようだ」

 どうにも取り憑かれていた間の記憶が曖昧のようなアイチのかわりに、櫂が口を開いた。相変わらず、アイチをお姫様抱っこの要領で抱きかかえたままなのだが、誰もそれにツッコミは入れなかった。

「良かった、いつものアイチに戻ったんだ……」
「お兄さんが帰ってきたー!」
「よっしゃー!俺の平穏も取り戻されたー!」
「いやあ、めでたしめでたしですね」

 歓びの声を上げる一同の中で、レンがふと、あることを思い出しかけた。

「……あれ、そういえば、セイレーンアズーロの呪いを解く方法って」

 その時、遠くの方から誰かが自分たちを呼ぶ声が聞こえてきた。

「おーい、お前ら無事かァ!?」
「あっ、井崎だ!」

 カムイが一早く反応する。段々と近付いてくる人影は井崎と、それからテツのようだった。

「……レン様、これはどういうことですか」

 崩れ落ちた鍾乳洞を見て、テツが低い声でレンに聞いた。レンは、心外だとでも言いたげな表情でテツに言い返す。

「なんでちょっと見ただけで僕が全ての原因みたいな言い方するんですか! テツのバカ!」
「全ての原因とは言っておりません。それでも、鍾乳洞を爆発させたのはレン様でしょう」
「そうですよ!」

 いっそ清々しいほど高らかな返事だった。テツは頭痛の予感をやり過ごしながら、改めてレンに向き直る。テツの心を痛めつけるただひとつの事実。自分の仕事が増える、それだ。しかし、潔いテツは早々にいろいろと諦めた。

「……まあ、この件についてはまた後ほど片付けさせて頂きます。とりあえず、日も暮れて来たことですし、ビーチへ戻りましょう。夕食のバーベキューの用意が整っております」
「えっ、本当ですか。わーい、行きましょう行きましょう! アイチくん、早く!」

 パッと笑顔になるレンは、先程思い出しかけていた事実など完全に忘れてしまったようだった。焼肉焼肉、と自作の即興曲を口ずさみながら、ぱたぱたとビーチへ戻っていく。テツが付かず離れずの距離でレンの後を追い、他のメンバーも笑顔を浮かべて歩き出した。

「……歩けるか、アイチ」
「うん。大丈夫だよ、櫂くん」

 ようやくアイチを降ろす気になった櫂が問えば、アイチはふわりとした微笑みで返事をする。霊に取り憑かれてなどいない、いつものアイチの表情だった。そして、少し困ったように笑うこのアイチの顔こそが、櫂の愛した彼そのものだったのだ。
 地面に両足をつけ、アイチは改めて櫂に向き直る。

「行こっか」
「ああ」

 自然と繋がった手をじっと見つめながら、アイチは櫂にも聞こえないような声で、そっと囁いた。





「……やっぱり僕の王子様は、櫂くんだけだよ」



***


 夕闇が迫るビーチの中心で、メンバー達はバーベキューセットを取り囲みながら、肉やら野菜やらを焼いては食べ、至福の一時を楽しんでいた。

「コンクリートに詰められて東京湾に沈められる夢を見た気がする……」

 砂に埋まっていたまま眠ったせいで、すっかり顔だけ日焼けしてしまった森川が怪訝そうに呟いた。そんな言葉を聞いて、井崎と三和は苦笑いを浮かべながら肉を貪った。

「おい、アサカ。もう起きても大丈夫なのか」
「え、ええ。さっきまで横になっていたから大丈夫よ……」

 話の冒頭でレンとの間接キスに興奮しすぎ意識を失っていたアサカに、テツが言葉をかけた。アサカの声は微妙に疲れているようだったが、顔色は至って健康そうだったので、テツもそれ以上突っ込むことはしなかった。
 そうして彼の心配は、隣で肉ばかりを選り好みし続けるレンの方へとシフトした。

「レン様、肉ばかりではなく、野菜もしっかり食べて下さい」
「あ、僕ピーマン食べられないのに! 勝手に皿に入れないでくださいよテツ! アサカ、はい」
「え……」

 アサカは、一瞬何が起こっているのか分からなかった。名前を呼ばれレンに振り向いた瞬間、彼の持つ箸から、よく火の通ったピーマンが、自分の口の中へとインされたのである。たっぷり数十秒の時間をかけて、アサカはその事実を理解した。

「れれれれれレン様と関節キ………!」

 ボオン!と、アサカの頭から再び煙が立ち上がった。
 テツはやはり、平和だ、と呟いた。




 仲間たちの喧騒から少し距離を置くように、櫂は設置されていたベンチの上に座りながら、ぼんやりと遠くの海を眺めていた。

「櫂くん、お肉なくなっちゃうよ」
「……アイチか」

 皿に小分けにされた焼肉や野菜を持って、アイチが櫂の元へと歩いてきた。櫂は黙って、中央に腰掛けていたベンチから少し横にずれ、アイチが座れるスペースを作る。アイチは律儀に「ありがとう」と言いながら、櫂の横へとちょこんと腰を下ろした。
 しばらくは無言の空気が流れていたのだが、その沈黙を破ったのは、アイチの控えめな声だった。

「……僕ね、今日の昼間に海に落ちたでしょ。あの時、助けてくれたのって、櫂くんだよね?」
「……ああ」
「よく覚えてないんだけど、沈んでいく途中にね、凄く綺麗な光が見えたんだ。水面の向こうの太陽を浴びて、誰かが僕に向かって手を伸ばしてくれている。息が出来なくて、苦しくて仕方ないはずなのに、その誰かが僕の手を取ってくれて、目の前まで光が近付いてきたのが分かった瞬間、ふっと呼吸が楽になったんだ」
「………」
「いつも僕を救ってくれるのは、櫂くんなんだ。ありがとう、櫂くん」
「……アイ、」

『チ』まで発音出来ない。
 櫂の顔のすぐそばを、一本のロケット花火が通過した。
 地獄の底から沸き上がるような声で、櫂はロケット花火を飛ばした人物の名を呼んだ。

「レン……」

 そこには、浮かれたお祭り野郎のように、甚平と各種花火を装備した、雀ケ森レンの姿があった。
 レンはしれっとした態度で口を開いた。

「このビーチでは安易なラブコメを禁止させて貰ってますので」
「レン……貴様……」
「最後の最後までムカつくんですよー! この18連発ロケットランチャー花火で君を亡き者にして差し上げますよ!」
「ふん、面白い……おい、誰かロケット花火を有るだけ持ってこい!」
「おーい、アイチー! こっちに来て花火やろうぜ! たくさん種類あるぞォ!」
「森川様のグレード3な花火スタイルを見せてやるぜ!」
「ちょっ、火こっち向けんじゃねえよマケミが! お兄さんここは危険だ来ちゃ駄目だー!」

 浜辺には、賑やかな叫び声が響きわたる。そんな光景を見つめながら、アイチはどこかで、青い人魚の優しい歌を聞いた気がした。直接記憶に語りかけるようなその歌は、アイチのこれからの未来を祝福するかのような音色で響き、やがて泡のように消えてしまった。

「……セイレーンアズーロ?」

 いつの間にか浮かんでいた月を映し出した水面は、何も言わずにアイチ達を見守り続けていた。


END






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