月山アンダーザブリッジ


CCGによるあんていく襲撃の一件が片付いた後、カネキは松前という喰種と接触した。
顎のラインに合わせるようよう、まっすぐに切りそろえられた黒髪の女性は、自分のことを月山家の使用人であると説明し、カネキを新しい住居へと案内してくれた。
どこにでもあるような普通の車(あえて目立たないようにしているのだろう)で、件の住居へと移動する道すがら、松前はこうなるまでの経緯をカネキに説明した。
彼女曰く、月山はカネキと別れたあの夜、せめて自分に出来ることをと、CCGから逃れたカネキが身を顰められる場所を用意して、毎晩毎晩泣いたり発狂したり、時には何も語らず床と仲良くしながらカネキの帰りを待っていたということである。
あの時の月山のことを、カネキは車の助手席に背中をもたれさせながら、ぼんやり思い出していた。
カネキが無謀だとしか思えない特攻を静かに決意したあの時、月山は彼らしくもない姿でカネキを引き留めようとした。
涙と涎でべたべたになった顔面、何時間もかけてセットしていると得意げな本人から話を聞いたはずが無造作に乱れたヘアースタイル、普段の彼からは考えられない程の適当な服装。どんな時にも彼から失われることのなかった、彼を彼たらしめる「余裕」という要素をとことん排除した立ち振る舞い。カネキは少なからず驚いた。
あの月山が、こんなにも必死になって自分を引き留めようとしているという事実に。
月山は今までだって確かにカネキへの執着を隠そうとはしなかったし、その優しげな態度はカネキの警戒と言う名の砦を崩すための一つの手段であることをカネキ自身が誰よりも自覚していた。
以前、月山に喰われそうになったあの時の記憶を、カネキはいつまでも忘れないようにと気を張り詰めながら生きて来た。それは月山がカネキの「剣」となろうと誓ったあの日から始まった意識でもあった。
月山はカネキを食材として愛している。カネキを食べたいと心の底から願う気持ちがあるからこそ、月山はカネキに住む場所や食事や衣服を提供し、また、月山にとっては価値を感じられないはずのカネキの大切な仲間たちにも同様の待遇を施している。全てはカネキを油断させ、カネキに取り入り、カネキの肉をいつか自らの下の上で転がすための行為なのだと、少なくともカネキは信じていたし、疑いもしなかった。
しかし、あの時、月山が泣きながらこぼした言葉。
いつか聞いたものと同じ音で紡がれたと思った言葉の始まり、「後生だ」というそれに続いた、
「行かないではくれまいか」
という、その声。
カネキは、泣きながら地面に倒れ伏す月山が、殆ど混濁としているであろう意識の中でカネキに向けて呟いたその言葉を聞いた瞬間……今まで月山に向けていた、警戒心とか疑念とか、そういう感情を、驚くぐらい素直に取り払った。
そもそもカネキは、月山習という存在自体を、そこまで嫌っていなかった。
それは、父親を早くに亡くし、間もなくして母さえも過労を理由に失ったというカネキの過去にも深く絡んで来る心情でもあった。
カネキは、自分を特別視し、誰よりも優先し、何より……そう、単純に「選んで」、「求めて」くれる存在を、心の深層で確かに望んでいる節があった。
月山はカネキを最優先する。
それが、例え最高の美食として手放せない気持ちから来ているものだとしても、月山の脇目を振らない献身は、少なからずカネキの心を揺らした。カネキもそれを分かっているからこそ、月山に油断をしないようにと、いつも自分の心を律することに余念がなかった。
だけど、あの時。
カネキが無謀だとしか思えない特攻を決意した、あの瞬間。
月山は、脇目もふらずにカネキを止めにやって来て、行かないでくれと、縋った。
白状してしまうと、カネキは月山のその態度に、確かに絆された。
かつて、死という別れ際に同じ温度で放たれたはずの月山の「後生だ」という言葉の後には、一口食べさせてくれという旨の発言が続いたはずだった。しかし、カネキが死地へと向かおうとしたあの時、月山は確かに「行かないでくれ」と言った。
その言葉を聞いた時、涙と涎と鼻水にまみれた月山を見下ろしながら、カネキは純粋な気持ちで彼に好意を抱いた。警戒や疑心を必要としない、どこまでも純粋な好意だった。
そうしてカネキの口からこぼれた言葉は、「止めに来てくれてありがとう」という、シンプルな感謝の言葉だった。

(月山さん……)

松前の運転する車の助手席に座りながら、カネキは何の打算もなく、ただ純粋に、月山に会いたいと思った。
会って話がしたいと思った
。まずは礼を言いたい。こうして自分が帰れる場所を用意してくれていてありがとうと。自分が不在の間に、ヒナミちゃんや万丈さんや仲間たちを守ってくれていてありがとうと。
そして、月山自身が、自分を待っていてくれてありがとうと。
ここに至るまでの経緯についての説明は勿論あるが、今はとにかく、皆に会いたかった。あんていくに向かう前、自分を待っていてくれたであろう仲間たちに。そして、ボロボロの姿を見せながらも、自分を追いかけてきてくれた月山に。ただ、会いたかった。

「こちらでございます」

松前の運転する車は、やがて一件の建物の前で停車し、カネキは彼女に促されるまま外へと足を踏み出した。
以前、カネキが月山から提供されていた住居と似ているその建物。カネキはどこか懐かしいような気持ちになりながら、松前の方へと振り向いた。

「送ってくれてありがとうございます。皆は中にいるんですよね」

カネキの問いかけに、松前は至って冷静な声で答えた。

「はい。カネキさんの仲間であり、習さまによってお守りしろとの命を受けた者たちは、この場所で安全に暮らしているはずです」
「そう……」

彼女の話を聞く限り、ヒナミ、万丈、そしてイチミ、ジロ、サンテ。
皆はCCGの脅威に脅かされることもなく、平和な生活を享受できているようだった。何よりだ。
そして、カネキが気になることは、もうひとつ。

「……月山さん、次はいつ頃ここに来るかな。会って話がしたい」

そう呟いたカネキの表情には、僅かな警戒の色さえも滲んでいなかった。
以前のカネキならばありえないことだ。
カネキは自ら望んで月山を利用し傍に置いていたが、それはいつだって一定の距離を置いた先にある仲間意識だった。
月山はカネキの肉に魅力を感じ、それをいっそ胴欲なまでに求めていた。カネキが今のような強さを持たぬ頃、月山は身勝手極まりないステージを用意し、カネキを完全に食べ尽そうという計画を立て、結果としてトーカに殺されかけた過去を持つ。尤も、殺されかけたのはカネキとトーカも一緒なのだ。同じく月山の計画に巻き込まれたニシキの恋人である貴未と、そしてニシキ自身が負った被害のことを考えると、トータルで酷い目に合ったのは間違いなくカネキサイドであるため、月山の瀕死は自業自得と言っていい。
そんな過去を経ての今なので、カネキが月山を側に置きながらも信用することなく、警戒をいつも怠らなかったのは、当然の対処であったのだ。
そのカネキがたった今こぼした、月山に会って話がしたいという言葉には、月山を拒絶するような意思を孕んだ音が、僅かにも浮かんでいなかった。
恐らく、少しでもカネキと交流を持ち、尚且つカネキの月山への常時の態度を知るものであれば、誰だってその変化に気が付くことが出来ただろうし、気が付いた瞬間、恐らくこの世の終わりの光景でも覗いた時のような表情を浮かべていたに違いない。
例えば万丈が聞いていたとしたら「どうしたカネキ!? 月山の野郎に何か弱みでも握られたのか!?」と全力で心配してくれただろう。
しかし、そんな風に驚愕してくれる者は、残念ながらカネキの声の聞こえる範囲には存在しなかった。
生憎、万丈、そして彼の愛すべき舎弟たちは現在、扉の向こう側の存在だ。カネキの言葉は室内に足を踏み入れる前に紡がれたものであったため、誰に突っ込まれることもなく、松前の鼓膜を揺らすだけの言葉として響き、そして消えた。
そう、松前はカネキの言葉を聞いていた。
ここに来るまでの間、交わした会話の中で紡がれる彼女の声はとても冷静なものだった。
物語の中に登場する優秀な秘書をそのまま抜き出してきたような完璧な言葉遣い、無用な抑揚を完全に排除しつつ、それでも敵意が滲んでいるわけではない無機質で機械的な声。変に感情を込められるよりも信用できるとカネキは思った。
松前とは、以前からそういう間柄だった。月山という存在を介して交わされる事務的な対応。彼女が月山という男を心から信頼し尽していることが分かっているからこそ、温度と私情を徹底的に欠いたやり取りの方がカネキにとっては楽だった。実際、松前までもが月山のように胡散臭い言葉でベタベタとカネキの心に土足で入り込んで来ようとする存在だとしたら、カネキの心労は今よりもっと大きなものになっていたに違いないだろう。

「……習さまは、恐らくしばらくはこの場所に訪れないと思います」

それは、松前がカネキに向けて発した言葉だったのだが、一瞬、カネキはそれが松前の口からこぼれた言葉だということを、理解出来なかった。
しかし、自分の傍にいるはずの存在は、松前ただ一人のはず。誰かの声がカネキの鼓膜を揺らしたのなら、それは彼女のものである可能性が高いはずだ。
それでもカネキが、松前の声を一瞬でも彼女のものだと判断できなかった、その理由。

「……松前さん?」

それは、今まで徹底的なまでに機械的な対応のみでカネキに接してきた彼女の声に、確かに感情という名の熱が籠っていた……と、少なくともカネキには感じられたからだった。
カネキは不思議な気持ちで彼女を見た。動揺するようなことはなかった。地獄を見過ぎた生き物は、今更少しのことで心を揺らしたりはしないのだ。それが本人の望むものであろうとなかろうと関係なく、カネキは自分の生命を脅かすような状況にさえ持ち込まれなければ、あらかたのことには動揺しない生き物へと変わり果てていた。
なので、松前の声に私情が混ざったところで、僅かな疑問を抱いたとしても動揺や警戒を露わにしたりすることは、まずない。
そんな気持ちのまま、カネキは松前の名前を呼んだ。
松前は、目線を僅かに下方へと逸らしながら、口を開く。

「習さまは現在、行方不明になっているのです」
「……は?」

思ってもいなかった松前の言葉に、カネキは流石に目を点にして、呆けることしか出来なかった。
ぽかんとするばかりのカネキに、松前は容赦なく次の言葉を続けた。

「カネキさんがCCGの群れへ特攻したあの日、習さまは新しい住居とそこで生活するための環境を整えた後、一切の消息を絶ちました」
「待って待って……待ってください……」

カネキは頭痛の気配を抑えるように自らの頭を右手で抱えながら、松前の発言を制止した。

「月山さんが、消えた?」
「はい」

松前はシンプルな返事をくれる。カネキは、自分が頭上にクエスチョンマークを飛ばしているという自覚があった。

「どうして!」
「理由は私共にも分かりません。ただ、姿を消す前の習さまは……常軌を逸していたと言って間違いない状態でした。憔悴し、服装は乱れ、いつも気になされていたヘアスタイルも寝起きよりも酷い状態で、ただ茫然と、気力のみでカネキさん方の新しい住居の準備を行っていたと私は感じました」
「そ、それは……」

カネキには、月山の状態に関する心当たりがあった。むしろありすぎた。
月山がそのような、まさに月山が思うところの「無様」な状態にあったのは、十中八九カネキのせいであると言って間違いなかった。驕りでもなんでもなく、カネキは確信することが出来た。
月山は、死地へ向かおうとするカネキを止めに来てくれた。それこそ松前の言う通り、憔悴し、服装は乱れ、いつも気にしていたヘアスタイルも寝ぐせより酷い状態のまま、カネキの元へと駆けつけたのだ。
月山は言った。カネキに「行かないでくれ」と。
後生だ、という言葉の後に続いた、涙まみれの彼の口からこぼれたその声を聞いた瞬間、カネキの心の中から、今まで月山に抱いていた警戒とか疑念とかいうそういう感情が、驚くぐらい自然に霧散し、消えていった。恐らく、これが最後だからだと思っていたせいもあるだろう。それでもその瞬間、カネキは確かに月山に、心を許していた。
それは何故か。
答えは単純だった。

(……会わなくちゃ)

カネキは静かに決意する。
月山に会って、言わなくてはいけない言葉がある。

「松前さん、僕、月山さんを探します」
「カネキさん……」

恐らく、月山家の者は、カネキがこんな決意を口にする前から、血眼になって月山を探し回っているはずだ。それでも、こうして松前がカネキに月山が姿をくらましているという事実を告げる今、月山は依然として見つかっていないのであろう。
月山財閥という強大な力が捜索している現状でも、見つかっていない月山。
そんな彼を、いくら喰種を共食いしたり、CCGを退けるほどの力を手にしたカネキであろうと、見つけられる可能性は極めて低いだろうことぐらい、カネキ自身もよく分かっている。カネキは馬鹿ではなかった。
それでも、月山を探したい。
月山に会いたい。
会って、話をしたいという気持ち。
それだけはきっと、他のどんな存在よりも、強いものだと信じていたから。

決意した次の瞬間には、カネキは走り出していた。

「って、言っても……」

正直、どこをどう探せばいいものか。
カネキは、殆ど衝動で走り出してしまった自分の浅はかさを今更微妙に恥ずかしく思いながら、少しずつ冷静になり始める頭のまま、あまり見慣れない景色の中をてくてくと歩く。

(……普通の日常だ)

CCGとの戦いの中で、カネキが忘れかけていた光景が、自分の両目の上を滑っていく。手を繋いで歩く親子。寄り添い笑い合う恋人。競うように駆けていく男子小学生の群れ。現在は丁度、小学校の下校時刻と被っている時間帯らしい。大きな橋の上で、カネキは自分とすれ違う無数の人影を眺めながら、そんなことを考えた。
夕空が、少しずつ世界を赤色に染め上げている。それは優しい赤だった。激しい戦闘の中で自分の視界を染めた血の赤とは似ても似つかない。世界は優しい赤に満ちている。そんな光景を、こうして再び穏やかな気持ちで見つめることが出来るなんて、思ってもいなかった。カネキはあの時、自分が生きて戻ってこられるだろうという気持ちは抱いていなかったのだ。泣きながらカネキを引き留めた月山も言った。少し考えれば打つ手がないことくらい分かるだろうと。そう、カネキには分かっていた。圧倒的絶望というものが。
それでも、何も出来ないのは嫌だった。だから伸ばされた月山の手を振り払ってでも行かなくてはいけなかった。あの場所に。拭いきれない死臭が満ちる、あんていくへ。

(月山さん……)

それでも、自分は戻って来たのだ。一度は捨てかけた自分の命。それを惜しんで、泣いてくれた彼。そんな月山と、話をしたかった。

「どこで何してるんだよ、もう……」

カネキは、大きな橋の欄干に手をつき、顎を乗せながら呟いた。
一体、どこへ行ってしまったのだろう、あの人は。

「僕はこうして生きてるのに……」

結果論ではあるものの、カネキはこうして帰って来た。月山も、あんなにも必死にカネキを引き留めていたけれど、心のどこかでカネキが帰って来ることを信じ、そして願い、新たな住居を用意して待っていてくれたのだろう。
それなのに、今ここに、月山だけがいない。
カネキは、いっそ理不尽な気持ちで、月山の不在に憤りを感じていた。

「大体、生まれながらの御曹司が、家出とか……何考えてんだよ……あ、でも月山さん、実家からは出て一人暮らししてたんだっけ……? ま、好きなだけ家のお金を使える状況なら、何の不自由もなかっただろうけど……」

カネキは月山から「カネキくんの好きなように使ってくれたまえ!」と、金色に輝くカードを一枚受け取っていたし、本当に好きなようにそれを利用していたという過去を持つ。他者であるカネキにさえそのような施しを与えられる月山だ。自分も湯水のように金を消費していたに違いない。
一人暮らしと言っても、何の苦を感じることもなかったはずだ。むしろそれは、夏の避暑地でリゾートを楽しむ感情に近いものであったのでは? とカネキは穿った気持ちで考える。

「ほんとあの人は、普通の金銭感覚とか一般人の苦を知らな過ぎると言うか、なんというか……」

月山を捜索しているはずのカネキが、月山に対する愚痴をひとりでにこぼしかけていた、その時だった。

「……ん?」

橋の欄干から、自然とその下方へと視線を向けていたカネキの目に、見覚えのある「何か」が映った気がした。

「……いや、まさか」

カネキは流石に疑った。自分の中に湧き上がった、ひとつの考えを。
いや、ないないない。ないって。だって月山さんだし。喰種でありながらも生まれた時から月山財閥の御曹司として何不自由ない生活をしてきたはずのあの月山さんがまさか。そんなことあるはずないだろ。金木研よ常識的に考えろ。あの非常識な月山さんの行動を彼の額縁に合わせて常識的に考えるんだ。ないだろ、うん、ない。
そうは思いながらも、カネキは確かめずにはいられなかった。橋の始まりへと再び戻り、そこから続く緑に覆われた坂を下りていく。足元を擽る葉のこそばゆさを気にしている暇もなく、カネキは橋下へと辿り着く。
そうして、呆然と立ち尽くした。
カネキの唇からは、未だ信じられていないような声で、その名を意味する音が紡がれた。

「月山さん……?」

カネキに呼ばれ、赤紫色の独特の髪をしたその男は、一瞬全て動きを停止した。
そうして、死刑宣告でも告げられたような表情の彼が、カネキの方へと振り返るまで、たっぷり1分間程の時間がかけられたことを、両者は自覚することが出来ていなかった。
それ程までに、二人はお互いに、純粋な混乱の最中に精神をぶっとばしていたのであった。

「カネキ……くん……?」

振り返ったのは、見覚えのあり過ぎる男の顔面。両目は驚愕に見開かれ、その薄い唇はいっそわなわなと震えていた。
しかし、驚きたいのはカネキの方だって同じだった。

「こんなところで何やってるんですか、月山さん……」

それは間違いなく、カネキに執着し、カネキに住居を与え、カネキの肉を欲して、そして、カネキに「行かないでくれ」と縋った、月山習という男に間違いなかった。
その月山習は、カネキの視界の中で、橋の下の草むらの中、カネキと別れたあの時と同じ姿……つまりは、乱れた服装、セットもされていないボサボサの髪の毛のまま、何故か川へと釣竿を垂らしながら、驚愕の瞳でこちらを呆然と見据えていた。
呆然としたいのはこちらの方だと、カネキは脳の冷静な部分でそう思った。
何故こんなところに!

「月山さん、松前さんが探してましたよ!!」

ていうかそもそも月山家は一体どこをどんな風に探していたのだろうか。驚くぐらいあっさり見つかったのだが。しかしカネキはひとまず、自分が月山を探していたという事実を伏せながら、月山へと詰め寄りつつ、彼らが月山を探していたという旨の言葉を叫んだ。そんなカネキに、月山は随分と分が悪そうな表情で呟いた。

「……よかった、カネキくん……生きてたんだね……」
「はあ!? 今そんな話してませんけど!?」

カネキは結構な理不尽具合でキレつつ、月山のシャツの首元をぐいぐいと掴みあげていた。結果的に、月山はカネキに持ち上げられるような形になっていたのだが、何の文句もいわなった。そんな月山の態度に、どうしてかカネキの怒りはもっともっと膨れ上がる。その理由は分からなかった。

「家出したって聞きましたよ! 全く、あなたを心配してくれてる人がいるっていうのに、何を勝手なことをしてるんですか!」

カネキの言う、月山を心配してくれる人とは松前及び月山家の方々へと対するものであり、そこに自分の存在は少しでも見え隠れしないようにと心がけながら叫んでいた。月山のことを探して走り出した自分の存在など、月山にバレた瞬間どんなことを言われ、彼を調子に乗らせるか分からない。
しかし、こうして月山を発見してしまった現状、カネキが彼を探して駆け回ったという事実を、月山は勝手に想像して喜んで涎を垂らしてしまうのでは? とカネキは一瞬の内に危惧した。月山はそういう男なのだ。1の可能性から100の理想を脳内で繰り広げる。ある意味、幸せな生き方をしている人間……ではなく、喰種だった。
そんなことを考えてしまったカネキは、ハッとした表情で、自分が締め上げている月山の表情を伺うが、月山はというと、ただ酸素を求めて浅い呼吸を繰り返しているだけだったのでホッとする。
ホッとした瞬間、月山が死にかけているという事実に気付き、カネキは慌てて月山を地面に降ろした。落とした、という表現の方が適切だったかもしれないが、その瞬間、カネキに悪意はなかった。驚いたせいで、思わず落としてしまったに過ぎない。

「月山さん!」

貪るように酸素を求める月山を、流石にカネキは心配する。しかし月山は、次の瞬間には「心配はいらないよ……」と、青ざめていた顔面をじわじわと普通の肌色に戻しながら、ゆっくり立ち上がる。流石は喰種。生命力の強さは人間のそれと比べ物にはならないのだ。
カネキは、少しだけ自分を落ち着かせながら、ビークール……ビークール……というように、どこかの誰かみたいな精神で、復活した月山へと声をかけた。

「月山さん、あなたこんなところで……一人で何やってるんですか」
「ん……はは……まあ、これには深い理由があるというか、なんというか……」

月山は言いにくそうな声音で相変わらずごにょごにょと言葉を濁したが、それを許すようなカネキではなかった。
カネキにとって、姿をくらましたはずの月山が、こんなところ……つまりは橋の下にいたという事実は、正直言ってどうでもいいことだった。
重要なのは、自分の目的と、松前に宣言したあの言葉だ。

「帰りますよ、月山さん」

カネキは月山の手を握りつぶすほどに強く掴み、そう言った。
月山は、本当に意外そうな顔をした。

「へ?」
「みんな待ってます」

カネキの言葉に、月山は煽るわけでもなんでもなく、純粋な疑問として「皆って?」という言葉を返した。

「僕です」

迷いもなく答えたカネキの言葉に驚いたのは、月山だけではなかった。カネキも同様に驚いていた。
あれ、僕、一体何を言っているんだろう。カネキの冷静な部分が、カネキ自身にそう問いかけた。
いやマジで。
何を言っているんだ、僕は?
そんな疑問を抱いているにも関わらず、カネキの本体……つまりカネキ自身は、脳が追いつくよりも先に、月山に向かって信じられないことを次々と口にし始めていた。

「月山さん、僕があんていく襲撃の件から生きて帰って来ることを信じていてくれてたんですよね。だから、僕が帰る場所を用意していてくれた。違いますか?」
「それは……」
「僕は感謝しています。月山さんが待っていてくれたこと。……ううん、本当は、あの時、別れの際に言った通りなんだ。月山さんが僕を止めに来てくれたこと、嬉しかった」
「………」

そうして、カネキの口からは、決定的な言葉が紡がれたのだ。

「月山さん、もし月山さんさえよろしければ、あの家で……僕達と一緒に暮らしませんか」

その言葉を紡いだ瞬間、カネキの中の冷静な部分が、雄たけびを上げるかのごとく絶叫した。

(何を言っているんだ僕はああああ!!!!!)

月山はカネキの肉を狙っている。それは今でも確かな欲望として月山の中に根付いている感情のはずだとは理解していた。
それでも、カネキは……月山が死地へと向かおうとした自分に、後生だから行かないでくれと縋ったあの時の光景に、確実に、根本的に、どこまでも、確かに絆されていたのであった。
それがここまで重症だとは、本人でさえ思っていなかったが。
食欲以外の感情を、自分に向けられている可能性がある。
それを知った瞬間、カネキの中で月山習という男の存在は、好意を向けるべき対象へと、音の早さで移行した。
カネキは本来、誰かから執着され、求められるという状況に飢えていた。
食欲が、純粋な好意からの献身へとその姿を変えた時、カネキが月山を好かずにいるというのは、かなり無理なものであったのだ。
少なくも、男だとか、変態だとか、そういうものは殆ど意味を成さなかったぐらいには。

「一緒に帰りましょう、月山さん。あの家に」

そして、カネキは月山が自分の願いを断れないという事実を、十割十分十厘確信していた。しかも、こうしてカネキが月山の右手を握り、懇願するように、同時に有無を言わさぬ圧倒的な何かを孕みながら月山を誘えば、もう彼は頷く以外の行動を取れるはずもないと信じていたのだ。
しかし。

「……sorry,カネキくん。僕は君と一緒に行くことは出来ないよ」
「……は?」

一緒に帰ろう、と言ったカネキへの、月山の答え。
それは、要するに「NO」だった。
って、はぁ!?

「どうして!」

カネキは柄にもなく取り乱し憤慨していた。
月山が自分の、こういう類の誘いを断るという現状を、僅かにだって想定していなかったからだ。
月山はかつてからずっと「一緒に暮らしたい」とカネキにすり寄って来ていたのだが、カネキはいつだってその申し出を完全スルーしていた。それもそのはずだ。カネキは月山を警戒していたし、ヒナミや万丈、イチミジロサンテを少しでも危険に晒すわけにはいかないという気持ちからの当然の対処であった。それが例え、一緒に住みたいと望む月山自身が家賃を払い、光熱費を払い、水道代を払っている物件だとしても、彼の願いを聞き入れるつもりは、カネキには毛頭なかったのだ。
しかし、今は違う。カネキは自ら、月山に共に暮らさないかと言っている。白状すると、言ってやっている、という気持ちも少なからずあった。それくらい、この申し出をした時に、月山が泣いて喜ぶという自信が無意識であろうともカネキの中にはあったのだ。
しかし、月山の答えは「NO」だった。

「理由を説明してください」

カネキの問いは、同居を拒否した言葉に対するものでもあったし、同時に、橋の下というこの場所に、何故留まろうとするのかという意味も同時に孕んでいた。全ての意味が分からない。だからカネキは月山に問う。
月山は、「今更君に誤魔化しは通用しないだろうね」と、どこか自嘲するような声で、そっと話を始めた。

「僕は……あの時、死地へと向かうカネキくんを引き留めようと、無様に泣き叫びながら行かないでくれと懇願することしか出来なかった」
「死地とか言わないで下さい」

カネキ自身、あの行為が自殺以外の何ものでもなかったという自覚はあったが、改めて言われると訂正したくなってしまう。現に、カネキはこうして生きているのだから。
しかし、ここは月山も譲らなかった。

「死地だよ。あれ程の戦力、月山家の力を以てしてもどうしようもない。絶望という物を実際に目にしたのは、きっとあの時が初めてだった」
「………」

そう言われてしまえば、カネキも積極的に月山を論破する気にもなれなくなってしまう。月山家の力を以てしても云々、という発言は、月山が必死で自分を止めようとしたあの時の映像とリンクするせいだ。カネキは、「あの時の月山」を出されれると、自分が彼に強く当たれなくなるのだということに気が付いた。
複雑な心境で黙り込むカネキをよそに、月山は相変わらず、どこか沈んだような表情で言葉を続けた。

「僕はあの時……初めて自分の力が及ばない、圧倒的な存在に対峙することになった。そんなこと、今まで僕の人生にはなかったんだ。僕は傲慢だった。自分が望めば、どんなものだって手に入ると信じていた。それが「日常」という目に見えない存在だとしても」
「日常……」

カネキは、自分があんていくへと向かう前に、街を見下ろしながらニシキと交わした会話を思い出した。
ニシキは言った。当たり前のようだった日常を指し、「こうやって突然終わっていくんだな。終わる時はいつも一瞬だ」と。
あまりにも朗らかな笑顔でそんなことを言うものだから、カネキは彼に謝らずにはいられなかった。ニシキをあんていくへと誘ったのはカネキだった。しかしニシキは言った。恨んではいないと。それでも、恋人を愛し、そんな恋人と共に生きる世界をニシキが確かに望んでいたことは、カネキにだって痛いくらいに分かっていた。
しかし、ニシキの表情は全てを受け入れたように、穏やかな笑みを浮かべていた。
カネキはその笑顔に、心の内側をえぐられるような気持ちを抱く反面……そう、確かに救われてもいたのである。
しかし、そんなニシキとは対極的な行動に出たのが、その時の月山だった。
月山はカネキを引き留めた。それはきっと、カネキが死地へと向かいさえしなければ、また今まで通りの日常が繰り返されることを信じているからこその行為だった。信じていた、というよりも、それは殆ど祈りの形に近かった。姿の見えない神に縋る行為はこういうものなのだろうか。カネキも月山も、神の存在なんて信じるような人生は送っていなかったけれど。勿論それぞれ別の意味でだ。
月山は祈るような気持ちでカネキを引き留めた。
それでもカネキは月山の手を振り払った。
月山は泣いた。自分ではどうしようもならない現実そのものに。
そして……。

「僕は逃げた。カネキくんの剣であるはずの僕が、カネキくんと共にあの場所へ行くことを申し出なかったんだ」
「月山さん……」

そう、カネキがアオギリの件で、彼の言うところの「ハードモード」状態になってからというもの、月山は常にカネキの傍にいて、自分をカネキのことを守るためのナイトだと言いながら、付き従っていた。
そんな月山が、あの時。
カネキと共にあの場所へ向かい、彼を守ると言い出さなかった。
それは月山にとって、自らの存在の根本を覆すほどの、本人でさえ信じられない行為であったのだ。

「僕は臆病者だ。君に行かないでくれと泣き縋りながら、君と共に行くことを望まなかった……そうだ、僕は惜しんだんだ。自分の命を。本当に、惨めなまでに死にたくなかったんだ」
「そんなの……誰だってそうですよ」

僕だってそうだ、と言いかけた言葉を、カネキは喉元で飲み込んだ。
それは確かに本心ではあったが、説得力を欠いた言葉であることはカネキ自身にも理解できた。

「僕は無力だ。君の剣である資格がない。いや……僕はもう、月山習としての全ての資格を失ったんだ。僕は自分が強い存在であると信じていた。どんな時も余裕で、格好良く……大切な人をスマートに救えることが出来るパーフェクトな男だと信じていたんだ」
「………」

月山の言葉を聞きながら、そうだよなあ、この人そういう人だったよなあ、とカネキは何だか急に白けた気持ちになりながら目を細めた。
月山という男は常に自信に満ち溢れ、独特の感性でマイナスさえもすぐさまプラスへと変えてしまう、圧倒的なポジティブをスキルとして所持している存在だった。
そしてその自信の裏付けとして、大体のことを何でも器用にこなせてしまう実力も確かに備えていた。カネキは彼と過ごす時間の中で、そういう彼の器用さや、それを惜しまず披露してくれるパフォーマンス性に、時々純粋に感心することがあった。ヒナミに対するサービス精神などがそれに当たる。
月山のようになりたいとは思わないが、月山のように生きられれば少しは楽かもしれないと、カネキは何度か思ったことがある。死んでも口にはしないけれど。
カネキがぼんやりそんなことを考えていた時だ。
月山の口から、とんでもない言葉が発せられたのは。

「だけど本当は違った。僕自身はカネキくんを助けることも、ましてや追いかけることも出来ない臆病者でしかなかったんだ。ゴミクズなんだよ僕は。弱くて決断力がなくて自分の命が何より可愛い、親の金でカネキくんの信用を得ようとする下種でしかないんだ……」
「!? つ、月山さん!?」

カネキは目を見開きながら月山の名前を叫んだ。
今の発言は、本当に月山の口から出て来たものなのか!? 
にわかに信じられなかった。
しかし、その疑念はすぐさま確信へと姿を変えたのだ。

「今後、カネキくんに何かがあったとしても、臆病で誰よりも弱い僕が力になれることなんて何一つないんだ……それなら金でなんとか出来る住居だけを提供して、僕自身は身の程にあった生活をしようと思い立ってね……そうしてこの橋の下に、僕は安息を求め移住したのさ」
「極端すぎなんですよあなたは!!」

カネキは絶叫する。なんだこの自己卑下マシーンは。これが本当に月山なのか?
いっそ偽物かロボットであった方がすんなり納得できるとカネキは思った。
自信家が自分の信じていた根本というものを覆されると、こうまで人……いや、喰種が変わってしまうのかと、カネキは心の冷静な部分で少しの好奇心を抱きながら、そんなことを思った。
カネキはナルシストではなかったし、狭い交友関係の中、月山程の自信家にはそうそうお目にかかることは出来なかった。
自分に確固たる自信を持っているもの程、その自信の根本がぽっきりと折られてしまった時の崩壊が顕著であることは、今まで読んだ書物でも似たような傾向が多々あった。
月山は今、そういう精神状態に陥っているのかもしれない。

(それなら……)

ますます放っておくことは出来ない。
カネキを引き留めに来てくれ、自分のために涙を流してくれたあの瞬間から、月山という男は、ヒナミや万丈という存在に限りなく近い場所へとシフトしていた。要は庇護欲を煽られたのだ。それ以外の感情は確かにあったかもしれないが、少なくともカネキ自身は気付いていないようだった。
カネキの中で、相手に対する感情に「庇護欲」が混じってしまってからは、いろいろなものが極端に早かった。守らなきゃ、守ってあげなきゃ、僕がなんとかしてあげなきゃ。かつて暴走し、万丈を傷つけた時に「誰かを救うよりも先に自分を救ってくれ」と優しく諭されたという経緯を以てしても、カネキの中に根付くその考えは簡単に覆せるものではなかったのだ。
だからカネキは今、目の前で自虐的な言葉をぶつぶつと呟き続ける月山のことを見て、なんとしてもあの家へ連れて帰り、共に生活をしなくては、という謎の決意に心を熱く焦がしていた。それは殆ど無意識に近かった。それでも、カネキは月山を連れて帰らねばならぬのだ、という想いを信じていた。月山はそんなの知ったことじゃなかった。

「僕はもう少し、この場所で自分のことを見つめ直して生きていくよ。大丈夫、カネキくん達の食事や家賃の支払いは全て松前が行うようにしてあるから」
「月山さん……そんなこと言って、自分はちゃんと食事を取れているんですか」

喰種の主食は人間の肉であり、もっと言えば喰種のアミューズもオードブルもメインもデザートも全てが人間だった。こんな橋の下で、美食家と名高い月山が、きちんと食事を出来ているのかどうかが、カネキは心配になった。
カネキはかつて、月山に死体や悪い人間しか食べるな、と指示していた。月山もそれを了解した。月山の存在を介して繋がっている堀ちえというカメラマン(カネキにとっては情報屋である)と何気ない話をしていた時も、「そういや月山くん、最近はカネキくんの味が忘れられないからって粗食を繰り返す日々だって言ってたなあ。美食家も形無しだよね」という言葉を聞いた気がする。
妙なネガティブ思考に付き纏われ、この橋の下に安息を求めた月山が、ちゃんと食事にありつけているのか、カネキはいっそ母のような気持ちで心配になった。
カネキの心配する目線に気付いているのかいないのか、いや、恐らく気付いていないのだろう。今の月山は、かつてカネキが寝首を掻かれることを恐れた美食家・月山習の面影を一切合切失った、橋の下の浮浪者でしかなかった。何だか妙に悲しくなってくる。自信を失った自信家とは、みなこのような姿になってしまうのだろうか。

「食事の心配はないんだ」

月山は、相変わらずの疲れたような笑みでそう言った。ここで再会してからというもの、月山はそんな風な笑顔しか浮かべていない。カネキはまた悲しくなる。悲しみを隠そうとするように、月山の言葉に声を返す。

「どうしてですか。まさか川に遊びに来る小学生とかを襲って食べてるんじゃないでしょうね。僕、言いましたよね。食べるなら死体か悪人にしてくれって。罪のない人を襲って食べてるんならその時は……」
「カルマート! 違うよカネキくん、聞いてくれたまえ!」

月山はそう言った瞬間、ハッとしたような表情を浮かべ、川の方へと視線を移した。
月山の見つめた先には、何やら釣竿のようなものが装置として固定されていた。カネキは一瞬、それが何を意味するのか分からずに、月山を責めていたことさえ忘れて、きょとんとした表情を浮かべた。
そんなカネキの傍ら、月山は笑った。

「来たみたいだ! 獲物だよ!」

そう言って、月山は釣竿装置の方へと走り出す。装置と言っても、単に釣竿が倒れないように麻の紐と打ち付けた木の棒で固定されているだけのものだ。その粗末な装置に支えられる釣竿が、ぐんぐんと動いている姿を、月山は見逃さなかった。

(魚でも取っているのか……?)

人間だった頃の感性で考えれば、月山の行動は殆ど釣り人のそれと大差なかった。
しかし、喰種は魚を食べられないはずだ。カネキは喰種になってから魚を口にしたことはなかったが、それは確かな事実であると思う。
もしも喰種が、コーヒー以外のものを口に含んでも大丈夫なのだとしたら、自分の周りの喰種はもっと喜んで魚を食してきていたはずだろう。しかし、喰種になってから結構な時間が経った今も、誰一人として魚を食べているような仲間はいなかった。
だからこそ、月山があんなにも熱心に、釣竿を引っ張ろうとしている姿が、カネキの目には異様に映ったのだ。
カネキは怪訝な気持ちのまま、月山の方へと小走りで近付く。
と、その時だった。
月山が引っ張った釣竿の先から、ザバリと水を割って、何か大きな塊が現れた。
それを見た瞬間、カネキはあんぐりと口を開き、そして叫んだ。

「って、死体ーーー!?」

月山が嬉々とした表情で釣り上げた「それ」は、見れば見る程に水死体だった。
月山は手慣れた動きで土左衛門を引き上げ、スローモーションのように緩い弧を描くそれを、自慢の赫子でスパパパパンと空中で捌いてしまった。
そして、あらかじめ用意してあったらしいクーラーボックスの中へと、細切れになった死体を収納して、なんでもないような表情のまま「ふう」と小さくため息をつく。恐らく、労働の後にこぼれる類の呼吸だろう。
それら一連の流れを呆然と眺めていたカネキだったが、ようやく脳に酸素が回り始めたのか、ハッと目を見開きながら月山に問う。

「どうして死体が!」

これまでの経験上、人間であろうと喰種であろうと、死体というものはかなりの頻度で見て来たはずのカネキだったが、こんな風に穏やかな夕暮れの橋の下、何の前触れもなく吊り上げられるシチュエーションで死体を見たのは初めての出来事だったので、それなりに動揺していた。
しかし月山は、やはり何でもないような表情で、「ああ」と穏やかに口を開く。

「この川の上流が人気の自殺スポットになっていてね。こんな風に釣竿を垂らしていれば日に5〜6人ぐらいの水死体をgetすることが出来るのさ。食事の心配はいらないよ」
「何だこの川!!」

あまりに月山が平然と言ってのけるので、カネキは限りなくプレーンなツッコミの言葉しか吐き出すことが出来なかった。
カネキの動揺に気付いているのかいないのか、月山は豆知識でも教えるような声で言葉を続けた。

「4月から5月にかけての時期は環境などの関係で自殺者が増加する傾向があるから、人間の食文化でいうところの回転ずしのレーンなみに水死体が流れるという光景を目にすることが出来るんだよ」
「埋め立てろ!! こんな川は!!」

実際、それだけの自殺者が流れているのだとしたら喰種である自分たちにとってかなりありがたいスポットであることは間違いないのだが、カネキはまず反射的な倫理観から川の埋め立てを願った。
そして改めて思う。
食が安定しているとなれば、ますます月山を連れ帰るための理由が失われてしまう。月山を迎えに来たカネキは、ぐぬぬ……と次の作戦を考える。

「食事に関しては理解しました。それでも月山さん、家出なんかして、こんな橋の下で……どこで寝泊りしてるんですか」

カネキは、ホームレスよろしく段ボールに身を包みながら寝起きを繰り返す月山の姿をイメージして、何だか嫌な気分になった。それは、先程月山が自らのことをこれでもかというほど卑下した時に感じた気持ちと酷似していた。自信満々で、それが当然で、まるでオードリー春日のような月山こそが、カネキの知っている月山だった。
自分を引き留めようと涙を流した月山に対しては純粋な好意を持っているカネキだったが、こんな風に自分を傷つけ「ゴミクズ」を自称するような月山は、何だか嫌だった。
自分の好きなものを下げられれば、誰だっていい気分にはならないはずだ。

(て、は? 好き?)

カネキは、一瞬動揺する。
そりゃあ、月山のことは嫌いじゃない。今まで何やかんやで自分に尽してくれる月山を警戒こそしていたもの、完全に嫌いになることが出来ずにいたのは事実だ。
そして、あんていく襲撃の際のあの一件で、月山が自分に向けている気持ちが、単なる食欲だけではないのだと少なくともカネキ自身が勝手に信じられるようになってからは、彼への好意をセーブする気持ちを捨ててみようと、確かに思っていた。
だからこれは、仲間的な「好き」であり、一瞬脳裏をよぎったような意味の「好き」ではないのだと、カネキは言い聞かせるような気持ちで解釈した。

(そう! そうに違いないから!)

カネキがぐっと自分の両手を握りしめながら「うんうん」と頷いているところに、月山の声が響いた。

「ああ、寝泊りはそこの建物でしているよ」
「は?」

突然の宣言だったので反応が遅れた。
いろいろごちゃごちゃと考えていたカネキは現実へと思考を戻し、月山が指差した方を見る。
そして、一瞬の間、失われる言葉。

「なっ……」

カネキが驚くのも無理はなかった。
視線の先にあったもの、それはどこからどう見ても、普通の平屋だった。
いや、普通と言うには語弊がある。
新居。
高級住宅街に立つ、平屋の新居。
それに違いなかった。

「思ったより快適に住んでんじゃないですか!!」
「ぐふぅ!」

思わず繰り出されたカネキの飛び蹴りが月山の顔面に直撃する。あんていく襲撃のなんやかんやが終わった今では、実家のような安心感を覚える懐かしい光景だったと、第三者がいれば思わずにはいられなかっただろう。

「dolce!」

先程の水死体よろしく、ゆっくりとした弧を描きながら草原へと沈んでいく月山の姿を見つめながら、カネキは何だかいろんなことにピンと来たような気持ちになった。

(松前さんは……きっと月山さんがここで暮らしてることを知ってたんだな)

それなら、家出した月山を、どうして月山家程の存在が今まで見つけられなかったのかという疑問にもあっさり説明がつく。要は好きにやらせていたのだ。カネキという存在に、月山が勝手に金を貢ぎ献身していることに文句を言わないのと同じように、今度は勝手に橋の下に家を建てて生活し始めている現状を普通に受け入れているのだ、月山家の者たちは。
それならどうして松前はカネキに「習さまが行方不明になった」などという表現で話をしたのだろうか。
答えは簡単だ。松前は、月山がカネキに執心していることを知っていた。
そういう言い方をすれば、カネキ自身が月山を気にし、彼を探しに行くかもしれないと考えたのだろう。
その考えは大当たりだ。事実、こうしてカネキは月山のことを探し、この橋の下へと足を踏み入れたのだから。
そして、そういうカネキを誘導したということは、松前の中にも、カネキが迎えに来てくれれば月山が喜ぶ、という考えがあったということだろう。カネキだってそう思っていた。カネキが一言「一緒に帰りましょう」と言えば、月山はそれこそ泣きながらカネキクゥン!!と着いてくるはずだと殆ど確信的に信じていた。
しかし、月山はカネキの誘いに乗らず、この橋の下での生活を続けると言い放った。

「相変わらず、hard……」

カネキに飛び蹴りをされた頭を押さえながら、月山がゆっくりと草原の中から起き上がる。そんな月山を見ながら、カネキは改めて言い放った。

「帰りますよ、月山さん」
「……そう言ってくれるのはありがたいが、やはり僕はもう少し、この場所で自分を見つめ直す期間を貰いたいんだ」

一軒家まで用意しておいて何を言っているんだこの男は、と思いながらも、カネキは自分で蹴り飛ばした月山の方へと歩み寄り、静かにその手に触れた。そうして、もう一度「帰るんですよ」という言葉を紡ごうとした、その時だった。

「!!」

カネキに触れられた瞬間、月山は両目の瞳孔を大きく見開き、そして。
パァンと、カネキのその手を振り払った。
カネキは勿論驚いた。月山に突き放されるという事態が、今までのカネキの人生にはなかったのだから。
そして、何故かカネキの手を振り払った月山本人までもが、その表情を驚愕の色に染めているのだから、カネキは「何なんだこの人」と思わずにはいられなかった。

「あ、カネキく……すまな……あ……」
「月山さん?」

カネキの手を振り払った月山は、突然ぶるぶると震えはじめた。まるでアル中のようだとカネキは思った。
そして、マナーモードのように痙攣していた月山は、次の瞬間。

「う、うわあああああああ!!!」
「!?」

月山は突然、自分の足元の地面を、赫子でザクザクと勢いよく掘り出したのだった。
何が彼をそうさせているのか理解出来ないカネキは、呆然とその珍事を見つめるのみだった。

「すまないカネキくん!! 僕は臆病者なんだ!! 本当ならば君に会わせる顔もないんだ!! ああ!! 穴があったら入りたい!!」

そうして赫子によって掘り起こされた穴の中に、マジで月山は入り込んでしまった。
穴は5メートル程も深く掘られていた。

(じゅ、重症だ!!)

カネキは今一度理解する。月山の精神状態の危険に。
カネキがふいに触れただけで、月山はあの夜の自分を思い出し、発作的に不安定になってしまった。今もこうして、深い穴の底でぶるぶると震えながら体育座りで落ち込んでいる。かつての月山の面影はどこにも見当たらない。
穴の上から月山のことを見下ろし、カネキは戸惑いながらも声を落とす。

「上がって来て下さい、月山さん」

カネキの言葉が反響し、月山の元へと届く。しかし、月山は自嘲のような声をこぼし、こう言った。

「無理だよ……見てくれ、僕のこの姿を。無様だろう……? 君に触れ、君と話をしていると……思い出すんだ。あの夜のことを。君に着いていくことも出来ず、自分の命を可愛がった臆病な僕を」
「………」

自分への自信を失った月山。恐らく、彼の人生で、そんな局面にぶち当たることは今まで一度だってなかったのだろう。だからこそ、生きる環境によって自信家になることが約束されていた月山という男は、あの時、カネキと共に死地へ向かうことが出来なかった自分の臆病に気付き、そして動揺した。
臆病な自分に出会い、それに立ち向かうことが出来なかった自分自身を、軽蔑した。
カネキには分かっていた。誰しもが心に持つ、「臆病」というその感情を、カネキも人並みに自覚する瞬間が人生の中で何度もあったし、それに対面する度、自らの無力に心を痛めてきた。だってカネキは普通の人間だったのだから。自分の臆病と出会う機会ぐらい、何度だってあった。
月山は今、初めて自分の中に潜んでいた「臆病」と向かい合っているのだ。
そんな彼に、カネキがしてやれることとは、一体なんなのだろう。
カネキは少なからず、自分に責任があると考えていた。彼を臆病と鉢合わせたのはカネキの行動が原因だった。だからこそ、彼を救える存在も、自分以外にありえないのだと、驕りでもなくカネキはそう信じていた。

「分かりました」

そう言い残して、カネキは穴の傍から姿を消した。
月山は、そんなカネキを引き留める言葉を持っていなかった。



どれくらいの時間が経過しただろうか。
月山は、ぼんやりとした頭のまま、穴の底から頭上を見上げた。空には月が浮かんでいた。夜だった。

「カネキくん……」

無意識の内に呟かれる言葉。返事をする存在はいなかった。
当然の結果であるはずなのに、月山はその状況を心のどこかで寂しく思った。思った次の瞬間には、またしても自嘲の笑みがこぼれた。
いつまでもこうしているわけにもいかない。
恐らくカネキは帰っただろう。自分が再び提供した、あの家に。ヒナミや万丈、そして万丈の舎弟が住んでいる、賑やかなあの場所へ。

(カネキくん、僕に一緒に住もうと言ってくれた……)

かつての彼ならあり得ないその言葉が、この橋の下に自分を迎えに来てくれたカネキの口からは提案された。月山は、一瞬舞い上がりそうになる自分がいることに気付いていた。

(しかし、どうしてこのタイミングで……?)

月山は、カネキに軽蔑され、もう二度と口を聞いてさえもらえないかもしれないということを、ぐちゃぐちゃの顔でカネキを引き留めたあの後、ずっと考えていた。
あの時の自分は酷く無様で臆病で、今までの月山習が完全に崩壊した、要は月山にとっては黒歴史的瞬間に違いなかった。あんな姿をカネキに見られたというだけで死にたさMAXであるはずなのに。
それでも、再び対面したカネキは、そんな月山に優しかった。

(ただ……今はそんな彼の態度でさえ辛いだけだ)

カネキと接触をする度に思い出す、無様な自分。弱い自分。月山は完全に病んでいた。変わってしまった自分自身に。
とにかく、今は寝よう。疲れ切った月山は、自分が寝起きをしている平屋へと戻り、ドアを開けた。
その瞬間。

「やっと戻って来ましたね、月山さん」
「…………へ?」

思わず、制止する世界。
月山の家の中にいたその人物は、間違いなく、帰宅したと思っていたカネキ本人だった。

「って、カネキくぅん!?」

彼がカネキであることを認識した瞬間、月山は再び家の外へと飛び出そうとドアへ駆け寄っていた。しかし、それを許すようなカネキではなかった。

「逃がしません!」

カネキの赫子が、月山の両手両足を貫いた。月山は完全に動きを制止された状態で、宙に浮く。

「hard!!」

思わず叫ばずにはいられなかった。痛い痛いと叫ぶ月山の後ろで、カネキは勝手に話を続けている。

「月山さんが僕を克服して、そして自分自身の弱さに打ち勝てるまで、僕はここに住み込みます」
「Pardon!? 何を言っているんだいカネキくん!?」

月山の悲痛な叫びなんて気にも留めず、カネキはまるで、泣き縋る月山に謝り、「何も出来ないのはもう嫌なんだ」と言った時のような微笑みを浮かべながら、言った。

「というわけで、よろしくお願いします」

こうして、橋の下での、月山とカネキの奇妙な共同生活が幕を開けたのだった。
東京23区内のとある橋の下に、SMまがいのホモカップルが住み着いているという都市伝説のような話が流れるのは、まだもう少し先のことだった。

【END】





 

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