ティーパーティーイズトロンプルイユ☆






 午後の日差しが柔らかく差し込む室内、雀ケ森レンはお気に入りの椅子に深く腰をかけながら、突拍子もない台詞を、目の前に立っている男に向けて吐き捨てた。

「テツは顔が怖いです」

 ガシャンと、ティーカップが重力に引っ張られ落下し、粉々に砕け散る音がやたら鮮明に響いた。

「高校生にしては体もやたら大きいし、間違いなくテレビ見てる子供が泣きます」

 畳み掛けるように投げかけられるレンの言葉に、テツはただ、あからさまにショックを受けたような顔で震えることしか出来なかった。彼の足元には、割れてしまったカップの破片が散らばっている。しかしテツには、そんなことを気にしている余裕などまるでなかった。

「れ、レン様……」
「このままでは、AL4が世間から敬遠されてしまうのも時間の問題です。テツの顔が怖いばっかりに」

 選手宣誓でエリカ様ばりの台詞を言い放った自分のことは棚に上げ、世の中のヴァンガードファイターから遠巻きに見られるチームAL4の全責任をさり気無くテツに押し付けつつ、レンは唇をアヒルのように尖らせながら、ギシギシと意味も無く椅子を揺らした。テツは放心しつつも、彼の無意識がそうさせるのか、自分が落として割ってしまったティーカップの破片を律儀に拾い集めている。お茶を煎れ直さなくてはと、場違いなことを思ったりした。
 AL4は毎日午後3時にお茶会を開くことを約束としていた。その準備を行うのは主にテツの仕事であり、今日も今日とてレンの口に合うような紅茶と菓子を用意しながら、彼の自室に赴いたところであった。
 そんな彼に、レンガ開口一発浴びせた台詞が、「テツは顔が怖いです」であった。

「でも、心配しなくて大丈夫です」

 割れたカップの処理をしているため、テツは自然と上目遣いのポーズでレンを見上げる形になる。そんなテツをどこか満足そうなドヤ顔で見下ろしながら、レンはパチンと指を鳴らした。

「アサカ!」
「はい、レン様」

 レンの呼び声に応え、天井裏から鳴海アサカが華麗な身のこなしで降り立った。アサカはそのままテツの横に並びつつ、レンに向かって膝をつき分かりやすい忠誠のポーズを取る。いつものことなのでテツはもう慣れてしまった。今更野暮なツッコミを入れるつもりもない。初めて見たアサカはまだ未完成のピュアストーンのような少女に違いなかったというのに、ここ数年で随分とレン色に染まってしまったとぼんやり思うくらいだ。

「アサカ、例のものを」
「はい、こちらに」

 そんなテツの思考を余所に、アサカは何やら一冊の本のようなものを懐から取り出し、レンに手渡していた。テツが疑問を口にするよりも先に、アサカから本を受け取ったレンは、その表紙が見えるようにテツの方へと本を掲げる。
 テツは何事かと、その本の表紙をまじまじと眺めた。そこには、ひと目で少女漫画だと分かるイラストが印刷されていた。
 相変わらず、レンの言わんとすることが理解出来ず、テツは怪訝な表情を浮かべる。

「漫画、ですか……?」

 そういえば、レンがあまりにも暇だ暇だと煩いので、最近ブックオフで適当に人気のある漫画をまとめて買って与えたことを思い出す。テツ自身がそこまで漫画界の情報に精通していなかったため、とりあえず全巻パックになっているものを数シリーズ見繕ってレンの部屋に置いておいたのだ。

「桜欄高校ホスト部です。最近読みました」

 レンは満面の笑みで言った。レンが楽しそうにしているとろくなことが起こらないことを知っているテツは、自分のこめかみを生温い汗が伝う感触を確かに感じていた。嫌な予感しかしない。

「この漫画によりますと、顔が怖くて体躯のよい男性でも、ある方法で途端に素敵な好青年のイメージを身に纏うことが出来るということらしいです」
「ある方法?」

 レンはスッと椅子から立ち上がり、一枚のカードをポケットから取り出した。そしてそれを、カード投げの要領でテツの足元へ投げつける。カッという音を立てて、カードが地面に突き刺さった。この部屋の床は大理石で出来ているはずなのだが。
 テツは怪しみながらも、そのカードを拾った。表面には、可愛らしい女の子ユニットのイラストが印刷されている。バミューダ△のユニット、「トップアイドル・アクア」のカードだった。
 テツがそのカードを確認したのと同時に、レンのドヤ声が室内に響きわたった。

「ラブリーアイテムです!」
「……ラブリー……アイテム?」

 レンの口から発せられた突拍子もないカタカナに、テツはますます訝しそうな表情になる。ふふふ、と意味深な笑みをもらしながら、レンは言葉を続けた。

「この漫画の教えによれば、無口で無愛想で目付きの悪い青年でも、傍らにラブリーなアイテム(生物)を置けば、周囲の人間たちは彼を包容力のある優しく寡黙な好青年だとポジティブに解釈してくれるそうです」
「………それは、つまり」
「テツのそばにいつでもラブリーアイテムを置き、AL4の好感度を上げてしまおうということです」
「流石はレン様!」

 アサカがキラキラと輝く瞳でレンを見る。彼女の両手は自らの胸の前で乙女ポーズを組んでいる。テツはやはり、アサカにツッコミを入れることはしなかった。

「その、ラブリーアイテムというのは……?」

 テツの問いに、よくぞ聞いてくれました!と言わんばかりに、レンが目を光らせた。恐らく、ろくなことを言い出さないだろう。テツは半ば諦めるように覚悟した。

「当然、アイチくんのことです!」

 ほら、やっぱり。
 テツはちらりと自分の右側を盗み見た。そこには、小さく唇を噛みながら複雑そうな表情をしているアサカの姿がある。レンが先導アイチの話をする時、彼女はいつもこんな顔になるのだ。レンから分かりやすく執着されているアイチを羨んでいるのか、はたまたいっそ憎んでいるのかは知らないが、それでもアサカはアイチのことを悪く言うようなことは一度もなかった。レンに軽蔑されるから、という理由もあるが、恐らくアサカ自身、そこまでアイチに悪印象を持っているわけではないのだろうとテツは思う。むしろ彼女の負の感情が直接向けられた人間は、アイチではなく櫂トシキだったはずだ。アイチ、レン、アサカ。ここまで濃いキャラクターを持った人間たちに様々な感情を向けられる櫂トシキという男に、テツは今更ながら畏怖の念を抱いた。

「というわけでアイチくんを拐ってきましょう! テツの印象のために!」
「………」

 重ねて申し上げるが、何故そうまでしてレンが自分の印象にこだわるのか、テツは疑問を通り越し不気味な何かを感じていた。
 しかし、テツがその疑問を口にするよりも早く、レンは高らかな声で宣言した。

「そして連れてきたアイチくんと三時のおやつを食べて、一緒に楽しくおしゃべりします!」

 納得した。
 テツはドっと湧き出した疲れを何とか抑えながら、至って平常な声で言った。

「レン様、先導アイチを招きたいのなら初めからそう言えばいいじゃないですか」

 レンはただ、アイチとお茶会をしたいだけなのだろう。その口実としてテツの印象改善の計画を立てているのだろうが、どうしてそこまで回りくどいことを、他でもないレンがしなくてはいけないのだろう。レンの自由すぎる性格を誰よりも熟知しているテツは、まずそこに疑問を覚えた。
 すると、テツの言葉に、レンはむうっと唇を尖らせて、子供のように不機嫌な表情を作った。

「だってこの前、そうやって正直にアイチくんを拐って来たら、噂を聞きつけ乱入してきた櫂にめちゃくちゃ怒られたんです! アイチくんは怖がって泣くしもう散々ですよ! 楽しいお茶会が台無しです! 櫂のせいです! 櫂が怖い顔で僕を怒るからアイチくんが泣いたんです!」
「………」
「櫂は僕の邪魔ばっかりします! 僕はただアイチくんと楽しくお茶やケーキでおしゃべりしたいだけなのに!」

 テツは呆然としながら黙り込んだ。
 レンは既に、アイチの誘拐を決行していたらしい。そしてそれを、アイチのガーディアン櫂トシキに邪魔された、と。

「アイチくんだってきっと僕と同じことを思ってくれているはずです。彼は僕と同じなんです。シャドウパラディンを突き返してきたことも、PSYクオリアを受け入れずに戦うことも、櫂に余計なことを吹き込まれたからに違いありません。可哀想なアイチくん……」
「………」

 いろいろ思うことがあるのだろう、テツは小さく表情を歪めた。

「今度こそ櫂に邪魔されずにアイチくんを手に入れてみせますよ! さあ、テツ、アサカ! 早速行動スタートです!」
「はい、レン様!」
「……承知しました」

 所詮、テツはレンに逆らえない運命なのである。それはかつて、レンと櫂が道を別ち、自分はレンに付いていくことを決意したあの日から決まっていたことなのだ。テツはレンを裏切れないし、今後裏切る予定もない。例え、昔のような関係に戻ることが出来ないのだとしても、テツの想いは変わらない。レンがこのままPSYクオリアの力に囚われ続けることを、テツだって望んでいるわけではない。ただ、彼の運命を変えることが出来るのは、自分ではないということだけは分かっていた。だからテツは待っている。レンが再び、本当に心から笑うことの出来る世界へ導かれる瞬間を。
レン様のお役に立ってみせる!なんて意気揚々と拳を握りしめるアサカの隣で、テツはそっと先導アイチに合掌した。







 その日、三和タイシは委員会の仕事を任せられてしまったために、カードキャピタルへ向かう時間が普段より少し遅かった。
 三和を含め、同じ高校の友人である櫂トシキ、出会いこそ最悪だったものの、今ではすっかり打ち解けてしまった森川カツミや井崎ユウタ、それから、いろいろな意味で櫂にとっての「特別な存在」である先導アイチ、彼の妹のエミ、小学生ファイターの葛木カムイや、カムイのことを尊敬するエイジとレイジ。個性あふれる顔ぶれが、何を言わなくとも放課後や休日、あのショップへ集まることは最早当たり前のようになっていた。店長や、店員の戸倉ミサキも交えてカードファイトをすることを、三和はとても楽しんでいた。
 学校の友人と遊ぶのもいいが、今の三和にとって、カードキャピタルで過ごす時間は何よりも大事なものだった。こんな時間がずっと続けばいいのにな、なんてことを、口には出さず考えることもしばしばだ。三和は案外ロマンチストなところがある。
 一匹狼、なんて表現があまりにもしっくりくる櫂トシキという友人も、最近になってカードキャピタルでだけは、それなりに心を開いているのではないか、と三和は思っていた。櫂が校内で自分以外の誰かと話している光景を殆ど目撃しないせいか、余計にショップでの櫂は仲間に打ち解けているように見えた。森川辺りにこんなことを言えば「お前の目は節穴か!? あれのどこが心を開いてるって言うんだ!」と絶叫されそうなくらいの僅かな変化だが、三和はその変化を純粋に嬉しく思っていた。
 両親に他界され、転校先の学校で櫂に何があったのかを、三和は詳しく知らない。それでも、櫂が再びかつてのような笑顔を取り戻せるのなら、それはとても素晴らしいことに違いないだろう。
 そして恐らく、櫂の心の最後のドアを開くための鍵は、少女のような成長途中の身体の中に確かな芯を持つ少年、先導アイチが握っている。三和はそんなことを思っていた。
 再度申し上げるが、三和は案外ロマンチストなところがある。
 何となく見上げた空は、雲ひとつない晴天だった。三和は思わず立ち止まり、一度大きく背伸びをした。

「まったく、こんなに心配ばっかりかけやがって、俺は櫂のお母さんじゃないん……」

 苦笑いを浮かべながら呟いた三和の言葉が、ぴたりと止まった。
 既に目的地であるカードキャピタルは、三和が20メートル程歩けば到達出来る位置にあった。視界にも、見慣れたショップの全貌が映し出されている。
 今、自分の耳が、何やら物騒な音を聞いた気がしたのだ。固く、それなりに重いものが、地面に落下した時のような鈍い音だった。なんだろう、と三和が疑問に思った、次の瞬間だった。

「ぎゃああああああああああああ!!」
「!?」

 空気をびりびりと震わせるような絶叫が、響き渡る。この声に、三和は聞き覚えがあった。そして悲鳴の発信源は、間違いなくカードキャピタルの中からだった。

「この声……森川!?」

 何がなんだか分からないまま、三和はショップまでの残りの距離を全力疾走した。自動ドアの前に立ち、扉が開く数秒の時間さえも焦燥に変わる。それくらい、森川と思わしき人物の絶叫は悲痛に満ちていた。

「おい、一体何が……」

 三和がショップの敷居を跨いだ瞬間。
 彼は思わず言葉を失った。

「お前らには酷く失望した。それでアイチのリアガードのつもりか」
「森川ァ! 止めろよ、止めろよ櫂ぃ!」

 三和の目の前には、店の床に寝転がりながら、無表情のまま森川にチョークスリーパーをキメている櫂の姿があった。
 森川はじたばたと暴れて抵抗しているようだったが、櫂の拘束はまるで緩まない。森川が落ちるのも時間の問題だろう。そんな櫂から森川を救おうと、彼らの傍らで井崎が必死で叫び声を上げている。しかし井崎の悲痛な願いも、櫂はまるで聞き入れようとする様子がなかった。
 あまりの惨状に呆然としていた三和だったが、ようやくハッと意識を取り戻す。

「止めろ櫂! 何があったのかは知らねえけど、このままじゃ森川が死んじまう!」
「み、三和ぁ! 助けてくれ、森川が、森川が!」

 三和の姿を見つけた井崎は、天の助けとでも言いたげな目で縋り付く。うるうると涙の膜を瞳に張った井崎は、目の前で消え行こうとしている友人の命を何とか助けたくて必死だった。思った以上に事態が深刻であることを悟り、三和は再度櫂に向かって静止を求め呼びかける。

「いい加減にしろって! 放してやれよ!」

 しかし、櫂は一向に話を聞く態度を見せなかった。今この瞬間にも、ギリギリと物騒な音を立てながら、森川への攻撃の手を緩めずにいた。表情は勿論真顔だ。
 このままでは友人が友人を殺してしまう。三和が心のどこかで望んでいた永遠は、こんな形で終わっていいはずのものではなかった。
 俺が守らなくては。皆が幸せに笑い合える日常を。
 三和はひとまず、その辺にあったパイプ椅子を掴んで、力一杯に櫂の頭を殴った。

「やめろって言ってるだろー!」
「っ……!」

 ゴッ!という、いかにも凶悪な音が、カードキャピタル内に響きわたる。

「怯んだ! 今がチャンスだ!」

 井崎が咄嗟に叫ぶ。
 パイプ椅子を後頭部にモロに受けた櫂は、森川を締め付けていた腕の拘束を一瞬緩めてしまった。その隙を狙い、井崎と三和が素早く森川の両足を掴み後退する。とりあえずの救助に成功し、井崎は意識が朦朧としている森川を、いつか授業でやった応急処置の通りの楽な姿勢に寝転がらせ、彼の名前を呼び続ける。三和はそんな二人と櫂を隔てるように、両手を広げて立ち塞がった。
 先程のダメージを微塵も感じさせない回復力で、櫂は今にもこちらへ飛びかかって来そうだった。椅子の直撃した後頭部から血を流しつつも、櫂の目はいつか見た覚えのある、あの人殺しのような光をギンギンに携えていた。三和は思わず口元を引き攣らせる。

「落ち着けって! こいつらが何したって言うんだよ」
「俺は冷静だ」

 確かに、櫂の声はひどく落ち着いたものに違いなかった。しかしよく考えれば平素であの戦闘能力という方が問題だ。三和は自分の頬を冷たい汗が伝う感触を覚えた。
 だけど櫂は、ふうとひとつ溜め息を吐き出し、改めてその場に立ち上がり、腕を組む。どうやらもう、こちらに攻撃を仕掛けてくるつもりはないようだ。三和はゆっくりと広げていた両手を下ろした。
 少しの沈黙が流れた後、櫂が眉間に皺を寄せながら口を開いた。

「……アイチが拐われた」
「ハア!?」

 突然の展開に、三和は思わず声を荒らげた。すると後ろから、井崎のどこか苦々しい声が聞こえた。

「……本当だ、三和。俺達がここへ来るまでの途中で、アイチは誘拐されたんだ」
「誘拐って……犯人は分かってるのかよ!?」
「ああ……」

 井崎の言葉に続けるように、櫂が重々しく口を開いた。


「雀ケ森レンの仕業だ」



*



 アイチ、森川、井崎の三人は、いつものように仲良く学校からカードキャピタルへと続く道を歩いていた。
 苛められっ子だったアイチにとって、こんな風に友だちと一緒に放課後を楽しく過ごすという経験は今までにない出来事だったので、自分をこの場所へ導いてくれたヴァンガードには感謝してもしきれない。同時に思い出すのは、当然ヴァンガードを自分が知るきっかけになった櫂のことであり、森川たちと仲良くなれたのも、チームQ4として大会に出場することが出来たのも、三和やミサキやカムイやシンやエイジやレイジと出会えたのも、チームカエサルと素晴らしい試合が出来たのも、飴色に炒めた玉ねぎによってコクが深まったカレーがとても美味しかったのも、矢作キョウや美童キリヤを公開処刑にして高笑いをかましていた自分が深い闇の底から戻ってくることが出来たのも、全部櫂のおかげに違いないとアイチは確信していたので、やっぱり櫂くんは凄いのだ。
 実物よりも3割増しのデレ顔を浮かべた櫂の姿を思い描きながら、アイチは自分の頬が緩む感覚を確かに覚えていた。

「えへへ……」
「ん、アイチ、何ニヤニヤしてんだよ」
「な、何でもないよ森川くん」
「嘘をつくな〜この世界最強のヴァンガードファイター森川カツミ様の目は誤魔化せないぞ! さあ、何を考えていたか言うのだ〜!」
「あ、止めて森川くん! く、くすぐった……あははははっ!」
「おいおいモリカワァ……」

 アイチにくすぐり攻撃を仕掛ける森川を、井崎が呆れたような笑顔を眺めている。非常に微笑ましい男子中学生達の放課後の一時だった。
 しかし次の瞬間。

「見つけましたよアイチくん」

 どこからともなく、いつか聞いた覚えのある声が響き渡る。しかし、三人が後ろを振り返ってみても、再び前に向き直ってみても、それらしき人物はどこにもいなかった。

「この声、どこから……」
「ふふ、こちらですよ!」
「あ、アイチ! 上だ!」

 一早く声の主を見つけた森川が、勢い良く上空を指さした。上?と怪訝な表情を浮かべながら、アイチと井崎は森川の指の先を目で追い、やがて絶句した。
 唖然とする三人だったが、一番初めに声を出すことが出来たのは、井崎だった。

「AL4の雀ケ森レン!? どうしてこんなところに!」
「レンさん……!? ていうか、なんで電柱の上に……」

 ヴァンガード全国大会優勝チームのリーダーである雀ケ森レンが自分たちの目の前に姿を現したことに井崎は驚いていたが、それよりまずアイチはレンが電柱の上に立っていることに言葉を失った。燃えるように赤い長髪、ヴィジュアル系まがいの私服と、見る者の目を釘付けにする特徴的な肩パット、そしてどこか他人を見下すようなあの目付き。雀ケ森レン本人に間違いない。ていうかあんな人が二人もいたら困る。

「印象的な登場をしてみたくてですね。どうです? 僕の偉大なオーラがいかんなく発揮出来る位置でしょう」
「ああ、馬鹿となんとかは高いところに、ってやつ……」

 レンの言い分に、アイチはどこか納得したような顔で呟いた。森川は気付かなかったようだが、アイチが言った言葉の意味を理解してしまった井崎は、ぽつりと呟いた。
 
「アイチお前、結構言うようになったよな」
「え、何が?」

 井崎の言葉に、アイチは純粋な疑問の表情を浮かべた。どうやら天然で言っているらしい。一時期の様子のおかしかった頃のアイチを思えば、まあ根元が多少黒いのかもしれないと考えることは出来るだろうが、むしろ根が白い故の無意識からの暴言なのか。井崎は少しアイチに恐怖心を抱いた。

「今日は何の用ですか」

 アイチが怯えたような、いや、むしろ少しうんざりしているような表情でレンに問う。数週間前、一度誘拐され酷い目に合った記憶がまだ新しいせいもあり、彼に対する警戒心はメーターを振り切ってマックスだ。仕方がない話である。
 警戒を露にするアイチに、レンは道端の野良猫を愛でるような目を向けながら、無駄に高らかな声で答えた。

「今日はアイチくんに正式な用事を作って会いに来ました! どうです、偉いでしょう!」
「よ、用事……?」
「はい、そうです。とにもかくにも説明が必要なので、一度フーファイターの本部までご一緒して頂きましょう。さあ、僕の手を取ってアイチくん!」

 フーファイターの本部、というワードに、アイチは目に見えて青ざめた。そして、カッと瞳孔を開きながら、切羽詰る声でレンに向かって叫んだ。

「い、嫌です! 僕はもう、あんなヒラヒラのいっぱい付いた服も、ヘッドドレスも、つやつやの靴も、二度と身につけない……!」
「アイチ……!?」

 過去に何があったんだ、と言いたげな目で見つめたアイチの身体はぶるぶると震えていた。よほど大きなトラウマになっているのだろう。レンの誘いを拒否する言葉もどこか涙声だ。
 そんなアイチの様子を確認しているのにも関わらず、レンはまるで諦める様子を見せずに、再び口を開いた。

「ならば仕方がないです……強硬手段を取らせていただきましょう。今度はこちらにもちゃーんと君を招く理由があるので、仕方ないですよね」
「仕方なくないです! 僕の意見を受け入れて下さい!」
「しかしそれにはまず、両隣の二人が邪魔になる……」
「レンさん僕の話聞いてく……え?」

 レンの言葉に、アイチは彼の言う「両隣」を振り返った。森川と、井崎。恐らく二人のことを言っているのだろう。
 二人が邪魔になる?

「邪魔なお二人には消えて頂きましょう! アサカ、出番です!」
「お任せ下さいレン様!」

 電柱のすぐ横の木の中から女性の声がした。この声にも聞き覚えがあった。AL4の紅一点、レンを崇拝し愛のために生きる青髪の彼女、鳴海アサカに間違いない。
 次の瞬間、壮絶な殺気のようなものを肌で感じ、アイチはハッと息を飲んだ。その殺意の矛先が向けられているのは、自分ではない。そう、今まさに隣で「何だ!? どこから声がした!?」と騒いでいる森川だった。
 気が付いたら、アイチは動き出していた。

「森川くん、危ない!」
「アイ……!?」

 森川がアイチに突き飛ばされた、その時。ぷすり、と不思議な音が響いた。
 アイチの白く細い首元には、一本の針のようなものが刺さっていた。それを受けたアイチの顔色は、みるみる内に青くなった。
 アイチは自分を庇った。森川は瞬時に悟った。

「アイチ、どうして……!」

 わなわなと震える森川に向かい、アイチはふっと綺麗な表情で笑い、言った。

「友達を危険な目に合わせるなんて……出来ないよ……」
「アイチ……!」

 何が起きたのかを理解するよりも先に、アイチは糸の切れた操り人形のように、ふらりと地面に倒れ込みそうになった。
 しかし、その体がコンクリートに叩きつけられることはなかった。

「ふむ、少々計算と違いますが、まあ結果オーライでしょう。アサカの麻酔銃はいつも素晴らしく強力ですね」
「す、雀ケ森レン!」

 いつの間にか高いところから下りてきていた肩パットのヴァンガードチャンピオンが、意識を失ってくったりとしているアイチを抱きとめていた。突然の出来事に驚く暇も与えずに、レンは懐から何やら丸い包含のようなものを取り出して、力一杯それを地面に叩きつけた。
 包含が破れたと思った瞬間、煙幕がぶわりと巻き上がった。

「なっ……何だこの煙は!?」
「くっ、前が見えない……!」

 突如溢れ出した真っ白な煙に、煙幕を撒かれたことを知る。忍者のような男だ。どことなく声も忍者マスターに似ている、なんて、どうでもいいことを考えている場合では決してない。
 森川は、今さっき意識を失ってしまった友人の名前を必死で叫んだ。

「アイチ、いるのかアイチ!」
「ふふ……アイチくんは連れて行かせて貰いますよ。それではアディオス」
「アイチ!? アイチィ!」

 立ち込める煙が風に流され消え去る頃には、既にアイチの姿も、雀ケ森レンの姿も、どこにも見えなくなってしまっていた。
 二人は呆然と立ち尽くす。

「アイチが……拐われた……」




*




「と、いうわけだ」

 井崎の丁寧な説明を聞き、三和はようやく状況を理解した。
 あの雀ケ森レンに、アイチを拐われてしまうなんて。
 三和は森川や井崎同様、雀ケ森レンについては、テレビで見た時のイメージしか持っていなかった。どういう経緯でレンがアイチと接触し、何らかの関係を持ったのかは一切不明だったが、アイチのような庇護欲をかき立てるタイプの少年と、分かりやすいサディストな笑みを常に浮かべているレンという男が、上手い具合に調和出来る図を三和はまるで想像することが出来なかった。
 とりあえず穏やかではない現状だ。ヘタすればレンはアイチを肉まんの具にでもして食ってしまうんじゃないか、なんて飛躍しまくったイメージが湧いてくる始末だ。三和自身にカニバリズムの気はまるでなかったが、白か黒かで答えるのなら、アイチの肉は柔らかくて美味そうだと思う。
 三和が自分の物騒な思考に参ってしまっていると、櫂がゆっくりと口を開き、語り始めた。

「アイチがレンに拐われたのはこれで二回目だ。前回はひとりで歩いていた際を狙われたため成すすべはなかったが、今回はお前ら二人がついていて、この体たらくか」
「………」

 櫂の鋭い目線に、井崎は思わず唇を噛み締める。森川は依然として夢と現の境を漂っている最中だった。櫂から受けたダメージは相当深刻なようだ。

「それでもあいつのリアガードか!」
「……っ!」
「井崎……?」

 何やら様子のおかしい井崎の顔を、三和が心配してのぞき込もうとする。しかし、それよりも先に、井崎は俯かせていた顔をガバリと上げ、鋭い眼光をその目に宿しながら、叫んだ。

「……リアガードってなんだよ! 俺たちとアイチは単純な護衛とか、そんな利害関係で繋がっているわけじゃない!」
「い、井崎?」
「………」

 戸惑いを露にする三和と、何やら黙り込み井崎の言葉をじっと聞いている櫂。井崎は叫ぶことを止めなかった。

「友達なんだ! だからアイツは俺たちを庇って拐われて行った……! そんなアイチを馬鹿にすることは俺が許さない!」
「いや別に櫂はアイチを馬鹿にしてるわけじゃないっていうかむしろ責められてるのはお前らっていうか、一回落ち着けっていうか」

 だからって別にお前らが悪いわけじゃないけど、と付け足しながら、三和は井崎をクールダウンさせようと必死だった。脳みそが混乱していろいろ事実が絡まってしまっている。普段大人しいやつがキレると怖いとか、そういうのは何となく分かっていたけれど、井崎の場合なんかそれとも違う気がする。

「友達……」
「あ?」

 櫂がぽつりと呟いた櫂らしからぬ言葉に、三和は思わず間抜けな声を漏らしてしまう。
 友達。櫂のことを、三和自身はきちんと友達だと思っていた。ただ、ツンデレひねくれ野郎の櫂のことだ。もしも仮に彼が三和のことをしっかり友達だと思っていたとしても、それを口に出してみるような真似はこれから先の長い人生の中で一度だって無いだろうことを、三和は悲観でもなく単なる事実として受け止めていた。
 だからこそ、櫂の口から発せられた「友達」という言葉は、恐ろしく櫂に似合っていなかった。友情、努力、勝利。三つの中からどれかを選び、どれかを捨てろと問われれば、寸分の迷いもなく勝利を選びとり、友情を足蹴にし焼却炉の中へ転がしてしまうような男。それが櫂トシキだ。極端に言えばそういうことなのだろうと、少なくとも三和は考えていた。
 そんな櫂の口から、井崎の発言を受けるような形とはいえ、「友達」
 三和は何か、薄ら寒いものを敏感に感じ取っていた。これからよくないことが起こる。知らず知らずの内に苦労人人生という道を選んでしまっていた三和だからこそ分かる、云わば経験から来る予言のようなものだった。
 そして三和の心配は、あまりにも良くない意味で見事的中したのであった。

「……お前らのアイチへの気持ちはよく理解した」
「!」
「どれだけアイチを大切に思っているか、もな」
「櫂……」

 井崎が目を見開き驚いている。理解不能な現状に三和は思わず白目をむきそうになった。

「友達だから……か」

 鳥肌を立てて青ざめる三和のことなどおかまいなしに、櫂はふっと笑みをこぼした。一期二話ばりの誰だお前状態である。
 櫂の脳裏に、いつかの光景が蘇える。
 レン、テツ、そして自分。かつてチームを組んでいた三人の間には、それは確かな絆があった。共に笑い共に泣き、共に成長することに喜びを感じながら日々の生活を送っていたのだ。
 どこで道を違えてしまったのだろう。変わっていくレンを止めることが出来ず、櫂は二人の前から去ってしまった。逃げ出し、目を背けながら生きることを選んだのだ。その結果が今のレンだ。他人を見下し、楽しいはずのカードゲームで相手を屈服させることを生き甲斐にしながら、自分を捨てた櫂を今も憎み続けている。
 そうして櫂がレン、いや、PSYクオリアの問題から逃げたことにより、今度はアイチまでもが闇に飲まれて自分を失ってしまった。
 穏やかな笑顔で櫂を呼ぶアイチも、勝っても負けてもファイトは楽しいと言っていたアイチも、初めての行為に恥じらうアイチも、全てが闇の中へ沈んでいってしまった。いつも困ったような笑顔を浮かべていた表情は、他人を虐げることに楽しみを見出したサディストのものへと変貌し、強くないファイターなんてゴミ以下だという姿勢を貫き、櫂に「僕とファイトしてよ!」と迫る姿はビッチそのものだった。
 そんなアイチにかつてのレンを重ね、櫂はまたしても逃げてしまった。しかし、アイチが捨てたブラスターブレード達をコーリンに手渡された時、櫂の中でアイチとの思い出が蘇った。
 取り戻したい。
 そうして櫂は決意した。アイチを取り戻すために戦うことを。
 櫂の想いが通じ、アイチは戻ってくることが出来た。自らの分身であるブラスターブレードを、胸でぎゅっと抱きしめるアイチを見たとき、櫂は心から良かったと思った。アイチを取り戻すことが出来て、良かったと。

「………」

 アイチが拐われた。他でもない雀ケ森レンによって。今回で二度目になることだが、何をされるかは分からない。クオリアは依然として謎に満ちた能力であり、強制的に人を洗脳させる力を持っていないとも言い切れないだろう。もしそうだとすれば、最悪の事態が起こる前に、アイチを奪還しなくてはいけない。
 櫂はもう二度と、アイチの手を離さないと決めていた。もう絶対逃げないと運命に誓った。
 そして、このような事態を招いた根本の原因であることが、かつて自分がレンから逃げたせいなのだ、と櫂は自らに言い聞かせる。
 井崎の言葉が蘇る。友達だから。友達。その四文字の音が、櫂に再び決意を促す。
かつての友である、レン。彼が過ちを犯そうとしているのなら、それを止められるのは他でもない、自分であろう。
 刺し違えてもレンを止めてみせる。それが、レンの前から逃げ出した櫂に出来る、唯一の償いなのだと信じていた。
 櫂は井崎と、その後ろでダウンしている森川に視線をやり、口を開いた。

「……安心しろ。アイチは必ず俺が取り戻してみせる」
「櫂……」
「森川カツミの仇もとってやろう」
「いや森川を倒したのはお前だからな、櫂」

 耐え切れず三和が口を挟んだ。さり気無く森川を意識不明の状態にまで追い込んだ責任をレンに転化している櫂だったが、恐らくわざとというわけではなく、櫂の中で勝手に記憶が都合のいいように書き換えられただけなのだろう。
 しかし、三和のツッコミは、同じく場の空気に飲まれた井崎によって、華麗にスルーされた。

「櫂……でも、雀ケ森レン相手にどうやって……アイチがどこに連れていかれたのかさえ分からないのに」
「俺を見縊るな。場所は恐らくAL4の本部だろう」
「でも、フーファイターは総勢数千人を越える組織だって話だろ!? いくらお前でも……」
「見縊るなと言っている。今回は三和もいることだし、戦力には何ら問題はない」
「ま、巻き込まれたー!!」

 さらりと戦力に数えられていることを知り、三和が絶叫する。嫌な予感が的中した。
 三和はそれなりに自分が平和主義であることを自覚していた。死ぬなら畳の上でと決めている。櫂に付き合い、フーファイターの本部へ特攻なんてごめんだった。

「井崎、お前はここに残って森川の救護に当たれ」
「……分かった。櫂、頼む……アイチを、アイチを取り返してくれ……!」
「……ふん」

 当然だ、とでも言いたげな態度で、櫂はカードキャピタルの出入口に向かい踵を返した。

「レンのことだ。恐らく入口から万全のセキュリティで迎え撃って来ることは安易に予想出来るが……」

 櫂の表情に、心臓の弱いものならば軽くショック死してしまいそうな、いつもの悪い笑みが浮かぶ。

「まあ、こちらだって策がないわけではない」








「う……」

 意識が浮上する。アイチは、長いまつげに縁どられた上瞼をゆっくりと開き、未だ鮮明ではない視界で辺りを見渡した。

「ここは……」

 ぼんやりとした記憶の中、自分が置かれている現状を確認しようと思考を巡らせる。そうして思い出したことは、放課後、カードキャピタルまでの道を、森川と井崎と一緒に歩いていた最中、レンからの奇襲を受けた事実だった。

「そうだ、僕、レンさんに連れられて……」
「おはようございます、アイチくん」
「うわぁ!?」

 突如頭上から降ってきた声に、アイチは驚き叫び声をあげた。椅子に座らされたまま見上げると、そこには自分を見下ろしながら立っている誘拐犯、もといレンの姿があった。

「れれれれレンさん……!」
「僕の名前はレレレレレンではありませんよ」
「………」

 いろいろな意味で言葉を失ったアイチだったが、ふと、自分の姿が何やらおかしいことに気が付いた。
 嫌な記憶が蘇る。ぎぎぎ、と動きの鈍くなったからくり人形のように、ぎこちない動作で自分の首から下を確認した。
 そこには、元々の学生服ではなく、どう見ても女の子用のものであるワンピースを着用している、自分の体があった。
 アイチはギャーと叫ぶ。

「レンさん! 前回も同じようなこと言いましたけど、これどういうことですか!」
「うーん、服のブランドのことは僕にはよく分かりません。アサカに直接聞いてください」
「いや、ブランドとかそういうのを聞いているわけじゃなくて……」

 レンに抗議するアイチの言葉は、いつの間にかレンの横に並んでいたアサカの発言によって遮られた。

「Innocent Worldのロイヤルシフォンベビードールジャンパースカートよ」
「ロイヤル……?」

 真剣な顔でアサカが告げる。アイチは、ロイヤルという響きだけは敏感に聞き取ったが、それ以外の言葉の意味はさっぱり分からなかった。自分がいつの間にか着せられていた、薄いブルーでひらひらのレースやリボンがたっぷりと付いている洋服の説明をしている、ということは理解できたのだが、それが理解できたところでなんだというのだろう。アイチはぼんやりと絶望した。

「靴はBABY,THE STARS SHINE BRIGHT」
「………」

 もう何がなんだか分からない。
 白地に花柄のオーバーニーソックス、その足先を包み込む、ツヤツヤと光る白いエナメル素材の靴は、厚みのある底だけがコルク素材になっている。目を伏せたアイチの視界に嫌でも飛び込んできてしまった光景に、混乱しすぎて泣きそうになった。

「僕は前みたいに、もっと全体的に黒くてひらひらしてる奴の方が好きですけど、これも可愛くて良いですね〜」

 レンが間延びする声で言った。前みたい、というのは、恐らく一度目の誘拐の際に着せられた服のことだろう。確かにあれは、レンが好きそうな雰囲気の黒いドレスだった。所謂ゴスロリというジャンルである。
 ということは、今回のパステル風味なこのロリータ服は、チョイスしたアサカの趣味なのだろうか。アイチはそっとアサカを見る。彼女自身は、こういう服を着るようなタイプには見えないが、実際のところどうなのだろう。アイチは拐われたこと対する危機感も忘れて、純粋な疑問を抱いた。
 ぱちりと、アイチとアサカの視線が合ってしまった。するとアサカは、アイチの頭上からつま先までを改めてまじまじと見つめ、ひとり満足したように頷いた。

「似合ってるわ」
「……えっと」

 アサカの言葉に、アイチは複雑な表情を浮かべる。その反応が不思議だったのか、アサカは少し強めの口調で聞いた。

「なによ、その反応は」
「あ、その……アサカさんが、そういう風に僕に言うのが、意外で……」
「意外?」

 ますます怪訝そうな表情をするアサカに、アイチはおずおずと口を開く。

「アサカさんには、嫌われてると思ってたから」
「………」

 アサカがレンのことを好きなのは、鈍いアイチにもよく分かっていた。Q4とAL4が敵対関係にあることを含め、少なくともアサカは自分に良い印象を持ってはないだろう、と考えていたのだ。
 少しの間を置いて、アサカが口を開く。

「……レン様はあんたを気に入ってるから。それに……」

 アサカはぷいと顔を背けながら、少し言いにくそうな声で、告げた。

「……可愛いものは、嫌いじゃないわ」
「アサカさん……」

 ぶっちゃけ、喜べばいいのか情けなくなればいいのか微妙なところだった。
 かつて櫂から譲り受けたカード、ブラスターブレードのように、強く凛々しいイメージに憧れるアイチである。可愛い、なんて言われても、正直なところ別に嬉しくもなんともない。
 ただ、嫌われていない、という事実は、元苛められっ子だったアイチからすれば、純粋に喜ばしいことだと、ほっとする。悪意というものが時に痛みを伴うものだと身をもって知っている分、そういう防衛本能は人より敏感に働くのだ。
 アサカとばかり会話をするアイチに、さほど気を悪くする様子もなく、レンは朗らかな笑顔で口を開いた。

「今日アイチくんをお招きしたのには理由があります」
「理由……?」

 そういえば、先程も同じようなことを言っていたとアイチはぼんやり思い出す。そしてさらりと任意同行したような体で言われているが、誘拐されたという事実は変わらない。アイチは警戒するような目でレンを見る。

「初めにお聞きしますが、アイチくん。テツの顔は怖いですよね?」
「テツさんの顔?」
「はい、正直な気持ちで言って下さい」

 ほわほわとテツの顔を思い浮かべながら、アイチは考える。ヴァンガード関係の雑誌で見た彼のプロフィールには確か、年齢が15とあったはずだ。櫂と同じ歳だったのでよく覚えている。ちなみに、レンも彼らと同様に15歳だった。
 アイチがテツに抱いた印象と言えば、自分と一歳しか変わらないというのに、こんなに威厳溢れる顔つきと、いかにも強そうな大きな体をしているなんて凄いなあ、くらいであった。怖い顔というものを見慣れてしまっているせいなのかもしれない。誰のこととは言わないが。

「僕は別に……」
「怖いですよね」
「いや、あの」
「怖いですよね!」

 レンの有無を言わさぬ態度に、アイチは思わず後ずさりそうになった。しかし、腰掛けている椅子がそれを許しはしないのだ。
元々押しにはめっぽう弱いアイチである。テツには少し申し訳ないが、もうどうにでもなれという気持ちで、「はい」と頷いた。

「そうか……」
「って、うわあ!?」

 再び、自分達以外の誰かの声が唐突にアイチの鼓膜を揺らした。いつの間にか、アイチの座る椅子の隣には、後ろで手を組んだ姿勢で立つ、テツ本人の姿があった。
 アイチは咄嗟に否定しようと泡を食う。

「テツさん違うんです、今の言葉はつい……」
「やっぱりそうですよね〜、ほら見なさいテツ。小動物代表のアイチくんがこう言ってるんですから、世の中の子供たちも同じ感情を持っていることはまず間違いないですよ」
「レンさんちょっと黙って!」
「いや、いい、先導アイチ。俺も薄々分かっていた。俺の顔は怖いうえに歳の割に老けている。テレビを見ている子供たちは俺の顔を見れば泣くし、映画館や遊園地にも高校生料金で入れるわけがない。そうに決まっている」
「な、なんでそんなに卑屈なんですか!?」

 絶望的な言葉を淡々と口にするテツに、アイチはついつい突っ込んでしまう。テツ本人、思った以上に気にしていたことなのかもしれない。そうだとすれば、悪気なく傷口に塩を塗りこまれるテツが心から気の毒だ。しかし、テツを傷付けている張本人であるレンに、悪意というものは無さそうだった。彼だってテツを傷付けたくてこんなことを言っているわけではないのだろう。多分。
 天然怖い。アイチは人ごとのようにそう思った。

「そこでアイチくん、テツの印象改善のために、AL4のリーダーである僕が一肌脱いであげたというわけなんですよ。どうです、慈悲深いでしょう」
「レンさんが慈悲深い云々って話にはこの際ツッコミませんが、一肌脱いだってどういう意味ですか」

 珍しいジト目でアイチが問うと、レンは懐から一冊の漫画を取り出した。突然視界に入り込んできた本に、アイチはぱちくりと目を見開く。そして、そういえば家の居間でエミが似たような表紙の本を読んでいたな、なんてことをぼんやり思い出した。

「詳しい話は二度目になるので省略させて頂きますが、この本によれば、テツの印象はアイチくんというラブリーアイテムによって完全に改善出来るということらしいです」
「ラブリーアイテム……?」
「と、いうことでアイチくん」

 怪訝な表情を浮かべるアイチのことなど気にもとめず、レンは自分の言葉を続けた。

「君は今日からAL4の一員です」
「……は!?」

 レンの発言に、アイチは自分の背中にぶわりと汗が吹き出す感覚を確かに覚えた。
 何を言っているんだろう、この人は。
 アイチは確か、レンにシャドウパラディンのデッキを返却した際に、自分はAL4には入らないと告げたはずだった。仲間を犠牲にしたり、平気で他人を見下したり、そういうレンのやり方は間違っていると気付くことが出来たからだ。そして、そのことを自分に教えてくれたのは、他でもない櫂トシキだった。闇に飲まれ、力に溺れることしか出来なかったアイチを、櫂が救い出してくれた。櫂はアイチの中に存在するはずの「本当の強さ」というものを信じてくれた。櫂の気持ちに、応えたい。戻って来た自分を、何も言わずに受け入れてくれたチームQ4の仲間たちと一緒に。だからアイチは、AL4に入るわけにはいかなかった。
 アイチがぶんぶんと、ちぎれる位に首を振る。

「だ、ダメです! 僕はQ4の一員です! お願いレンさん、カードキャピタルへ帰らせて下さい!」
「無理ですー」
「無理ですーじゃないです! 帰して下さい!」
「却下ですー。アイチくんはAL4のメンバーになって毎日3時のお茶会に参加して僕と楽しくおしゃべりするんです。これはもう決定されていることなんです」
「そんな……」

 アイチが絶望的な表情を浮かべた、その時だった。
 室内に、突如けたたましい警報が鳴り響いた。そして同時に、大きな窓が巨大なスクリーンに変貌し、何やらいかつい体つきをした黒服の男が映し出された。
 会話を中断されたことで、少し不機嫌そうに眉を寄せながら、レンはスクリーンに向かい口を開いた。

「騒がしい、一体何事ですか」
『緊急事態ですレン様! 現在このビルに向かって凄まじい勢いで近付いてくる10トントラックをカメラが確認しました!』
「……トラック?」
『このままでは間違いなく激突し……うわああああ!』

 ブツリ!という音を立てて、モニターの映像が消えた。
 そして、それとほぼ同時のタイミングで、爆音を彷彿とさせるようなけたたましい音と共に、地上60階建てのビルが、揺れた。

「うわあ!」
「大丈夫ですか、アイチくん」

 盛大な揺れに思わず椅子から転げ落ちそうになったアイチを抱きとめ、レンは再び壊れたモニターに視線を戻した。
 そこには、砂嵐の中にとぎれとぎれで映り込む、地上の様子が映像として流れていた。殆ど何も見えないような画面の中で、蠢く人影のようなものをレンの両目は確かに捉えた。


「――やはり現れましたか……櫂!」








 三和は恐怖で失神しかけていた。

「死ぬ! 死ぬって! 頼むから止まってくれ櫂いいい!!」
「情けない声を出すな! 舌を噛みたくなかったら黙っていろ!」

 三和を怒鳴りつけながら、櫂はアクセルを踏む足に一層力を込めた。前へ直進し続けるトラックのスピードが増す。助手席にシートベルトで固定されている三和は、もう完全に号泣していた。

「――今だ! 突っ込むぞ!」
「いやだああああああああ!!」

 三和の叫びも虚しく、櫂が運転するトラックは目的地であるフーファイター本部のビル入口を突き破り、荒々しい破壊音と共にロビーへ突っ込んだ。壁やガラスが四方八方に飛び散りながら、二人の身体に降り注ぐ。完全に入口を突破したトラックは、ロビーの床の上を二回三回と横転し、やがて死んだ動物のように大人しくなった。
 しん、とロビーが静まり返る。しかし、一瞬の静寂を叩き割るかのように、次の瞬間、トラックのドアがガン!と大きな音をたて蹴り開かれた。中から現れたのは、無傷の櫂と、べそべそと涙を流す三和の二人だった。

「マジで死ぬかと思ったよおぉ……」
「お前は馬鹿か。カードゲームアニメで人が死ぬわけないだろう。くだらないことを心配している暇があるのならさっさと降りろ」

 理不尽な櫂の言葉に三和は思わずキレそうになった。一刻も早くアイチを救出して家に帰りたい。
 櫂と三和が死んだトラックから脱出し、ビルのロビーへ乗り込んでいくと、そこには見渡す限りの黒服の警備がひしめき合っていた。いかにも体術に精通していそうな屈強な男たちが、各々武器を構えて櫂達の行く手を阻んでいる。三和は今すぐここから逃げ出したかった。
 櫂は値踏みするような目で、自分の壁となる警備の男たちを見渡した。

「……その程度の兵力で、俺を止められると思っているのか?」

 櫂がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。テテテテーンテッテーテテーンという音楽がどこからともなく流れてきた。

「特攻部隊、前へ! データによると相手は相当の手練だ、全力で行け! 止めさえ出来れば相手の生死は問わないとのことだ!」

 リーダー格と思われる男の言葉を封切りに、警備たちが一斉に櫂に向かって走り出す。屈強な男たちが巨大な波のように押し寄せる様を、櫂はギリギリまで黙って見ていた。そして、その距離が僅か2メートルまで縮まったところで、一言。

「――見えた」

 そう呟いた櫂の声が、前列の兵士の耳に届いた、次の瞬間。

「なっ……!?」

 櫂の姿が、消えた。
 いや、消えたのではない。動きが速すぎて目視することが出来なかったのだ。
 櫂は軽やかに地面を蹴ると、行く手を遮る厳つい黒服の男の顔面めがけて、硬い靴底を叩き込んだ。攻撃を受けた男が呻き声を上げながら倒れるのも待たずに、回し蹴りを入れた遠心力を利用して、振り上げた右手ですぐそばの別の男を殴りつける。裏拳で。
 またしてもレンの遣わしたリアガードは野太い悲鳴をあげながら、リノリウムの床に倒れ伏した。
 着地の一瞬の隙を見て、櫂の頭上にひとりの男が警棒を思い切り振り下ろした。櫂はその攻撃を、自らの右腕で止めてみせる。
 全力の攻撃を腕一本で防がれ、男がわなわなと震え出した。

「ば、馬鹿な……! 普通ならば骨が砕けるはずの威力だぞ!?」
「……そんな考えで戦っているのなら、お前らは一度だって俺を傷付けることは出来ないだろう」

 地獄の底から湧き上がるような声で、櫂は告げた。

「常識に縛られるな!」
「!?」
「俺が本当の強さというものを教えてやる」

 そうやって、櫂はみるみる内に屍の山を作り上げ、上階へと続く道を切り開いた。この時点で、軽く見積もって100強はいると思われた兵たちは、既に10以下まで削られていた。この程度の数と戦闘力では、櫂にとって何の驚異にもならなかった。
 動かなくなった男たちを踏みつけながら、櫂はひたすらに階段を登り続けた。この先に待つ、アイチのことを想いながら。



*



「……少しばかりまずいことになりましたね」

 階下で櫂が警備軍団相手に一方的なデスバトルを仕掛けている様を、レンはスイコから買い取ったiPadで眺めていた。
 自分の想像以上に、被害の規模が大きくなっていた。人海戦術で押し切るつもりだったレンも、櫂の戦闘能力を見誤ったことに気が付き、思わず舌打ちする。このままでは、櫂がここまで辿り着くのも時間の問題と言えるだろう。

「櫂くん……」

 レンのiPadを横から盗み見て、アイチは櫂が怪我をしていないかどうかを確認した。櫂が助けに来てくれたことはとても嬉しいが、それで彼に傷を負わせてしまうくらいなら、いっそ自分は助からなくていい。そんなヒロインじみたことを涙目で考えていた。
 そんなアイチの様子を見て、レンは恐ろしいくらい優しい声でこう言った。

「アイチくん、安心して下さい。君のことは、何があっても僕が守ってみせますから」
「レンさん……」

 アイチは「何言ってんだお前」という風にレンを見上げたのだが、レンには伝わらなかったらしい。頼り甲斐のあるレンの言葉に涙目で感動している、と勝手に解釈された。

「レン様、櫂トシキ達は私がここで止めてみせます」

 唐突に、何かを決意したかのような声で、アサカが口を開いた。その言葉に、レンは珍しく驚いたような表情を僅かに浮かべた。

「アサカ……」
「レン様は、先導アイチを連れて例の抜け道から屋上へお逃げ下さい。ヘリを手配しておきました」
「ヘリ!?」

 アサカの言葉に、アイチが愕然とする。このままでは本当に逃げられないどころか、空路を使ってもっと遠くへ連れて行かれてしまうかもしれない。それだけは阻止しなくては、とアイチはレンの腕から逃れようとしたのだが、とてもじゃないが力で適う相手ではなかった。
 そんなアイチの抵抗など気付いてもいない様子で、レンはアサカに向かって激励の言葉を囁いていた。

「……分かりました。アサカ、必ず生きて、再び」
「レン様……」
「また、皆一緒に……お茶会を開きましょう」
「……! はい、レン様! 必ず……!」

 何やら感動的な空気が生まれているのだが、アイチにとってはたまったものではなかった。ぱくぱくと金魚のように口を開け閉めするアイチの手を引き、レンは本棚の前で立ち止まった。そして、その横の壁を二回ノックする。
 すると次の瞬間、本棚は誰の力を借りることもなく、ゴゴゴゴと唸り声を上げながら、壁伝いに右の方向へとずれていった。そこに現れたものは、映画や本などで見たことのあるような、あからさまな隠し通路だった。
 森川が見たら興奮しそうな設計だ、なんてことを考えている場合ではなかった。アイチは力一杯抵抗する。

「レンさん離して!」
「ダメです、アイチくん! アサカの好意を無駄にしてはいけません。大丈夫、彼女なら必ず生き残るでしょう」
「そういうことを言っているんじゃないんですってばー!」

 勘違いがマッハなレンに手を引かれ隠し通路の奥へと進んでいくと、少し開けた場所に辿り着いた。
 そこにあるものを見て、アイチは純粋な疑問を抱いた。

「どうして螺旋階段が……」
「ムードあるでしょう」

 レンさんの趣味か、と、恐らく屋上へと続いている螺旋階段を見上げ、アイチは妙に納得した。普通の階段じゃダメだったのか、という質問は野暮だろう。

「さあ、急ぎましょう」
「あっ、そうじゃなくて、だから僕は行けないって、レンさん!」
「みんな離れ離れになってしまいましたけど、僕らなら必ず再会出来るはずです。今はそのことを信じて、進みましょう」
「人の話を聞けー!」

 絶叫するアイチを半ば引きずるように階段を登りながら、レンはふと、あることに気が付いた。

(そういえば、テツはどこに行ったんでしょうかね?)



*



 ここが最上階だろう。地上60階建てのビルを足だけで上り、それでも息一つ乱していない櫂は、扉の前で一度立ち止まった。
 恐らく、この扉の向こうにアイチがいる。そして間違いなく、レンも一緒に。

「マジで死ぬかと思った……なんでエレベーター使わないんだよ……」

 ぜえぜえと息を切らしながら、三和が恨めしそうに櫂を見る。あんなものを使えば奴らの思うツボだろうと、三和の意見を一蹴し、櫂は改めてドアを引いた。
 大きな窓のある部屋が視界に入り込んでくる。しかし、そこにはアイチの姿も、レン姿もなかった。

「待っていたわ……櫂トシキ」

 ただひとり、フーファイターの女幹部で、AL4のナンバースリー、鳴海アサカだけが、櫂達を待ち構えるように立っていた。

「アイチはどこだ」
「さあ、ね」

 櫂の問いに、アサカは挑発するような声で答えた。櫂は冷静に周囲を見渡す。そして、本棚の横の床に、不自然な摩擦痕のようなものが残っていることに気が付いた。
 恐らく、隠し扉だろう。友人であったレンの趣向を理解している櫂だからこそ、僅か数秒の間にここまで理解することが出来た。

「退却してもらおうか」
「断るわ。レン様の邪魔はさせない!」

 アサカが護身用のレイピアを抜いた。櫂は僅かに眉間に皺を寄せる。オーラを見る限り、なかなか腕の立つ女だということは理解出来た。しかし、決して勝てない相手ではない。ただ、ここで時間を取られ過ぎると、レンを逃がしてしまう可能性がある。
 恐らくレンならば、自家用のヘリくらいは用意していることだろう。だから馬鹿に金を持たせるべきではないのだと櫂は奥歯を噛み締める。

「ここで終わりよ、櫂トシキ!」

 アサカが一気に距離を詰め、細身の片手剣を振りかぶった。策を練っている途中だった櫂は、一瞬反応に遅れてしまった。まずい、と咄嗟に防御の姿勢を取る。
 しかし、アサカの刃が、櫂の体に傷を作ることはなかった。

「たく、油断すんなっつーの!」
「三和……!」

 アサカのレイピアによる攻撃を、咄嗟に櫂の前に躍り出た三和が、所持していたバールのようなもので防いだ。攻撃を防がれたアサカは一旦バックステップで間合いを取り、再びいつでも飛びかかれるような体制を整える。三和も同様、自らの胸の前にバールのようなものをかざし、真っ直ぐにアサカのことを見据えていた。
 緊張状態をそのままに、三和は櫂に向けて叫んだ。

「行け、櫂!」
「!」
「ここは俺が食い止める! お前はアイチを取り戻せ!」
「……恩にきる!」

 三和に礼を一言残し、櫂は例の本棚の前へと駆け寄った。そして、そのまま助走を殺すことなく、渾身の力で本棚を蹴り飛ばした。
 櫂の全力の蹴りをモロに受けた本棚は、木っ端微塵に砕け散り、ただの木屑と化した。本棚だったものがあった場所の向こうには、やはり抜け道が存在していた。櫂の予想は見事に的中していたのだ。
 躊躇うことなく、櫂は抜け道の向こうへと走り出す。

「行かせないわ!」

 アサカが櫂の後を追おうと振り返る。しかし、次の瞬間、彼女の喉元にバールのようなものが突きつけられた。アサカは思わず動きを止める。

「おっと、アンタの相手は俺だよ」
「……っ! 退けなさい!」
「まあ、そうツレないこと言うなって」

 激高するアサカに、三和がニタリと悪戯な笑みを浮かべた。

「俺と踊ってよ、お嬢さん」




*




「アイチ!」

 螺旋階段を駆け上り、光が降り注ぐ屋上へと櫂は辿り着いた。
 そこには、パステルカラーのロリータファッションに身を包み、レンに片手を握られているアイチの姿があった。

「櫂くん!」
「アイチ、そこで待っていろ!」
「やはり来ましたか、櫂……」

 苦々しい表情を浮かべながら、レンが櫂の姿を見据えた。櫂の脳裏に、いつかの光景がフラッシュバックする。PSAクオリアに侵食され始めたレンから逃げるように背を向けたあの時も、同じ場所で自分たちは戦っていた。この、フーファイター本部の屋上で。
 強い風に全身を煽られる。制服の裾がバタバタと音を立ててはためいた。

「レン、アイチを返すんだ」
「………」

 レンは不気味に黙り込んだままだった。

「レン!」

 櫂がレンの名を再び叫んだ、次の瞬間。
 パアンという乾いた音が、ひとつ響いた。

「……!」

 櫂の胸付近に、小さな穴がひとつ空いた。先程の音が銃声であることに、櫂は気がつく。
 前を見据える。
 アイチと繋がっていない方のレンの手には、小型回転式拳銃、ニューナンブM60が握られていた。

「くっ、実弾とは……!」
「櫂くん!」

 アイチの悲痛な声が響いた。しかし櫂は、そんなアイチに目だけで「大丈夫だ」と告げた。
 幸い、弾丸が当たった場所は、防弾チョッキを着込んでいた上半身だったので、櫂にダメージはなかった。実害があるとすれば、それは制服に銃弾の形の穴がひとつ空いてしまったことぐらいだろう。
 櫂は勝ち誇ったような顔で、レンに告げた。

「初めの一発で俺を仕留めておくべきだったな、レン」
「……っ!」

 武器の正体さえ分かってしまえば、弾をよけることはそう難しくない。奇襲まがいの最初の攻撃で、櫂を戦闘不能に出来なかったことはレンにとって相当の痛手だ。櫂の身体能力の高さは、他でもない昔馴染の自分が一番よく理解している。レンは銃に込める力を強め、ギリと唇を噛んだ。
 しかしレンは、諦めきれない様子で叫んだ。

「くっ……そんなの、ハッタリです! くらいなさい、櫂!」

 レンが銃を乱射する。しかし、連続して自分に向かってきた弾丸を、櫂は軽快なステップで全てかわしてしまった。撃ち込まれた弾は、ほとんどが床にめり込んで、一発たりとも櫂にはヒットしていない。

「どうした、止まって見えるぞ?」
「むきー! 黙りなさい!」
「櫂くん……すごい……!」

 アイチが目をハートにしながらぽわんと櫂に見蕩れていた。レンは弾の残数など気にも留めぬ様子で、パンパンと軽快な音をたてながら櫂への攻撃の手を休ませなかった。
 しかし櫂は、相変わらず、全ての攻撃を容易く交わし続けている。口元に浮かぶのは勝者の笑みだ。

「そんな攻撃では、俺にダメージを与えることは一生出来ないぞ、レン!」
「………」

 一瞬、レンの顔から、表情が消えた。そして、至近距離で見なければ分からないくらいの、小さな微笑みが口元に浮かぶ。アイチはハッと息をのんだ。

「櫂くん、罠だ!」
「な……」

 アイチの声が櫂に届くのと同時に、足元で、ガチャンという無機質な音が鮮明に響いた。とっさに櫂は視線を下に向ける。
 自分の右足が、地面から突如現れた黒い鉄の足枷によって、完全にホールドされていた。

「あーっはっは! 愚かですね、櫂!」

 レンが高らかに笑った。
 櫂は(やられた……!)と奥歯を噛み締める。
 誘導されていた。櫂はその事実を理解する。しかし、理解した時にはもうすでに何もかもが遅すぎた。自分の右足を拘束する鉄の足枷は、櫂がどんなに足掻いてもピクリとも動かない。
 全てはレンの計算だったのだ。
 今の今までヒステリックに叫ぶばかりだったレンが、不敵な笑みを浮かべながら、櫂に語りかける。

「ひとつのものに集中しすぎて他への注意が回らなくなる……君の悪い癖です。そうやって、中学校の時だってヴァンガードに夢中になりすぎて授業を疎かにし、先生に廊下に立たされたことを忘れたわけではないでしょう?」
「くっ……止めろ! アイチの前で……!」
「櫂くん……!」

 過去の恥ずかしいエピソードを暴露され、櫂は今までにない苦痛の表情を浮かべた。片手で顔面を覆い隠すようにしながら、力なく地面に膝を付く。
苦しむ櫂に、アイチは自分の胸がはち切れそうだった。
 大きな青い瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。櫂が苦しむ姿なんて、見たくない。ましてや自分を助けるために櫂が傷つくなんて、あってはならないことなのだ。
 今にも空気に溶けてしまうような弱々しい声で、アイチは櫂に向かって口を開いた。

「お願い、もうやめて……櫂くん、無茶したら嫌だ……嫌だよ……」
「アイチ……」
「僕なんかのために、傷つかないで……」

 泣きながら懇願するアイチに、櫂は真剣な表情で、告げる。

「言っただろう、アイチ」
「櫂くん……?」
「お前のことは、俺が必ず……何度だって救い出してみせると」

 揺るぎなき信念を宿すその瞳に、アイチはハッと息をのむ。
 そうだ、櫂はいつだってそうだった。まだアイチが自分の小さな世界で窒息しそうな毎日を送っていた時も、大切なブラスターブレードを奪われてしまった時も、闇に飲まれ、自分を見失ってしまったあの時も。
 いつだって、自分を導き、救い出してくれたのは、櫂だった。

「さあ、そろそろジ・エンドのお時間です」

 レンが櫂の頭に、銃の焦点を合わせた。いくら櫂とはいえ、脳天を狙われてしまえば一溜りもない。床に足を固定されたままの櫂は、逃れるすべもなく唇を噛み締める。
 このままでは櫂が死んでしまう。アイチの体は、無意識のうちに動いていた。

「だめっ!」
「うっ……!?」

 アイチは咄嗟に、銃を持っているレンの腕に噛み付いた。突然の痛みに怯んだレンは、銃を手から落としてしまった。同時に、アイチの手を拘束していた力が緩む。その隙を狙い、アイチは力一杯に地面を蹴り、走り出した。

「櫂くん!」
「アイチ!」

 アイチはスカートをはためかせながら走った。櫂がアイチに手を伸ばそうとした、次の瞬間。

「え……」
「……!? アイチ!」
「アイチくん!」

 一際大きな突風が、アイチの華奢な体を攫った。
ふわりと、花びらが風に舞うように、アイチは宙に浮き上がり、そして。

「……!」
屋上の地面の外へ吹き飛ばされ、そのまま重力に従い、落下した。

「……っ、アイチ!!」
「櫂!?」

 櫂は全身の力を足元に集中させ、莫大なエネルギーで鉄の足枷を破壊した。そして、自由になった足で地面を蹴り、走り出す。

 櫂は一切の躊躇いもなく、アイチの後を追って、屋上の空へと飛び込んだ。



*



 急速に落ちていく自分を全身で感じながら、アイチはぼんやりと「ああ、僕は死んじゃうのかもしれない」と思った。落ちたらきっと痛いんだろうな、なんてことを考えながらも、脳裏に思い浮かぶのは、大好きな櫂の姿ばかりだった。
 死んでしまったら、櫂くんともう二度と会うことが出来ない。
 アイチにとって、そのことだけが心残りだった。

(やっと会えたのに、やっと一緒にいられるようになったのに、やっと……やっと……)

 笑ってもらえるように、なったのに。

「アイチ!」
「……櫂くん?」

 ぼんやりとした景色の中、青空を背景に、櫂がこちらへ向かって手を伸ばしている姿を、アイチは見つけた。
 そんなはずがない、これは夢に決まってるんだ。期待して裏切らえることが怖くて、そうやって自分を慰めようとしたけれど、アイチの鼓膜は再び、あの愛しい人の声を捉えた。

「アイチ、手を伸ばせ!」
「櫂く……」

 夢じゃない。
 アイチは唐突に、何かに強く頬を殴られたような感覚を覚えた。目が覚める。何度瞬きをしても、視界の中の櫂の姿は消えなかった。

 夢じゃない!

「櫂くん!」

 櫂と同じように、アイチは必死で手を伸ばした。
あと少し、もう少し、指先が触れたかと思った瞬間。
 落下していく速度の中、櫂は懸命に伸ばした腕で、アイチの右手を掴み取る。そうして力一杯引き寄せたアイチを、自分の腕の中に閉じ込めて、その小さな丸い頭を守るように抱きしめた。

「櫂くん、櫂くん……!」
「アイチ……待たせてすまない」
「ううん……櫂くんが来てくれて、僕うれしい!」

 櫂の胸の中に、アイチは自分の頭を力一杯押し付けた。お互いの心臓の鼓動が、轟々と唸りを上げる風の中だというのに、うるさいくらい鮮明に聞こえた。櫂の命の音が聞こえる。アイチはとても幸せだった。
 このままでは二人とも、地面に叩きつけられて死んでしまうのに。
 だけどアイチは、不思議と何も怖くなかった。驚くほど穏やかな心で、櫂のぬくもりに包まれていた。
 そっと、櫂の胸に押し付けていた頭を上げて、お互いの目と目を合わせた。
 そして、ゆっくりと唇を開き、確かめるように言葉を紡いだ。

「怖くないよ……櫂くん。キミと一緒なら、僕、何も怖くない……」
「アイチ……」

 はらはらと涙を流しながら、アイチは真っ直ぐな笑顔で櫂を見つめている。櫂も同じ気持ちだった。例えこのまま死んでしまっても、不幸なことなど何もないような気がした。
 二人が緩やかな決意を心に宿した、次の瞬間。

 巨大な水柱がひとつ、上がった。



*



「ったく、本当にお前らは無茶ばっかりしやがる!」
「本当です。下がプールじゃなかったら間違いなく死んでいましたよ」

 三和がぷりぷりと怒っている隣で、レンが呆れたような溜め息をついた。
 櫂とアイチが落下した先にあったものは、フーファイター本部の庭に設置されていたプールだった。快適な環境のためには必須でしょう、とレンが柏木建設に金を積んで作らせたもののひとつである。アサカ以外の誰もが無駄だと思っていながらも口にしていなかった設備だが、結果としてそれが二人の命を救ってくれたのであった。
 レンに呆れられたことが余程しゃくにさわったのか、櫂は見るからに不機嫌そうに眉を寄せた。しかし、ずぶ濡れになったままのアイチが、同じくずぶ濡れな自分の腕の中で「くしゅん」と小さくくしゃみをしたことに気が付いて、冷えた体を温めようと、抱きしめる力を少し強めた。レンはそんな二人を見てむうっと唇を尖らせている。

「きぃー! ベタベタしてるんじゃないですよ!」
「見苦しいぞレン、退却しろ」
「櫂のばかぁ! 嫌いです! アイチくんを僕に返しなさい!」
「櫂トシキ! レン様を侮辱するのなら、私の命にかえてもお前を殺す!」
「レン様、落ち着いて下さい。アサカ、お前もだ」

 突如二人を諌める声が響き、皆一様にそちらを振り返る。そこには、今の今まで姿を消していたテツが、白いエプロンを纏いながら立っていた。

「テツ! 今までどこにいたんですか」
「勝手な行動をお許しください、レン様」

 そう言うと、テツは濡鼠になっている櫂とアイチの元へ歩み寄り、洗いたてのタオルを差し出した。

「そのままだと確実に風邪をひく。部屋に着替えを用意しているから、上がっていくといい」
「テツ!?」
「……何を企んでいる」

 驚愕するレンと、あからさまに訝しんでいる櫂、そして、ぽかんと自分のことを見上げているアイチ、それぞれに視線を向けてから、テツはいつもの無愛想な顔で、こう告げた。

「……もうすぐ3時だ。AL4では、3時ジャストはお茶会の時間だというルールがあるんだ。そうでしょう、レン様」
「え、もうそんな時間ですか」
「はい。……フーファイターの敷地内にいる以上、お前らにもそのルールに従ってもらおう」
「テツさん……?」

 テツの発言に、アイチが相変わらず怪訝そうな表所を浮かべる。そんなアイチにも、そしてその場に居合わせた他のメンバーにも分かりやすいように、決定的な言葉を紡ぐ。

「美味しいお茶菓子、温かいコーヒーや紅茶、それからココアも用意しておいた。……それで体を温めるといいだろう」
「テツさん……!」
「レン様、よろしいでしょう」
「………」

 テツの言いたいことを理解し、レンはむむむと唇の端を引き伸ばしている。しかし、ゆっくりと周囲を見渡して、やがて諦めたように溜め息をつき、口を開いた。

「仕方がないですね! 僕は慈悲深いから特別に今回は櫂とそのしもべもお茶会に参加させてあげますよ! ふん!」
「レンさん!」
「え、しもべって俺のこと?」

 アイチの顔がぱあっと華やいだ。三和は自分の扱いに疑問を覚えたが、軽くスルーされたので仕方なく黙った。
 レンはつかつかとアイチの元へと歩み寄り、未だ櫂抱きかかえられている彼の手を取って、笑った。

「さ、行きましょうアイチくん! テツの用意するお茶菓子は、いつも最高に美味しいんですよ! きっと気に入ってくれるはずです」
「その手を離せ、レン。さっきのことをもう忘れたのか」
「僕からアイチくんを引き離したのは櫂でしょう! 櫂のバカ! 櫂なんて出がらしの紅茶でも飲んでいればいいんです!」
「ふ、二人とも、もう喧嘩しないでください!」
「いやあ、アサカちゃんの剣、すごかったよ〜。俺死ぬかと思ったもん」
「人を散々おちょくっといてよく言うわね……! 次は絶対に負けないわ!」

 ぎゃあぎゃあと騒がしいメンバーを眺めながら、テツは眩しそうに目を細めながら、笑った。
 その微笑みは、誰がどう見ても、包容力のある優しく寡黙な好青年そのものだった。



END






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