茶番怪奇



自分がやられて嫌なことを他人にするのはいけないことだという至って倫理的な感情が胸に湧き上がることの何が悪いのか分からないし、それを誰かに問えば「別に悪くはないだろ」って返されるに違いないし、ならこうして抱いた気持ちをどういう風に噛み砕いて消化すればいいんだか誰か教えてくれって願っても自分の周りにいる人間達にはきっと一生分からない。



トド松の服を奪って脱衣所から走り去れば、当然のようにトド松は自分の後を追いかけてきた。夜と呼ぶにはまだ早いこの時間の銭湯には顔見知りの老人ぐらいしかいないから、トド松も普通にパンツ一枚で玄関付近の待合室までやってくる。一般的な社会人は人付き合い成り仕事の残業なりで忙しく、平日のこの時間帯の銭湯は自由な無職である僕らのものであると言っても間違いなかった。
「服返してよ!」と、馬鹿みたいに頬を膨らませるトド松に、一拍の間を置いてから盗んだ服を手渡せば、他の兄弟よりも少しだけ大きな黒目が意外そうに丸くなった。

「素直だね……」
「………」

気味悪そうな顔で、それでもトド松は素早く服を受け取って、ちゃかちゃかと着替えをした。
僕は何かを言いたい気がして、それは確かな想いだったはずなのに、口からはどんな言葉も出てこなかった。




次の日、おそ松兄さんが押し入れの前で何やらひとりでペラペラと話をしていた。それは不思議な光景だった。僕は後ろから「何やってんの?」と声をかける。
おそ松兄さんは、顔だけでゆっくりとこちらを振り返り、そして人差し指を自分の唇に当てて「しー」というポーズを取ったから、僕は言われた通りに黙った。
僕が静かになったことに満足した兄さんは、もう一度押し入れの方を向いて、話を再開した。

「チョロ松もさ、悪気があって言ってるわけじゃないと思うぞ。いらないって思ってる奴に夜中トイレなんか付き合ってくれないだろ。あいつちょっと変なとこ歪んでるっていうか、不器用だからさ」

僕は何となくいろいろなことを察して、察した瞬間、押し入れの中からすすり泣きのような声が聞こえてきた気がした。

「でもまあ、泣きたい時は泣いたらいいし、誰かに何か言いたいときは、遠慮なくお兄ちゃんに甘えるがいい!」

そう言って、おそ松兄さんは押し入れに背を向けて、ついでにすれ違う僕の肩をポンと叩いてから部屋を出て行った。
押し入れの向こうから聞こえる啜り泣く声と、僕は二人きりになった。二人きりになってから、おそ松兄さんの言葉を頭の中だけで反芻する。

それは僕があの時トド松に言いたかった言葉だったのかもしれない。

チョロ松兄さんの「お前はいらない子」だって言葉を聞いた後、僕は脱衣所でトド松の顔色を窺った。そんなことをしている間にトド松の暴言の矛先がこちらに向いて少しばかり驚いたけれど、そんなトド松の姿を見ていても、頭の中で回るのはチョロ松兄さんの声の温度で、何だかいたたまれない気持ちのまま流れでトド松の服を奪って脱衣所から脱走した。追いかけてきたトド松と二人きりになった時、自分が言いたかったことはやっぱり、おそ松兄さんがたった今、押し入れの中で啜り泣くトド松に向けたものだったのかもしれないと確信的な気持ちで思う。
誰かが言われて嫌な言葉は、自分が言われて傷付くもので、僕はあの時、確かにトド松に自分を投影して、傷付いた。友達も何もいらないけれど、兄弟に否定されるのは怖かった。

「トド松、俺はお前のこと……」

ひつ、まで紡がれかけた声は、背後からの問いかけによって遮られた。

「何やってんの?」

僕は本当に驚いた顔で振り返った。何故そこまで驚いたのか。答えは簡単だ。背後から響いた声が、押し入れの中で啜り泣いていると思い込んでいたトド松のものだったからだ。そして振り返るとトド松がいた。トド松はポケットに右手を突っ込んで、左手は居間の戸棚の中にしまい込まれている買いだめされた美味い棒を握っていた。昨日チョロ松兄さんに「いらない兄弟」と言われて膨らんでいた頬は、ザッフザッフと音を立てて豪快に美味い棒を食んでいる。コーンポタージュ味のカスが唇の端にくっついているのが見えたけれど、あれは別にあざとさを狙ってやっているものではなく、素だろう。
いやそんなことはどうでもよくて。
何やってんのはこっちの台詞だった。お前は押し入れの中で昨日チョロ松兄さんに言われた言葉を気に病んで泣いていたのではないのか。さっきまでおそ松兄さんに扉越しの慰めを受けていたんじゃないのか。何を平然とした表情で美味い棒を食べながら僕を見ているんだ。
言いたいことはたくさんあるが、僕は何も出来ずに固まって、まるで昨日の再現だった。昨日と違うところはひとつ、渡せる服がないことだけだ。
そうこうしている内に、どこかへ消えたはずのおそ松兄さんが戻ってきた。

「あれ、トド松もう大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が?」
「押し入れ」
「? 押し入れ?」
「キツイことあったら押し入れで泣くじゃん、お前。さっきもそうだったし」
「え、何それ初耳なんだけど。誰の話?」
「え?」
「え?」

二人のやりとりを聞きながら、僕は金縛りから少しだけ解けたみたいな気持ちで、トド松が泣いていたはずの押し入れを開けた。
中には誰もいなかった。
啜り泣く声は聞こえ続けた。
それをかき消す程の大きさで、三人分の絶叫が響いた。



どうやら僕らの家の近くは昔大きな空襲があったみたいで数えきれないほどの人が死んだり小さな女の子の瞳や髪や腕が焼かれて灰になって風に吹かれて消えたりしたんだっていう系のそんな感じの話がわんさか両親の口から語られて、ついでに押し入れの中の死角にはびっしりとお札みたいなものが貼られていて、それを見てしまった怖がりのトド松は泡を吹きながら「信じられない!!!!!! 無理無理無理無理!!!! 僕この家出てくーーー!!!」と、チョロ松兄さんに「いらない兄弟」扱いされた時と比べ物にならないぐらいマジ切れしていた。おそ松兄さんは「そういや押し入れの中で泣いてるトド松のこと励ました日の夢にはいつも血まみれの兵士みたいな奴が出て来て俺のこと殺そうとしてた」とか言い出して、クソ松が「それでどうなったんだ?」って聞くと、おそ松兄さんは「倒した。勝った」って答えた。十四松が「おそ松兄さんスッゲーーー!!」と手を叩いた。
それでも僕の頭はずっと、チョロ松兄さんに「いらない兄弟」と言われたトド松が、本当は押し入れで泣くこともせずに平気な顔で美味い棒を食べていた姿のことを思い出していた。



夜の冷たい空気から逃れるように潜り込む布団の中、ひとり分の人間を挟んで眠るトド松が目を覚ました気配を感じた。僕がそのまま黙っていると、トド松はやがて起き上がり、トド松から数えてさらにひとり分の人間を通り越した先にいる誰かに声をかけているようだった。
僕はいつかの微睡の中で聞いた気がする言葉を、ぼんやり耳にした。
トド松は二日前に自分のことを「いらない兄弟」と言い放ったチョロ松兄さんの耳元で「トイレついて来てよ。あんなことあった後に一人でなんて無理だよ」と、当然のように甘えた声で懇願していた。
チョロ松兄さんは、自分がトド松に向かって「いらない兄弟」と言ったことなんてまるで無かったことのように「いい加減ひとりで行けるようになれよ」とぼやきながらも、ごそごそと布団から起き上がった。
二人分の体温が寝室から消え、しかしやがて当たり前のように帰ってくることを思いながら、僕は無性に悲しい気持ちになって頭の上まで布団をかぶった。
悲しい言葉を言われた時、他人が思う以上にそれをどうとも思わない人間がいて、本人が気にしていないものに対して勝手に自己投影して同情して悲観してこちらの身が切られたような気持ちになって、何か変に意識してもがいてどうしようもなくなって、どうしてこっちがこんな思いをしなくてはいけないんだと、僕は誰にも気が付かれないように布団の中で声を殺して少しだけ泣いた。







 

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