不条理ファンタジーな世界ワールド


お前の頭を叩き割って、その中身を覗いたら、ギラギラ光るピンクのモールがいっぱい入ってそうな感じする、と一松兄さんが言った。

僕は「ハア?」って思って、その場では「何それ」って返して、ついでに「今日の晩御飯、酢豚だって」とさっき知ったばかりの耳より情報を気まぐれに教えてやれば、一松兄さんは「マジで」と口元を小さく綻ばせる。
みんな酢豚は大好きだ。
僕も好きだ。ウズラの卵が特に好きだ。
おそ松兄さんとカラ松兄さんが醜く豚肉を奪い合っているその横で、僕は手薄になってるウズラの卵を自慢の箸さばき颯爽と奪い去る。甘酸っぱい味が纏わりつく、ぷちりとした食感を口の中で堪能する。酢豚最高だ。
一松兄さんと僕は夕飯の酢豚に思いをはせて二人して勝手にウキウキになっていた。今しがた言われたばかりの謎発言のことを、きっと僕も一松兄さんもすぐに忘れた。
僕が一松兄さんとのやりとりを思い出したのは、お風呂に入って手の中で泡立てたばかりのシャンプーを頭皮に擦り込もうとした時だった。どうでもいい話だけど、髪の毛を洗う時はシャンプーを手の中で泡立ててから始める方が髪の毛が綺麗に洗い上がる。
鏡の中の自分と目が合った瞬間、黄昏時に一松兄さんから言われた例の言葉を思い出した。
お前の頭を叩き割って、その中身を覗いたら、ギラギラ光るピンクのモールがいっぱい入ってそうな感じする。
何故その言葉を思い出したのかと言うと、答えは至極簡単だった。僕は僕の顔と頭を鏡越しという形で改めて見つめた時に、あ、そうかもしれないと、一松兄さんの言葉に奇妙な納得を覚えたからだった。
僕の頭を叩き割ったら、ピンク色のギラギラ光るモールが詰まってそうだなって、単純にそう思った。
しかし僕がそれを実際に確認することは殆ど不可能な話だった。頭を叩き割れば人は死ぬし、僕はまだまだ死ぬつもりはなかったわけで、一松兄さんが口にした言葉は未来永劫確かめようのないイメージだった。
けれど兄さんの言葉は僕の頭のメルヘンでファンタジーな部分を奇妙に刺激した。
確かめられないってことは、それが事実か妄想かどうかを明確に出来ないってことと同義なわけで、その頃の僕はというと、なんだか無性に世の中の摂理とか倫理とか、そういう物に対する猜疑心を尖らせている年頃だった気がするし、つまり、何て言うか、一松兄さんの浮世離れした思想や行動は、僕と非現実を繋ぐ一本の細い糸みたいな意味を持っていたのかもしれなかった。
だから僕は一松兄さんに期待をしていた。
このまま就職もせずに彼女も作らずに結婚もせずに扶養されることに甘えて生きて死ぬことが許される世界があるんじゃないかってそんなことを一松兄さん越しに考えていた。
僕は悲しいくらいに人としてまともな末弟だった。


ある日、一松兄さんは僕に向かって何でもないように言った。

「お前の唇ってストロベリーパフェの味がしそう」

一松兄さんはもしかしたら、数日前に母さんがセブンイレブンで買ってきてくれたパフェ風アイスのことを思い出しながらその言葉を口にしたのかもしれない。
だって美味しかったから。
チョコレートとストロベリーが3個ずつ。僕と一松兄さんと十四松兄さんがストロベリーを食べた。おそ松兄さんとカラ松兄さんとチョロ松兄さんがチョコレートの方を食べた。その仕分けにこれと言った理由は無かった。後から考えてみれば上3人の兄さんと下3人の弟で味を分けたようにも考えられるが、僕は別にストロベリーではなくチョコレートを食べたって構わなかった。どちらも美味しそうだった。事実、美味しかった。カラ松兄さんに頼めばすぐにチョコレートを味見することが出来た。結果として僕はストロベリーの方を選んで良かったな、と思ったものの、その感情だって僅差である。どっちだって良かった。
どっちだって良かったんだ。
お前の唇ってストロベリーパフェの味がしそう。
一松兄さんが、唐突に何でもないように言って、僕は「そうかもな」と思った。
僕の唇はストロベリーパフェの味がするかもしれない。コンビニで売ってる300円もしないアイスパフェの味が、僕の唇に沁み込んでいる確率はどれくらいのものだろう。
僕はどうしてか、自分の唇を自ら舐めてみることを躊躇った。季節は冬で、その行動は決して他者の目に対して不自然な光景には映らないはずだった。

一松兄さんの、奇妙にしっとりした唇が僕の唇に重なって、僕は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
柔らかな感触はすぐに離れていった。
一松兄さんは「うん」とだけ頷いた。
それだけだった。
少なくとも僕自身は、ストロベリーパフェの味を思い出すことは出来なかった。
世界の片隅で、何かがパキリと欠ける音が聞こえた。
ような気がした。


冬の日、僕はひとりで街を歩いていたんだけど、気付くと隣には一松兄さんが並んでいた。
何も示し合わせて家を出たわけではない。当てもなくぶらぶらしていたら、猫に餌をやっていた兄さんと偶然鉢合わせただけの話だった。
僕は誰とも待ち合わせをするつもりもなく、デートの予定だって空っぽだった。
世間一般的に言う休日の日、誰かに合う予定がない日の僕は、誰にも会いたくない日の僕だった。
けれど兄弟であれば話は少し変わって来る。僕は皆で皆は僕。気負う必要のない相手に対して、会いたい会いたくないだのという感情は必要ない。兄さんと鉢合わせたことだって、大した意味など存在しないんだ。
僕らは並んで歩いていた。冬だった。少しだけ風が吹いていた。午前11時半の空はどこまでも青く、空気中に漂う小さな塵をキラキラと輝かせていて、視界のフォーカスは曖昧だった。何の変哲もないはずのいつもの景色はスマフォのトイカメラ効果みたいな色を携えながら僕の眼球に映り込んで、何となく映画を撮りたいという気持ちを胸に抱く人の心が分かった気がしていた。
僕はポケットに手を突っ込んで、いつの間にか前方を3歩ほど先に進む一松兄さんの後をてぽてぽ追いかける。猫背の一松兄さんはこちらを振り返らなかった。歩道橋を上る足取りは少しだけ重そうだった。一松兄さんは他の兄弟に比べてあんまり運動をしなかった。僕は割と意識的にジョギングをするタイプだったし、カラ松兄さんはナルシストなだけあって体を鍛えることに余念が無かった。チョロ松兄さんはなんやかんやでクソダサいオタクとして芸を磨く過程で無駄に筋肉が付いてるみたいだったし、十四松兄さんは毎日スポーツを欠かさない。おそ松兄さんは何か知らないけど無駄に体が締まっていた。あの人のことは一番分からないし、これからもきっとそうだろう。
結果として、ノラ猫に餌をやることだけを生き甲斐とする一松兄さんばかりが虚弱を露わにする事態になってしまっていたものの、それもまあ何の問題もなかった。僕らは揃って無職の童貞で、筋肉なんてあってもなくても変わらなかった。
歩道橋を渡る途中、一際大きな風が吹いた。寒いな、って思っていたら、なんと僕のニット帽が頭から外れて飛んでいった。あ、って思う間に、帽子は歩道橋の柵を飛び超えて、車道へと落下していった。
ひとつも焦ろうとしない一松兄さんが振り返って言った。

「お前って、何か身軽そうだから、ここから飛び降りても車の上をぴょんぴょん飛んで帽子ぐらい取り返しそう」

その言葉を聞いた瞬間、僕はいつか、一松兄さんが言ってた言葉を思い出した。

お前の頭を叩き割って、その中身を覗いたら、ギラギラ光るピンクのモールがいっぱい入ってそうな感じする。

僕はその言葉に対して、確かに「そうかもしれない」って思った。
その時と同じ気持ちで僕は今、一松兄さんの言った言葉に、「そうかもしれない」って思った。
お前って、何か身軽そうだから、ここから飛び降りても車の上をぴょんぴょん飛んで帽子ぐらい取り返しそう。
出来るかもしれないって、何の疑問もなく、そう思った。


気が付いた時には手すりを越えて、僕の身体は歩道橋から飛び降りようとしていた。足元の重力が無くなった。帽子を失った僕の前髪を、飛び込んだ先の冷たい風が容赦なく揺らした。僕は自分で自分が分からなかった。ただ、単純に手を伸ばすような感覚で、車道へ落ちて行こうとする帽子を救おうと思った。そのために僕自身の身を投げ出した。世界はトランスファー。僕は重力を失う。今すぐお気に入りのあのニット帽を助けに行けそうだった。

ふいに右手に強い力が宿った。
誰かが僕の右手を掴んでいた。
ぐん、という縦方向の力が働く。僕の身体は重力を思い出した。旋毛から足の指先に向かって、ピンと糸が張りつめるようだった。
足元の数メートル下方では、今もまだびゅんびゅんと車が行ったり来たりしていた。目を凝らせば、お気に入りの帽子は見るも無残にぺったんこになっているようだった。
それから、上を見る。どこまでも透明な冬の青空を背負いながら、僕の右手を掴んでいる人の姿が視界に映った。
一松兄さんだった。
一松兄さんは珍しい表情で僕の手を掴んでいた。心底驚いた目をしていて、余裕とか全然なかった。「は?」とか「何こいつ?」って感情がひしひしと伝わって来た。
あんまり見たことがない表情だったので、僕は思わず笑ってしまった。
夢の時間はもうおしまいだってことが、シャボン玉がぱちんと弾けるみたいな気持ちで理解出来た。
そして思ったね。やっぱり僕はあの家にずっといることは出来ないんだって。
このまま就職もせずに彼女も作らずに結婚もせずに扶養されることに甘えて生きて死ぬことが許される世界があるんじゃないかってそんなことを一松兄さん越しに考えていた。兄弟の中でも最もファンタジーに満ちていて、非現実的な寝起きの匂いがいつでも漂っていた一松兄さんの存在があったからこそ、僕は社会の理から外れたあの家でぼんやりだらだらどうしようもなく生きていても許されるんじゃないかって思っていた。
けどやっぱり無理だったね。現実的な熱の籠った一松兄さんの腕が僕の右手を必死で繋ぎ止めている、それだけが全ての事実だった。
僕は普通の人間で、歩道橋からふわって降りて、車をひょいひょい飛び越えながら帽子を取り戻したりすることは出来ないし、頭の中にはピンクのモールじゃなくて人より少しばかり足りない脳みそしか入っていなくて、唇からストロベリーパフェの味なんかしないわけで、要は一般的な普通の人間なんだ。
普通の人間っていうのは普通に生きて普通に自立して普通にひとりぼっちにならなくちゃいけないんだ。
風がぴゅうぴゅう吹いていて、僕は歩道橋から身を乗り出し、そんな僕を兄弟の中で一番筋肉の足りない一松兄さんが必死に繋ぎ止めていて、なんだか無性におかしかったし、実際笑てしまっていたから、何かどうにでもなれって感じだった。
ああ仕方ないな、僕はやっぱり就職活動もして彼女も作って流れで結婚とかしちゃったりしてイレギュラーな感じの六つ子として生まれたことも忘れかけて世の中に馴染んで生きていかなきゃいけないんだなあって、僕の手を必死に掴んでいる一松兄さんの顔を見て実感したりして、そんなことを考えていてまた少し笑えて、気が付いたら右足の靴が脱げていて、きっと車道で帽子と一緒にぺたんこになったりしてるんだろうなって他人事のように思った。





 

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