ハッピーハロウィン・HINAMI 季節と共に街はいつでも色合いを変えていくものである。 あと数か月もすれば、東京23区は赤と緑と時々ホワイトやらゴールドの、煌びやかな装飾で賑わい始めることだろう。 しかし現在、その時期にはまだ少し届かない。シャンシャンシャンシャンみたいな音がどこからともなく聞こえてくる代わりに、ちょっぴりゴシックで非日常的な雰囲気が、オレンジとパープルの色彩を持って醸し出されているのである。 クリスマス、お正月、バレンタイン……一年の中に存在するそれらメジャーなイベントと比べれば、ちょっぴりアングラな香りを漂わせるような気がする、ハロウィン。 実際、日本におけるハロウィンというイベントの浸透率はそんなに高いものではない。 誰しもが当然のようにハロウィンを祝うわけではないし、10月31日をスルーすることも然程珍しいわけでなく、一部の若者や食品業界が乗るしかないこのビッグウェーブにくらいの感覚で祭に便乗しているきらいは確かにあるのだ。 月山習という男は、ビッグウェーブに乗る方の人種……いや、喰種だった。 それもそのはずだ。月山の性格上、その手のゴシックなイベントは雰囲気を重んじる彼にとってトレビアンでドルチェでイレギュラーで非現実的で、何事にも代えがたい年に一度の至福の日なのであった。 そんな月山の性格を形成した要因そのものでもある彼の「家庭」では、月山が幼かった頃から毎年かかさず豪勢なハロウィンパーティーを執り行って来ていた。 幼い頃から月山は、サン=サーンスの「死の舞踏」が流れる中、屋敷中の照明が退廃的な蝋燭の光に変わるこの日が大好きだった。父も母も使用人たちも皆が何らかの仮装をし、右手には血酒を、左手には子供へ与えるための菓子を携えながら、ハロウィンのお祭りを楽しんでいるのである。 小さなヴァンパイアの衣装を身に纏った月山は、ウキウキと屋敷を歩き回りながら、目に留まる全ての大人たちへ「ハッピーハロウィン」と無邪気な笑みを浮かべるのだ。 お決まりである「トリックオアトリート」の問いに、彼らは満足そうな微笑みと共に「可愛いおちびちゃん、お菓子をどうぞ」と、賑やかなそれを手渡してくる。 大人たちがくれる菓子は、あらかじめ屋敷の使用人が丹精込めて制作し、パーティーが始まる前に配られたものであるために、月山も安心してそれを受け取ることが出来る。 月山家のお抱えシェフ秘伝のハロウィンスィーツ。 そして、それと同時進行で作られるのが、屋敷内と庭先の至る所に飾られた「人間ランタン」というとってもキュートなインテリアなのだ。 人間の頭からうまい具合に中身だけをくり抜き【規制音】しながら目の部分から【規制音】取り出すことによって作られる特製の生首ランタン。くり抜いた内側の【規制音】はカリッと香ばしい歯ごたえが楽しめるまで焼いたりするのだ。それが月山家シェフである郷田特製のハロウィンスイーツの正体だ。幼い僕はそれが大好物だった。 大人になった22歳の月山は、そんな甘い匂いが漂ってくるような懐かしい記憶を思い出しながら、今日も自らの主であるカネキが住まうアジトの扉の戸を叩く。カネキに求められていた資料を提出するがてら、いつものように花でも贈ろうかなと思いながら、いや今日はハロウィンだ。いつも根を詰め過ぎるカネキくんのためにも何かお祭りらしいお土産でもプレゼントしようと考えた月山の鞄の中には、猫耳やら魔女っ娘衣装やらのハロウィングッズがパンパンに詰まっていた。これらの品を本気でカネキが「わあ、ハロウィンっぽい!」と喜んでくれるだろうと本気で思っている辺りが救えない。 ピンポン、とインターホンを鳴らす。返事がない。何か手を離せない状況にあるのだろうか。仕方がないので合鍵で扉を開く。 この部屋は月山が金を出して借りている物件なので当然合鍵ぐらいは持っているが、しかし家賃やら光熱費やらの全ての資金を提供しているという状況下、さらには月山本人の意思として共に暮らしたいと願っている現状で、月山に与えられた権利が「合鍵を持っているのでいつでも自由に出入りが出来る」のみなのはいささか理不尽なようにも思えるが、月山自身は仕方がないと諦めているので、それでいいのだと思う。 玄関の敷居を跨いだ月山は、そのまま遠慮のない足取りでリビングの方へと向かって行く。そして、そこへと繋がる扉を開きながら、いつものテンションで口を開くのだ。 「お邪魔しているよカネキくん! 今日は君の求めていた悪しき喰種に関する資料、を……」 月山の声は、次第に尻すぼみになっていって、やがて言葉としての意味を失った。 そして、わなわなと揺れる彼の瞳が映したものは。 リビングのフローリングの上に、うつ伏せの状態で横たわる、愛するカネキの姿だった。 デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション1巻でキホに嫉妬心を指摘された時に教室の床に倒れ伏し死に絶えた中川凰蘭にそっくりだった。 「カネキクンッ!!!!」 月山は叫んだ。そうして、倒れ伏すカネキの元へと残像を残す勢いで駆け寄った。 月山に抱き起されたカネキは「うーんうーん」と悪夢の最中にいるかのような声を唇の端からこぼし続けながらも、やがて、長いまつ毛に縁どられた大きな瞳を、ゆるゆると開きながら、呟いた。 「月山……さん……?」 月山は、今にも泣きだしそうな声で答える。 「ああそうだよ、僕だ! 君の忠実なる剣、月山習だ! どうしてこんなところで倒れているんだ! 誰かに何かをされたのかい!?」 もしもそうならその誰かを今すぐに殺しに行かなくては! と、殺意の波動に目覚めかけていた月山の鼓膜を揺らしたのは、絞り出されたかのように弱々しいカネキの声だった。 「ヒナ……ヒナミちゃんが……」 「Why? リトルレディがどうしたんだ!?」 カネキが衰弱している現状、同じ空間で生活をしているはずの、カネキよりもか弱き存在であるヒナミが危機に晒されている可能性を悟り、月山はさらに動揺する。 月山はヒナミのことを比較的気に入っていた。 それは万丈、そしてイチミジロサンテに比べて、ヒナミが月山に対して好意的であるという理由が大半を占めていたのかもしれないけれど、とにもかくにも月山はヒナミを気に入っていたのである。彼女の身に危機が迫れば、きっと月山はヒナミのことを守るだろう。それは嘉納の屋敷でリアルな危機に面していた万丈を簡単に見捨てようとしていた状況と照らし合わせても、ヒナミの存在が彼より上位に位置することを明確に表しているし、イチミジロサンテにも同じことが言えた。 それでも月山は万丈やその舎弟である三人組を嫌っているわけではなかったし、むしろ好いている方だと言っても過言ではなった。それだけは確かな事実だ。 そう、物事に対する優先順位というものが、他社に比べて著しくハッキリしているのが、月山習という男の特徴でもあったのだった。 まあ、今はそんなことはさておき。 「カネキくん、リトルレディはどこに……」 「あ、あそこ……」 月山に問われ、カネキはふるふると震える指先で、とある方向を指差した。 カネキの人差し指の先に視線を向けた月山。 そこには、今しがた話題に上がりまくっていたヒナミの姿があったのだ。意外とあっさりいた。 ここでヒナミという少女の通常時の姿を説明しておこう。 カネキがアオギリや嘉納の謎を追うために六区への移住を決めた時、ヒナミは彼の身を案じ、生活を共にすることを決めたのだ。 カネキ同様、ヒナミも月山によって生活の場というものを与えらえていた。この賃貸のことである。 同時に、彼女が身に纏う衣服類の全てが月山によるプレゼントだった。 と言っても、ヒナミが着ているそれらは彼女に似合った愛らしいデザインのワンピースなどが殆どであり、贈り主である月山本人から連想されるような、奇抜というかぶっ飛んでいるというか、そういうセンスのものではなかったのだ。月山のコーディネイトは常々、その服を着る存在が最も輝けるものでなくてはいけない、という美学の下に行われているのである。 まあつまり、ヒナミの服装に関して、基本的に月山が見たことのないものは存在しないはずなのだ。 しかし。 「リトルレディ……その服装は……?」 月山は未だ混乱しているかのような声音で問う。 俯きながら、表情がはっきりしないヒナミが纏う、その服装。 首元にフリルがあしらわれたピンク色のブラウス、ロココ時代のコルセットを模しているようなデザインの装飾、そして、透け素材との二重構造になっているゴシックな黒の膝丈スカート。白いソックスと、エナメル質の赤い靴。 頭には王冠のような黒い髪飾り。 月山は、この場所に訪れる前に考えていたことを、思い出す。 今日は年に一度のハロウィン。子供たちは仮装をし、悪戯かお菓子かを問いながら街を練り歩く。 ヒナミの服装は、ハロウィンの仮装と思えないこともない風貌だった。 それでなければロリータ趣味のレディの私服といったところだろうか。 まあとにかく、その愛らしい衣装はヒナミに良く似合ってはいたものの、前述したとおり、このアジトの服装事情を知り尽くしているはずの月山のデータの中に、現段階で彼女が身に纏っているそれの情報は見当たらなかった。 謎の衣装に身を包み沈黙を保つヒナミ。 そして、そんな彼女の足元に倒れ伏していたカネキ。 何がどうなっているというのだろう。 「ヒナミ……ちゃん……」 月山の腕の中でふるふると震えるカネキの右腕が、縋るようにヒナミに向かって伸ばされた。そんなカネキの声に、ヒナミはようやく顔を上げる。 そのおかげで月山も、ようやくヒナミの表情を確認することが出来た。 月山は、確かに言葉を失った。 「きひひひひひ!!! お兄ちゃんも花マンも、一緒にハロウィン祭をしようよ!」 「リトルレディ!?」 まだ未完成のピュアストーンのような普段のヒナミからは想像も出来ないような歪んだ笑みが、彼女の唇の端には浮かんでいた。 瞳孔は大きく開き切り、常軌を逸した狂気のようなものが、目の前のヒナミからは溢れだしていた。 「一体……何があったと言うんだ……」 「俺から説明しよう」 呆然とする月山の背後から、聞きなれたその声が聞こえた。 振り返ると、そこには筋肉隆々マッチョマン、しかし弱い。そんな六区のパーティーメンバーであり、ヒナミと共にカネキにとって心のオアシス的ポジションを務める男、万丈が立っていた。何やら厳かな表情で。 万丈は言った。 「ヒナちゃんは……ハロウィンの魔女に憑りつかれたんだ」 「……Why?」 真面目な顔で面白いことを言い出すムッシュバンジョイ。月山は笑い出したくなったが、そんな場合ではないことを、腕の中でくったりとしているカネキの体温によって思い出す。 「バンジョイ、ふざけている場合ではないのだよ。カネキくんとリトルレディの一大事という時に!」 ぷりぷりと憤慨する月山に向かって、未だ息も絶え絶えなカネキが口を開く。 「月山さん……万丈さんの言葉は本当なんです……ヒナミちゃんは、悪い魔女に憑りつかれている……」 「そうだったのかカネキくん!!! それは大変だ!!!」 月山は目が覚めたかのような表情で叫ぶ。万丈の目が途端に死んだのだが、カネキとヒナミがどこか異常であるこの空間では、気に留めてくれる存在は皆無だ。 とにかく、死んだ魚の目をしていても仕方がない。瀕死状態のカネキの代わりに、気を取り直した万丈が状況を説明しようと口を開く。 「俺とヒナちゃんが買い物から帰って来る途中のことだ。なんていうか、綺麗な感じの女に声をかけられたんだ」 そして、こう続ける。 「その女は、俺達に向かって「ハッピーハロウィン」って言って、このトランクを渡してきた」 「トランク……」 月山は万丈が持つ「トランク」に視線を移す。 ワインのように赤い外装に、繊細な金の装飾。結構な値段はしそうではあるが、それ以外は何の変哲もないようなトランクだと思った。 「このトランクの中に入っていたものが、今ヒナミちゃんが着ているその服と……」 万丈は、カネキを抱いたまま動けずにいる月山の方へと、歩み寄りそして。 何やら「紙切れ」のようなそれを、そっと提示した。 月山は、紙切れに綴られている文字を目で追っていく。 そこには大きく、こう書かれていた。 『これであなたも魔女になれる! 簡単☆ハロウィンパーティー衣装』 そして、そんなでかでかとした文字の下……よっぽどでなければ気付けない程の小さな文字で、こうも書かれていた。 『※なお、ご使用の際には被験者の方がハロウィンの魔女に憑りつかれますのでご注意ください※』 ご注意くださいと言っておきながら、まるで注意する気のない注意書きだった。 「ヒナちゃん、ハロウィンパーティーなんてやったことないから、やってみたいって、この紙と衣装見て目ぇキラキラさせて……俺がもっと注意してれば、こんなことには……」 万丈は自分の無力を悔いるような顔でそう言った。恐らく、ヒナミが衣装を身に纏ってから、その異変と共に注意書きの存在に気が付いたのだろう。 それは理解した。 しかし、もう一つ分からないことがある。 「バンジョイ、リトルレディが魔女の呪いにかかったことは分かった。しかし、それならどういう理由でカネキくんはこの場に倒れ伏していたんだい?」 月山の問いに、万丈は少しばかり言いにくいことを告げるような声で、こう言った。 「……呪いにかかったヒナちゃんが、ヒナちゃんらしくないあの顔で高笑いするのを見たカネキが、思わず「嘘だ! 魔女なんているはずがない!」って叫んだんだよ……そしたら、ヒナちゃんが……」 きひ!! きひひひひ!!! たまにいるんだよ。 お前みたいな魔法を信じない毒素の塊みたいな人間が! でもその程度の毒素に焼かれて灰になるようじゃ魔女になんかなれない。 だからヒナミはお前程度の毒素に焼かれて灰になったりしないよ。 ヒナミはこう見えてもベアトリーチェの弟子なんだから!!! それが、ヒナミの口から、カネキに向かって放たれた言葉だった。 カネキはというと、他でもないヒナミに「お前みたいな(中略)毒素の塊」などという暴言を吐かれた時点で既にストレスで倒れていた。 先程も述べたが、この残酷すぎる世界を足掻きもがいて生き続けるカネキにとって、万丈、そしてヒナミは、二大癒しポイント以外の何ものでもなかった。 呪いどうこうは置いておいて、カネキの唯一の癒しである柱の一つが、カネキに向かって牙を剥いたという事実。 カネキの心をえぐるヒナミの言葉に、カネキはあっさり息絶えたのだ。 そうして、月山の腕の中に身体をぐったりとあずけている、今に至る。 「おいたわしいなカネキくん!!!」 わっと泣き出す月山だ。動くことが出来ないのをいいことに、カネキの頬にぎゅうぎゅうと自分の頬を押し付けている。 カネキは余力でそんな月山を引き離そうとしながら、言葉を紡ぐ。 「今はとにかく……ヒナミちゃんに憑りついた魔女の呪いを解く方法を……」 「む……それもそうだね!」 そうして、ちゃっかりカネキから手を離すことはなく、月山はヒナミ……いや、ヒナミの体を乗っ取った魔女に向かって、声をかける。 「君の目的は何だ、リトルウィッチ! どうすればリトルレディの体から出て行くんだ!」 月山の言葉に、ヒナミは歪んだ笑みを浮かべながら、こう言った。 「今日は楽しいハロウィンだよ! トリックオアトリート! いたずらか、お菓子! そのどっちかが叶ったら、ヒナミは元に戻るからね! きひひ!」 「トリックオアトリート……」 「うん! お菓子ちょうだい! それがないなら、悪戯だよ! うー!」 提示された条件に、月山はいささか渋い顔になった。 この魔女はきっと、元々人間だった存在なのだ。 憑りついた対象が喰種であるという考えは、おそらく設定されていない。 そうだとしたら、トリートの選択肢を選び取った場合……人間用の菓子をヒナミに与えて食べさせるという、ヒナミにとっての拷問が待っているのだ。 そもそも当然の話ではあるが、喰種以外のものが住んではいないこの家に、人間用の菓子のストックなどありはしない。 そこまで考えたところで月山は、自分が幼い頃にハロウィンのたびに食べていた、例の喰種用の菓子を持ってこなかったことを後悔した。 最近の月山は、自分の食に関する趣向や美学が、カネキにはあまり好まれないということを自覚しつつあったのだ。なので出来るだけ口にしたりはしないでいた。大好きなハロウィンの菓子だって、喰種の共喰いにこだわり続けるカネキには気に入って貰えないだろう。だから持ってこなかった。それがこんなところで仇となるとは! つまり、自分たちに残された選択肢。 それは「トリック」。悪戯しか残されていないのである。 魔女の悪戯。それはどんな恐ろしい呪いなのだろう。 同じことを万丈も考えていたようだ。「ど、どうすんだよ月山……」と、困ったように月山の方を見つめている。 生きたまま上空1000メートルの高さから何度も何度も叩き落されて殺され続けたり、ガマガエルに姿を変えられて尻の穴からグングニルの槍で100回貫かれ続けるような呪いだったらどうしよう。 なんとしてでも菓子を用意しなくては! しかし、焦る月山を嘲笑うかのように、ヒナミは「きひひ」と笑いながら言葉を紡ぐのだった。 「トリックオアトリート! ……お菓子が出てこないね? ってことは、トリックでいいよってことなのかな?」 「くっ……!」 「つ、月山ァ!」 万丈が月山の名を呼ぶが、成す術がない。月山は、衰弱するカネキの肩を、守るようにギュッと抱き寄せる。 そうして、無慈悲な魔女は……悪戯という名の呪いを、その場にいた者たちにかけたのであった。 「きひひ! 悪戯の内容は、『ノーメイクのはずなのに、口をつけたコーヒーカップにことごとく口紅のあとがついちゃう』呪いだよ!!」 明かされる悪戯……呪いの内容。 そして無言。 拍子抜けしたような、沈黙。 ぽけっとしている月山と万丈など気にも留めず、ヒナミに憑りついた魔女は、満足そうに笑いながら、言った。 「それじゃあ今日はこの辺で! また来年のハロウィンには呼んでね! きひひ! ハッピーハロウィーン!」 その言葉と同時に、ヒナミの表情から、歪んだ笑みが完全に消えた。 そして、残ったのは「……あれ? ヒナミ何やってたんだっけ?」と、大きな瞳をくりくりと動かす、いつものヒナミの姿だった。 そうして改めて、魔女が残した呪いの条件を思い出し、月山はため息交じりの笑みをこぼす。 「なんだか、拍子抜けだね」 しかし万丈の方はそうではない。 「いや地味にキツイぞ!? 俺とかも、店でコーヒー飲んだらカップに口紅つくんだろ!? キツイって!!」 「まあ確かにバンジョイのような存在にはいささかHardな拷問かもしれないが、僕やカネキくんのように見た目麗しい存在にとっては逆にセクシーな趣を感じられるし、結果オーライだよ。呪いを心配し過ぎて損してしまったね……ああ、それはそうと! 魔女の脅威も去ったところで、そろそろカネキくんを介抱せねば!! まずは王子様のkissだね!! さあ、目覚めたまえ僕のトリート……」 もちろん、月山がカネキに唇を近づけた瞬間、カネキは最後の力を振り絞って月山を赫子で100回刺し殺した。 そうして、ちょっぴり不思議なハロウィンの日の出来事は終わったのであった。 後日、同じように魔女の呪いにかかっていたカネキが口紅を残したティーカップをこっそり回収しようとした月山は、やっぱりまた100回赫子で刺殺されたのだ。 END ------------------------------------- 有馬家のひとびと ※パラレル。有ササ描写あります。 「ケンは今年で確か20歳だったな」 朝の白い光が窓から差し込んで、食卓に並ぶサラダのミニトマトをつやつやと宝石のように輝かせている。こんがりきつね色に焼けたトーストの上には、とろりと溶け始めた黄金のバター。淹れ立てのコーヒーは白い湯気と共に芳醇な香りを立ち昇らせていた。 理想的なまでに完璧な朝食。 そんな食卓を囲む三人の人物の内の一人、眼鏡の男が思い出したように口を開いた。声に抑揚が少ないせいで感情を読みにくいのが彼の特徴であり、同時に表情や言動さえも一般的な人々より少ないわけで、つまり何が言いたいのかというと、とにかく彼の思考回路は他者にとって想像がひどく困難であるということだ。 有馬貴将は分かりにくい。 それは、現在こうして彼と共に食卓を囲んでいる家族にさえも適応する事実だった。 だから、穏やかな朝の時間、どうして有馬が突然に自分の年齢を確認してきたのか、それを問われたカネキには予想がつかなかった。 ただ、自分が今年で20歳であることは事実だったので、特に何の感情もなく、寝起きで少しぼんやりした頭のまま、「そうですけど」と返事をした。 それを聞いた有馬はコーヒーに口をつけながら、「トイレの電球が切れていたから付け替えておかなくてはな」ぐらいのテンションで、こう言った。 「そうか。それならそろそろお前の結婚相手を決めなくてはいけないな」 有馬の口からその言葉が放たれた瞬間。 カネキは恐るべき勢いで椅子から立ち上がり、弾かれるようにして玄関に向かって走り出した。 目は血走り、漫画の世界だったら眼球が真っ赤に染まっていてもおかしくはない気迫が、逃走するカネキの全身からオーラのような形になって溢れだしていた。必死である。カネキは一も二もなく必死に逃げた。 しかし、そんなカネキのことを嘲笑うかのように、有馬家の最新セキュリティシステムは逃亡を企てるカネキの足首をジャパニーズ忍者屋敷の罠の如くガッチリとホールドし、無慈悲な勢いを持って天井に宙づりにされる体勢でカネキを確保したのだった。 ぶらぶらと天井から逆さ吊りにされた状態のカネキは両目を絶望の色に染めながら、それでも最後の抵抗と言わんばかりに叫んだ。 「嫌だあああああ!!!放せーーーーーーー!!!!」 じったんばったんもがくカネキなどモノともしない鉄製のワイヤーは、無情にぐらぐら揺れるだけだった。そんなカネキの傍へと歩み寄る人影。有馬である。 「新しいクインケの調子は良好だな」 クインケ。有馬家の至る所に設備された防犯用のセキュリティシステムの通称であり、これらは全て有馬が自ら施した装置なのである。それは日曜大工的な趣味であり、有馬の生きがいのひとつでもあった。 クインケによる被害者は主に息子であるカネキだった。 カネキは悔しそうに唇を噛みながら言葉を漏らす。 「いつの間にクインケの数が増えていたんだ……!? 1週間前に作った分布図が完全に無駄じゃないか!」 「この世の全ては諸行無常。常に精進を忘れないことだ」 「ありがたいお言葉痛み入ります!!」 お礼を言いながらも、カネキはこの状況から脱出しようと腹筋を折り曲げて、自分を拘束する鉄の足輪にガリガリと爪を立てている。無駄な抵抗であった。 「ケンくん。そんなにひっかいたら爪が駄目になっちゃうよ」 有馬のものではない声が、カネキの行動を止めようとする。 その声は、もう一人の家族である佐々木琲世のものだった。 今から1年ぐらい前、カネキと有馬が二人で暮らしていた家に、有馬は唐突に琲世のことを連れて来た。 「今日から家族になる佐々木琲世だ」という言葉以外は有馬からは何も聞くことが出来なかった。以来、この家の家族は三人に増えた。 佐々木は有馬とカネキのために毎日料理を作った。カネキも料理は苦手ではなかったのだが、佐々木の作る料理は自分で作る物よりも見た目も綺麗で美味しかったし、何よりカネキは料理を作るためにかけていた時間を読書や運動に充てられることが嬉しかったので、大人しく佐々木の作る料理を食べる。 ちなみに、佐々木とカネキの料理に対するこだわりとか違いとかを簡単に説明しておくと、カネキはオムライスを作る時、普通のケチャップライスを薄焼き卵でちゃっちゃか巻いてハイ終了だが、佐々木は食べる側の人間にチキンライスかバターライスかの好みを聞いてからそれを作り始める。卵はオムレツ状にふっくら焼き上げて、ライスの上に乗せたそれをナイフで切り分け広げる形で食べさせる。 まあ、そんな話はさておき。 「今は爪とかそんなことを気にしてる場合じゃないんですよ佐々木さん!! 有馬さんがこういう突拍子もないことを言い出した時は、必ずろくでもないことが起こるって何年も前からずっと決まってるんです!!」 「ケンくんが怒った……!!」 冷静さを欠いたカネキに怒鳴られた佐々木は、この世の終わりみたいな表情のまま、ヘナヘナと廊下に座り込んだ。 「ごめんねケンくん……僕が不甲斐ないばっかりに……そうだよね……突然現れた僕を家族として受け入れられるわけなんてないしそもそも僕なんかが有馬さんのようにクインクスを纏められるわけなんてないし東京喰種の新主人公だって荷が重すぎたんだ……!」 「そんなこと言ってませんって!!」 旧主人公からの怒声にすっかり消沈してしまった現主人公の佐々木の傍に、有馬がそっと寄り添いながら、言った。 「琲世。落ち込むことはない。お前はよくやっている。ケンだって難しい年頃だからな。たまには反発したくなってしまう時ぐらいあるだろう」 「有馬さん……」 手と手を取り合いキラキラしている有馬と佐々木。 こういう流れが一週間に2回ぐらいの頻度であるのだ。カネキはもう随分と慣れてしまったが、だからと言ってげんなりしないわけではない。 それに、今は佐々木に構っている場合ではないのだ。 「有馬さん! 結婚相手って何ですか!!」 足枷を外してもらうことは諦めた。カネキは宙吊りになったまま、先程食卓で有馬が思いついたように口にした言葉の意味を問う。 有馬は、いつものように眉ひとつ動かさない表情のまま、逆さまのカネキを見上げる形で口を開いた。 「有馬家の掟として、20歳になった子供には婚姻を結ぶための相手を探し選び抜かなくてはいけないという一項目がある。お前には話していなかったか?」 「話してません!! っていうかそもそも有馬さんだって未婚じゃないですか!!」 「細かいことは気にするな」 そう言った有馬の視線は、玄関の入り口の方へと向けられた。 「心配する必要はない。親である俺が責任をもってお前に相応しい婚約者を見つけてやろう」 ガチャリと、扉が開く音が聞こえた。 そして、有馬家の玄関先に、自分たち以外の新たな三つの人影が現れたのである。 有馬は言った。 「ケンの婚約者候補三銃士を連れて来たぞ」 「婚約者候補三銃士!?」 カネキが宙に吊られたまま、ぐるりと器用に視線を反対側へと移す。つまり、今しがた扉が開いた玄関の方を見たのである。 そうして、カネキはまず、驚きによって言葉を失った。 「四方さん!! ウタさん!! それに……」 二人の人名を叫んでから、カネキはこう続ける。 「最近僕に付き纏っているストーカーの人!!」 有馬曰く、「ケンの婚約者三銃士」。 それら人物は、カネキにとって良くも悪くも見覚えのある存在に違いなかった。 まずは四方。彼はカネキのバイト先であるカフェで共に働いているスタッフだった。無口ではあるが面倒見が良く、カネキも彼によく懐いていた。 次はウタ。彼とは四方の紹介で知り合った友人だった。歳自体は少しばかり離れているものの、浮世離れした独特の雰囲気はどこかカネキのツボを押さえていて、会えば気兼ねない会話を楽しめるような相手だった。 そして最後。名も知らぬストーカー男。 いや、嘘だ。名は知っている。というか、後から知った。 月山習。 かの有名な月山財閥の御曹司であり、最近のカネキの悩みの種でもある男だった。 以前カネキがカフェでコーヒーを飲みながら本を読んでいたところ、この月山という男はいきなりカネキに「そこの素敵なキミ。どこかで会ったことがなかったかな」と話しかけて来たのだ。 カネキも最初は(モデルみたいだな……)と思いながらも、こんな知り合いはいない、という考えから「すいません、きっと人違いだと思います」と返した。すると月山は大げさな動作で「やはりか!」と叫ぶ。 カネキが困惑していると、うっとりと目じりを下げた月山が「キミみたいな素敵な人を忘れるはずがない。だけど、僕はどうしてかキミに会ったことがあるような気がして仕方がない。つまり、僕らは前世か、または別の世界線で恋人同士だったに違いないんだ。どうか僕と再び恋人同士になってはくれまいか」と言った。 次の瞬間、カネキは読んでいた本にしおりを挟む暇さえ惜しんで店から逃走した。 後日知ったことだったが、その時の会計は月山が持ってくれていたらしい。食い逃げ犯として警察に突き出されなかったことを一瞬感謝しそうになったが、そもそも月山と出会ったりしなければそんな危険に陥ることもなかったわけで、カネキはぶんぶんと自分の頭を振って冷静になった。 その後、月山はことあるごとにカネキの傍に出没するようになる。 毎日のように花を贈られた。 毎日のように宝石をプレゼントされた。 毎日のように愛を囁かれた。 カネキはカネキで、毎日のように月山に伝説の右ストレートをお見舞いしてから一目散に逃げた。 そんな過程を経て、月山は何故か、今こうしてカネキの目の前に現れているのだ。 有馬の言葉をそのまま受け止めるのなら、有馬が選んだカネキの婚約者候補の一人として、月山が抜擢されていることになる。 カネキは絶望的な気持ちで思った。僕の親、見る目なさすぎ。 「どうして四方さんとウタさんとこの人を選んだんですか!」 宙吊りのカネキの叫びに、有馬はさらりとこう答えた。 「バーで飲んでる時に意気投合した方々だ。きっとお前を幸せにしてくれる」 「有馬さんもう外にお酒飲みに行くの禁止!!」 有馬は酩酊時、ひどく判断能力が鈍るという酔い方をする傾向があった。そして恐ろしいことに、酒が入った時に考えた思考は、酔いが醒めてからも継続するというふざけた体質の持ち主でもあったのだ。 かくして、カネキの意思が尊重されることもなく、有馬貴将による婚約者候補オーディションは始まってしまったのであった。 三人を玄関に立たせたまま、有馬は彼らに質問を投げかける。 「そうだな、まずは歳を聞こう。君たちはそれぞれ幾つだ」 有馬の問いに、端に立った四方、そしてそれに続く形でウタが答える。 「29歳だ」 「蓮示くんと同じだよ」 「29歳……。俺とタメか。それはちょっとキツイな」 確かに同じ歳の息子が出来るとなると精神的に少し厳しいところがある。こうして四方とウタは不合格となり、「お疲れ様でした」という言葉と共に佐々木から差し出されたコーヒーを飲みながら観客席の方へと回った。 残ったのは、ストーカーと言われた月山習ただ一人である。 「君はいくつだ」 「ピチピチの22歳です」 「合格だ」 そこには、固く握手を交わしあう有馬と月山の姿が。 絶望である。 カネキは叫びそうになった。 カネキの絶望を他所に、有馬と月山はHAHAHAHAなんて具合に話に花を咲かせ始める。 「キミとは以前一緒に飲んだ時からいろいろ美的感覚などが共感できると思っていたんだ」 「ありがとうございますお義父さん。美に対する価値観の一致は何よりも大切ですからね」 妙な友情で結ばれた両者。月山は勿論のこと、有馬は有馬で、独自の価値観の元に人生を送っている節があるのだ。二人が意思の疎通に成功したことは偶然ではないのかもしれない。 有馬の価値観。 丁度いいので、ここでカネキと有馬の出会いについてを少しばかり解説させてもらう。 カネキは幼い頃、狂った殺人犯によって本当の両親を殺されたという過去を持つ。 かつて暮らしていた一般的生活水準をそのまま具現化したかのような自宅で、血の海の中で息絶える両親の亡骸を呆然と眺めていたカネキは、突如として現れたひとりの男の存在によって、命を救われた。 男とは、偶然その場をふらついていた有馬のことである。 何か妙だなと思って、その妙な雰囲気の家屋に土足で失礼したところ、有馬は凶悪殺人犯、そしてカネキの両親の亡骸、あと幼いカネキと対峙した。 有馬は特に何を思うこともなく凶悪殺人犯の腹を所持していたバールのようなものでサクッと貫いてお星さまにした後、血の海の中呆然としているカネキ(親を殺される時のストレスで髪が白くなった)(まるでマリーアントワネット)を観察し、その雰囲気に何か光るものがあるような気がしたという想いのまま、やはり特に表情を変えることもなく、小さなカネキをお持ち帰りした。 そうして有馬の子育てライフは始まったのだ。 意外とお祝い事を大切にする有馬は、カネキの誕生日を知らなかったのでとりあえず自分と同じ12月20日にした。おそろい☆ と、そんな感じで、有馬は少しばかり普通の人とはズレてる感性を持って生きている男だったので、やはり普通の人と少しズレている月山習とは奇妙に波長があったのかもしれない。 しかし、そんなことで月山が自分の婚約者として家族の一員になってしまったらカネキの人生は完全に破滅だ。カネキは嘆くような気持ちで現状を理解した。 「さあ、最終テストだ」 カネキが絶望、そして月山が希望を抱いて未来を見つめていたその時、有馬の抑揚のない声がひとつ、響いた。 それと同時に有馬は手の平の中に収めていたスイッチのようなものを、ポチリと押す。 すると、カネキの足を拘束していたクインケが、音を立てて解除されたのだった。 「!!」 突然の自由にカネキは動揺しながらも、ひとまずくるりと一回転して廊下へと降り立つ。頭に血が上っていて多少クラクラしたが、それくらいだ。動こうと思えばいつでも動ける。 有馬は言った。 「ケンと婚姻する男は、まずケンよりも強くなくては話にならない。さあ、本気でケンと夫婦になるつもりがあるのなら、ケンを超えてみせろ、月山習!」 めずらしく凛としている有馬の声が響いた。カネキは咄嗟に状況を理解する。 有馬家の掟。旦那はいつの時代も嫁を守るために強くなくてはいけない。 つまり、カネキに敗北するような月山では、カネキの伴侶に相応しくないのだ。 カネキは、一発逆転の光を見た。 「さあ、愛のために戦うんだ」 「そういうことなら、行くよカネキくん!!」 月山が、自由になったカネキの元へと走り込んで来る。その拳は固く握られていた。戦う意思。オーケー。カネキは、今の瞬間まで自分に降りかかった様々な理不尽を、まるで糧にでもするかのような気持ちで、目を閉じ精神を集中する。 そして、迫りくる月山が目と鼻の先に感じられた瞬間、カットインと共に、カッ!! 「有馬流必殺奥義、殺劇舞荒拳!!!」 カネキの渾身の秘奥義が、月山の腹にクリティカルヒットした。月山は家の壁を貫いてから庭先に投げ出され、ピヨピヨと頭上でひよこを回していた。 「どいつもこいつもいい加減にしろ!!」 普段のカネキらしくもないダーティーな言葉と共に、第一回婚約者選出回は幕を閉じた。 カネキの有馬流必殺奥義を見た有馬は満足そうな笑顔を浮かべながら「ケン……強くなって……」と美しく微笑んでいた。佐々木と四方とウタはコーヒーをのみのみクッキーをたべながらモコズキッチンを見ていた。 その日、月山習は完全にカネキに敗北した。 しかし一度や二度で諦める月山ではない。彼は今後、何度も何度もカネキに結婚を前提にした交際を申し込みながら決闘を始めることになるし、カネキも仕方なくそれに応じるわけである。 そんなこんなで月山は、カネキを殴ろうとした返す手の平で薔薇の花束を贈ったり、必殺技を叫んだ同じ口で愛の言葉を絶え間なく囁き続けてた努力が実り、その内なんやかんやでカネキが絆され月山はカネキを一度も倒すことなく恋人の座を手に入れ再び有馬に挨拶へ向かおうとするのだが、そこで立ちふさがるのは有馬家の掟。 有馬が選んだ男は、カネキを倒さなくては婚姻を結べない。 それとは逆に、カネキが選んだ男は、有馬を倒さなくては婚姻を結ぶことが出来ないのだ。 それが有馬家のルール。つまり、カネキに選ばれた月山は、今度は有馬を倒さなくてはカネキと結婚することが出来ないわけである。 一難去ってまた一難。月山の苦悩は、有馬家の人間と関わる内は永遠に続くことになるのだが、まあ愛があるのできっと幸せな日々だろう。 END ------------------------------------- ずっと後悔していることがある。 その後悔は僕の胸を蝕みながら奥へ奥へと侵食する。 僕は呼吸の仕方を忘れてしまう。苦しくて苦しくて苦しくて前が見えない。 あの日どうして彼について行かなかったのだろうと、そんなことを今になってずっと考えている。いや、違う。今だからこそそんな無責任なことを考えることが出来るのだ。 あの日僕は恐れた。自分の中に潜んでいた「臆病」という感情と初めて対峙した。臆病は僕の足を竦ませた。死の恐怖。圧倒的な喪失の気配。打つ手なんて何一つ存在しなかった。絶望のプール。彼はそんな場所へと飛び込んでいこうとした。僕は自分の命を惜しむと同時に彼を失いたくないとも思っていた。その想いは殆ど切実な祈りだった。僕は死にたくなかった。彼を失いたくなかった。つまり僕は彼と共に生きていたかったのだ。彼に必要とされることが嬉しいと気付いた瞬間から心のどこかでこの先もずっと一緒に何気ない会話なんかを繰り返しながらいつしか「当たり前」のようになっていた日々が続いていくんだと無意識の内に信じていた。 僕は知らなかった。そういう日々が大した理由もなく突然終わっていくことは決して突飛な出来事なんかではないのだということを。 そうだ。僕は喪失を知らなかった。だって僕の人生にそんなものは存在しなかった。そうしてあの日、僕はそれを初めて知ることになった。 天秤にかけたのは、きっと自分の命と、彼の存在。 僕は彼について行くことが出来なかった。 そうして今、僕はそうやって選び取った自らの命をまるで持て余すように、「どうして自分はあの時彼について行かなかったのだろうか」なんて無責任なことを考えながら、悲しみの澱に沈んだままの日々を送っている。 選び取った命が僕を責めている。どうしてついて行かなかったんだ。どうしてこんなものを選んだんだ。あの日足を竦ませた恐れさえ忘れてそんなことを考えながら、僕はまるで死んでいるかのような日々を送っている。 僕はいつの間にか、望んで手に入れた自らの命そのものを本当の意味で失っていたのである。それが僕の胸に巣食っている後悔の正体だ。あの日の選択を誤った結果、僕は全てを失ってしまったんだ。 目を閉じていても開いていても襲う途方もない後悔から逃れるために、僕はまたひとつ選択をした。 そうして僕は眠りについた。眠りは僕を残酷な現実から守ってくれた。彼を失った事実を隠す優しい夢の中でだけ、僕は呼吸を取り戻すことが出来たのだ。 メーデー 「あれ?」 見覚えのない景色の中にいる。 僕はどこまでも続く道の真ん中に立っていた。 道の両脇には、眼下を埋め尽くす程の真っ赤な彼岸花が咲き乱れる。 世界を焼き尽くすような夕焼け。僕は目を細める。ここはどこだろう。 ふらふらと何かに導かれるように歩いた。夕闇は僕の背中に寄り添うようについて来る。 僕は「行くあても」、「目的もないまま」、「歩き続けた」。 この場所を。 どれくらい歩いていたのだろう。 僕の前方で、何か黒い影のようなものが揺らめいた気がした。 その影は、広大な茜色の空を背負うように、ぼんやりと頼りない足でそこに立っていた。 影がこちらを振り向いた。逆光の中で曖昧になるその顔に、それでも僕は目の前の人物が誰であるのかにしっかり気が付いた。気が付いてしまった。 僕が言葉を失う代わりに、目の前の影が口を開いた。 「月山さん?」 祈るような気持ちで焦がれ続けたその声が鼓膜を揺らした瞬間、僕は静かに理解した。 これは僕が見ている夢だ。 そして同時に思った。 夢でもいいかなって。 「カネキくん」 自分の声が震えていないことを願った。僕はゆっくりとした足取りで影の方へと歩み寄る。 そこにいたのは出会ったばかりの頃と同じ姿をした黒髪のカネキくんだった。 僕はそこでまたこの世界が自分の夢でしかないことを自覚して悲しいような虚しいようなそれでも少しだけ嬉しいようなそんな気持ちになって苦笑する。 黒髪のカネキくんは僕を見上げながら僕の名前を呼ぶ。少し驚いたような顔は、黒髪だった頃のカネキくんが僕によく見せていたような気がしたから、ああやっぱりこのカネキくんは僕の想像が作り出した夢でしかないんだなあとしつこく考える。 しかし同時に思った。僕はどれほど、この時代のカネキくんのことを知っているというのだろう。 上井大学での彼。高槻がよく訪れると言われていた例のカフェでの彼。レストランでの彼。教会での彼。僕らの記憶はほんの僅かな回想で全てが終わってしまう程の時間でしかなかった。そんなことをぼんやりと思い出していると、僕はまた別の種類の後悔を覚えそうになる。 今ならもっと上手くやれるのに。あんな真似はしないのに。二人の出会いをもっと大切に出来たのに。 別の種類の後悔。だけど根本は、あの日カネキくんの背中を追わなかったという事実に対するそれと変わりはしなかった。 迎えた未来の先で、過去の自分が知り得ないそれを盾にして、記憶の中で生きる自らを、殆ど身勝手に責めるだけの、救いようが無い愚か者。 それが僕だった。全ての時間軸に立つ僕自身だった。 後悔の海に沈むのはとても苦しい。だから僕は眠りに逃げた。逃げた先に存在した夢の中で、こうしてかつてのカネキくんと出会うことが出来た。 少しだけ、僕を取り巻く後悔の苦しみが弱まった気がした。 「君は僕の夢だろう?」 向かい合ったカネキくんに、僕は直球の質問をした。 カネキくんは「えっ」と言葉をこぼす。 えっ。 僕は脳内で同じ言葉をこぼす。えって何だいえって。 そして黒髪のカネキくんは、少し考えるような素振りを見せてから、一言。 「多分……」 多分って。 僕の夢なら僕の夢らしくハッキリして欲しい。 ハッキリして欲しい、なんて、他でもない「カネキくん」に求めている僕自身に違和感を覚えた。 僕がカネキくんにこんな思考を抱くことは珍しいっていうか殆どない。全ては彼の仰せのままに、が僕の基本スタイルだった。 ……カネキくんがいたころの話だけど。あっ駄目だ何かまた鬱。 せっかく夢の中だとしてもカネキくんに会えたのに。 だから僕は、そのままの気持ちを言葉にする。 「……会えて嬉しいよ、カネキくん」 「ええ、僕もまた月山さんに会えるとは思ってませんでした」 素直でソフトリーなカネキくん。髪の毛が黒い頃だってせいもあるのかな。 そういえば昔、僕はリトルレディを巻き込んでカネキくんをかつての……そう、丁度こんな風なカネキくんに戻してあげたい、なんてことを考えていた。 あの頃はカネキくんを食べやすくするためにそんな行動をしていたんだと自分自身で思い込んでいたけれど、今ならその本当の意味を正しく理解することが出来る。 僕はきっと、カネキくんに心から穏やかに笑って欲しかったんだ。 拷問で髪の毛が白くなってからのカネキくんの表情はいつもどこかピリピリと張りつめていた。全てを守るために自分を犠牲にすることをいつだって厭わないという空気が彼の全身を取り巻いていた。確かに、そんなカネキくんもハードで美しかった。 だけどいつしか、僕はカネキくんの心の安穏を望むようになっていた。 それは紛れもなく、愛という感情から来る想いに違いなかった。 (どうして気付かなかったんだろうなぁ……) 黒髪のカネキくんの丸い頭をぼんやりと見下ろしながら、僕はまたひとつ後悔する。息が苦しくなる。あの時ああしていれば良かった。そういう気持ちは全てを失った後では何もかもが無意味であり、だからこそ息の詰まるような後悔というものは永遠にこの世界から無くなったりはしないのだ。 僕とカネキくんは彼岸花が群生する道の真ん中を並んで歩いた。やはり行き先は分からない。それでも、何とはなしに歩き続けた。僕は自らの辿り着く先を気にしたりはしなかったし、黒髪のカネキくんもそんなことを聞いたりせずに僕の隣を歩いてくれた。 「月山さんは今までどうしてたんですか?」 カネキくんが何でもないことのように僕に問う。まるで何年かぶりに再会した旧友への言葉のようなその質問に、少しだけ戸惑った。 僕はカネキくんと離別してからの自分のことを思い出す。 泣きながら後悔して後悔して後悔して、結局眠りの中に逃げ込んだ僕の姿。 ……僕は何をしているんだろう。 でも仕方ないじゃないか。だってカネキくんがいないんだ。カネキくんが僕を置いて行ってしまったんだ。 そうだ、カネキくんが悪いんじゃないか! 僕は唐突に湧いた凶暴なその気持ちに背中を押されるまま、それでも最後の理性を働かせ、声を荒げるような真似はせずに、僕は投げやりな口調でこう言った。 「眠っていたよ」 「眠ってた?」 カネキくんは不思議そうな顔で僕を見た。 その目の色に、僕の中の凶暴な気持ちがまた少し強くなる。僕は言葉を続けた。 「そうだよ。だって君がいないんだ。仕方がないだろう。目を覚ましていると、君がいなくなったあの瞬間のことを思い出さずにはいられなくて、苦しくて苦しくて仕方がないんだ。呼吸の仕方が分からないんだ。水の中でもがいているような感覚がずっと僕に付き纏うんだ。そうだ、苦しいんだよ。そしてどんなに苦しんでも君は帰ってこない。仕方ないじゃないか。そうだ、仕方ないんだよ!」 僕はだんだんと自分の語気が荒くなっていくのを感じていたが止められなかった。 どうして僕を置いて行ってしまったんだ。どうして君がすべてを背負わなくちゃいけなかったんだ。どうして何もかもを救おうなんて無謀なことを考えるんだ。どうして自分を大切にしてくれなかったんだ。どうして! 「……ごめんなさい」 カネキくんは僕に謝った。僕はそんな彼の表情を見る。カネキくんはムスッとした顔だった。 えっ何故。言葉と表情が一致していない。それじゃあしぶしぶ謝っているみたいじゃないか。 僕が怪訝に彼のことを見つめていると、カネキくんは思い出したような口調で、突然こんなことを話し出した。 「そうだ、月山さん。何かの本に書いてあったんですけど、一人の人が一つの夜に見る夢は大きな一つの物語の破片で、全世界の全員の全部の夢を繋ぎあわせると長くて面白くてびっくりする物語が出来上がるらしいですよ」 「うん?」 僕は単純に混乱した。 どうして今そんな話をするのだろう。 でも聞いたことがある話だった。 何の本だったかは僕も忘れた。 全ての夢は地続きで繋がっているんだ。面白いなと思った記憶がある。 「……僕、あの時。月山さんが僕を止めてくれたこと、本当に嬉しかったみたいですよ」 突飛な話を始めたと思った次の瞬間には、また別の話を他人事のような口調で語りだす。 僕は完全にカネキくんのペースに巻き込まれていた。 何だって言うんだろう。カネキくんはこんな性格だっただろうか?いや、そもそも先程も言ったけれど、僕は黒い髪のカネキくんとはほんの僅かな時間しか一緒にいられなかったから、彼の本質を知ることなんてそもそもが無理な話だったわけで……。 戸惑う僕を気にも留めず、カネキくんは言葉を続ける。 「嬉しかった。こんな風に僕を求めてくれる人たちと一緒に生きていけたら、きっと幸せだったんだろうなって思った」 「……全てが過去形なんだね」 僕は嘆くような気持ちでそう言った。カネキくんが「あ、本当だ」と笑う。よしてくれ。笑っている場合ではないだろう。 カネキくんは向こうの夕焼け空の方を見つめながら、言った。 「うん、どんなに苦しくても、どんなに残酷でも、やっぱり僕はちゃんと呼吸をしながら、あの世界で生きていたかったんだと思います」 「……それならどうして、あの時……君は死地へと向かったんだ」 僕の問いに、カネキくんはどこか底の見えない微笑みを浮かべる。僕は心の内を見透かされたみたいな気持ちになって、ドキリとした。 「その理由なら、本当は月山さんが一番よく分かってるんでしょう?」 「………」 そうだ。 本当はとっくに分かっていた。 カネキくんは言葉を続ける。 「僕は僕の大切なものを失いたくなかった。大切なものを諦めてまで生きた先で、後悔しないでいられる自信がなかったんだ。そう考えた時、僕にとっての生きる意味って、きっと大切な人たちと笑っていることなんだって思ったんです」 「……ああ、そうだね」 僕はあの日、カネキくんの背中を追わず、自らの生にしがみ付いた。 そうして選び取った未来の先にあったものは、生きることを殆ど放棄しながら眠りの中に逃げ込んだ、愚かな僕自身の姿だった。 僕は何のために生きているんだろう。 『大切なものを諦めてまで生きた先で、後悔しないでいられる自信がなかったんだ』 カネキくんの言葉が僕の胸を無遠慮に突き刺すと、そこからは音もなく赤い血がこぼれ出す。僕は自分の胸から流れていくその赤をじっと見つめていた。そしてやがて気付いたのは、それは血などではなく夕焼けによって照らされた世界そのものの色であるという事実だった。臆病者の僕は、彼のために血を流すことさえも出来ないのだ。 カネキくんは生きたかったと言った。きっとそれは彼の本心だった。 僕は彼の求めていたものを手に入れたはずだった。自分の命を惜しんだ結果がこれだ。僕は生きることを選んだのに。カネキくんが生きられなかった世界で呼吸をしていたはずなのに。 僕は何をやっているんだろう。何をやっていたんだろう。出来ることがあったはずだ。しなくてはいけないことがあったはずだ。あの日カネキくんと共に行かず、選び取った自分の命すべてを使ってでもやるべきことがあったはずなんだ。 カネキくんがこの世界にもういないかもしれない。死んでいるかもしれない。そんなことが何だって言うんだ。僕は彼を探さなくてはいけなかった。カネキくん本人がいないとしても過去の記憶全ての中から彼の存在を探し出して拾い集めて生きていくことだって出来たはずなんだ。これは例えばの話だけれどカネキくんの思い出を拾い集めて言葉にして文字にして紙へと変えて物語として紡いでいくことだって出来たはずなんだ。そこにもういないカネキくんを過去というイメージの中で生かすその行為が本物の彼を失った僕の胸にどれほどの悲しみを与えるかなんて想像しなくても理解できることだったけれど、それがあの瞬間この命を選び取った僕がしなくてはいけないことだったのではないか?少なくとも全てに目を閉じて耳を塞いで眠りの世界に逃げ込んでしまうことよりは確実に実りがあるだろう。カネキくんという痛みを忘れないことが、カネキくんを失った世界に与えられるべき罰なのだ。 それなのに僕という男は、今の今まで何もしないで眠り込んでいたというのだ!!! 「……すまない」 僕はもう、それ以上歩くことが出来なかった。 夕日が照らし出す彼岸花の道。僕は膝を折り呆然と停滞する。 涙が頬を伝って、自分の惨めさを嫌というほど思い知る。 俯いた目線の先に、カネキくんの靴の爪先が映り込む。僕の頬に、何か柔らかいものが触れた。 それは、カネキくんの指先だった。 夢の中のカネキくんには、確かな温度があった。 「後悔するのは、苦しいですよね」 僕は頭を上げた。すぐそばにカネキくんの顔があった。僕らの視線が混じり合う。カネキくんの大きな黒い瞳の中には、鏡のような形で僕の姿が映り込んでいた。 「苦しくても、辛くても、生きていくことしか出来ない僕たちは、きっと深い海の底でもがいているような日々をこれからもずっと送っていくんだと思う。それでも僕は生きたいと願った。月山さんが僕を止めてくれた時、本当に嬉しかった。僕を食べるためだけに近付いていたと思ってた月山さんが、あんな風に泣いてくれるなんて前までは考えることも出来なかった。でも、もう違うんですよね。信じていいんですよね。あなたを信じられるようになれたことが嬉しい。そういう瞬間があるからこそ、僕は生きることをやめたくなかった。世界なんて時々美しいくらいで丁度いいんです。だからきっと、苦しみの先でもう一度呼吸が出来る瞬間を求めること自体が、生きてるってことなんだと思います」 あれ? 僕はその時、なんだか不思議な違和感を覚えた。 黒髪のカネキくんは僕へと微笑みながら言葉を紡ぐ。目線の先には僕がいる。 だけど、どうしてだろう。 黒髪のカネキくんと、僕。 それ以外に、何かまた別の存在が、ずっと僕らの会話の中に存在しているような気がしたんだ、唐突に。 そして僕は、ふいに先程のカネキくんの言葉を、思い出す。 一人の人が一つの夜に見る夢は大きな一つの物語の破片で、全世界の全員の全部の夢を繋ぎあわせると長くて面白くてびっくりする物語が出来上がるらしいですよ 一人の夢は大きな物語の断片。 全ての夢は地続きに繋がっている。 眩い光が僕の脳内で瞬いたかのように、僕は思った。 そして、思いついたその考えは、殆ど無意識の内に、僕の口から零れ落ちたのだ。 「カネキくん……君は……カネキくんが見ている夢なのか……?」 黒い髪をしたカネキくんは、何も答えずにっこりと笑った。 そして、そのまま何故か僕の背後に視線を向けながら、こう言った。 「もしも月山さんが、僕を失ったことを後悔してるから苦しいんだとしたら、ひとつお願いをしてもいいですか?」 「お願い?」 「はい。あなたの言う通り、僕は彼が見ている夢なんです。それがどういう意味か、分かりますか」 僕は目を見開いて、その言葉の意味を理解する。 カネキくんが見ている、黒い髪の毛をしたカネキくんの夢。 カネキくんの夢の断片が、僕の見ている夢の断片と繋がり、奇跡のように隣り合っている。 そう、カネキくんは夢を見ている。 つまり、カネキくんは……。 「カネキくんは、どこかで生きている……!?」 僕が呆然とそう呟くと、黒い髪をしたカネキくんは、そっと僕の後ろを指差した。 その指先に導かれるように、僕は自分の背後を振り返る。 そこにあったのは、どこまでも深い藍色をした、ひとつの水たまりだった。 水たまりの中から声が聞こえて来た。すぐにでも消えてしまいそうな弱々しいその声が、かすかに僕の鼓膜を揺らす。 声は誰かを呼んでいる。だけどその誰かが誰かなのかは分からない。呼ばれているのは誰なのか、僕には分からない。 それでもひとつだけ分かったことがある。 誰かを呼んでいるその声の主は、カネキくんと同じ声をしていた。 水たまりを覗き込む僕の背後で、黒い髪をしたカネキくんの声が響いた。 「世界はいつだって息も出来ない程の悲劇に満ちている。だから僕らは誰かを求めてあがいている。誰かを助けたいと願いながら、同時にいつだって誰かに助けてもらいたいと願うんだ。……僕は彼に助けて貰った。彼は弱い僕のかわりに戦ってくれた。僕も彼を救いたいけれど、今の僕にはそれが難しいってことだって分かってる。だから、月山さん……」 水たまりへ視線を向けていた僕の顔が、ふいにぐるりと後方へと無理やり振り替えさせられる。 僕の頬を掴んだのは、背後に立っていた黒髪のカネキくんだった。 次の瞬間、見開かれた僕の視界には、カネキくんの顔がいっぱいに映り込んできた。 カネキくんは、僕に口づけをしていた。 その時、僕は今まで忘れていた何かを思い出した気がした。 忘れていたこと。それは呼吸の方法だった。 カネキくんの呼吸が唇を伝って僕にその方法を思い出させる。 僕は目が覚めたような気持ちになった。 「よろしくお願いします☆」 カネキくんはにっこりと微笑んで、そして。 僕の体を、深い深い水たまりの方へと、突き飛ばした。 僕は鈍い藍色をした水の中を凄まじい勢いで沈んでいく。 そしてその時、痛む眼球の上を様々な映像が確かに滑って行った。 父の死。母の死。孤独。喰種。拷問。母の死。孤独を恐れる臆病。傷付き傷付き傷付いてでも進んでいく二本の脚。親友にだけは伝えられない自分の秘密。消えた。消えた。消えた。足元に広がる花のような無数の死体。眼球を貫くクインケ。 夢。 僕は沈んでいく。暗い水の中を沈む途中で、様々なことを理解する。知ってしまった。彼の全てを。 それを知った瞬間、もう戻れないことは分かっていたしそもそも戻るつもりもなかった。 沈んでいく。どこまでも沈んでいく。自らの意思で、進んでいく。 そしてついに、その最深部で見つけた。 膝を抱えて蹲っている、白い髪をした彼は……。 「カネキくん!!!」 驚いたような色違いの両目が、確かに僕の姿を仰ぎ見た。 バアン!!という音を立てて、沈黙を保ち続けていたその扉は開かれた。 「習様!!?」 驚愕に目を見開く松前の姿を素早く見止め、僕は寝起きの声で叫んだ。 「今すぐカネキくんの情報をかき集める!!」 僕の言葉に、その場にいた全ての使用人が、動揺の色を浮かべた目のまま固まった。 カネキくんの捜査は、CCGによる20区襲撃の後、月山家の総力を挙げて何度も何度も行われたことだった。 しかし、その捜査はいつだって残酷な結果だけを僕に知らせるばかりであり、僕は結局、全てに絶望して2年間に及ぶ睡眠へと逃避してしまったのである。 しかし、今は違う。 僕は使用人たちに向かって、高らかに声をあげる。 「カネキくんが僕を呼んでいる!!」 勢いに任せてそう叫んでから、僕は少し思案しつつ、言い直した。 「いや、カネキくんが呼んでいるのは僕じゃないのかもしれない。でもそれでも構わない。どうでもいい。カネキくんが誰かを求めている。だから僕は彼を助け出さなくてはいけない!!」 僕が声を荒げていると、戸惑いを露わにしていたはずの松前は、いつのまにか両目に涙を浮かべていた。 そうして、「習様が元気なお姿にお戻りになられた……!」と歓喜の言葉をこぼした。 そんな松前の声を合図に、屋敷中の使用人たちが万歳三唱と共にバタバタと行動を開始し始めた。 カネキくんの情報を集めるために走り回る。こんな光景は久しぶりだった。屋敷内に活気が満ちる。僕はかつてない情熱に心を燃やしていた。 必ずカネキくんを見つけてみせる。彼が呼んでいるのならば、僕はその声に答えなくてはいけない。 僕の呼吸を忘れさせたあの日の後悔。それを払拭できるのは、やはり僕自身でしかないのだということに気付いた瞬間から、僕は再び息を吹き返した。 そしてきっと、今もまだ深い水底で蹲るカネキくんに、夢の中のカネキくんに誓って、呼吸と口付けを届けてみせる。僕の胸は不思議と高揚していた。 旧友のホリチエが、カネキくんの存在に繋がるクインクスという組織の情報を仕入れてきたのは、僕が呼吸を取り戻した数日後のことだった。 END |