自分を呼ぶ声が確かに聞こえた気がした。だけどその声は何故かガラス越しに聞く他人の会話のような音をもってカネキの脳内に響き続ける。声はカネキへ向けられた熱を孕んでいるはずなのに、それがカネキに届くことは決してない。不思議な感覚のまま、カネキの意識は忘我の境を揺蕩うばかりで、いつしか声だけではなくすべての音が遠ざかっていくような微睡みの中へ沈んでいった。
もう、全て終わってしまったのだろうか。
それでもいいかなと思えてしまえないのは、カネキにはまだ諦められない世界があったからだ。
自分を大切だと言ってくれた人たち、自分が大切にしたいと願った場所、それら全てを守りたかった。救いたかった。失くしたくなかった。
でも今ならわかるんだ。自分が本当に守りたかったものは、救いたかったものは、壊したくなかったものは、ひとりぼっちの小さな少年でしかなかったのだということが。少年の姿はカネキ自身と相似形をしてそこにあった。夕暮れの公園。ぽつりぽつりと消えていく子供たちの声。最後まで砂場に蹲り、一人遊びを続ける相似形のそれ。
いつだってカネキが守りたいものは、自分自身の存在だったのだ。

(でも、もうそれも終わり)

カネキは懐かしい景色の中を、幼い頃の自分自身の手を引きながら当てもなく歩き続けた。どこに行こうとするわけでもないしそもそもどこかに行けるだなんて思っていない。カネキには分かっていた。これが自分の見ている最後の夢なのだということが。だからこの夢が覚めた時。次に目が覚めた時。自分がどうなってしまうのかは分かっている。鼻腔を擽る血の匂いは記憶に沁みついた幻だ。覚えている。自分が握る子供の手の平が知らない世界。喰種となり、それがエゴでも自分の大切なものを守りたいと誓ったあの日から、カネキはそういう世界で生きてきた。
誰も守ることが出来ない、弱い「自分自身」の代わりに。
そこで生きると決めた瞬間から、死に場所などが選べるとは少しも思っていなかった。はみ出し者にははみ出し者に相応しい最期がある。
どうせなら母に会った時、ハンバーグを作ってもらえば良かったな、なんてことを考えた。それくらいの我儘は許されたのではないだろうか。でも、もう戻れないから。夢から覚めたた時、自分を待つ現実をカネキは知っている。さあ、もう夢の時間は終わりだ。
カネキは歩み続ける。小さな自分の手を引いて、夢が覚めるその瞬間へと自ら向かって。
そう、夢から覚める……。
夢から……。
………。



あれ?






☆ゆめであえたら☆






何だあれ、と思考が停止するのは一瞬で、カネキは見覚えのあり過ぎるそのシルエットが何者なのかをすぐさま理解することが出来た。
理解したからといって、それを受け入れられるかどうかはまた別問題ではあるのだが。
どうしよう、と半ば本気で迷った。
スルーした方がいいのではという考えは、未だ自分の中に、どこか飄々としつつ虎視眈々と肉を狙ってくるかつての彼の印象が残っているからこそ反射的に起こる衝動である。
それから順番に思い出す、最新情報としての彼……つまり、泣きながらカネキに行かないでくれと願った姿が再生されてから、(やっぱり声かけたほうがいいのかなあ……)という、警戒心を解除した思考がようやく浮かんでくるのであった。

「ねえ、お兄ちゃん。人がぶら下がってるよ!」
「あ、ん……うん……」

カネキが死んだ魚の目にも似た複雑な表情で思案している内に、自分と手を繋ぐもうひとりの少年が、公園に現れたその「圧倒的な違和感」の存在に気付き、一生懸命それをカネキに教えようと指をさす。こういう姿を見ているとヒナミのことを思い出すな、なんてことを考えながら(現実逃避でもある)、カネキは意を決したように、「それ」に近づいた。

「……月山さん?」

カネキはどこか恐る恐るというように口を開いた。カネキの問いかけに、月山と呼ばれた男は「うーん……」と苦悶の浮かぶ声だけを返すが、返事をしたつもりではなさそうだ。見る限り、意識を失っているようだった。

「なんでこんなところに……こんな姿で……」

カネキが困惑するのも無理はなかった。
戸惑いの理由。それは偏に、見つけた月山の「状態」にあった。
月山は、自慢のヘアスタイルもぼさぼさのまま、適当な服装……つまり、あんていくへ向かうカネキを引き留めようとしたあの時の姿のまま、そこにいた。
しかし、そんなこと今はどうでもいいのだ。
カネキが困惑した、月山のその「状態」。
どういうわけか彼は、公園のジャングルジムに絡まるよう、逆さ吊りの姿で意識を失い「うーんうーん」と悪い夢でも見ているかのように唸り声をこぼしているのであった。
ペルソナ4の事件被害者のようなその姿に、カネキは普通に「どうしようこの人……」と、自分の現状も忘れて呆然とするしかなかった。
度を越した酔っ払いでも、こんな風にジャングルジムに絡まりながら寝入ったりはしないだろう。どれだけアクロバティックな寝相だ。前世はサーカス団だったのかもしれない。
ていうか、なんでそもそも、月山が。
カネキはとりあえず、脳に血が上ることによってあとあと変な障害が残らないように、月山をジャングルジムから救出することにした。これ以上月山の思考回路がぶっ飛んでしまうのはカネキも避けたい。今よりもっと変な月山なんて、流石に付き合っていたくない。

「月山さん! こんなところで寝ないでください!」

自分もジャングルジムにのぼってから、カネキは月山の耳元で叫ぶ。対応がガチで酔っ払いに対するそれであるが、月山が自分の意思でこんなところで寝ているのかどうかは、カネキには分からない。しかしカネキは、逆さまになってジャングルジムに絡まっている月山を救出している内に、意外にそれが困難であることから、本当に酔っ払いを介抱しているような気持ちになって苛立ち始める。意識を失って他人のなすがままになる酔っ払いほど扱いにくいものもない。

「起きて下さい!」

そうして、苛立ちがピークに達した結果、カネキはジャングルジムから、月山を落とした。落下した月山から「ゴシャ」という不吉な音が聞こえた気がしたが、その程度でどうにかなるような男ではないことを知っているので、カネキは冷静な気持ちのまま、自分自身もジャングルジムから降りていく。

「い、痛い……え……何故だろう……すごく痛い……」

青ざめた表情で地面に仰向けになりながら譫言めいたことを繰り返している月山のすぐそばに降り立ったカネキは、とりあえず彼の肩を小さく揺すりつつ、声をかけてみる。

「月山さん、しっかりしてください」
「う……その声……」

ようやく閉ざされていた月山の両目が、ゆっくりとだが開き始めた。不思議な色をした彼の眼球が露わになり、そこに自分の顔が映り込むのをカネキは眺めていたのだが、月山はカネキが自分の目の前にいるという事実に気付いた瞬間、ぐったりとしていた今までの姿が嘘のように勢いよく起き上がり、叫んだ。

「カネキくん!!!」
「はい」

月山は目を見開きながらカネキに掴みかかろうと(本人的には抱きしめようとしたようだったが、その勢いが完全に狂気じみていた)したのだが、その動きはふいにピタリ!と制止した。
何故なら、月山はカネキの背後にこっそりと立っている、もうひとりの影の存在に気が付いてしまったからだ。
それを見た月山は、またしても叫ぶ。

「カネキくん!!?」
「ひゃっ……」

小さな少年。年の頃は小学校低学年ぐらいだろうか。月山の知る金木研は、一番古い記憶を辿っても、髪は黒かったと言えど間違いなく大学生の青年であるカネキだったはずなのだが、月山には一瞬で理解できた。カネキの背後に隠れた少年が、カネキ本人であるということに。
大小と二人のカネキ。
月山は上手く呂律が回らない口で呟いた。

「え……カネキくんが二人……? しかも一人はドルチェな少年姿のカネキくん……? 何が起こっているんだ……? ここは天国なのかい……?」

ここは天国なのか、という疑問を抱くと同時に、月山はハッとしたように周囲を見渡し始めた。カネキは背後の少年を安心させるように再びその手を握りしめながら、月山の行動を何も言わずに傍観していた。
月山の目に映る、見覚えのない景色。砂場、ブランコ、鉄棒、滑り台、そして、月山がぶら下がっていた、ジャングルジム。
そこは、月山財閥の御曹司である月山にとって、昔の記憶を掘り起こしてみても馴染みは少ない、一般庶民向けの遊具施設……まあつまり、普通の公園だった。

「ここは……どこだい?」

限りなく純粋な疑問として、その言葉は月山の唇から零れ落ちた。
カネキは「昔、僕が母さんと暮らしていた町です」と答えた。

「カネキくんの……なるほど……チェスキー・クルムロフにも引けを取らない美しい町だね」
「妙なお世辞はやめて下さい」

城も聖堂もない至って普通の町である。あからさまなご機嫌取りにカネキは白けた目になった。
カネキの周囲の空気が著しく冷えたことなど気にしない様子で、月山は「フゥン」と首を傾げながら、言った。

「それで、どうして僕は君の暮らしていた町にいるんだい?」
「僕に聞かないでくれませんか」

こっちが聞きたい。カネキは純粋な気持ちで思った。
何故月山が、こうしてこの世界のこの場所に姿を現したのか。もっと言えば、どうしてジャングルジムに引っかかりながら気を失っていたのか。それを知りたいと願う気持ちは、恐らく自分の方が強いと、妙にケロリとしている月山を見ながらカネキは確信した。

「お兄ちゃん、この人だれ?」

カネキの後ろに隠れていた小さなカネキが、きょとんとしながらカネキに問う。
カネキが説明をするよりも先に、月山はサッとカネキの背後へとスライドするように移動して、優雅な動作で膝を折る。

「僕の名前は月山習。君の美しき剣さ」
「教育に悪いんでやめてくれますか」

小さなカネキの手の平にキスを落とそうとする月山の頭を、カネキがギチギチと遠ざける。月山は「はははカネキくん相変わらずhard!」と笑った。
疲れたようなため息を吐きながら、小さなカネキと月山を引き離すカネキを見ながら、月山はやはり何でもないことのように言った。

「しかしカネキくん、君はそのドルチェな彼にお兄ちゃんと呼ばれていたが、彼は君の弟なのかい?」
「いえ、そういうわけではないですけど……」
「だよね。僕にはどちらも本物のカネキくんにしか見えないし」

あまりにも月山が普通の表情でそんなことを言ったりするものだから、カネキは思わず驚いてしまった。
どうして分かったのだろう。この小さなカネキが、カネキ本人であることに。だからと言って、それを聞くための正しい言葉は、カネキの脳内には文章として形成されてはくれなかった。ただ、戸惑いばかりが残る。

「どうして……」
「ん?」
「普通、ありえないでしょう。同じ人間が二人いるなんて」
「ああ、それもそうだね」

相変わらずケロリとしている月山だったので、カネキは諦めたようにため息を吐いた。カネイは月山の相手に少し疲れてしまっていたのだが、月山にはまだカネキに聞きたいことがあった。

「君はどうしてこんなところにいるんだい?」
「さあ、気付いた時にはここにいました。僕は確か、CCGと戦っていたはずなんですが」

カネキは、ここが夢の世界であることに気付いていた。
しかし、この世界で母と再会し、自分のエゴに気付き、小さなカネキと手を繋いで歩き、彼に許され、そうして目が覚めた時、自分がどうなるのかをカネキは知っているはずだった。
目覚めない夢などないのだ。だけどカネキは、いつまでたっても夢から覚めることが出来なかった。
カネキは口を開く。

「僕、この世界に閉じ込められてからもう一週間くらい経つんですよ。あ、ここ……多分、僕の夢の世界なんです。だからどうして月山さんが普通に月山さんとして存在してるのかは全然わかんないんですけど……まあ、それは置いといて。夢の世界だっていうのに、普通にお腹は減るし眠くなるし疲れるし……つまり、衣食住の要素が現実の世界と同じで必要なんです。。なんなんですかね、この夢。今は母の家に居候していて……っていうのもおかしいか、あくまでも自分の家なのに。まあ、実家に住んでるんです。母はどうしてか小さな僕も大きな僕も、同じように「研」として扱ってくれるんですよね。僕は母の手伝いをしたり小さな僕の世話をしたりしながら、どうすればこの状況を変えられるのかな、なんて考えながら一週間を過ごしてきたんですが、何の変化もなく時は流れるばかりで、そんな時に月山さんがそこのジャングルジムに引っかかっていたってわけなんですが……月山さん?」

勝手に話を続けていたカネキだったが、ようやく月山の状態がおかしいことに気付き、怪訝そうに彼の名を呼んだ。
突然、夢の中だのなんだのと言い始めたことを訝しがっているのか? と思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。
月山は顔面を真っ青に染めながら、絶望したような表情で、その場に呆然と立っていた。

「月山さん」

カネキは今一度その名前を呼ぶ。それに犯の素売るようなタイミングで、月山はわなわなと震えながら、そっと自分の口を開いた。

「そうだ……僕は……」
「?」
「カネキくんを……見殺しに……!!」
「あっ」

カネキはピンときた。ピンときた時には既に、月山はこの世の絶望をすべてかき集めたみたいな表情を浮かべながら、思い出したように自分の頭を抱えて叫び始めていた。

「そうだ!! 僕は死地へと向かったカネキくんについて行こうとせずに、カネキくんひとりをあの場所へと向かわせてしまった!! 僕は自分の命を惜しんだんだ! カネキくんを失うと知りながら!! だからカネキくんを止めようとした!! 僕は臆病者だ!! 僕は……!!」
「月山さん……」

カネキの脳内に、自分を止めようとした月山の涙が思い出される。カネキはあの時、確かに嬉しいと思った。あの月山が、最後に自分に「食べさせてくれ」ではなく、「行かないでくれ」と言ってくれたことが、本当に嬉しかったのだ。
そうしてカネキは気がついた。こんな夢の中でも、月山に再び会えたことを、純粋に喜んでいる自分がいるということに。

(ジャングルジムに引っかかってるとか、そういう意味わかんない状況があったからすぐには気付けなかったけど)

その喜びを自覚した瞬間、カネキは驚くほど穏やかな心境で、蹲り頭を抱える月山に向かって言葉を落とした。

「月山さん、僕はあの時、月山さんが止めに来てくれたこと、嬉しかったですよ」

そういう、普段のカネキからしたら驚くぐらい素直な言葉が零れ落ちたのも、きっとここが夢の中の世界だからと気付いているからこそだった、とカネキは思った。
しかし、それを聞いた月山は、本当に意味が分からないと言いたげな表情で、抱えていた頭を上げて、カネキのことを見た。

「え、何でだい? 僕に気を使っているのかい? そうでもなければそんな都合のいい展開があるわけないんだ……!!」
「急に卑屈ですね……?」

なんだか月山らしくもない反応に、カネキは動揺と同時にどこか興味をひかれた。
どうせ夢だと分かっている世界なので、あまり相手の気持ちを慮らずにいられるのかもしれない。
まあ、カネキはもともと月山に対してだけは扱いが雑だったりしたのだが、それは月山が食欲からカネキの肉を狙っているだけの理由で近くにいたからだと思っていたためだ。
泣きながら自分を引き留めてくれた月山を思えば、万丈やヒナミと同じ立ち位置で月山を大切にしたいとも思わないでもないのである。
感情を妙な方向でこじらせている月山を面白そうに眺めているカネキだったが、ふいに自分のシャツの裾を引っ張られていることに気付き、視線を落とす。
そこには、小さな自分自身がカネキを呼びながら「お兄ちゃん、時間」と心配そうな顔をしている姿があった。
公園の時計で時間を確認したカネキは、「ああ」と合点がいく。

「お腹すいたね。もうお昼ご飯の時間だ。家に帰ろうか」

時刻は正午を指していた。健全で律儀な市民は昼食を摂取する時間だろう。カネキは小さなカネキの手を握りながら、月山に対して声をかける。

「月山さん、僕お昼ご飯食べに帰りますけど、あなたはどうしますか?」
「へ……?」
「一緒に来ないか、って言ってるんですよ」

突然の誘いに、月山はぽかんとするしかない。
お昼ご飯?
カネキの食事、それすなわち。
共食い?
喰種を食べに行くのか?
それなら、カネキが月山に声をかけた意味とは、きっと悪い喰種を詰みに行くから、僕の剣として再び働かせてやろう、というものであるはずだと月山は解釈した。
名誉挽回のチャンス。月山は勝手に奮起した。

「行くよ! カネキくん!! 僕は今度こそ君を守る!!」
「……? まあよく分からないけど、オーケーなら行きましょうか」

カネキがカネキの手を引きながら歩く後ろを、月山はスキップでもしそうな気持ちでついて行った。
今になって思考回路が冷静になっていく自覚が月山の中に芽生え始めていた。
あのとき、死地に送ったと絶望したはずのカネキが、こうして目の前で生きている。
それなら自分は、もう二度とカネキを失ったり、自分の命を惜しんで泣いたり、そいうことのないように挽回していくだけだ。
生きていれば何度でもやり直せる。
そんなことを、月山は確かな気持ちでひしひしと感じていたのであった。


「お帰り、ふたりとも」
「ただいま母さん。すぐにお昼ご飯の準備するね」

家へと帰り、カネキはすぐさま台所に立とうとしたのだが、その行動は妙な表情を浮かべた月山によって遮られた。月山は、カネキの右腕を縋るような感じで掴んでいた。

「何ですか月山さん」
「いや、すまない……じゃなくて、え?」

動揺する月山に、カネキはクエスチョンマークを浮かべながら、ひとまず状況を説明するための言葉を紡いだ。

「ここ、僕が昔暮らしてた家です。あっちは僕の母。内職用のいろいろで散らかってますけど、適当に寛いでて下さい」
「お、お母様!!」

こちらに背を向けながら、リビングでせっせと花のようなものを作り続けている女性がカネキの母親であることを知った月山は、雷にでも打たれたような顔で勢いよく彼女の方へと接近した。

「レディ! 初めまして! 僕は月山習、カネキくんのナイトであり剣であり彼を守る美しき存在でありまして、あの……!」

大切な人の母親に挨拶をするのは、月山のような男でも初めての経験だったうえに、唐突に訪れたその機会に何だか妙な感じで動揺してしまう。それでも、しどろもどろになりながらも叫ばざるを得なかった。
カネキは「何言ってんですか月山さん!」と少し声を荒げながら台所方面から怒りを露わにしている。小さなカネキは母親の隣で内職の手伝いを始めているようで、ここだけ妙に平和な空気が漂っていた。

「ケンのお友達? まあ、素敵な方ね」
「………」

カネキの母は、優しげな表情で月山を見た。月山は、彼女の笑顔にカネキの面影を見た気がして、思わず黙り込んだ。
そんなことをしている内に、月山は台所から飛んできたカネキに引っ掴まれて、ずるずると母や小さなカネキのそばから引き離されていった。

「もう、変なこと言わないでくださいよ!」
「変なことって何だいカネキくん……いや、それより……」

月山は、ふいに視界に入った台所の様子に、驚いたような表情を浮かべた。
そこに並んでいたものは、卵や食パン、シーチキンなど……つまり、人間が食べるための食材の数々に違いなかったのだ。
月山の視線に気付いたのか、カネキは「ああ」というような表情を浮かべながら、言った。

「サンドウィッチを作るんです。簡単なものしか出来ませんけど、僕が食事を用意する係になれば、少しでも母の負担が減るだろうし」
「ああ、そうか……君のお母様は普通の人間だものね……それで、カネキくんはちゃんと食事は出来ているのかい? もしも食べられていないのなら、僕が代わりに肉を用意して……」
「あ、そっか。いや、心配ないんです月山さん」

カネキは、何かに気付いたような声で、言葉を続けた。

「僕、なんかこの世界だったら普通に人間用の食事が食べられるんですよね」
「……pardon!?」

カネキの言葉に、月山はこれ以上ないぐらいの驚愕の表情を浮かべながら、言った。

「それは本当かいカネキくん!? つまり、君は今……人間なのかい……!?」
「そういうことになるんですかね」

驚きを隠せない月山を見ながら、カネキはふいに、試したいことがあったことを、思い出した。

「月山さん」
「ん?」

唐突に名前を呼ばれ、カネキの目を見ようとした月山だったのだが。
グボッ、という謎の音と共に、呼吸が上手くできない感覚と、喉奥に異物が唐突に突っ込まれた事実とが同時に月山を襲ってきた。突然の展開に、月山は疑問符と感嘆符を大量に浮かべることしか出来なかった。
月山の身に起こったこと。
それは、カネキが六枚切りの食パンの内の一枚を、力任せに月山の口の中へと突っ込んだという現実だった。
息の出来ない苦しさに身もだえする月山に、カネキは冷静な声で問いかけた。

「どうですか、月山さん」
「んぐーーーー!!!」
「味を聞いているんです」

味など感じている場合ではないしそもそも喰種に人間用の食べ物を与えておいてその味を聞くとかカネキくんはドエスの化身か!? と月山は流石にご褒美とは思えないレベルで悶絶していたのだが、やがて……ひとつの違和感に気が付いた。

「んご……ん……あれ……?」

春眠から突然目覚めたような感覚で、月山はその「違和感」の正体が何なのかを、理解した。

「不味く……ない……?」
「やっぱりですか」

青天の霹靂とでも言うような表情を浮かべる月山の横で、カネキはどこかすっきりとした顔で納得している。

「この世界、喰種の存在がそもそも消えてしまっているようなんです」
「な……」
「あくまで、僕が一週間生きて来た中で仮定したことですけど」

テレビなどを見ていても、ここ一週間の間では喰種に関するニュースが一切なかった、とカネキは記憶を思い出しながら考えた。
そして、この世界に閉じ込められたと自覚した一日目、カネキは母に「ハンバーグが食べたい」とねだった。もしかすると明日にはもう、この場所にはいられないかもしれない、という想いからの我儘だった。そうしてカネキは母手製のハンバーグを食べた。美味しかった。人の味覚だった。

「そんなことが……」

月山は複雑な表情で震えていたが、そこに悲観の色は見つからなかったので、カネキは何だかホッとした。

「まあ、そんな感じなんで」

そう言って、カネキは呆然とする月山の傍らで、昼食づくりを始めた。ツナと卵のサンドウィッチは、カネキ、小さなカネキ、カネキの母、そして、月山の分である四人前が用意された。
月山は、人間として初めて味わう料理がカネキの作ったものであることを、どこか不思議な感覚のまま受け止めつつ、小さなテーブルで一緒に肩を並べながら、もぐもぐとそれを咀嚼した。



「カネキくんの家にお父さんはいないのかい?」

月山は、何の悪気もなく、純粋な疑問としてそれを口にした。
カネキはその言葉を、昼食に使った食器を洗いながら聞いていた。隣では、言葉を発した張本人である月山が、皿洗いの手を休めることはなく、カネキのことを見つめていた。月山としても未だ現状が信じられない気持ちはあるのだが、だからと言っていきなり人間として何らかの行動に出ようと思い至れる程の冷静さはなかった。なのでとりあえず、流れるままにカネキの手伝いをしつつ、少しずつ現実を理解しようと考える。
カネキは月山の問いに、どんな言葉を返そうか少し悩んだが、嘘をつくのもどうかと思い、本当のことを教えることにした。

「父はいません。僕が幼い頃に死にました」
「……すまない」
「謝らないでください。そんな顔をして欲しかったわけじゃないんで」

出来るだけ平然を装いながらカネキは言ったのだが、月山の表情はあからさまに沈んでいた。この人、こんな表情もするんだと、カネキは少しばかり失礼なことを思って、場違いにも笑いそうになった。
そして、どうせ夢の世界だ、という気持ちのまま、カネキはどこか預言者にでもなったような気持ちで、過去と未来を明かす意味合いの言葉を続けた。

「そして、このまま同じような未来が訪れるのだとしたら、今あそこにいる母も間もなく死にます。まあ、僕がいる限り、そんなことはさせませんけど」
「え、どういうことだい!?」

月山が思った以上に驚いてくれたことにカネキは何だか嬉しくなった。
そうして、これから起こる未来に関する話を、嘘偽りなく淡々と語る。叔母のこと、過労のこと、そして、そういう未来の先に自分が叔母に引き取られるということ、全て。
それは、カネキがこの世界に留まり続ける限り、自分自身でそんな未来を防いでみせるという気持ちがあるからこそ伝えられる過去でもあった。この世界のカネキはもう喰種ではなかったが、母に縋ることしか出来ない幼い子供ではなかった。バイトだって出来るし、金を稼いで母を救うための、そういう特別でもなんでもない力を確かに持っているのだ。
しかし、カネキが昔話のように語る未来の話を聞いた月山は、ただ黙っていることなど出来なかった。そこら辺は、カネキの誤算と言ってもいい。

「僕に支援させてくれたまえ!」
「……は?」

月山の言葉に、ノストラダムスになったような浮かれた気持ちで話をしていたカネキは、正直不意を突かれて面食らった。
今、この人はなんて?

「そうと決まれば今から僕の家に行こう。そもそも、僕も着替えをしたかったからね。松前を呼ぼう。携帯はズボンのポケットの中に入っていたよ」
「ちょ、月山さん!」

カネキが叫んでも、月山は既に自分の携帯を彼の忠実な使用人である松前へと繋いでしまった後だった。このままでは家の前にリムジンが止まってしまう。カネキはすぐさまご近所の変な噂を危惧した。しかし。

「……? 繋がらないね。仕方ない、電車で向かうとしよう」

月山の携帯電話からは、おかけになった番号は云々、という旨の言葉が無機質な音で流れている。カネキは正直ホッとした。

「や、待って月山さん。本当に支援とかいりませんから」

首をふるふるしながら月山を止めようとするカネキだ。しかし、月山は本当に不思議そうな表情を浮かべながら、首を傾げる。

「何故だい? だって今までと大して変わらないだろう。僕はカネキくんのために住居を用意し、家賃を払い、光熱費を払い、水道代を払い、そしてカネキくんが必要だと思う物は全て用意してきたじゃないか」
「そ、そりゃそうですけど……!」
「とにかく、僕は自分の家に向かうよ。ここからの位置関係も確認しておきたいしね」

そう言われると、カネキに月山を止める術はない。彼が彼の好きなように行動しようとしているのだから。それでもやはり、支援という名のパトロン化は、なんとなく避けたかった。月山が食欲以外の感情で自分を引き留めたあのシーンを見てしまってからというもの、カネキは月山に甘かった。
そして、カネキの中には、月山が人間になったのではないか、と思った時と同時に、もう一つ疑問があった。

「……じゃあ、僕も行きます」
「え!? 本当かい? 嬉しいな、デートだね!」

同行を申し出たカネキに、月山は意外そうな表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうな顔で笑った。
そんな月山に「別にそういうつもりではないです」と言ったカネキには、本当に確かめたいことがあった。だから月山について行くことにしたのである。


松前に電話が繋がらなかった以上、月山とカネキは電車で移動する他なかった。タクシーに乗るだけの手持ちは無かったのだ。カネキを引き留めに来た時と同じステータスだった月山の所持金はほぼゼロに近かったし、カネキも普段から月山のカードに頼りっぱなしの生活を送っていたせいで、持っている現金はそんなになかった。二人で都内を電車で移動するくらいが精いっぱいだったのだ。
ガタンゴトンと列車に揺られる月山は「こんな風に移動するのは何だか新鮮だよ」と、御曹司らしいことを悪びれもなく口にした。カネキは「そうですか」と別に笑顔を浮かべることもなく言った。
だけど、月山と並んで列車の席に座りながら、滑る外の景色を眺めるこの状況は、確かに新鮮かもしれないと心の中だけでは素直に思ったりもした。
しばらくして、月山が「ここだよ」と宣言した駅で、二人は電車を降りた。
駅から何分か歩いた先に、月山が居を構えるマンションがあるという。かつてカネキやヒナミ、万丈たちが与えられていたアジトに、月山はそこから通っていたのだろう。月山家の実家ではない、一人暮らしの彼の家だ。

「……おかしいな」

マンションへと向かう道すがら、月山は狐につままれたような表情を浮かべていた。カネキは、自分が抱いている「予感」の正体に気付きそうになりながらも、黙って月山の後に続く。
そうして、何だか遠回りじみた歩みを続けながらも、月山はようやく自分の住まいの住所であるその場所にたどり着いたようだった。
が、しかし。

「……これは、どういうことだ?」

呆然とする月山の隣で、カネキは冷静に言葉を紡いだ。

「空き地ですね」
「shit! どういうことだい!?」

柄にもなく取り乱す月山に、カネキは自分の考えをそのまま口にした。

「僕がまだ母と暮らしてるこの世界は、単純に考えて僕らがいた世界よりも過去にあるものなんですよ。つまり……」
「……この世界では、僕の住んでいたあのマンションは、まだ建築されていないということなのかい?」
「そういうことでしょうね」

月山は察しが良かった。すぐにカネキの言わんとすることに気が付いてくれた。
しかし、それをすぐさま受け入れられるかというと、また話は違ってくるのだろう。

「僕の実家へ行ってみようと思う」

月山は、どこか冷静にも思える口調でそう言った。カネキはやはり「僕もついて行きます」と言ったが、その言葉を口にした想いは、先程とはどこか違うような気がすると、カネキ本人が思っていた。
そうして、また少しだけ電車に揺られて、月山家の実家の前へと二人はやって来た。そういえば、彼の実家を見るのは初めてだということに、重く豪奢な鉄柵に遮られた向こうの景色を眺めながら、カネキはようやく気がついた。
そして、その柵の向こうで、どこか見覚えのあるような……それでも、確実に目にしたことはないはずの人物が、ひとり遊んでいるという情景が、目に映った。

「……あれは、幼い日の僕だ」

鉄柵のこちら側、つまりはカネキの隣で、大人の月山は確かにそう言った。
そう、庭で遊ぶ子供の姿、それは確かに幼い日の月山だったのだ。
つまり、この世界で月山習という男は、カネキ同様に二人存在するということになる。
と、その時だ。背後から突然、どこか聞き覚えのある声が、二人の鼓膜を揺らした。

「何かご用でしょうか」

月山とカネキの背後から聞こえた声。それは間違いなく、月山家の使用人である松前のものだった。
振り返って見た彼女の姿は、カネキが知るそれよりも幾らか若いように映った。

「松前」

ぼんやりとした月山の声は、彼女の鼓膜には名前としては響かなかったようだ。
松前はまるで他人を見るかのような顔で月山を見ていた。月山はその視線で理解する。自分はこの世界で、月山家の月山習ではないのだということに。
そうして、月山はカネキの腕をふいに掴み、言った。

「帰ろう、カネキくん」
「月山さん……」

カネキは、月山にかけるべき言葉が見つからなかった。だから、月山に腕をひかれるまま、駅までの道をただ歩くことしか出来なかったのだ。


乗り込んだ列車の中で、無言を貫いていた月山が、ため息交じりに口を開いた。

「すまないカネキくん……君に支援をしようと言っておきながら、どうやら僕はこの世界で好き放題月山家の金を使える手段がないらしい……」
「は?」

今の今まで、本当に凹んだ顔で沈み込んでいた月山の口からこぼれた第一声がそれで、カネキは思わず目を見開く。
カネキの反応に、怪訝そうな表情を浮かべたのは何故か月山の方だった。

「だって、僕が自由に月山家の金を使うことが出来れば、もう君のお母さんに辛い思いをさせることもないし、皆が幸せに暮らせるはずだっただろう? それが、過去には既に幼い僕が僕の位置に収まっていて……ああ! 僕は自分が不甲斐ない! 本当に!」
「ちょ……月山さん、電車の中であんまり大きな声出さないで……!」

月山を注意しながら、カネキは考える。
月山は、御曹司としての、月山家の跡取りとしての、そういう自分に対しての惜しさを感じていないのか?
月山が今言った言葉の数々は、ただひたすらに、カネキの力になれない自分を嘆いているものばかりであり、自分が月山家の御曹司である月山習の立場を失ったことに関しては、少しも気にしている様子を見せていなかった。
それが月山の演技であるのなら話は別だが……。

「僕は無力だ! Idot! どうすればカネキくんの力になれるんだ!!」

(なんか、そんな感じじゃないし……)

嘆く月山を見ながら、カネキは分からなくなってきた。
だからとりあえず、今は電車内という公共の場で、これ以上月山が余計なことを言わないように、彼のみぞおちに右ストレートを叩き込むことしか出来なかった。
攻撃を受けてぐったりしている月山と並んで座っていたカネキの鼓膜に、その時。
ふいに、正面の座席に並んで座る家族の声が、なんだか不思議な鮮明さをもって響いた。

「お父さん、あたし今日はビッグガールのハンバーグが食べたい!」
「僕も!」
「はは、トーカもアヤトも、あの店のハンバーグが大好きだな」
「うん!」

小学校……いや、それよりも下だろうか。小さな女の子が、楽しそうに笑いながら、父親らしき男に夕食のメニューの提案をしている。
ビッグガール。カネキも知っている。チェーン系列であるハンバーグショップ。カネキ自身、そこのハンバーグは大好物だった。
そして、少女と一緒に父親を挟むようにして座っている、さらに小さい黒髪の男の子も、同じような無邪気な笑顔を浮かべていた。
父親は、全てを受け入れる穏やかな笑顔で……可愛い娘と息子に挟まれながら、夕日の差し込む列車に揺られていた。
トーカ。アヤト。
二人の子供は、そう呼ばれた。
それを見たカネキは、何だかいろいろなことが唐突に理解できたような気がした。

「……そっか」
「カネキくん?」

全ての事象が美しい色を浮かべて、カネキの眼窩の上を滑って行った。夕焼けはガタンゴトンと揺れる列車に優しく差し込んで、笑い合う親子は一枚の美しい絵のようだった。
カネキはその瞬間、確かに思った。

「よかった」

やがて親子連れは、カネキと月山の存在など気にする様子もなく、3つ先の駅で下車していった。降り立つ瞬間にも、二人の子供は楽しそうに父の腰に纏わりつきながら笑っていた。カネキは穏やかな表情で、その後ろ姿を見ていた。

「月山さん」

人が少なくなった列車の中。
カネキは月山の名前を呼んだ。

「何だい?」

月山は返事をする。カネキは感情を浮かべない声で言葉を紡いだ。

「僕が人間だとしても、こうして傍にいてくれるんですね」

カネキの声に、月山は不思議そうに返事をした。

「? そりゃそうさ」

その言葉に、カネキがどれだけ救われたのかを、月山は知らなかった。



それから、カネキは母を助けるためにとアルバイトを始めた。どれだけ寝て覚めてを繰り返しても世界は唐突に終わったりもしなかったので、カネキは普通の人間として普通に生活をする他なかったのだ。
そして月山はというと、月山家の御曹司としての立場や居場所を失った彼は、カネキ家に居候をする形で、日々の生活を紡いでいる。
そんなある日、カネキが一冊のファッション雑誌を持って、バイト先のカフェから帰宅した

「ちょっと月山さん! バイトの友達が見てたこの雑誌に、何かあなたっぽい人が載ってるんですけど!?」

靴も脱がずに家へと上がったカネキに、小さなカネキが「お兄ちゃん、靴!」と可愛らしく憤慨する。月山は、夕食の準備をしていた途中だったが、愛するカネキの乱心に何事かと提示された雑誌を覗き込み、「ああ」と納得する。

「モデルをしないか、と街を歩いている時に声をかけられてね。給料も出ると聞いて、やってみた時のものだね」
「そういうこと、勝手にしないで下さい!」

カネキは、月山が妙に羽振りのいい時期があったな、と今更になって思い出す。
月山は今、殆ど無職だった。時折、ホストのような仕事で日銭をがっぽりと稼いで家計に入れることもあったが、カネキはそういう月山を見る度に不機嫌になった。理由は自分でも分からない。
母はそんなカネキを見て、「やきもち焼いてるのね、研ったら」と笑ったが、カネキにはその言葉の意味を理解することが出来なかった。月山はやたら感極まった顔をしていた。気に喰わないとだけ確かに思った。
雑誌に掲載された月山の写真は、どれも本職のモデルと変わらぬ煌びやかな雰囲気を醸し出していた。
しかし、問題はそこではない。
月山のショットの下、彼の名前が掲載されている。
「月山習」
これでは、この世界で生きる月山家の彼と、何らかの関係性を疑われても仕方がない。
カネキは、月山家の人間が何かに気付いて月山を連れ去ってしまう日が来るのでは、という不安を確かに覚えていた。そんなこと、絶対に月山本人に知られるわけにはいかなかったが。

「モデルはいいです。でも、名前は別のものにしてください。月山家の人に疑われたら面倒じゃないですか」

カネキの提案に、月山は「なるほど」と言いながら、それならどういう名前がいいかな? と丸投げするようなノリで問いかけてくる。
カネキはやる気の無さそうな月山の態度に、何だか急激に面倒な気持ちを抱き……そういうわけで、本当に適当なことを口にした。

「金木でいいんじゃないですか? 金木習」

月山がこの家で生活を始めてから随分と経つ。もういっそ苗字の共有くらいはしてしまってはいいのではないか、という考えからの適当な提案だった
が、しかし。

「いいのかい!?」

何の考えもなく口にしたことだったので、カネキは月山の反応の大きさに驚いた。

「いや別にいいですけど……何ですかその反応」
「言ったね!? やめろって言ってもやめないよ!」

あまりにも真剣な月山の表情に、カネキは何だか自分が軽率にとんでもないことを言ってしまったのではないか? と今更じわじわと後悔し始めたが、後の祭りだった。

「金木習……カネキ習……ふふ、何時間でも唱えていられる素敵な言葉だよ! ドルチェ!!」
「良かったね、月山お兄ちゃん」
「おおマイリトル! 君も喜んでくれるかい!? 今日から僕のことは遠慮なくお父さんと呼んでくれていいんだよ!」
「ちょっと! 何わけわかんないこと言ってるんですか!」

小さなカネキに意味の分からないことを言い出す月山に、カネキのドロップキックが飛んだ。顔面にカネキの蹴りを受けながらも、月山は嬉しそうだった。
そんな光景を見ながら、カネキの母は楽しそうに笑いながら、言った。

「さあ、ケンも帰って来たことだし、皆で夕食の準備をしてしまいましょ。今日はみんなの大好きなハンバーグよ」
「母さんったら、今は月山さんに言い聞かせてる途中で……」
「よし、カネキくんのために調理を再開しよう!」
「はーい!」

テンションを上げる家族たちの姿に、思わずカネキの毒が抜ける。
こういう毎日が、何度も何度も繰り返される中で、カネキもだんだん、いろんなことに慣れて来た。
そして、カネキは心のどこかで、こんな世界を確かに望んでいた自分がいることに、もうとっくに気付いているのであった。

「月山さん」
「ん? なんだい?」

追いかけてくれてありがとう。止めてくれてありがとう。泣いてくれてありがとう。
あの日のことを不意に思い出し、そういう言葉を伝えてみたいと衝動的に思うことがあるのだが、やはり言葉に出来るのは稀だ。
まあいいか、とカネキは思う。
この世界はきっと、ずっと永遠に続いていく。そんな気がする。皆が皆、絶対的に幸せで、いろんな苦しみなんかがあっても、自分たちの力の範囲でそれを何とか解決できて……そういう、当たり前の人生。
きっとようやく、手に入れることが出来たんだと、カネキは思った。
それなら、月山だけがどうして大人のままの姿で自分の前に姿を現したのかとか、彼がどうして記憶をもってこの世界に留まる事が出来ているのかとか、そういうことはどうでもいい気がした。
だって幸せだから。
そう、カネキは確かに、この世界が幸せだったのだ。






有馬貴将は二つの喰種の亡骸を見下ろしていた。
ひとつは隻眼の喰種。もうひとつは、彼を助けに駆け付けた……「美食家」と呼ばれていたはずの喰種だった。
隻眼の両目を貫き葬ってからすぐに、美食家は自分の前に姿を見せた。
恐らく全力で走って来たのだろう。彼は随分と疲弊しているようだった。有馬の足元に転がる隻眼の喰種を見た瞬間、空気が焼ける程の怒りを露わにし、襲い掛かって来たが、今まで戦っていた隻眼と比べても、美食家は有馬の敵ではなかった。
それなりの強さは確かにあるが、間違っても負けるような相手じゃない。程なくして、美食家は隻眼に寄り添うような形で力尽きた。
彼の手は最後、隻眼……金木研の右手を掴もうとし、結果として、その手は金木の肌へと確かに触れていた。
両目を失った隻眼、そして、彼に寄り添うように息を引き取った喰種。
眼窩がぽっかりと空いたせいで、確認することも難しいはずのその表情は、どういうことか、不思議と穏やかな死に顔だと、他人事のように有馬は思った。
美食家が駆け付けた時には、もう隻眼には意識さえ残っているはずも無かったのだが。
それでも彼の表情は、優しい夢でも見ている人間のように幸せそうだと有馬は思った。





 

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