この部屋に招かれるのは少しばかり懐かしい。
それでも、扉が開いた瞬間に鼻腔を擽った空気は、自分が記憶として保持しているものとはまた少し別のものであり、だけどそれは当然の話なのだ。当然のことを、僅かな胸の痛みとして自覚し、笑顔の奥へ押し込める。

「ジュードに会うの、久しぶりのはずなのに、なんか久しぶりな気がしないなー」

適当に座っててよ、という声に従い、ジュード・マティスは以前……もう何年前のことだろう。記憶の中で腰掛けたはずの椅子に、少しばかりの感傷と共に、腰掛ける。
そうだ。ここで自分は、今はもういないルドガーの料理を目の前にした。隣には今はもういないミラがいた。という言葉には語弊がある。今はもういない、というのは、今はもう「自分の」目の前にいないというわけで、その存在が世界から失われたかどうかという事実は、本当のところは分からない。
だけど少なくとも、かつてここに存在した者たちがジュードの瞳に映ることは二度と無く、そして、かつての記憶とは随分と姿かたちが変わった一人の少女のみが、現実としての質量を保ちながら、目の前で息をしているのだ。

「そうかな。僕はさっきエルのこと見た時、ちょっと見ない間に随分大きくなったなぁ、って驚いたよ」
「まだまだ成長期ですし! その内ジュードのことも抜いちゃうかもよ」
「はは……笑えないかも……」

軽口のつもりで放たれたであろう少女の言葉に、未だ身長が伸び悩むジュードは、深刻な色の滲む笑顔を曖昧に浮かべた。
苦笑いのジュードを気に留める様子もなく、台所に立ちながら料理をしているエルは、朗らかな声で雑談を続けた。

「ま、私はGHS見てればジュードのことはフツーに情報として入って来るから。ジュードを思い出せる機会も多いって話なのかな。あ、ハオ賞おめでと。って、なんかこれじゃ取ってつけたみたい!」
「ううん、ありがとう。むしろ皆のおかげだよ。エルも含め」
「……ここまで長かったもんね。オリジンの完成。でも、ちゃんと約束果たせた。ジュードが頑張ったからだよ。素直に誇っていいと思う」
「……うん」

エルの言葉に、目を伏せながら小さく微笑んだ。
誇っていい。そうだ。誇りに思うべきなんだ。
自分が今、確かにここにいて、そしていられない誰かがいる。
ここにいられない誰かの意思が、自分の成したものを支えている。痛いくらいに繰り返してきた記憶。自分の成したものを誇りに思うこと。それは、自分が進むべき道へ背中を押してくれたかけがえのない「誰か」と交わした約束を、改めて「今」に刻んでいくという意味なのだと。
背中を見せるエルの言葉と共に、ジュードは静かに思い出した。


「はい、おまたせー! エル特製トマトスープ! 栄養たっぷりだから、一口食べただけでも身長もりもり伸びちゃうこと間違いなし!」
「はは、それはたくさん食べなきゃ損だね」
「遠慮はいらないよ。いっぱい作ったから。残ったら逆に困っちゃう! 私ひとりじゃ食べきれないんだから、しっかりお腹に入れてってね。ジュード、なんか痩せたっぽいし。ご飯ちゃんと食べてる?」
「ん、食べてる食べてる。この前、レイアも同じこと言ってたよ。ドヴォールで仕事の途中に偶然ばったりして。一緒にご飯食べたんだけど、心配されちゃって」
「えー、いいなー。私もレイアに会いたい! ま、レイアの方も、何だかんだでいろんなニュース見てると、実はその記事書いたのがレイアでした! ってこと多くて、きっと今会っても、ジュードと同じみたいに久しぶりに会った気しないんだろうなー」
「あはは、そうかもね。僕もレイアと会った時、同じこと思ったよ」
「でしょ?」

そんな会話を交わしながら、ジュードはエルに差し出されたスープに口を付ける。
一瞬、何かを思い出しかけて目を細めてしまった。何か。明確な形を持った記憶ではない。もっと曖昧で、だけど、だからこそ、ぼんやりと朧げな寂寞。

「……美味しいよ」
「当然!」

エルは誇らしげに胸を張った。その動作に、ジュードは「あはは」と微笑む。
エルの作ったトマトスープは、遠い記憶の中で食べたはずの、ルドガーのそれと全く同じ味がした。



*


エル、ルドガーの作ってくれたスープの味、忘れない。
トマトだってちゃんと食べる。

そう言って涙を流す幼いエルに微笑みながら、今から自分がこの世界から消えていくことなど悟らせることもせぬように、彼は空気に解けるようにして消えていったのだ。
それが、ジュードにとっての最期のルドガーの姿だった。
ああ、とてもではないが真似は出来ない。それに、自分がそれを真似することは、この世界では許されて良いことではないのである。
ジュードには使命がある。約束という名の、自分を縛る固い鎖。それが、ジュードが旅の中で紡ぎ続けていた「選択」そのものだった。
生きなければいけない。進み続けなければいけない。ジュードの選択の先に生まれた使命。それを放棄することこそが、自分を信じてくれたものへの裏切りと同義だと言うのなら、大切な人々が消えたこの世界で、歯を食いしばってでも生きて行くしかないだろう。

そうでしょ、ミラ。
そうでしょ、ルドガー。

どうしようもないくらい強い人たち。残された方はたまったものではない。ああ、勝ち逃げってこういうことなのかなと、無責任にも笑い出したくなってしまう日もあった。
だけどそれでも進み続けた。だって僕は君達を誇りに思う。自分を犠牲にしてでも、自分の思いなど二の次にでも、大切にしたい世界、人、誰かが存在したからこそ、全てを託してくれた気持ちを無下にはしたくないから。
僕は僕という個の存在に託されたものを、果たそう。そうして辿り着いたこの未来。どこかで再び会うことが出来たのなら、よく頑張ったと笑ってくれることを信じて。僕は進み続ける。その気持ちは僕だけが抱えているものではない。残された人びと。レイアもアルヴィンもエリーゼもローエンもガイアスも……エルも。
いつかもしかしたら訪れる一瞬のために、いや、それさえも存在しない未来だとしても、それでも。
託されたものを無駄にしたくない。託してくれた君達を「無かった」ことにしたくない。そのために僕らは今を生きる。
一秒だって立ち止まっていられない、この世界を。


*


「ジュード」

エルの声が聞こえる。前を見る。差し出されたハンカチがあった。
自分の頬を伝う温かいもの。
それが涙だということに、気が付く。

「あ……」
「いいの。皆そうなんだ」

ハンカチが頬に宛がわれる。エルが涙を拭いているのだ。ジュードはただ、その行為を大人しく享受する。それでも、次から次へと涙は目から零れ落ち、薄紅色のエルのハンカチを濡らした。

「スープ、ルドガーの作ってくれたのと同じ味だったでしょ。私、ルドガーの作ってくれたスープの味、忘れないってルドガーに約束したから。それでも、いつまでも覚えていられることって本当に少ないから。頑張ってルドガーのスープ、自分で作れるように練習したの。すごいでしょ。ほとんど同じってぐらいに再現できるようになった。だけどこれは、ルドガーがエルに作ってくれたスープがあったからこそ作れたものなの。ルドガーがいたから。エルはこれ、作れた。ルドガーはもうここにいないのに。ルドガーが残した「味」は、こうして残るの。ねえ、これってルドガーが生きていた証でもあるんじゃないかな」

流れ落ちる涙を止めることが出来ないまま、ジュードはエルの顔を見る。エルは泣いていた。だけど笑っていた。もしかしたら、今まで何度も口にした言葉を、こうして改めて自分に向けて紡いでくれているのかもしれないと、ジュードは他人事のように、そう思った。

「……人の命って、きっとリレーみたいなものなんだ。誰かが懸命に託してくれたものを受け取って、私たちは全力で走って行かなくちゃいけない。眼鏡のおじさん……ルドガーのお兄さんが命を懸けてルドガーを生かしたように、そうして救われたルドガーが、私の命を救ってくれた。そんな風に繋がっていくんだ。だから、託された私たちは必至で生きて行かなくちゃいけない。……お兄さんや、ルドガーが、私にそうしてくれたように、私も誰かにバトンを渡す日が来るまで、その想いを一秒だって無駄にすることなく、生きて行かなくちゃいけない」

エルは泣いている。ジュードも泣いた。止まらない涙を咎める者は、そこには誰もいなかった。そう、誰も。

「私の『ミラ』が死んだとき、辛くて辛くて仕方なかった。でも、そんな時、王様……ガイアスが言ったの。救われた自分の命を誇りに思えって。私、自分の命を誇りに思いたい。そのために、懸命に生きていたい。私が生きることって、ミラやルドガーや、ルドガーを生かしたお兄さん……それから、私のパパ。皆の想いそのものなんじゃないかなって。だから立ち止まらないよ。ジュードも、きっとそうなんでしょ?」

ああ、そうだ。残されたものの気持ちとか、そういうものを振りかざすのは全くの見当違いだ。少なくとも、残してくれた彼や彼女らを、自分が誇りに思い、本当はずっと隣で笑っていて欲しかったと願っている内は。
全ての命は誰かが託したバトンを受け取ることによって歩み続ける。
選択の先にある未来を、受け止めながら生きる。それが残されたものに出来る唯一なのなら。
渡されたバトンを落としてしまわぬように握りしめ、走り続けるしかないだろう。
分かっている。だから決して振り返らない。走り続けた終着点に、いつかこの世界を全力で走り抜けた彼らが、笑顔で待ってくれていることを信じてる。








 

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