(君が暗闇にいるとき僕は光でなくてはいけない)





 水中から覗いた先に光が見えた。
 不安定にたゆたうその光から遠ざかるように、自分の体はぐんぐんと水中に引きずり込まれてどこにも戻れなくなっていく。
 手を伸ばせばきっと届くはずだった。だけど駄目だ。ユーリは自分の脇腹から溢れ出し、全身を包み込む水の中に溶けてゆっくりと色を失っていく赤い液体を視界の端でとらえながら、伸ばしかけていた手を止めた。行き場を失った腕が水中でぼんやりと揺れている。その間にも体は暗く、冷たく、一寸の光も見えない水底に向かって沈んでいくばかりだった。

 水面の光に手を伸ばしてはいけない。海水に晒されて焼けるような痛みを訴える刺傷が、ユーリを漆黒の闇の中へと引きずり込んでいく。この痛みは自分に向けられた憎悪そのものだ。焦点の定まらない目は、既に開いているのも辛い状態だった。

 飲み込まれる。

 いつか見下ろしていたラゴウやキュモールの最期がふいに脳内で蘇った。
権力を振りかざし、立場の弱いものをあたかも自分の玩具であるかのように弄んでいた二人の男は、ユーリの手によって同じような終わりを迎えることになった。沈んでしまっては二度と浮上出来ない闇の底へと落ちていく。それは、夜そのものが染み込んだように真っ暗な川でもあり、もがけばもがくほど戻ることが出来なくなる砂の海でもあった。
 ユーリが許すことの出来なかった悪党達を迎え入れたそれらは、彼らを飲み込んで地獄の底へと引きずり込んでいるかのようだった。
 法で裁くことの出来ない悪党を切ることに躊躇いはなかった。彼らを見逃すということは罪のない人間を見殺しにするということだ。だからユーリは迷わない。
 目の前で助けを求めるラゴウやキュモールの言葉を一切聞き入れず、握り締めた剣を振り下ろすだけだ。少しの血が流れて、その血がユーリの手を赤く汚しただけの話だった。
 結果、彼らの理不尽な行いに苦しんでいた人間達は、あの瞬間確かに救われたのだろう。だがしかし、理由はどうあれそれが罪であることに違いはない。

(人殺しは罪)

 暗い闇の底へと沈んでいく。
 似合いの最期だと自嘲した。これは下されるべき罰である。水面の光に手を伸ばしてはいけない。あの光に触れるには、自分の手はあまりにも汚れすぎていた。本当は隣に立つことさえ出来ない。
 結局は自分も奴らとなんら変わらない。人殺しという罪を犯しておきながら、法で裁かれることもなく涼しい顔をして生きている。これのどこがラゴウやキュモールと違うというのか。
 後悔なんてしていない。だけど自分が独断で行ったあれらの行為は裁かれるべき罪であることに間違いない。自分は罪人だ。手を汚すことでしか自分の正義を守ることが出来ないのは結局無力であるのと同じなのだ。
 
 沈んでいく。飲み込まれる。浮上出来ない。
 
 ごぼり、と水沫が口から溢れて、水面の光は見る見るうちに遠ざかっていった。
 ユーリは、いつも柔らかな日差しのような笑顔を浮かべて自分を見ていた幼馴染の顔を思い出しながら、静かに意識を手放した。





*




 以前は水道魔導器の設置されていた下町の中心部である広場には、星喰みを消滅させる代償として失った魔導器の代わりに急遽設置された井戸があった。ユーリが軽く視線を向けると、それに気が付いた子供達が元気よく手を振ってくる。ユーリは薄っすらと微笑みながら小さく手を振り返した。
 世界が魔導器を失ってからというもの、当然だが人々は混乱し、最初の内はただひたすらに「どうすればいいのか」と嘆いていた。生活の基盤でもあった魔導器を失うということは、照明器具から水道、いつも当たり前にそこにあった生活の一部がすっかり無くなってしまうということに他ならない。
 それもそうだし、外部の敵から街を守っていた結界がなくなり、いつ魔物の襲撃を受けてもおかしくないという状況に加え、魔物との戦闘に欠かすことの出来なかった武醒魔導器さえも機能しなくなったのでは、無力な人間がその脅威に怯え途方に暮れるのも無理はない。ユーリやジュディスのように、もともと持っている自分の力で魔物と対等に渡り合える人間の方が稀少なのだ。
 それに、いくら武術に長けているからといって、魔導器が失われた今、エステルのような特別な存在以外は治癒術だって全く使えなくなってしまった。そうなれば傷を癒す手段としては薬草やグミに頼る他なく、怪我によって命を落とす可能性は以前の世界と比べ格段に上がっている。世界は混乱の最中にあり、魔導器を失ったことによる不満を訴える声も少なくない。
 しかし、人々の不満が魔導器を差し出して星喰みを撃退した張本人であるユーリたちに向けられることはなかった。そうなることを予め危惧していたヨーデルが、凛々の明星とは全く関係ない形で魔導器の消滅に対する事情を世界に発表したおかげである。
 魔導器を差し出さねば人間達は滅んでいた。それが分かっていたから、ユーリ達がデュークを食い止め、星喰みを撃破しようとした瞬間、人々は躊躇うことなく自分達の魔導器を手放したのだ。仕方がなかったこととはいえ、いざ現状を受け止める瞬間を迎えるとなると、魔導器のない世界に対する戸惑いはやはり隠せるものではない。

 それでも、とユーリは子供達に向けて振っていた手を下ろし、眩しそうに目を細めた。

 それでも。人は生きていくことをやめられない。たとえそこがどんな世界であったとしても。どんな困難に満ちていたとしても。人は生きることをやめられないのだ。
 水道魔導器の代用として新しく作られた井戸の周りには、子供達の他にも水を汲みにやってきた住人の姿がちらほらと見える。彼らの顔は決して絶望に染まっていたりはしなかった。新しい世界を受け入れて、それがどれだけ様変わりしていようとも、柔軟に生活を営んでいく。下町の人間には、昔と変わらず生命の力が溢れていた。
 もともと魔導器は半ば貴族の独占状態にあったといっても過言ではないのだ。少しばかり生活が不便になったところで慌てふためくような柔な彼らでないことは、同じく下町で力強く生きていたユーリが一番よく知っている。
 新しい環境に踏み出す瞬間は誰だって不安で仕方がない。それでもきっと人は生きていくことが出来る。漠然とした、だけど確信にも似たそんな思いを胸に抱きながら、ユーリはゆっくりと歩を進めた。

 井戸のある広場を通り抜け、商店の立ち並ぶ道を真っ直ぐ歩いていくと、その最奥に小ぢんまりとした酒場がある。酒以外の料理のメニューも豊富なその酒場は、昼時にもなれば食事をしようと来店する客が多いので、今の時間帯はそれなりに騒がしかった。窓の外から中の様子を窺ったユーリは、女将たちへの挨拶は荷物をまとめた後でもいいか、と結論を出して、酒場の二階へと続く階段を上った。
 女将とその旦那、そして息子のテッドの三人家族が営んでいる箒星は、一階が酒場で二階は宿屋になっている。騎士団を辞めたあと、ユーリはしばらくこの宿屋の一室を借りてそこで日々の生活を送っていた。
 建物自体が古いせいか、僅かに立て付けの悪い扉はギイと歪んだ音を経てて開いた。しばらく訪れることが出来なかったため、室内は埃っぽいにおいを帯びており、昼間だというのにどこか薄暗い印象を受けた。何も言わずに足を一歩踏み入れると、無意識の内に様々な記憶が、ひたひたと穏やかな速度で砂浜に打ちつけられる波のようにしてユーリの脳内で蘇る。寄せては引き、引いては寄せる。そんなことの繰り返しだった。
 星喰みの一件の後、ユーリは本格的にギルド凛々の明星としての活動を始めることにした。
 世界を救う旅が終わって、ギルドとしてやっていくためにまずはアジトが必要だというカロルの主張から、ダングレストで部屋を借りてそこをギルドの拠点とすることに決めた。たくさんの依頼をこなして名を上げて、いつか必ず自分達のアジトを建てよう、と凛々の明星の小さなボスであるカロルの頭をぽんと叩いて、「必ずな」と同意した記憶は新しい。
 そうなれば、ユーリは下町の下宿先に帰ってくることがほとんど無くなり、もともとは客室であるこの部屋をいつまでも借りているのは女将達にも申し訳ないと思っていた。なんだかんだ時間が取れずに先延ばしにしていたことだったが、いつまでも放置しておいていい問題でもないので、今日は自分の荷物を整理するためギルドの仕事を休んで下町まで訪れたというわけだ。
 もともとこの部屋を借りていた期間というのも騎士団を退団してからのことだったのに加え、ユーリ自身あまり物を溜め込まない性格であったことも幸いして、部屋を出て行く準備は拍子抜けしてしまうくらい呆気なく終わった。持っていくものは替えの服が数着と僅かな装備品、大して使ってもいなかったくしや鏡など、手提げの鞄ひとつにも隙間を作るようなものだけだった。
 ふと、壁にかかったままの一本の剣に目が奪われた。それは、かつてユーリが幼馴染と一緒に少しずつガルドを貯めて、やっとの思いで購入した大切な剣だった。
 幼馴染――フレン・シーフォとの約束が、ユーリの脳内で蘇る。




 ――ユーリ、大きくなったら一緒にこの国を変えよう。皆が幸せに笑って暮らせるような、平等な世界をつくろう。





*





 幼少時のフレンとの記憶を思い出したとき、ユーリの心には温かく柔らかな感情と同時に、胸を突き刺すような痛みが訪れる。
 記憶の中で、ユーリとフレンは下町の奥まった路地を歩いていた。頭上に広がる空には灰色の分厚い雲が敷き詰められていて、今にも雪が降ってきそうだった。下町の孤児達にとって冬の寒さは飢えや暴漢に匹敵するほどの恐怖であり、毎年この季節が来るたびにユーリとフレンは命の危機に晒されながら一日一日を懸命に生きてきた。
 帝都の下町に生まれ、物心つく前から同じように両親を亡くしていたユーリとフレンは、まるで双子の兄弟であるかのようにお互いがお互いを支え合っていた。

 帝都ザーフィアス。山の頂上にそびえ立つ結界魔導器を中心に、傾斜のかかった地形を覆いつくすように無数の建物が隣接している。そのひとつひとつは民家であったり商店であったり様々だ。皇帝の居城であるザーフィアス城の存在する地であると同時に、テルカ・リュミレース最大の都市は、四重にもなった結界とはまた別に、見るもの全てを圧倒するかのような雰囲気そのものを纏っている。
 帝都における人々の階級は分かりやすい仕組みになっていて、頂上のザーフィアス城を囲むようにして貴族街があり、そこから少し下がったところに最も多くの民が生活を営んでいる市民街が広がっている。そして、さらにその市民街を下へ下へと降りていった場所、底辺のふちを覆うかのようにして存在するのが、下町と呼ばれる居住区だった。
 フレンとユーリの生まれ育ったこの下町の人々は、皆等しく貴族の圧制に苦しみながら貧しい暮らしを送っていた。毎日自分とその家族が食べていくのさえも精一杯でありながら、お互いが協力し合うことによって持ちつ持たれつの関係で繋がっている住人達の結束は固い。それこそユーリやフレンのような孤児に対して食料を分け与えてくれることもしょっちゅうだった。
 しかし、下町に暮らす孤児は何もユーリとフレンだけではない。下町の治安はそれこそハンクスなどの住居が密集している区間はほとんど安全と言っても過言ではなかったが、それとは別に家を持たない孤児が集まり身を寄せ合うようにしながら生活を送っている場所が、人目に見つかりにくい路地裏などを中心に幾つか存在した。
 そこに住むのは子供だけではなく、ホームレスの老人だったり柄の悪い暴漢だったりと様々だ。決して安全とはいえない下町の治安だというのに、見回りの騎士の姿を見る機会は極端に少なかった。
 貴族街や市民街に足を運んで少し辺りを見渡してみれば、程なくして帝国騎士の姿を見つけることが出来る。民衆の安全を守るために街を巡回するのは騎士団の仕事の内のひとつだったが、貴族街や市民街の見回りを割り当てられているのは基本的に貴族出身の騎士である。となると、必然的に下町の巡回は平民騎士に回ってくるのだが、山の形状をした帝都において最も面積の大きい下町を全て見回るのには圧倒的に平民騎士の数が足りていないのが現状だ。
 自分の身は自分で守るしかない。下町で暮らしていく以上、たとえ親身になってくれる大人たちがいたとしても、いつでも根元にはその考えを持っていなくてはいけなかった。
 何らかの事情で空き家になった古い小屋や、もともと人が住むような場所ではない物置など、とにかく雨風をしのぐための屋根と壁さえあれば子供達はそこで生活することが出来た。下町の大人達はそれを黙認していたし、むしろ少しでも助けになれればと、古着や毛布を持ち込んでやることも頻繁にあった。
 出来ることなら親のない子供達を保護してやりたいという気持ちはいつだってあったのだが、そうするためにはあまりにも自分達の生活が苦しすぎて、せめて少年や少女が凍えてしまわないように手を貸すことが精一杯だったのだ。
 孤児院のようなものがあれば一番いいのだが、卑しい下民だと住人達を蔑みの目で睨み付け、水道魔導器ひとつ満足に取り付けようとしてくれない貴族達が、下町の孤児のための施設を用意してくれることなどまずありえない話なのだ。


「今日も寒いねえ」


 ず、と鼻をすすりながら、隣を歩くユーリにフレンが話しかけた。
 そうだな、なんて曖昧な言葉を返しながら、ユーリは右手に感じるフレンの体温を確かめるようにして握る手の平に力を込めた。そうすることで少しでも寒さが和らげばいいと思った。フレンが嬉しそうに笑って、なんだか妙に照れくさかったので「寒いからな」と誤魔化すように足元を見た。
 暗い路地を抜けて、商店の立ち並ぶ通りへと出る。フレンのポケットには、ハンクスが紹介してくれた子供でも簡単に出来る荷物運びなどをして稼いだガルドを入れた布の袋をしまいこんでいる。
 ユーリとフレンは、今日の夕飯の材料を買いに来たのだ。二人は生活の中で行わなくてはいけない買い物や料理などといった仕事を基本的に分担していて、買い物はフレンの割り当てだったのだが、今日は時間が空いていたからという理由でユーリも一緒に買出しに来ていた。それじゃあ僕も料理を手伝うよ、というフレンの言葉を、料理担当であるユーリは「いや、いいから」と一蹴した。なぜ断られるのかが未だに分からないフレンは怪訝そうな顔をしていたが、フレンの対人間兵器とも言える料理を食べるくらいなら初めから自分ひとりで作った方がマシ、というのがユーリの考えだ。そしてその考えはどこまでも正論であった。
 八百屋へと向かう道の途中で、ふいにユーリとフレンの足が止まった。言葉をやめた二人が見上げた先には、いくつかの武器が並んでいた。それら剣や防具は、下町で売られているだけあって中古であったり質のよくないものであったりと、そんなに高価なものではなかったのだが、ユーリとフレンの持つガルドではとてもじゃないが買えるような値段ではなかった。

「早く剣欲しいよね」

 うっとりするようなフレンの声に、ユーリもまんざらでもないように「うん」と答えた。ユーリとフレンは、生活の中から少しずつガルドを貯めながら、いつか二人で剣を買おうと約束していた。そして、鍛錬を重ねて成長した暁には二人で騎士団に入ろうという誓いも同時に交わしていたのだ。
 二人が騎士団に入団したいと願う理由はただひとつだった。

「……ユーリ、大きくなったら一緒にこの国を変えよう。皆が幸せに笑って暮らせるような、平等な世界をつくろう。」

 買い物を終えて、薄暗い路地裏へと戻っていく途中、フレンはユーリの手を今一度かたく握り締めながら、確かめるような声音で呟いた。
 ユーリはやはり、そんなフレンの手を同じ強さで握り返して、「うん」と小さく頷いた。


 思い出を美化するつもりなんてさらさらなかったが、それでもあの頃の自分は確かに純粋だった。全ての人間が平等に暮らせる世界。そんな理想を実現させるために騎士団を志し、自分の右手とフレンの左手はしっかりと繋がっていた。そこから伝播する熱を当然のように享受して、凍て付くような冬の寒さも二人で一緒に乗り越えた。隣に立つことが当然だった。
 その時たしかにフレンはユーリの一部であり、またユーリはフレンの一部であった。同じものを食べ、同じ場所に住み、同じ夢を持つ。容姿こそ対照的な二人であったが、それさえもお互いが届かない場所を補い合っていることを象徴するかのように、ユーリとフレンは常に連れ添い合いながら生きていた。
 しかしその頃から既に、ユーリは自分とフレンの関係を相対する光と影のようなものだと考えることがしばしばあった。
 幼いユーリは確かに純粋ではあったが、下町で生きていけるだけの強かさを同時に併せ持っていた。そして、自分にとって大切な存在である誰かが傷つくぐらいなら自分が傷つく方がマシだという性分のせいで、どうしようもない窮地に陥った時は自分を省みず危険を冒すことも珍しくなかった。
 そんな性格が災いして、何かと争いに巻き込まれて傷を作ったりしていたのだが、揉め事の内容をユーリが自らフレンに話すことは一度だってなかった。余計な心配をさせたくないという思いが一番大きかったのだが、ユーリが首を突っ込んで巻き込まれる事件は孤児の人身売買や売春の斡旋など、どうにも人々の醜い面が関係していることが多かったせいもある。
 孤児同士の喧嘩やいざこざなど、そんな規模の面倒ごとであればフレンに話すことに何の躊躇もなかったし、むしろ共になんとかしようと協力を要請するだろう。フレンも当然嫌な顔をせずにユーリに力を貸してくれる。下町の孤児の中でもリーダー的な存在であったユーリとフレンは、殆ど無意識の内に孤児達が争いなく生活できるように自治を行っている節があった。
 だけど、とにかく人間の醜悪な部分が溢れ出し、黒々とした闇そのものが絡みついた事件に巻き込まれたとき、ユーリは絶対にフレンに頼ったりはしなかった。

 ユーリにとってフレンとは、ほとんど聖域のようなものだったのだ。

 下町という場所に似つかわしくない、光を集めたように綺麗な金髪もそうだし、何よりも、誰にでも優しく平等に接し、それでいて弱い人間を守りたいと強く願う心。そのどれもがユーリにとっての宝物だった。
 フレンを自分の一部だと思うのと同時に、フレンの輝きはユーリにとって何よりもかけがえのないものなのだ。フレンとは光そのもので、光があるから影が出来る。ユーリは、自分はフレンの影であればいいと思っていた。
 自分の一部であるからこそ、フレンの輝きを奪いたくはなかった。その原因が自分であるのなら尚更だ。


 たとえいつか二人の道が違えようとも、今確かに握り締めているはずのこの手が離れていこうとも、それでもフレンが自分らしく信念を曲げることなく生きていけるのなら、そのためにならユーリは自分が深い闇の底へ沈んでいく日が訪れようとも構わなかった。



*


 ユーリはもう一度、壁にかけられたままの剣をじっと見据えた。どうしてか、今度はかつてラゴウを斬りつけ殺した時の自分の剣筋の記憶が蘇った。

 自分は自分の意志で手を汚した。
 後悔はなかった。言い聞かせるようにも響くその言葉を、ずっと繰り返し続けている。後悔はない。これだけは本当だ。

 違えた道が交わることは二度とない。汚れた手が浄化されることも不可能だ。何もかも忘れたふりをしてフレンの隣に立つことなどもう出来ない。
 旅の途中はいろいろなことがありすぎて忘れていたけれど、それさえも本当は無意識の内に自分が逃げていたのではないかと考える。
 旅が終わり、自分の身の振り方を改めて考え直した時、ユーリは痛烈に理解した。


 自分はフレンの側にいるべきではないのだと。




*




 オレンジ色を帯びた柔らかな光が執務室を照らしていた。窓の外の、四角く切り取られた暗闇に気が付いて、動かし続けていた手を止める。一度大きく伸びをすると、体のあちこちからパキパキという骨の鳴る小気味よい音が響いた。
 凝り固まった肩を自らの手で解しながら、フレンは小さくため息をついた。
 目の前に詰まれた書類の山、それを形成する紙切れ一枚一枚にしっかりと目を通した上で捺印する。
 その傍らに置いた別の資料に目をやれば、フレンの顔には分かりやすい影が差した。
 次回の会議に持ち越しになったその議案、騎士団の増強と各地への派遣。それらの案件は、一度議論を交わした際に評議会の賛同を得ることが出来なかったのだ。
 結界魔導器と武醒魔導器を失ったことによる魔物の襲撃を防ぐためには、騎士団の増強は必要不可欠だと言ってもよかった。友好関係を結んだユニオンと共に、武力を持たない民衆達を守っていく。しかし、評議会はそれを簡単に許そうとはしなかった。
 世界中に混乱が訪れているにも関わらず、騎士団の新団長に就任したフレンに対する評議会の眼差しは相変わらず冷たいままだった。それどころかかつてのように、平民出身の厄介者を排除しようと暗殺を企てている者だって確実に存在する。
 評議会が騎士団の勢力拡大を危険視しているのは今に始まったことではない。
 評議会を構成する大多数である貴族達にとって、民衆が魔物の脅威に冒されているという事実などは本当にどうでもいいことなのである。彼らが大切なのは自分達の地位と権力だけだ。そして、その地位と権力を脅かしかねない騎士団の存在を疎ましく思うのは当然といえば当然の成り行きだった。
 今こうしている間にも、結界魔導器に守られることがなくなった街に住む人間が怯えているかもしれない。そう思うとフレンは歯がゆくて仕方がなかった。今すぐにでも自分が彼らのために剣を振るい、その恐怖を取り除くことが出来たなら。そんな考えを巡らせるたびに、フレンは己の力の及ばなさを痛感する。
 議会の途中、騎士団増強にどこまでも否定的な貴族がフレンに放った、分かり易い皮肉の込められた言葉が脳内で蘇る。


 騎士団の勢力を広げて、貴方はアレクセイのように何もかもを力で支配しようと企んでいるのではありませんか?


 その言葉を聞いた瞬間、フレンは自分の中に得体の知れない真っ黒な闇が生まれるのを確かに感じた。理解出来ない熱が心臓を焼くような気持ちとは裏腹に、自分の顔面からは表情という表情がスッと消え去って、まるで脳が凍ったような不気味な感覚に吐き気がした。
 フレンが入団するよりも前の話だが、騎士団はあくまで評議会の下位組織でしかなかった。その関係を少しずつ変えていったのがアレクセイだ。
 アレクセイ・ディノイア。先代の騎士団長である彼の、上に立つものとしての圧倒的なオーラと、提唱していた帝国の理想。騎士としてあるべき姿はフレンの憧れそのものだった。
 フレンが騎士団に入団した当初、アレクセイは「誰もが豊かに暮らせる世界を作る」と、迷いのない真っ直ぐな目で言った。フレンは彼の言葉にただ感動したのである。
 誰もが幸せに笑って暮らせるような平等な世界。
 そんな世界を実現させるためにフレンは騎士団の門を叩いた。同じ理想を胸に抱いた幼馴染である、ユーリ・ローウェルと一緒に。

(ユーリ)

 フレンの記憶の中で、烏の濡れ羽を思わせるような艶やかな黒髪をさらりと揺らしながら、ユーリがゆっくりとこちらを振り返った。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。フレンの横で彼が浮かべるいつもの笑顔だった。
 しかし、視線を下ろした先の彼の左手には物々しい一本の剣が握られていた。その切っ先からは赤い液体が滴っている。血だ。

 アレクセイは死んだ。
 彼に最期の一撃を与えたのは、紛れもないユーリだった。しかしそこに至るまでに、フレン自身もアレクセイに向けて何度も剣を振り下ろした。
 誰もが豊かに暮らせる世界を作る。かつてアレクセイが語った理想が脳内で何度も蘇った。そのたびフレンは胸が焼ききれるような痛みに襲われたが、それでもアレクセイの考えに同意することは出来なかった。
 腐敗した帝国の改革。そのためにはどんな犠牲も厭わない。
 それがアレクセイの出した答えだった。
 彼が彼なりの正義を貫こうとしていたのも分かる。分かってしまうからこそ苦しかった。
 貴族の持つ絶対的な力を、権力を手に入れる過程でフレンはいくつも目の当たりにし、そのたび何も出来ない自分に苛立ち歯噛みしていた。生まれ持った貴族という肩書きだけで、立場の弱い人間を虐げたとしても罪に問われないという帝国の腐敗具合に絶望したのはアレクセイも同じだったのだ。
 アレクセイとの決別の直前、フレンは彼に向かって叫んだ。かつてのあなたの理想はどうしたのだと。誰も犠牲になどしないという言葉は嘘だったのかと。そんなフレンに、アレクセイは「やり方を変えただけだ」と答えた。理想は今も昔も変わっていない。
 アレクセイも、フレンも、そしてユーリも。目指した理想は皆同じものだったはずなのだ。誰もが平等な世界。ただそれだけの願いだった。
 どこで道を違えてしまったのだろう。何が正しくて何が間違いだったのだろう。


 そもそもアレクセイのやり方は間違っていたのだろうか。


 そこまで考えて、フレンはハッと息を飲んだ。無意識の内とはいえ、胸中に抱いた疑問に心臓が凍りつく。
 自分は一体どうしてしまったのだろう。たとえどんな事情があったって、罪のない人間が理不尽に苦しまなければいけない理由などどこにもないはずだ。アレクセイのやり方ではそれを許容してしまうことになる。そんな行為が許させるはずがない。

(……それは誰に?)

 許されるはずがない。フレンはもう一度自分の脳内でその短い言葉を繰り返す。
 自分は誰に許されたくて、誰を許したいのだろうか。


(……ユーリ)


 時々、思うことがある。
 彼は彼の道を生きていく。迷いのない目で前だけを見据えて、ただひたすらに自分の意思を信じながら先へと進む歩みを止めない。それこそが、フレンの愛するユーリ・ローウェルという人間だった。
 それを理解している上で、フレンは無意識の内に願うのだ。
 星喰み撃破後の混沌とした世界を導いていく指導者的存在のひとりであるフレンにとって、騎士団長という地位は時に大変な重荷であった。その重圧に押し潰されないことだけを考えながら、必死でもがいていることを悟られないため、上に立つものとしての威厳を作り上げ、己の内から溢れ出そうとする不安を取り繕いながら、今にも崩れ落ちそうな自分の体を支えている。
 副官のソディアを始めとした部下達が、自分の理想に共感して一緒に新しい騎士団を作り上げてくれようと奮起してくれていることは本当にありがたい。
 だけど本当は、心のどこかでいつも願っている。

 ここに君がいてくれたら。

 かつて自分達は二人でひとつの存在だった。少なくともフレンはそう信じていた。どこに行くにも、何をするにも、いつだって隣にはユーリがいた。手を繋いで、そこから交じり合った体温は最早どちらのものなのかさえ分からない。それほどまでに一緒だった。

 行き場のない孤独がフレンの体の中で渦を巻いている。ユーリは騎士団を去り、そして彼はその後の旅で出会った新しい仲間とギルドを立ち上げた。それ自体は本当に喜ばしいことであり、下町で燻っていた頃のユーリを思えばフレンの心には純粋な喜びが湧き上がる。

 だから、フレンが今抱いている孤独の正体は、もっと単純で子供じみているもの以外の何物でもないのだ。

 ユーリを側に感じられないことが、ただ寂しい。それだけだ。それだけのことが、フレンの中核となる部分をゆっくりと、だけど確実に食い潰し続けている。
 星喰みが現れる前までの世界では、こんなにも切実にユーリを求めたりはしなかった。フレンが思っている以上に、騎士団長という地位はフレンの重りになっている。
 ソディアも、心を許せる部下もいる。それでも彼女達はあくまでフレンの部下でしかなかった。フレンの理想に心打たれた部下達は、どんなことがあろうともフレンに付き従ってくれるだろう。……かつて自分が、アレクセイの指示でノードポリカを武力制圧した時と同じように。
 自分が道を間違えたとしても、彼らはフレンの歩みの先に疑問を抱かない。フレンはなんとなくそんな気がしていたし、恐らくそれが事実であるという確信があった。
 日に日に増していく評議会への苛立ちと、思うように動けない自分に対する無力感がフレンを追い詰める。
 全て分かち合い、何を疑うこともなく手を握れていたあの日々を思い出す。フレンは無意識の内に願う。
 
 ここに君がいてくれたら。

 そして、心を許した相手にだけ見せるあの柔らかな笑顔で、何にも揺らいだりはしない真っ直ぐな眼差しで、僕の恐れを振り払ってくれたら、と。

 だけど同時に分かっていることがひとつあった。それを思い出しフレンは苦笑する。
 道を違えてしまったからこそ、お互いの手が届かない場所を補い合うことが出来る。心に巣食った孤独がいくらユーリのことを呼ぼうとも、フレンの根本がそれを理解しているから、今でも持ちこたえることが出来る。
 いつか二人の描いた理想が実現した日、その先でユーリと笑い合える。いつかまた出会い、昔のように手を繋ぐ。
 それを信じている限り、迷わず前へと進んでいける。フレンは別々の空の下にいる片割れのことを想い、少しだけ困ったようにも見える顔で、小さく笑った。




*




 帝都の市民街から伸びたザーフィアス城へと続く坂道を、エステルは傍らに先ほど街の入り口で迎えられた護衛の騎士を引き連れながらゆっくりと歩いていた。
 一年中が甘い花の香りに包まれているハルルの町とは違い、帝都には秋から冬に移り変わる途中のあの独特な空気が満ちている。エステルは知らず笑顔になった。城から一歩出れば、世界には様々な変化が溢れているということを知ったのは本当に最近のことだった。
 ヨーデルが正式に皇帝に就任し、エステルは副帝としてその政務を手助けしつつ、新たに移住したハルルと帝都を行き来するような日々を過ごしている。民衆のために政治に携わることも、絵本作家として自分の作品を描いていくことも、どちらも根元は「誰かに喜んでもらいたい」という気持ちからの行動だったので、エステルは今のような帝都とハルルを行き来するという二重の生活に、城を抜け出す前の軟禁生活ではまず得ることの出来なかった満ち足りた何かを確かに感じていた。
 まだザーフィアス城の自室に軟禁されていたあの時、フレンが暗殺者に狙われているという情報を知ったエステルは、剣を握り、意を決して部屋を飛び出した。
 箱庭のような城内で、フレンの邪意を感じさせない真っ直ぐな笑顔はエステルの目には珍しく映った。軟禁状態という特殊な環境で育ったエステルに、大抵の人間は腫れ物に触れるかのような態度を隠そうとはしなかった。
 それを寂しいとか悲しいと感じることはなかったが、だからといってフレンのような純粋な好意が嬉しくないというわけではない。そもそもそんな感情が自分に向けられることが今まで無かったようなものなので、評議会の後ろ盾を受けながらヨーデルと皇帝の座を争い合う存在としてではなく、ひとりの人間として自分を尊重してくれるフレンに、エステルが心を許すのに時間は必要なかったのだ。あくまで皇女として敬う範囲内でのことだったが、エステルにとってはそれで十分だった。
 考えてみると不思議な巡り会わせだとつくづく思う。こうしてフレンと親しくなることがなければ、世界を救う旅に同行するどころか、そもそもユーリと出会うことすらなかったのだから。

「エステリーゼ様」

 聞きなれた声が自分の名を呼んだ。
 エステルが前方に視線をやれば、そこには今しがた思いを巡らせていたばかりの、目映い金髪が特徴的な、騎士団長フレン・シーフォの姿があった。

「フレン!」

 エステルが笑顔で彼の名を呼ぶと、フレンは一礼した後、「お元気そうで何よりです」と甘く柔らかい声音で言った。澄んだ湖のような色の彼の瞳が優しげに細められる。しかしその目の下には薄っすらとした隈が浮かんでいた。
 数週間前に帝都からハルルへ帰った時にも感じていたことだったのだが、最近のフレンは少し元気がないようだった。優秀なフレンのことなので、騎士団の仕事に影響が出ているわけではないのだが、それでも目に見える形で浮かび上がる彼の疲労困憊を心配するなと言う方が無理な話である。

「フレン、少し痩せました?」

 自室にフレンを招き入れ、侍女の淹れた紅茶に手をつけながらエステルは控えめにそう聞いた。
 フレンは一瞬目を見開いてから、やがて困ったようにして笑う。自分の体調管理も出来ないなんてお恥ずかしい、と自嘲気味に目を伏せるフレンを見て、エステルは後悔する。そんな顔をさせたかったわけではないのだ。
 自分の不甲斐なさを痛感するかのような表情。星喰み後の混沌とした世界を導いていかなければいけない指導者たる存在としての重責。その重さは、21歳という騎士団を纏める団長としてはあまりにも若いフレンの肩に容赦なく圧し掛かる。
 評議会の策謀に太刀打ちするだけの力がフレンにはまだ備わっていないのだ。だからといって立ち止まっていられるわけもなく、魔導器を失った世界が抱える問題は次から次へ滾々と湧き上がってくるばかりだった。歯を食いしばりながらでも前へと進んでいかなくてはならない。エステルにはそれが辛かった。

 もしも。

 もしもフレンの隣に、彼を支えてくれる絶対的な存在が、当たり前のように立っていることが出来るのならば。
 エステルの脳内に、美しい黒髪をしたひとりの人物が浮かび上がる。
 少し考えて、エステルは小さく頭を振る。その行為を怪訝に思ったフレンが「どうかしましたか?」と首を傾げたが、エステルはなんでもないですと苦笑を浮かべた。

 フレンとユーリの関係は不思議なものだった。
 ユーリとこの城内で偶然出会う前から、エステルはユーリのことを知っていた。フレンが自分の相手をしてくれているとき、彼の口から頻繁に出てくる名前がユーリという青年だった。聞けばユーリは下町でフレンと共に育った幼馴染であり、その口ぶりから彼がフレンにとって大切な存在であることはすぐに分かった。
 ユーリの話をする時のフレンは本当に楽しそうだった。しかし、放っておくとすぐに無茶ばかりするから心配だと懸念する声は若干の焦燥を孕んでいるようにも聞こえた。
 番のように寄り添いあいながら生きてきた存在と離れて暮らしているということに対する名前のない不安。エステルには経験のない感情だった。
 星喰みを退けた現在も、彼らが同じ理想を目指して違う道を歩いていることをエステルは理解していた。
 ギルドで日々の仕事をこなしているユーリもそうだが、それ以上に騎士団長であるフレンには自分のために使える自由な時間というものが殆ど無い。働き詰めのフレンに、ソディアを筆頭とした部下達が半ば懇願するかのように「お願いだから少しは休んでください」といくら言っても、フレンは困ったように笑いながらその願いをうやむやにしてしまう。
 それに比べればユーリは自由なものだった。凛々の明星を名のあるギルドにするため毎日のように着々と依頼をこなしていくユーリたちだったが、作ろうと思えばそれなりに時間を作ることは出来る。
 しかしユーリは現在ダングレストに拠点を移してしまった後である。距離的な問題もあり、そう簡単に帝都に戻ってくることは出来なくなってしまったのだ。
 そこである日、エステルはいいことを思いついた。その考えに至った瞬間、思わず「名案です!」と、ひとり胸の前で両手を叩いてしまったほどだ。

 数週間ぶりに再会したフレンは、相変わらず疲れたような表情だった。少し前から思っていたことだが顔の肉も心なしかそげたように見える。
 やはり彼の部下達が言うように、無理やりにでも休暇を取らせるべきなのかもしれない。
 テーブルを隔てて自分の正面に座っているフレンに、エステルはどこか子供をなだめるような声音で問いかけた。

「フレンに元気がないと、ユーリも心配するんじゃないです?」

 フレンは一瞬、きょとんと目を丸くする。それから少しだけ寂しそうな顔をして、テーブルの上のティーカップに視線を落とした。

「そうですね……。こんな状態でユーリに会ったらきっと、「暗い顔するな」なんて言われて笑われてしまうかもしれませんね」
「……?」

 フレンの言葉に、エステルは妙な違和感を覚えた。知らず探るようにフレンを見ながら思考を巡らせる。何かがおかしい。
 フレンの言い方では、まるで彼らがしばらく会っていないようではないか。

「フレン、最後にユーリに会ったのはいつですか?」

 少しだけ硬い声になったエステルの問いに、フレンは顔を上げる。そうして、僅かに考えるような素振りを見せながら、やはり先ほどのように寂しそうな声音で言葉を紡いだ。

「そうですね……大体3ヶ月くらい前になります」

 思わぬ言葉にエステルは小さく目を見開いた。そんなエステルの様子を怪訝に思うのはフレンの方で、しかも話の内容がユーリのことであるから尚更だ。
 目の前でポカンとしているエステルに、フレンは「ユーリがどうかしたんですか」と問いかけたのだが、フレンの質問に答えるよりも先にエステルは自分の疑問を今一度口にした。

「ユーリと会っていないんです?」

 先ほどと似たようなその質問に、フレンは幾らか怪訝そうな声音で答えを返す。

「はい、最後に会ったのは恐らく星喰みの件が片付いてから数週間後だったと思います。ユーリが僕の執務室の窓から……」

 そこまで口にして、フレンはハッと言葉を飲み込んだ。いくら相手がエステルだとしても、流石に城の関係者ではないものが騎士団長の部屋へ無断で侵入している事実を明け透けに話してしまうのはまずいだろう。今更遅かったかもしれないが、フレンはとりあえず不自然でないような話題転換を、と改めて口を開いた。

「たまには顔を見たいという気持ちはあるのですが、彼もギルドの仕事で忙しいのでしょう。ザーフィアスに帰って来られる機会もなかなかないようですし」
「そう……ですか」
「……エステリーゼ様?」

 エステルは動揺を隠すことが出来なかった。そしてその戸惑いはフレンによってあっさりと見透かされる。相手が話したくないであろう事柄にはあまり深入りしてこないはずのフレンだったが、ユーリについての事柄だとなると話は別だった。

「ユーリがどうかしたんですか?」

 幾らかの焦燥を孕んだフレンの瞳の色に、エステルはどうしても黙っていることが出来なかった。そうして、全てを話してしまったのだ。

 この数ヶ月、自分が何度もギルド凛々の明星に対する護衛の依頼と称してハルルからザーフィアスまでユーリに同行して貰っていたことを。
 そうすることによってユーリにザーフィアスに帰ってくる機会、もっと言ってしまえばフレンと会える機会を作っていたということを。

 エステル程の剣の使い手ならば、ハルルから帝都までの道のりに護衛は必要ないだろう。それでも副帝という立場上、初めは数人の騎士団を護衛につけていたのだが、フレンの疲労が目に見えて酷くなっているのに気付いた頃から、エステルは凛々の明星に対する公式の依頼としてユーリを護衛に雇うようにしたのである。
 首領であるカロルも、そしてユーリ本人も、恐らく旅が終わってなかなか思うように会うことが出来なくなってしまい寂しい思いをしているエステルが、かつての仲間と再び会うため考えた手段がそれなのだろうと、依頼を快く引き受けた。実際にエステルの中にその気持ちもないとは言い切れなかった。ユーリと一緒にいるとまるで旅をしていた日々に戻れたような気持ちになれて楽しかった。そうして、エステルの依頼によってユーリはハルルからザーフィアスまでの片道を護衛するという仕事を引き受けたのだった。
 つまりユーリは、最後にフレンに会った3ヶ月前から、何度も帝都に足を運んでいたのだ。それでいて、ザーフィアス城までやって来てフレンに会うことはしなかった。ザル警備だとユーリ自身が評したこともあり、見回りの騎士の目を掻い潜ってフレンと邂逅することなどユーリにとっては訳もないことのはずだ。それをしないのは単純に、ユーリがフレンに会わないという選択をしたからに他ならないだろう。

 ユーリはフレンを避けている?

 確証のない疑問を抱きながら、エステルは話を聞いたきり黙りこくってしまったフレンに視線を移した。
 フレンの表情は何かを考え込んでいるかのようにも見えたし、けれど呆然と意識を手放しているかのようにも見えた。
 窓から差し込んだ光に彼の金髪が輝いている。しかしフレンの表情には、その目映さとは無縁のものであるかのような暗い影が差していた。

 余計なことを言ってしまったのかもしれない。けれど今さらどうすることも出来なかった。エステルは、ティーカップの中の冷めかけた紅茶を覗き込みながら、ここにはいないユーリに対して心の中で「どうして?」と何度も繰り返し問い続けていた。



*




 珍しいこともあるものだ。
 リタは特別感情的になることもなく、どこまでも冷静にそう思った。

 世界に災厄をもたらそうとしていた星喰みを食い止めてから、ひとまずリタは自分の故郷であるアスピオの復興に手を貸した。デュークが人々の命と引き換えに世界を救おうとして呼び出した古代の塔タルカロンは、丁度リタの故郷であるアスピオ付近の地下から出現し、結果アスピオは崩壊してしまったのだ。その時ハルルの街へと逃げ延びた研究員達や、帝都から派遣された騎士団が力を合わせることによって、なんとか人が住める程度に復興を遂げたアスピオで、かつてと同じような自分の研究所を構えそこで生活を行いつつも時折ハルルへ足を運んだりしながら、リタは日々の生活を送っていた。
 そんなリタがギルドの仕事に明け暮れている凛々の明星の面子と顔を合わせる機会は当然少なく、今自分の目の前でだらしなく椅子に腰掛けているユーリとも本当に久しぶりに再会したのである。

「珍しいわね、あんたが自分から顔見せるなんて」

 ぶっきらぼうにそう言ったリタに対して、ユーリは小さく笑いながら「別に、近くまで来る用事があったからな」と答えた。ふうん。リタはあからさまに興味がなさそうな返事をする。
 リタは口には出さなかったものの、心の中だけで「例のエステルの護衛の依頼ついでだろうな」と勝手に結論をつけていた。
 気まぐれに棚にしまいっぱなしにしていたクッキーの缶を目の前のテーブルに出してやれば、ユーリは分かりやすく目を輝かせたので、リタは「馬鹿っぽい……」とため息をついた。リタの口癖でもあるその呟きは、旅の間であればカロルやレイヴンに向けて吐き出されることが圧倒的に多かった。少なくとも目の前にいるかつての旅でリーダー的存在として仲間を纏めていた男に向けるような言葉ではないはずだ。
 ひとりで自由になれる時間が増えて、保護者の立場をお役御免になった反動か何かなのだろうか。リタは大して興味を持つわけでもなく、そんなことをぼんやりと考えていた。

「お茶とかはねえの?」

 頭の上に花を飛ばしている錯覚さえ見せるような浮かれた様子でクッキーの箱を開封しつつ図々しく尋ねるユーリに、リタは眉間に皺を寄せて「三角フラスコに入れたやつでいいなら」と机の上に乱雑に散らばっている実験器具のひとつを手に持ち、ぷらぷらと目の前で揺らした。手厳しいな、とユーリは若干本気の滲む声で呟いた。
 冗談も程ほどに、リタは立ち上がりお湯を用意しにキッチンへ向かった。何だか癪だが紅茶でも淹れてやろうと思う。
 研究さえ出来れば料理は必要ないというリタの考えがそのまま反映されている彼女の住まいには、キッチンとは名ばかりの小ぢんまりとした流し台がひとつ設置されている。その近くの戸棚から茶葉の入った缶と、マグカップを二つ取り出した。この部屋にカップは二つしかなかった。ひとつはオレンジ色で、もうひとつはピンク色。エステルが頻繁に遊びに来るようになってから、リタが何気なく買い揃えたものである。

(エステル……)

 リタの脳内に、柔らかな雰囲気を纏った桃色の髪の少女の姿がぼんやりと浮かんだ。記憶の中の彼女が笑顔を浮かべてリタの名前を呼ぶ。鈴の鳴るようなその声が、魔導器以外何も信じていなかった頃のリタの凝り固まった心を優しくほぐしてくれたことを思い出す。

 世界を救うために全ての魔導器を差し出す。
 その選択を迫られたとき、リタは少しも迷ったりしなかった。両親を亡くしてからというもの、リタの傍らにいてくれたのはいつだって魔導器だけだった。それ以外の存在をリタ自らが排除していたので当然といえば当然だったのだが、その結果リタは極端に他人と接触のない人生を送ってきた。
 魔導器はリタを裏切らないし、馬鹿な人間の相手をするのはひどく疲れる。幼いながらに大人顔負けの技術と思考を持っていたリタは、それ故に自分から孤独の道を選んでしまった。自分の生き方に疑問を持ったことなど一度もなかった。
 そんなリタの価値観を根本から覆した存在がエステルだった。
 出会って間もない頃から、エステルはリタのことを友達と呼んだ。同世代の友達がいなかったので、リタと一緒に旅が出来ることが本当に嬉しいのだと、そんな台詞を恥ずかしげも無く言ってくるものだからリタは思わず赤面してしまう。エステルと旅を続けていく中で、リタは少しずつ他人がもたらしてくれる見返りを求めない慈愛というものを知っていった。

(理屈じゃないんだ)

 誰かを大切に思う気持ちだとか、ずっと一緒にいられたらという願望だとか、それらの感情に理屈は必要ないのである。
お互いがお互いのそばにいたいと願っている。ならば無理に離れる必要がどこにある?


「………」


 そんな思考を巡らせながら、リタはキッチンからちらりとユーリの姿を盗み見た。そこには平素と変わらない表情の彼がいる。何事もなくギルドの仕事をこなしながら日々の生活を送っているはずのユーリ。しかし、ジッとユーリを見つめるリタの目には何かを探ろうとするようなものが確かに浮かび上がっていた。


 つい先日のことだった。ハルルの街に立ち寄った際、エステルに聞かされたフレンの現状について。
 リタは特別フレンという人間自体に興味があるわけではなかったのだが、かつて共に星喰みを阻止するために立ち上がった仲間としてならば、彼の現状が気にならないというわけではなかった。心のどこかで「元気にしていればいい」と思えるくらいに、リタは自分の周囲の人間に関心を持てるようになっていた。かつてのリタからは想像も出来ないような心境の変化ではあったが、目の前で柔らかく微笑むエステルの顔を見ていると、悪くはないかな、と思ってしまう自分がいることもまた事実だった。

「フレン、最近本当に元気がないんです」

 しかし、そんなリタの願いとは裏腹に、フレンという男の現状はあまり芳しいと言えるものではないようだった。
 大きなエメラルドグリーンの目を伏せながら、エステルは自分自身が苦しんでいるかのような痛々しい表情でフレンについての話をリタに聞かせた。
 星喰み後の世界で騎士団長のフレンがどのような立場で世界を導いていかなくてはいけないか、その中でどのような妨害が待ち受けているか。エステルの話すフレンについての現状のほとんどはリタの予想の範囲内であった。世界が混乱の最中にあろうと評議会の貴族連中がそう簡単に力を合わせて頑張りましょう、という思考に辿り着くとは元々思っていなかったし、むしろ窮地に陥れば陥るほどひたすら自分達が助かる方法だけを考えて行動するような人間の集まりだ。今まで独占していた魔導器を失い途方に暮れる中、自分達の地位を脅かしかねない騎士団がこれ以上勢力を拡大するなどという現状を簡単に許すわけもなかった。しかし、フレンはそれを乗り越えていかなくてはいけないのだ。それが彼の選んだ道なのだから。

 フレンの選んだ道、そしてユーリの選んだ道。

 比較した時により多くの時間を過ごしたのがユーリだからという視点のせいか、またはもっと別の感情が作用しているせいかは自分自身でもよく分からなかったが、リタの中には少なからずユーリを贔屓目に見てしまう気持ちが僅かに生まれていた。

 ユーリは私怨でラゴウとキュモールを暗殺した。

 言葉にしてしまえば想像以上の無機質さを孕みながら響くその事実。しかしリタは、ユーリの罪を罪だと思っていなかった。あんな奴らは殺されて当然だと言えば、ユーリは諌めるような声でリタの名前を呼んだが、だからといって本心は変わらなかった。
 あの時、あの瞬間、帝国の法ではラゴウやキュモールを裁くことは出来なかった。あれ程までの悪行を重ねながら、全てをなかったことにして何度だって罪を犯していく彼らは腐敗した帝国そのものの姿だった。放っておけば確実に犠牲になるものがいた。だからユーリが手を汚した。
 ユーリの行いが発覚した後、あんなしんどい生き方は真似出来ないと、めずらしく暗い声でレイヴンが呟いた言葉にリタは同意した。ユーリは罪を背負い、それを受け入れて生きていくことを決意していた。例えそこが一筋の光も見えない暗闇の中であろうとも、それが自分の選んだ道なのだからと後ろを振り返りさえしない。ユーリはとっくに背負っていた。ならばフレンもユーリとは別のものを対等に背負っていくべきなのだとリタは思う。ユーリが自ら選んだように、フレンもまたその道を自分の意思で選んだのだから、と。
 勿論、フレン自身がそのことを誰よりも自覚していることもリタには分かっていたので、それについては自分が口を出す必要はないのだが。

 (……ユーリがフレンを避けてる)

 その話をエステルから聞いた瞬間、リタの脳内にひとつの仮定が生まれた。
 エステルには分からないかもしれないが、リタはなんとなくユーリがフレンを避ける理由に心当たりがあった。それはユーリが直接リタに自分の心情を打ち明けたからなどではなく、ただ、彼の行動から推測した考えでしかなかったが、リタはその答えになんとなく確信じみたものを感じていた。

 ユーリが選んだ道。
 そこを歩いていくために彼が捨てなくてはいけないもの、いや、正しくは彼が捨てなくてはいけないと「思い込んでいる」もの。

 ひとつ溜息をつく。巡らせていた思考を一旦頭の端に置いて、二人分のティーカップに注いだ紅茶を運び、ユーリの目の前に差し出した。
 サンキュ、とクッキーのかすがついた指をぺロリと舐めながら礼を言うユーリの旋毛を見下ろして、リタは至って軽い声音で言葉を紡いだ。

「あんたってさ、自分のことを使えなくなった雑巾だとでも思ってるんじゃない?」

 クッキーに伸ばしていた手が止まる。ユーリは目の前のリタをポカンと見つめた。

「は?」
「汚れて破れて、もう使えそうもないし、どうせ捨てるなら窓枠に溜まった土でも拭き取ってから捨てちゃえ、なんて具合にね」
「……いや、何言ってんだか分かんねーし」

 怪訝そうな中に若干の不快をにじませながら、ユーリは言葉の真意を探るような目でリタを見る。だけどその疑問に答える気持ちなんてリタには初めからさらさらなかった。理解出来ないならもう知らない。どうせ分かるとは思っていなかった。

 いつだってそうなのだ。このユーリ・ローウェルという男は。

 かつてエステルがアレクセイに操られ、満月の子の力により災厄を引き起こしかねない事態に陥った時だって、ユーリはひとりで全てを背負おうと仲間を置いて帝都へ旅立った。
 エステルを止める。それが何を意味しているのか、ユーリには分かっていたはずだった。だからこそひとりで受けとめようとした。それは自己犠牲からくるものなどではなく、ユーリの底に根付いてしまっている変えようのない核なのだとリタは思っていた。
 冗談じゃない。
 ひとりで背負って馬鹿みたいだ。それで傷つくのが本当に自分だけだとでも思っているのか。自分が他人に与えている影響についてこれっぽっちも理解していないのか。
 ユーリはあまりにも自分の存在を軽視しすぎていた。そしてそれはどこまでも無意識の内から来るものなので尚更厄介だった。無意識ということを他でもない本人が一番分かっていないわけなので、いくら自分達が大声で叫んだところで言葉の意味を理解できないユーリは結局首を傾げてしまう。
 例えユーリが起こした行動によって守られるものがあったとしても、それでユーリが傷ついたのでは意味がない。それだけのことなのだ。それだけのことがユーリには全く理解出来ない。その点については最早病的だとも言えるほどだった。
 だから全力で止めた。ボコボコにしてでも分からせてやった。ひとりでいい格好するな、みんなで行くんだ、と。そこまでやってユーリはやっと困ったように笑った。もう黙ってひとりで行かないと声に出して誓わせたし、そしてそれは恐らくその場しのぎの答えではなかった……と、その時は思っていたけれど、ヒピオニア大陸でフレンが危機に陥っていると、彼の副官のソディアから援護を頼まれた際に、やはりユーリは自分ひとりで現場に向かおうとしていたので根本的な考えは結局最後まで変わらなかったようである。
 しかし後になってリタは思った。あの時、ユーリが当然のようにひとりでヒピオニア大陸へ向かおうとした理由は、問題の当事者がフレンであったからなのではないか、と。
 
 フレンとユーリの関係を考える。それは、及ばない知識のままで論議を交わしている時の気持ちによく似ていた。
 良くも悪くも、ユーリにとってフレンとは特別な存在であるのだ。そこに他人が関与できる余地はなく、他の事例は全く通用しなかった。仲間達とユーリとの関係と、フレンとユーリの関係は等しく「大切な存在」であるにも関わらず、その本質は全く別のものなのだ。
 自分達にはなくてフレンにはあるもの。それは彼と過ごした絶対的な時間の差だった。
 なんとかのつながりに時間は関係ない、などといったフレーズはよく耳にするし、実際に旅を共にした仲間達とユーリとの絆が不確かなものだと言うつもりは毛頭なかったが、フレンとユーリを繋ぐ関係というものは、最早自分達のものとは完全に別次元の問題であったのだ。
 ユーリやフレンから二人の過去を詳しく聞いたことはなかったが、彼らの間には他者の目から見ても理解可能な程の絶対的な繋がりがあった。お互いがお互いの片割れであることを信じながら生きてきた二人の過去。そこに思いを馳せようと試みることは何度かあったものの、いつだって難く閉ざされた扉のようなイメージに思考を遮られてしまっていた。彼ら二人と自分達を隔てるようにして、想像も及ばない程の濃密な時間がただ目の前に横たわっているのだ。

(それでもユーリはフレンから離れることを選ぼうとしてる)

 お互いがお互いを大切に思っていることを知らないはずではないのに、どうしてユーリの思考がそういう方向へ行ってしまうのか不思議だと思う一方で、ユーリの性格ならばその考えに至るのは仕方がないことなのだろうという気持ちも確かにある。
 ユーリは自分が守ると決めたものを守るためには手段を選ばない。彼の中に存在する優先順位というものがあまりにも明確すぎるのか、とにかくユーリは自分の守るべきもの以外を切り捨てることに対して本当に潔かった。ユーリの目は大切なものを害する存在というものがはっきりと識別できる。
 そしてユーリが何よりも守りたいと願っているはずの、彼の片割れともいえるフレンという男。そのフレンを害するであろう人間が誰なのか、ユーリは理解してしまったのだ。

 そんな考えに至った途端、リタには目の前の六つも年上の男が急に小さな存在に見えた。
 決して口にすることはなくとも、まだたった半年前の話である世界を救う旅の中で、リタはユーリに対してカロルやエステルと同じように、言葉で表現するのは難しいけれど、でもどこか絶対的な信頼を寄せていた。彼ならなんとかしてくれる、彼ならきっと大丈夫だ。自分らしくもない無意識の信頼に気付いた瞬間、誰よりも驚いたのは他でもないリタ本人であった。
 そんなユーリに対する価値観が、リタの中で少しずつ変わり始めている。
 ユーリは完璧なんかではない。エステルやカロルが言うほど強くもない。きっと自分達が思っているよりもずっと不安定で頼りない存在だったのだ。何故そんなことを思うのかと考えて、答えは驚くほど簡単に出てきてしまった。
 ユーリは片割れなのだ。足りない部分を補い合う存在がこの世界のどこかで生きている。まるで光と影のようであるその関係は双方があるからこそ、その意味を成しているのだろう。

 それでもユーリは自分の思い込みを信じて、彼の中からゆっくりと消えていこうとしているのだ。


(ほんと同情するわ、騎士団長)


 柄にもない感情が自分の中に沸きあがるのを確かめながら、リタは何も言わずにユーリの旋毛をしばらくじっと見つめていた。だけどそれで何かが変わるわけでもなかったし、自分が言えるようなことは結局先ほどの妙なたとえ話以外はひとつも思いつかなかったので、呆れたようなため息と共に目の前のクッキーへと手を伸ばす。
 ドレンチェリーの艶やかな赤さが魔導器のコアを髣髴とさせて、リタは無意識の内にかつての旅を思い出しながら、混沌としたそれらの思いを飲み込むようにして、冷めかけた紅茶を一気に喉へと流し込んだ。



*




 久しぶりだね、という聞きなれた声が頭の上の方から降ってきて、ユーリは思わず動きを止めた。
 ひと月に一回か二回程度行われることが約束事のようになっていたエステルの護衛の依頼が終わり、ユーリはいつものように「じゃ、俺は行くから」と、城に向かうことなく彼女と別れようとした。しかし、その日はエステルがユーリを引き止めた。「渡したいものがあるので下町で待っていて下さい」と笑うエステルの表情にユーリはどこか例えようのない違和感を覚えた。何かが引っかかったけれど、断る理由もないユーリは一言「わかった」と告げると、城へと戻っていくエステルと別れてそのまま市民街から下町へと続く道を下っていった。
 正直な話、あまり帝都に滞在していたくはなかったのだが、まあ物を渡されるくらいならばすぐに終わるだろうと考えながら、ユーリは下町の家並みの間から覗くザーフィアス城を見つめ、恐らくはそこにいるのであろうフレンのことを思った。
 フレンに会わなくなってから随分と時間が経っていた。思い出せるフレンとの一番新しい記憶といえば、星喰み後に彼の私室へ忍び込んだときのものだった。また君はそんなところから、と呆れたように笑うフレンの顔は相変わらずの王子様面で、今しがたユーリが入ってきた窓から差し込む月の光に照らされるブロンドの髪はいっそ現実味がないほどに美しかった。
 思えばあの頃から既に予感はしていたのかもしれない。ユーリの目には、フレンの姿がひどく現実味のないものに見えて仕方がなかった。芽生えた違和を怪訝に重い、その後ひとりになって考えを巡らせて、ユーリはひとつ気が付いた。
 現実味がないのは自分のほうなのだ、と。
 


「フレンに相応しい人間が現れるまでの代役」



 かつてフレンの副官であるソディアにこぼした言葉がふいに蘇る。何かを取り繕うための発言ではない。それはいつだってユーリの心の奥底にある本心から生まれた言葉であった。
 いつかソディアに言われた「お前は隊長のためにならない」という言葉には丸々同意する。フレンは騎士の鏡のような男であり、そして自分は帝国の要人を勝手な判断で二人も殺した紛うことなき罪人だ。いつか裁かれる日がやってくることをユーリは理解していた。
 精霊魔術が今よりもっと発展し、世界が再びかつての平穏を取り戻したその日には、自分に与えられる裁きを抵抗なく受け入れようとユーリは思っていた。世界から魔導器を奪ったけじめをつけるという意味も含め、今はまだその時ではないということは分かっている。男にしては長い睫毛をそっと伏せながら、ユーリは自嘲気味に小さく笑った。

 そういえば待ち合わせ場所を決めていなかったことを思い出す。
 かつて自分の部屋として使用させてもらっていた箒星の客室も今では引き払ってしまった後である。女将とはいくら親しい仲だとはいえ、勝手に上がりこむのは少々気がひけた。
 とりあえず広場にある井戸の前にいれば分かるだろう、と脳内で結論を出したその時、ふいに足元に柔らかな熱が走った。視線を下へと下ろしていくと、そこには自分の足に体を擦り付けている野良猫の姿があった。ユーリの口元には自然な笑みが浮かび上がる。
 下町で野良の動物を見かけることは珍しくない。前の主人を失い大怪我を負っているところを偶然見つけたラピードと出会った場所もこの下町だった。ユーリとフレンの必死の看病により一命を取り留めたラピードは、今でも二人にとっての相棒であると同時に、かけがえのない家族のような存在でもある。
 ユーリの足に平べったい体を押し当てる痩せた猫は、やがて満足したのか気まぐれにフラフラと路地裏の方へと歩いていった。何を思ったわけでもないが、ユーリは無意識の内にその後を追った。人々の賑わいから遠ざかった路地裏の空気は、日の光が当たっていないために心なしかひんやりとした冷気を持ってユーリの頬を撫でていく。
 一度はユーリに背を向けていた猫がこちらを振り返り、やはり気まぐれに今一度ユーリの足へと擦り寄った。乱雑に詰まれていた木箱の上に座り込み、ユーリは猫の体を抱いた。野良だというのに全く抵抗する様子を見せなかったので、恐らくは下町の子供達に餌付けでもされている猫なのだろう。何かを訴えるようにしてユーリの顔を見つめている猫の目に、思わず苦笑がこぼれた。

「なんだよ、食い物なんて持ってねーぞ」

 どこか恨めしげに「にゃあ」と返事をした猫にもう一度笑い、ふいにユーリは気が付いた。そういえばこの辺りは、昔フレンと一緒に暮らしていた小屋の近くの路地裏だった。表通りに買い物に行くときは必ずここを通っていた。寒い日なんかは手を繋いで、お互いの体温をもって冷えた手の平を暖めていたっけ。
 目を伏せると静かに蘇る懐かしい記憶達は、針の先で触れるようにしてユーリの胸をちくりと突いた。甘い痛みは麻薬のようにして思考回路を支配する。何の不安もなくフレンの手を握り返すことが出来ていた日々。意識を過去に持っていかれそうになっていた、その時だった。


「こんなところにいたんだ」


 久しぶりだね、と続けられたその声に、ユーリの脳内で巡っていた全ての思考が一時停止の状態で動くことを止めた。
 顔を上げると、そこには下町出身だとは思えないような、相変わらずの王子様顔にふんわりとした笑顔を浮かべたフレンの姿があった。

「……フレン?」

 分かりきっていることだというのに思わず名前を呼んでしまう。どこか呆然としたようなユーリの表情に苦笑するフレンの声が、二人と一匹の猫以外は誰もいない下町の路地裏に小さく響いた。
 フレンの言葉を脳内で反芻する。こんなところにいたんだ。つまり、フレンは自分のことを探していたということなのだろうか。そんな馬鹿な。ザーフィアスに戻ってきたのはつい先ほどのことだったし、下町を巡回していた騎士からフレンに情報が漏れたのだとしてもあまりにも早すぎる。そこまで考えて、ユーリの脳内にひとりの少女の姿が浮かび上がった。

(……恨むぜ、エステル)

 先ほど笑顔で別れたばかりの彼女に心の中でそっと毒づきながら、ユーリは今一度フレンの顔を見返した。こうなってしまえば避けることは出来ないだろう。可能な限り自然な笑顔を浮かべながら、さりげない口調で言葉を紡いだ。

「久しぶり、フレン」
「……うん。本当にね」

 フレンの返答に何か含むようなものを感じながらも、ユーリは平素を装った。それはユーリが何よりも得意とすることであった。しかし、薄暗い路地裏にいるせいか一見しただけではハッキリと分からなかったのだが、改めて見つめ直したフレンの顔にユーリは小さく目を見開いた。

「……お前、なんか痩せた?」

 ユーリの問いに、フレンは苦笑混じりに「この間、エステリーゼ様にも同じことを言われてしまったよ」と答える。そのことに関してフレン自身はそこまで気にしている様子でもないのだが、久しぶりに彼と再会したユーリの目にはその変化があまりにも分かりやすく映り、思わず言葉を失ってしまった。健康的に丸みを帯びていた頬の肉は、痩せているというよりもむしろ削げているといった方が適切であるような気さえした。目も赤く、きちんと睡眠も取れていないのかもしれない。
 帝国騎士団のトップとしてのフレンの仕事を甘く考えていたわけではなかった。ましてやアレクセイの謀反により一度は殆ど壊滅状態にさえ陥った騎士団だ。圧倒的な人材不足と、それに加えて魔導器を失った世界への対策、そして騎士団とは違い一連の騒動では殆ど無傷であった評議会からの妨害。騎士団の長であるフレンの目の前に積み重なる問題は後を耐えることがない。
 分かっていたはずだったが、彼の憔悴がここまでのものだったとは。久しぶりに見たフレンの姿はそんな事実をありのままに伝えてきて、ユーリは正直な話かなり戸惑っていた。言いたくないような苦言が自然にこぼれてしまうのも仕方がない。

「ちゃんと休んでんのかよ」
「一応、ね」
「嘘つくなよ。不健康なツラしやがって、どう見ても疲れきってんじゃねえか」

 ついきつくなってしまう口調に、これじゃあ自分がいつもフレンに言われていた小言をそのまま返しているようだ、と心の冷静な部分で思いながらも、ユーリの口は彼を咎めることをやめなかった。こんなことを彼から離れていった自分が言える立場でないことはなんとなく分かっていた。それでも黙っていられなかった。これでは何のためにフレンの側から離れていったのか分からない、と考えて、ユーリはふとどこかに違和感を覚えた。

 自分は何のためにフレンから離れたのか。

 今一度胸に突き立てられたその問いに、ユーリの意識は一瞬だけ目の前のフレンから反れた。
 そして、そんなユーリの心情には気付くことがなかったのか、ひとつ溜息をこぼしてから、フレンは静かな口調でこう答えた。

「……そうだね、少し疲れてしまったかな」

 フレンらしくもないその発言に、ユーリは返す言葉を失い思わず黙り込んだ。彼の弱音なんて一体いつから聞いていなかったのだろう。
 かつてユーリが騎士団の腐敗具合に絶望し、彼と共に歩けたはずの未来に背を向けた時だって、フレンは帝国の法が人々を守らないのならばその法を正していかねばならないと、ひとり騎士団に残った。その言葉通りにフレンは着々と功績を重ね、様々な紆余曲折を経ながらも今や帝国騎士団のトップにまで上り詰めた。21歳という若さに加え、平民出身のフレンがどれだけの困難を乗り越えなくてはその地位まで辿り着くことが出来ないかなどは自明であり、そこには到底想像も及ばないような苦悩の道のりがあったのだろう。それでも、騎士団を退団してから旅へ出るまでの期間を思い出した時、ユーリの様子を気にかけて時折下町に顔を見せていたフレンからは一切の泣き言を聞いた記憶がなかった。
 こんな風にして、フレンが自分の弱みを言葉として曝け出すことは本当に稀だった。ユーリはフレンの顔を見る。その表情は何かを思いつめているような色を宿してユーリの目に映った。じわじわと、不安とも呼べぬ感情が自分の中に生まれ始めていることをユーリは自覚した。


 フレンは言葉を続ける。

「時々考えるんだ。自分が歩いている道は正しいものなのだろうかだとか、僕の振りかざす正義は誰かにとってただの押し付けでしかないんじゃないかだとか……君がラゴウやキュモールを暗殺したと知ってから、僕はずっと善悪の境目を探し続けてきた。でもね、きっとそんなものは初めからどこにもなかったんだ。誰かにとっての正義は誰かにとっての悪に成ることもあるし、その逆もまた然りだ。それを教えてくれたのが他でもない君だった。何が正しいのかはその時その時で自分自身が判断していかなくてはいけないけれど、その判断が間違っていた時に僕を止めてくれる存在がいるって分かっているからこそ、僕は迷わず騎士団のトップとしてこの世界を導いていけると思った。僕が道を間違えてしまった時、それこそ僕を斬ってでも止めてくれる人がいるってことを知っていたから、自分の信じる正義を、世界にとって最良だと思える選択をすることが出来た」
「………」

 穏やかなフレンの声がユーリの耳に届く度、ユーリの中に芽生え始めた言いようのない不安は大きくなっていった。揺るぎのない口調とは対照的に、見上げたフレンの表情は影のようなものを孕んでいて、ユーリは確かな焦燥を覚えた。張り詰めて、今にも切れてしまいそうな糸を見ているような気持ちだった。

「あくまで僕の価値基準なんだけどね、それでもそんな僕を信じてついてきてくれる部下達には感謝しているよ。ソディアなんかは少し僕を神聖視しすぎている節もあるし、それは逆に不安要素のひとつでもあるんだけど、でもやっぱり……君を見失わない限り、僕はきっと可能な限り自分を信じて進んでいくことが出来る。君はいつも自分で選択することにこだわり続けてきたよね。エステリーゼ様や、凛々の明星の彼らにもそうだ。いつだって自分の信じたことを選ばせて、君自身は近くでそれを見守っていた。君は後悔のないよう彼らに選ばせた上で、その選択が主観から見ても客観から見ても間違いであることが明らかだった場合は、最良の道を選べるようにその方向を指し示してくれていたんだろう?」
「……俺はそんな大層なことは考えちゃいねーよ」
「それでも、彼らにとって君は確かに道標だった。暗い夜を照らす星のような存在だった。それは勿論僕にとってもそうだったし、いや、むしろ袋小路に迷い込んでしまった時、君を誰よりも頼りにしていたのは僕自身だ」

 殆ど賛辞のような言葉を浴びさせられ、逆にばつが悪いような気分になったユーリは俯きながら、いつの間にか自分の足元に移動していた野良猫の姿を見つめていた。そんなユーリから視線をそらすことなく言葉を続けていたフレンが、ふいに口を噤んでしまう。突然の沈黙を疑問に思ったユーリは頭を上げ、フレンの整った顔立ちに目を向けた。
 先ほど感じた時よりも、フレンの顔に浮かんでいた影がその存在を大きくしていることに、ユーリの背筋にゾクリとした寒気が走った。嫌な予感が体中を駆け巡る。
 フレンは何を言おうとしている?

「……僕はね、ユーリ。君と道を違えてからも、心のどこかで君が僕の側にいてくれたらってずっと考えていた。それが不可能なことくらい分かっているし、だからこそお互いを支えあうことが出来るっていうのも理解しているつもりだ。例え同じ道を歩いていくことが出来なくても、目指す世界が同じものである限り、いつかまた昔みたいに何の隔たりもない場所で手を繋ぐことが出来るんだって信じていた。だから僕はどんな困難にぶつかっても恐れることなく立ち向かうことが出来たんだ。君はあの頃……この下町で一緒に暮らしていた時と変わらず僕の側にいるって信じていたから」

 けれど、とフレンは言い淀む。そしてユーリは気が付いた。ユーリがフレンを意図的に避けていたということに、フレンはきっと勘付いている。
 その理由までには考えが至っていないとしても、いやだからこそ、答えの出ない疑問は日々の疲れと相重なり、フレンの心の中にはどこか苛立ちにも似たユーリに対する感情が知らず知らずの内に芽生え始めていたのだろう。

「……君に会えなくて、僕はすごく寂しかったんだよ」
「忙しかったんだよ、俺も。お前だってそうだろ」
「君は時々すごく薄情だよね。……エステリーゼ様の件、聞いたよ」

 やっぱり、と散々それらしき予兆はあったので今更舌打ちなどはしない。
 ユーリは、自分の中で警報が鳴り響くのを確かに感じていた。言わせてはいけない。フレンを止めろ。今そうしなければきっと全てが手遅れになってしまう。

「そのおかげで、ひとつ気が付いたことがある。ユーリ、僕は自分で思っていた以上に君に執着しているみたいなんだ」
「………」
「君のことは兄弟だとか、それこそ家族のようだと思っていた時期もあった。けれどそんな言葉じゃ到底足りなかったんだ。僕は君を見失うことが耐えられない。本当に、心から」
「………フレン」
「世間一般的に言われる愛情とは何か違うのかもしれない、それでも」
「フレン」
「ユーリ、僕は多分、君のことが」
「フレン!!」

 叫びにも似たユーリの声は、表通りの人々の喧騒から切り離されたような路地裏の空気を大きく震わせた。その声に驚いた足元の野良猫が、弾かれるようにして走り去ってしまった。入り組んだ路地の向こうへ消えた猫の姿を目で追ったりはせず、ユーリの視線は射抜くようにフレンの姿を見つめていた。フレンも同様にユーリから目をそらさない。お互いの瞳の中に映るそれぞれの表情のそのどちらにも焦燥に似た感情が浮かび上がっていた。

 ユーリにはフレンが今から言おうとしている言葉が分かっていた。しかしそれを彼の口から吐き出させてはいけなかった。言葉にしてしまえばそこで終わりだった。何が終わりなのかと問われれば、何もかもだった。
 フレンはユーリの半身である。フレンはユーリの世界そのものだった。何に変えても守らなくてはいけない。そしてそれは、エステルやカロル、リタを守るという意味とは全く別のものだった。
 例えフレン本人がどんな考えを持っていようとも、ユーリの中には決して曲げることの出来ない意志があった。

 フレンは幸せにならなくてはいけない。正しい姿で幸せを手にしなくてはいけない。

(……駄目だ)

 いつの間にか、フレンの両手が痛いくらいにユーリの肩を掴んでいた。そこから伝播した熱だけが現実味を帯びており、それ以外何も感じない。二人だけだった。ユーリの目にも、フレンの目にも、そこにあるのは二人だけの世界だった。

(駄目だ!)

 殆ど本能に近いところでそう悟る。ユーリは勢いよくフレンの腕を振り払った。そして、そのあからさまな拒絶にフレンが動揺した一瞬の隙をついて、渾身の力で容赦なく彼を突き飛ばす。
 突然の衝撃を堪えることが出来なかったフレンは、尻餅さえつかなかったもののよろりと体勢を崩してしまい、その視線は僅かな時間ではあったがユーリから離れた。ハッとフレンの目が改めてユーリを捉えた時、既にユーリの足は路地裏の土を蹴り、先ほど猫が逃げたのと同じ方向目指して駆け出していた。

「ユーリ!」

 フレンがユーリの名を呼ぶ。ユーリは立ち止まらなかった。ただ一心不乱に、入り組んだ路地裏の道を走った。どこをどう走れば街の外に出ることが出来るのかは分かっていた。伊達に人生の殆どをザーフィアスで暮らしてはいない。下町の地図はユーリの頭の中にある。それはフレンも同じことだったのだが、体格が違う分身軽なユーリにフレンの足は追いつけない。スタートが遅れたことも痛かった。
 長い黒髪を翻しながらユーリはフレンから逃げた。逃げて逃げて逃げて、彼の声が聞こえないところまで走り続けた。

 頭の中に思い浮かべた道順を進み、元々は結界魔導器に守られていた範囲の外側まで辿り着いたところで、ユーリは後ろを振り返った。そこにフレンの姿はなかった。ユーリは思わず胸を撫で下ろす。今や騎士団長という地位に就いているフレンが簡単に単独で行動できる立場でないことをユーリは知っていた。一度帝都を離れてしまえばきっともう追いかけてくることはないだろう。

 そこは帝都付近の森の中だった。ここから少し歩けばデイドン砦に辿り着く。そこから出る馬車に乗ってカプワ・ノールまで行き、船に乗り換えてトルビキア大陸に移動する。初めからそうするつもりだったダングレストまでの移動手段を脳内で思い描き、ユーリは今一度帝都を振り返った。
 木々の隙間から垣間見えるザーフィアスの街は、結界魔導器の放っていた光を失ってなお尊大な雰囲気を纏いながらユーリの目の前に佇んでいた。あの街のどこかにフレンがいる。どんな顔をしているだろうか、と考えて、どういうわけか昔よく見た幼いフレンの泣きそうな顔ばかりが脳内で蘇った。大きな瞳に涙の粒を浮かべながら歪んでいる表情は、先ほどフレンを振り切って逃げたユーリのことを責めているかのようだった。

(……駄目なんだよ、フレン。例えそれが俺のエゴだとしても、それでも仕方ないんだ)

 振り払いたかった映像は、泣きそうな顔でユーリを責める幼いフレンか、先ほど自分の肩を掴みながら追い詰められたような表情をしていた21歳のフレンか。或いはそのどちらでもあるのかもしれない。とにかくユーリは一度大きく頭を振ってから、デイドン砦へと続く道を歩き出した。もうザーフィアスを振り返ることはなかった。





*


ダングレストのアジトに戻ると、そこには誰もいなかった。カロルやジュディス、そしてラピードまでが留守だったのだが、理由を考えるよりも先にユーリは少しだけ安堵した。
 自分が思っている以上に疲れてしまったみたいだった。魔導器の代替品として新しく生活の一部となった精霊を利用した照明器具が、ぼんやりとオレンジ色の光を発していた。
 夜の闇を照らす光としては少々心もとないその照明も、何も見えない暗闇の中で生活するよりは幾らもマシだった。星喰みを食い止めてからというもの、精霊を利用した魔導器の代替品の製作は驚くべきスピードで進められている。リタを筆頭としたアスピオの魔導師達が日々研究を積み重ねてくれているおかげだ。実際、ユーリがギルド凛々の明星として、アスピオの魔道師から研究に必要な鉱物を採取してきて欲しいという依頼を受けることも珍しくない。
 リタらが欲している鉱物はどうにも人の寄り付かないような僻地に分布していることが多く、そういう場所にはたいていの場合強く凶暴な魔物が生息しているものだ。照明器具など生活の中で必要となってくる道具は帝都や大きな街から広がるように人々の暮らしに浸透しつつあるものの、武醒魔導器のように戦闘技術の向上を促してくれるような代替品にまでは未だ研究が到達していない。そのためユーリやジュディスのように戦闘技術に額出た人間が重宝され、凛々の明星に対する依頼は街と街を行き来する際の護衛関係のものが多かった。カロルやジュディスがアジトにいないということは、彼らはそれぞれ自分の仕事へ出かけているのだろう。

 自分の部屋に戻り、ユーリは後ろ手に鍵をかける。ふらりとした足取りで部屋の隅に置かれたベッドの前まで進んで、そのまま糸が切れるようにしてボスンと倒れこんでしまった。安いスプリングに支えられた体が酷く重い。眩暈が止まらない。頭が妙な熱に包まれて思考がうまく働かなかった。
 回らない頭でぼんやりと考える。自分はどうしたいのか。フレンにどうなって欲しいのか。けれど、そんなことは初めから分かりきっていたのだ。囁くほどの小さな声が、無意識の内に口からこぼれる。


「俺はただ、お前に幸せになって欲しいだけなんだよ」


 こんなところで道を間違えている場合じゃないだろう。
 今まで何度も脳内で繰り返したはずのその言葉が、フレンに届くことはない。例え届いていたとしても、フレンは間違いなくあのときのような曇りのない目でユーリの主張を否定するのであろう。分かりきっていた。フレンがユーリのことを一番分かっていると言う様に、ユーリもまた、フレンのことを誰よりも理解していたのである。それは自惚れでもなんでもなく、あるがままの事実だった。

 自分の存在が、前へ前へと進んでいくフレンの歩みに頓挫をきたすであろう事をユーリは恐れていた。

 記憶の中の彼は誰よりも輝いていて、自分はその光を見つめることが出来ればそれでよかったのだ。
 彼の行く先は光に溢れてなくてはならない。かつてユーリ自身がフレンと目指したはずの、誰もが平等で幸福な世界。彼にはそんな世界が似合う。人々は笑顔に溢れていて、そんな光景を眺めるフレンの表情が優しく穏やかなものであればいい。傍らにはフレンの妻や子供なんかがいれば最高だ。

(それはきっと何よりも幸福な)

 ふいに、そんな幸せな光景の中に自分の姿を足してみようと試みる。しかしそんなユーリの表情には、すぐに自嘲的な笑みが浮かんだ。
 例えるなら、白いハンカチに落ちた一滴の染みのようなものだった。どこに落ちても違和感しかない。

(なんか……疲れた)

 ユーリは自分の枕に頭を押し付けて息を止めた。嗚咽のようなものが唇の端からこぼれ落ち、静寂がひしめく部屋の中で、その音だけが鮮明にユーリの鼓膜を揺らしていた。
 酸素の足りなくなった脳でぼんやりと思い浮かべた光景は、幼い頃にフレンと手を繋ぎながら見ていたザーフィアスの景色だった。





*



 執務机越しに盗み見たフレンの顔には分かりやすく影が差していた。珍しいことだとソディアは思う。フレンは常ならばどんな苦労や悩みがあろうとも決してそれを顔に出したりはしない。彼の一番近くで補佐を勤めている自分が言うのだから間違いない、とソディアは精彩に欠ける上司の表情をジッと見つめながらそんなことを思った。

「……本日の報告は以上です」

 定時の報告を終えたソディアに、フレンはいつものように「ご苦労様」と労いの言葉をかけたが、その声にもどこか精気が感じられなかった。最も、気をつけて聞かなければ分からないような僅かな違いではあった。それでも副官という立場であるが故に彼と行動を共にすることが多く、また、その役職である以上の感情を密かに彼に抱いているソディアはフレンの変化に目敏く気が付いた。

 ソディアは、昼間の出来事を脳内で思い出していた。
 予定通りであれば、今日は星喰みの騒動が落ち着いて以来ハルルへ住居を移したエステリーゼがザーフィアスへ帰ってくる日であった。
 丁度、団員達に剣の指導をするため稽古場に顔を出していたフレンの元に、城に軟禁されていた頃に着用していたものとは違う、白と桃色を基調とした軽装を纏ったエステリーゼが、やや息をきらせながら飛び込んできたのを見て、ソディアはフレンを共に目を丸くして驚いた。会って早々走り疲れてしまっている彼女にフレンが戸惑いつつも「どうしたんですか?」と問えば、エステリーゼは相変わらず肩で息をしながら、「下町でユーリが待ってます!」と笑った。
 その言葉を聞いたフレンは、自分の横に控えていたソディアに、「すまないが少し留守にする」と告げ、騎士団の鎧を脱ぐこともせずに早足でどこかへ去って行ってしまった。
 「どこか」がザーフィアスの下町であることは、エステリーゼの話を一緒に聞いていたソディアには勿論分かっていた。フレンがそこへ何をしに、誰に会いにいったのかも理解している。それでもソディアは遠ざかっていくフレンを引き止めることなどせず、ただひとこと「了解しました」と、彼の仕事を引き継いだのだった。


 ソディアはフレンの無二の親友である、ユーリ・ローウェルという男が苦手だ。
 今でこそ苦手などという生温い表現に留めることが出来ているものの、ほんの少し前まで、ソディアは確かな殺意という感情をユーリに向けて抱いていた。それは比喩でもなんでもない純粋な殺意そのものであり、その感情が「あの瞬間」暴走してしまった結果、ソディアはザウデでユーリの腹にナイフの刃を突き刺したのだ。

 ソディアは時々、もしもザウデから落下したあの時、ユーリがそのまま死んでしまっていたらと考える。
 そうなればヒピオニア大陸での一件で誰がフレンを救ってくれたというのだろう。結果としてユーリは一命をとりとめたからよかったものの、本当に彼が命を落としていたとしたらフレンは今ここにいなかった。その考えに至った瞬間、ソディアはいつも心臓を直に握りつぶされているような感覚に襲われる。眉間に深々と皺を刻み、ただその痛みが過ぎ去るのを待つしかないのだ。

 貴族出身のソディアだったが、下町上がりの隊長であるフレンを心の底から尊敬していた。崇拝と言っても決して言い過ぎではなかった。アレクセイの謀反が発覚した当時、騎士団は人魔戦争以来の危機を迎えていた。隊長の失踪によりキュモール隊が事実上解体され、シュヴァーン隊は親衛隊と共にアレクセイの命に従いエステリーゼ誘拐に加担した。
 その時点で残された騎士団員を率いる存在としてフレン以上の適任者もおらず、結果見事に帝都の解放とエステリーゼ姫の奪還を果たした彼は、ヨーデル殿下によって団長代行に任命されたのであった。
 ソディアは彼の功績が自分のことのように誇らしかったし、それ故にいつまでたってもフレンに対して気安い態度を改めようとしないユーリのことを見ていると、自分自身が侮辱されているような気にさえ陥った。それによりソディアのユーリに対する言動は、いつだって攻撃性がむき出しになったひどく荒々しいものであった。
 こんな人間が自分の大切な団長の隣に我が物顔で立っていること自体が許せないという思いも勿論あったのだが、それ以上にソディアは、ユーリ・ローウェルといる時のフレンが、自分の知っているフレンとはまるで別人のように見えることが何よりも恐ろしかった。

 それからソディアの抱いていたその恐怖が目に見える形として実現するのに、そう時間はかからなかった。
 ザウデ不落宮で騎士団が凛々の明星と共にアレクセイを追い詰めたあの時、ソディアは先発隊の一員としてフレンの元へ駆けつけた。アレクセイに対しフレンは最後まで説得を続けていたのだが、双方の抱く考えが平行線を辿る以上、もはや力で解決する以外の手段は残されていなかった。そうしてフレンは剣を取る。苦悩の表情を浮かべながらも、彼はユーリ・ローウェルと共にアレクセイの計画を阻止するために戦った。
 一度はフレン達の前に膝を折ったアレクセイだったが、いつの間にか彼らが立っていたエレベーターはザウデの頂上に到達しており、その頭上にはとてつもない大きさの魔核が浮かんでいた。魔核の解析が続いていたことを悟り、ザウデの力が開放されるのを止めようと矢庭に駆け出したユーリに向かって、アレクセイの剣から一直線に光線が放たれる。
 しかし、その攻撃がユーリに当たることはなかった。

「フレン!」
「隊長!」

 ユーリの声と、それに続く形でソディアの叫び声がその場に響いた。

 フレンが自分の身を挺して、ユーリをアレクセイの攻撃からかばった。

 その事実を頭が理解した瞬間、ソディアは自分の目の前が真っ赤に染まる錯覚を確かに覚えた。腹の底が急激に冷えていく感覚とは裏腹に、脳だけが焼けるように熱かった。
 ソディアは、フレンを失うことを何よりも恐れていた。
 今の帝国騎士団がフレンという主軸を失って尚も存続出来るか否かなどは、分かりきっていることだった。彼を失えば騎士団は今度こそ本当に終わりだ。彼をなくすわけにはいかない。いや、本当のところ、そんな考えなどは建前にしか過ぎなかったのかもしれなかった。
 ソディアの中にある感情は、もっと単純なものだった。
 初めて心からの忠誠を誓った彼を、騎士は民のためにあるべきだという曲げようのない信念を心に宿した彼を、何よりもソディア自身が失いたくなかっただけのことなのだ。そのためにソディアはどんなことをしてでもフレンを守らなくてはいけなかった。彼の障害と成り得るもの全てを排除しなくてはいけなかった。
 全ての声が遠い。アレクセイやユーリ・ローウェルが何かを話しているのだが、その会話が意味を成してソディアの脳に届くことはなかった。輪郭を失った世界の中で、横たわるフレンと、自分に背を向けるユーリの姿だけが鮮明に網膜に焼き付いていた。

 ユーリ・ローウェル。

 剣とは別に装備していたナイフを鞘から抜いたのは殆ど無意識の内だった。目の前の光景は相変わらず蜃気楼の向こうにある景色のようにぼんやりと揺れている。落下した魔核によって隔たれた空間には、自分とユーリの姿しかなかった。二人以外は誰も、何も見ていなかった。現れた星喰みを見上げるユーリはソディアの存在に気付いていない。消せ、と脳内で鮮明な声が響くのを確かに感じる。言われるまでもなく、ソディアはユーリを殺さなくてはいけなかった。それが自分に出来る唯一の、フレンを守るための手段なのだと無意識の内に確信していた。

 光を失った目のままザウデの海に向かって落下していくユーリと、自分の手から落ちたナイフを伝い滴る赤い液体。自分が何をしたか気付いた時にはもう、ソディアの目の前にユーリ・ローウェルの姿はなかった。



「ソディア?」


 怪訝そうに自分の名を呼ぶフレンの顔が視界に映り、ソディアはようやくここがザウデ不落宮でも、星喰みが空を覆いつくしている世界でもないことを思い出した。ソディアが立っている場所はフレンの執務室であり、そして、彼らの活躍によって星喰みの災厄を免れたテルカ・リュミレースだった。

「疲れているのかい?」

 心ここに在らずといったソディアを気に掛けるフレンに対し、それは貴方のほうこそが、と飛び出しそうになった言葉をなんとか飲み込んで、「失礼致しました」とソディアは自分の無礼を謝罪した。
 そんな彼女にフレンは「謝らないでくれ」と小さく笑う。そして、自嘲するようなため息をひとつ吐き出して、こう言葉を続けた。

「いくら騎士団が大変な時期だからといっても、君たちにはいつも無理をさせてしまっているからね。……今日だって私の勝手な都合で仕事を抜けてしまい、団長としての自覚が足りないのかもしれないな」
「そんなことは……!」

 暗澹とした表情を浮かべるフレンを見て、ソディアはいつか覚えた危機感が再び心の中で生まれ始めているのを確かに感じた。

 ユーリが生きていたことによってフレンは生き延びた。
 そしてソディアは理解する。それは偶然なんかではなく、彼らはひとりが消えればもうひとりも消えてしまう運命の元に生きているのだと。
 科学的根拠も何もない妄想じみた持論だがソディアは確信に近い何かを感じていた。彼らの関係は理屈などといったものから完全に切り離されて、ひとつの法則であるかのようにして当たり前にそこに存在しているのだ。相対する光と影のような彼らの関係だったが、そこに関与できるものが誰一人としているはずもなく、彼らは最早ふたりでひとつの固体だった。代わりとなるものなど世界中のどこを探しても存在しないし、これから生まれることもない。
 しかし、ソディアがその考えに至るよりも前に、ユーリという男はソディアに向かって自分の中にあるフレンに対する的外れな考えを口にしていたのであった。


――俺はさしずめ、あいつに相応しいヤツが現れるまでの、ま、代役ってヤツさ。


 ユーリは確かにそう言った。


 (愚かな)

 見当違いもいいところだ。
 例えユーリ・ローウェルのその言葉がユーリ自身に向かった嘲弄を孕んだ意味での発言だったとしても、最早そんなことはソディアにとっては全く関係なかった。ユーリがソディアにこぼした自分の中に根付いたフレンに対する思いと、胸中にずっと隠し続けていたその価値観。そしてフレンがユーリに抱いているはずの思いだとか、または願望だとも言い表せる感情が決定的に交叉してしまっていることをソディアは確かに理解した。
 理解した瞬間、ソディアは自分が欲しく仕方がないものを「不要なもの」だと捨てられ、目の前で踏み躙られたような気さえした。胸の中で湧き上がるのは確かな嫉妬と憎悪だった。

 昼間フレンが下町に足を運んだのは、間違いなくユーリに会うためだ。それはエステリーゼの発言から考えても確実だったのだが、こうして今目の前にいるフレンは疲労だけが原因とは思えないような暗澹とした表情を浮かべている。そうなれば何が原因なのか、答えなど分かり切ったことだった。

(……ユーリ・ローウェル)

 ユーリがフレンに何を言ったのかなどは、その場にいなかったソディアに分かるはずもない。しかし、彼の発する言葉が、彼以外の人間の言葉よりもずっと直接的にフレンに影響を与えるということは間違いなく事実なのだ。
 ユーリの言動ひとつで、フレンの精神は浮上することも降下することも出来てしまう。フレン自身は心を病んでいようがそうでなかろうが如才なく仕事をこなすことが出来るのだが、本当のところ、そんなフレンをソディアは望んでいなかった。フレンという存在には、いつも心穏やかであって欲しいと願っている。

 ソディアは、自分がユーリ・ローウェルの代わりになれるなんてことは微塵も思っていなかった。今まで散々理解したように、ユーリの代わりになれる人物などが、これからこの先、自分の大切な団長の前に現れることなどありえないという事実もソディアにはちゃんと分かっていた。
 だからこそ、今この瞬間ユーリが憎くて仕方がない。かつては呆然と聞いていることしか出来なかったユーリの言葉が何度も脳内で蘇る。自分はフレンの隣には相応しくない?相応しい人間が現れるまでの代役?
 ソディアは自分の中で焼け焦げるような怒りが沸きあがるのを確かに感じた。最早ユーリの言葉はフレンに対する侮辱以外の何ものでもない。そんな言葉を悪気もなく口にしたこともそうだが、何よりその思いがユーリの心の中に巣食っている本音なのだということが何よりも許せなかった。悔しくて悔しくて仕方がなかった。自分が隊長としてフレンを慕う気持ちと、心の奥に身を潜めているソディア個人としての淡い想いが混ぜこぜになって渦を巻く。その渦は次第に力を増していき、ソディアの感情の制御装置を簡単に押し流して破壊した。

 もしかすると自分はフレンにとってのユーリでありたかったのかもしれない。彼らの過去や想い全てをかやの外に追い出してそんなことを望んでしまえる自分自身も、どうしようもなく愚かであるとソディアは自嘲した。

 ただ彼の唯一でありたかった。本当にそれだけのことだった。

 自分が彼の唯一であれたのならば、ユーリ・ローウェルという存在などは少なくともソディアにとってこの世界では不要なもの以外の何ものでもなかった。彼、フレンが自分をあらゆる意味で欲してくれればそれでよかった。だけど実際はそんなことがあるはずもなく、フレンにとってのユーリはどこまでいってもユーリでしかなかった。
 ソディアはもう、フレンのためにユーリを排除しようとは思わない。ただ、彼は知るべきだと思った。フレンはユーリの心の内に巣食っているあの感情の存在を知るべきなのだと、ソディアは漠然と思っていた。
 カプワ・ノールでソディアにだけ打ち明けられたユーリの言葉をフレンに聞かせた時、二人の関係に間違いなく何かしらの変動が起こることをソディアは分かっていたし、何よりユーリがそれをよしとしないことも理解していた。だけどそれがどうしたというのだ。ソディアは本当に、ユーリの感情に考慮するつもりなど微塵もなかった。
 フレンのために何かを出来る自分でありたい。
 ソディアの心にあるのは本当にただそれだけだったし、この考えの根本はユーリ・ローウェルがラゴウやキュモールを暗殺したものとそう変わりはないのだと思っている。守りたいものを守るためならば手段を選ばないし、そのため犠牲にするものが違うというだけの話だった。だからこそソディアは、自らの口でユーリ・ローウェルに教えられた彼自身の真実をフレンに打ち明けようと決めたのだ。

「フレン団長」

 だがそのためにはまず、この話から始めなくてはいけなかった。




「ザウデでユーリ・ローウェル殿を刺したのは私です」




*



 凍えてしまうほど冷たい風に煽られたユーリの豊かな長い黒髪が、いつもの黒衣を纏った彼の背中の上でぶわりと舞い上がった。
 ふと視線を上にやれば、気が滅入るような分厚い暗雲が隙間なく空を覆っている。雨雲ではない。この辺りの気候ならば、恐らく空から降ってくるものは雨でなく雪だろう。ユーリの生まれ育ったザーフィアスの街も、冬にもなればそれなりに寒さの厳しい場所ではあったのだが、ここヒピオニア大陸は一年中ほとんど雪がちらついているような亜寒帯気候の地域だった。
 目の前の山脈に向かい歩く足を少し止めて後ろを振り返れば、そこには闇に浸したように真っ黒な針葉樹の森が広がっている。冷たい光景だった。立ち止まるユーリの傍らで、ラピードがクゥンと心配そうに鼻を鳴らす。
 足に鼻先を軽く押し当てながら自分を見上げてくるラピードにユーリは小さく笑って、獣のしなやかな毛に覆われた頭を慈しむように数回撫でた。早く仕事を終わらせてダングレストへ帰ろうと、ユーリは先を歩いている男の後を追うために、再び足を動かした。

 リタが橋渡しする形での依頼となった今回の仕事は、アスピオの研究員の護衛という内容だった。
 依頼主が研究のために必要としている鉱石が入手可能な地域というのがヒピオニア大陸南部に連なる山脈地帯であり、それを採掘している最中に近づいてくる魔物を退治して欲しいとのことである。
 ヒピオニア大陸といえば、生息する魔物もそれなりに屈強なものが多く、はじめユーリは、わざわざ研究員に同行してもらわなくとも指定された素材を自分とラピードで取ってきてもいいと提案した。だが、その申し出は依頼主の「素人の目では実物かどうなのかの判断が難しい」という言葉によって却下されてしまった。生憎ユーリは科学の分野において全く精通していなかったので、そう言われてしまえば素直に依頼通りの仕事をこなすことしか出来なかった。
 そして当日になり、ジュディスと共にバウルに乗ってダングレストからアスピオに向かい、そこで依頼主を拾ってヒピオニア大陸南部の山脈付近へと移動した。ユーリとラピード、そしてアスピオ研究者の男が船から降りると、別件の仕事が入っているジュディスは、夜になる前に迎えに来ることを約束し、再びバウルと一緒に空へと舞い上がった。バウルに乗ったジュディスは、やがてユーリたちから見て北東の方角へと消えていったのだった。

 バウルが飛び去った北東の空を見つめながら、ユーリの脳には自分が立つこの場所と同じ大陸上にあるはずの街の姿が、ぼんやりと浮かび上がった。

 望想の地、オルニオン。

 雪解けの光、という意味を持つその街は、星喰みの問題を解決するよりも少し前までは、何の手も加えられていないまっさらな陸地に過ぎなかった。
 思えばあの街の起こりは、帝国とギルドが協力することになった最初の事例であり、反発し背きあうことしか出来なかった両者が手を取り合うきっかけの出来事に違いなかったのだ。
 あの場所に街を作ることになった理由でもある、大規模な魔物の討伐。始祖の隸長のアスタルが死んだことにより統制を失った魔物たちは、恐ろしく巨大な群れとなり、ヒピオニア大陸北東に漂着したギルドの船に乗っていた人々と、それを放っておけなかったフレン率いる騎士団員達を容赦なく襲った。
 万策尽き、窮地に追いやられたフレンの元に駆けつけたのは、ユーリと凛々の明星のメンバー達だった。
 リタ特性の明星一号を使用し、魔物達を一掃するためには、どうしてもその中心部まで突き進む必要があったのだが、顔を見合わせたユーリとフレンの目に怯む様な色は少しも滲んでいなかった。駆け出した二人の後をラピードが追いかける。二人と一匹で行う戦闘に、ユーリは場違いにも確かな快感を覚えていた。体が軽く、剣筋はまるで踊るようだった。
 ユーリが自分の目の前に迫り来る魔物を倒し、死角となった背後から襲う別の魔物を当たり前のようにフレンの剣が切り捨てる。熊のように大型な魔物であるラースネイルにユーリが蒼刃斬を打ち込んで隙を生み、相手の動きが止まった一瞬の間にフレンの剣がとどめを刺す。全てが計算されているかのような戦闘は、最早それぞれが別の固体であることさえも疑わしく思えるほどに洗練され、そして完成されていた。何もかもがあるべき姿で、そこに存在していたのだ。
 あの時、あの一瞬、二人は確かに全てのしがらみから開放されていた。騎士団、ギルド、善悪、法、罪。浮かび上がる言葉に意味など何も存在しなかった。
 享受出来ることが当たり前だったはずの関係は、自分の信じる道を進むため手を汚してでも生きていくと決意した日に自ら手放したはずだった。
 だけど、フレンと共に戦ったあの瞬間だけは、彼の隣に立つことが許されていた。逃げ出したくなっても何らおかしくない程に圧倒的な魔物たちの勢力を前にしても、恐怖など微塵も感じなかった。フレンを救い、その隣で共に戦う。それは間違いなく自分以外の誰にも勤まらないことだった。だから罪も何もかも全てを横に置いてしまうことが許されていたのだ。少なくとも、あの瞬間は。


「………楽しかったな」


 ポツリと口からこぼれた言葉を聞いたのは、先へと進む傍らで、心配そうにユーリを見上げているラピードだけだった。






 依頼主の男が鉱石を採掘している傍らで、ユーリは近づいてくる魔物を片っ端から斬っていた。
 犬によく似た姿の魔物、クリティスがユーリの首元目掛けて飛び掛ってきたが、その攻撃を受けるよりも先に、ユーリは自分の目の前に剣を構える。クリティスの牙は喰らい付くはずだったユーリの首には触れることなく、その首と自分を隔てる剣の刃にぶつかりガキンという嫌な音を響かせた。
 牙が剣を放す暇さえも与えることなく、ユーリは柄を握る手に思い切り力を込め、遠心力を利用してクリティスを思い切り地面に叩き付けた。すかさず倒れた魔物の腹を素早く剣で一刺しすれば、それは血の泡を吐きながら絶命した。

「ふぅ……」

 いつの間にかこめかみを伝っていた汗を軽く拭いながら、ユーリはひとつ溜息をついた。
 思考回路がひどくクリアだった。剣を振るっている時は、何も考えなくていい。ユーリにとって、それは分かりやすい快感だった。何も考えないことが気持ちよかった。剣は自分の意思が働くよりも先に的確な軌道を描いて魔物を斬り捨いてくれる。

 何も考えたくなかったし、何も思い出したくなかった。それが目を背けているということなのかどうかと問われれば、自分でもよくわらからない。

 冷気を孕んだ風が僅かに汗ばんだ頬を撫でる。
 雪のにおいの交じった空気が呼び起こす記憶は、今までならばザーフィアスで過ごした幼少時代のものばかりであったのだが、どうにもこの辺り独特の雰囲気とでもいうのだろうか、かつて感じたそれとは少々異なるにおいは、オルニオンでの記憶を蘇らせるには十分すぎるものだった。
 記憶を呼び覚ますための鍵として、においの力というものは本当に強大である。ユーリにとってオルニオンの存在は、殆どそのままフレンのイメージに直結していた。オルニオンのことを思い出したときに、同時にフレンを思い出さないことなど不可能だったのだ。粉雪が舞う街の中、騎士団員と共に佇んでいるフレンの姿を想像した際、ユーリの胸には例えようのない苦しみがじわりと染み込んでくるのである。
 抗うことも出来ず、自分の心に注がれる苦い液体、その正体。
 ふいに、ユーリは自分がフレンのことを思い出したくないのだということを悟った。その結論は、あまりにも唐突にユーリの胸の中心にストンと落ちてきたのである。


(フレンを思い出したくない?)


 そんな馬鹿な。
 ユーリは自分の中に芽生えた、まるで他人の口から発せられた言葉のような結論に、無意識の内に「違う」と叫んでいた。
 自分がフレンの側から離れるのはフレンのためを思っての行動であり、そうすることがフレンの未来に対し自分の選ぶべき最良の選択なのだと信じていたじゃないか。罪人の自分がフレンの隣に立っている状況は確かにおかしいと、彼の副官のソディアに自分の口は言っていたじゃないか。

 ザーフィアスの街でフレンと再会したあの時、自分はフレンが発しようとした言葉を強引に遮り逃げ出した。何のために?
 答えなど決まっている。フレンが自分を求めているということを、言葉として聞くのを恐れていたからだ。そう、恐れていたのだ。他でもない、ユーリ自身が。
 ユーリは恐れていた。自分を裁くべき立場であるはずのフレンが、自分を必要としているという意味を孕んだ言葉を口にした時、もしかしたら自分は許されているのだなんて錯覚をしてしまうかもしれなかった。愚かな考えだと思う。許されるはずがないのだ。ユーリにとって「罪人」という言葉は罵倒でも何でもない、ありのままの事実だった。
 ラゴウやキュモールを殺したことに後悔はない。だからユーリが抱く罪悪感の向かう場所は、今も尚かつて自分達が共に目指し、そしてユーリが目を背けた未来に向かって着々と進み続けているフレンに対してなのである。
 フレンのためだ何だと言いながら、結局フレンの側にいることを一番許せないのは他でもない自分自身だったのだ。知らず知らずの内に自分を食いつぶす自己嫌悪から逃れるために、ユーリはフレンの手を振り払った。自分だってフレンの隣に立つことを望んでいないわけではないのだが、今更差し出された手を握り返すなんて虫が良すぎる話ではないか。
 今のフレンが何から目を逸らしているのか、ユーリにはちゃんと分かっていた。それを考えてユーリは怖くなった。フレンの道を遮るものがあるとすれば間違いなく自分なのだ。


「……そうだったのかよ」


 ふと、ユーリの中に小さな願望が生まれた。それは本心からの望みではなく、もっと退廃的で諦念じみた、方程式の先に見つけた答えのようなものだった。






(俺はフレンに裁かれたいのか)











 

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